悪意
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「智春……何処に居るの、智春……」 気がついたら真っ暗な空間に居た。 予想外の状況に、不安を抑えきれずに、咲耶は弱々しく声を上げた。 しかし自分の呼びかけに答えてくれる愛しい男の声が返ってくることはなく、咲耶はより強くなった不安感に押しつぶされそうになりながら、必死に何度も彼の名を呼び続ける。 「なんぼ呼んでも、無駄やってわかっていながら、そうやって必死になる緒美はんも、なんや可愛いなぁ。普段はあんな強気で自分で何でもでけるって顔しとる女が、こないに弱々しいなっとるのは可愛い通り越して、クルもんがあるなぁ」 背後からかけられた、遠慮のない不快な声に振り返る。 しかしそこには闇が拡がっているだけで、咲耶は戸惑いながら辺りを見渡す。 「どこを見てんねん、緒美はん。こっちやこっち、ほらようみてみぃや」 また違う方向から、同じ男の声が聞こえて、咲耶はそちらに顔を向けるが、やはりそこには誰もおらず、ただ真っ黒な空間だけが拡がっている。 「正直そういうからかいは不愉快ね。どうせ貴方なのでしょう。さっさと姿を現しなさいよ」 精一杯の去勢。 怯えていることを、不安を感じていることを、あの男だけには知られたくないと。 「強がりなんは見え見えでっせ、緒美はん。まぁでも緒美はん直々のご指名なら、姿を現すのが礼儀ってもんやしなぁ。よろし、ほな参上しますか」 言うと同時に咲耶の目の前に、一人の男が姿を現す。 須佐之男の姿が。 精一杯去勢を張っているが、過去の出来事のせいだろうか、咲耶のからだは見てわかるほどに震えている。 しかしそれでも彼女は必死で体に力を入れて、須佐之男と対峙する。 「私をこんなところに閉じ込めて、どうするつもりなのかしらね。私一人なら容易く倒せるとでも? それにさっきから緒美、緒美と耳障りよ。私は咲耶。高野宮咲耶よ。いつまでも紛い物の名前で呼ばないで」 咲耶は須佐之男をキッと睨みつけると人差し指を突きつけるようにしてそう言う。 やっと取り戻した名前。 智春が取り戻してくれた、本当の自分。 その名前に誇りがあったし、なにより目の前のにくい男が木偶人形と蔑んでいた時代の名前で呼ばれるのは屈辱的でもあった。 「……正直、そんなんどうでもええんやけどな。お前がどれだけ言うたかて、お前は陽奈美の黒い思いを核に形作られただけのまがいもんやし。どれだけ言うたかてその事実は変わらへん」 つぐみの必死の訴えも、意に介さぬとばかりにヘラヘラと笑いながら、須佐之男はそう言いかえす。 「それにな、あんさんを倒すだけならいつでも、それこそ赤子の手をひねる位簡単に出来るんや。そないな事より、もっとおもろいことをする為にわざわざここに招いたんやで」 言うが早いか須佐之男は、一足で咲耶の懐に飛び込み、その筋肉質な太い手で彼女の喉を掴み、そのまま片手で彼女を吊り上げる。 不意の出来事で、しかも喉を締め付けられて、咲耶動転してしまいろくに抵抗すらできない。 「守藤の計画はのぅなった。あんさんは支配下から外れてもた。ならもう破瓜の血は必要ないよなぁ」 咲耶の喉を掴む手に力が入る。 咲耶は息をすることが出来ず、必死に逃れようと暴れるが、須佐之男はそんな事など意にも介していない様子で言葉を続ける。 「なら……あんさんの初めてがもう必須では無くなったんなら、裏切りもんのあんさんで、溜まってしまったフラストレーションっちゅうのを晴らさせてもらおかってワケですわ」 首の拘束から逃れようと暴れる咲耶だが、須佐之男は一切気にすること無く、その首を締め上げる手にさらに力を込めたまま、顔を近づける。 「あんさんの、穴という穴を全部、好き放題使わせてもらおうって話ですわ。それこそ恋い焦がれた紫眼に二度と会えへんくなるような、女の尊厳なんてもんは全部ふき飛んでまうような……そんな目に遭ってもらおうって訳ですわ」 須佐之男の瞳が残酷な色をたたえて、咲耶の瞳をまっすぐに射貫く。 その目で須佐之男が語る言葉が本気であると確信し、咲耶の心は折れそうになる。 (それだけは絶対に嫌だ……智春、智春……助けて!) 恐怖に押しつぶされそうな心で、必死に愛しい男へ助けを求めるが、その声が届くはずが無いことを、彼女ははっきりと理解していた。 それでも、縋るしかないほどに彼女の心は限界の悲鳴を上げていた。 「さぁて……出し惜しみした緒美はんの、はじめてっていうんはどんな具合なんやろな……」 獲物を前に舌なめずりをするかのように、楽しげに須佐之男が言う。 片手は首にかけられたままで、もう片方の手が咲耶の巫女服の袷へと伸ばされる。 その行動が何を意味するモノなのかを理解して、咲耶は絶望に近い感情を抱きひときわ大きく体を震わせる。 須佐之男のモノで口を好き放題にされた時の感覚が蘇り、思わず吐きそうになる。 この男に辱められるくらいならば、いっそのことと悲壮な覚悟を決めて、己の歯で舌を挟み込み力を加えようとしたその時、部屋の中に不自然な揺らぎと人の気配が感じられて、咲耶はその行動を止めた。 ほんの一瞬だけではあったが、もしかして智春が助けに来たのではないかと、甘い期待を抱いてしまう。 「須佐之男様……よろしいですか」 新しく現れた人物が放った声で、来訪者が女性であると知り、咲耶は軽く失望を覚える。 だがこのような空間に、智春が現れて救い出してくれる……などという都合の良い話などあるはずも無いと理解して、小さく苦笑を漏らす。 「クシナダか……なんだ、今良いところなんだがな……。この裏切り者をどうやって蹂躙してやるかを考えて悦に入って居たところだったんだが、緊急か」 普段のうさんくさい関西弁のような発言ではなく、重々しくも威圧感のある言葉で須佐之男は返す。 「……お楽しみのところ、申し訳なくは思うのですが……例の男から月が墜ちたと報告が。それとあの男、少将動きが怪しいかと……」 須佐之男の背後に片膝を突いて、頭を垂れたままその女は、平坦にしかしなめらかにそう告げる。 「ほう……月が……。どうやらそちらの方が面白そうではあるな。名残惜しくはあるが……この木偶の処分はお前に任しても良いか」 言うが早いか、須佐之男は咲耶の喉にかけていた手を離した。 支えを失い床に落とされた咲耶は、痛みに顔をしかめつつもようやく自由にできる様になった空気を大きく吸い込む。 「主の命、承りました。この木偶人形は私の方で相応の処置を施しておきましょう」 会話の内容こそ物騒なモノではあったが、しかしやはりクシナダは平坦で感情のこもらぬ声でそう答えた。 「どう扱おうが……お前の好きにするといい。壊すも……生かすも、畜生道に堕とすも好きにしろ。俺はあやつの動きを見つつ、月をどう扱うか考えるとしよう」 少しばかり楽しげな口調でそう告げると、須佐之男は大きく手を横に振り、その姿を消した。 後に残されたのは、自由を取り戻し息苦しさから逃れるためにあえぎ続ける咲耶と、その咲耶を虫けらを見下ろすような冷たい目で見据えるクシナダの姿だけであった。
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