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偽計暗躍

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 彼女は今、自分の眼の前で起こっている出来事を、信じられないという気持ちと同時に、やはりという諦めに似た気持ちの両方を抱いて見つめていた。  鬱蒼と生い茂った木々の、その1つに身を預けるようにして寄りかかる一人の女。  彼女のよく知る、最愛の妹。  そしてその妹と、熱のこもった視線を交わし合っているのは、彼女がこの世界で唯一、恋い慕う男。 「……朋胤さま……貴方は本当に罪な人……」  距離が離れているのだから、本来は聞こえるはずがないほどの囁く声。  しかしその声はハッキリと彼女の耳に届いていた。  聞きたくないと心は拒絶しているのに、その思いとは裏腹に鮮明に彼女の耳はその音を捉えている。 「仕方ないことだ。守藤の家の【娘二人のうちの一人】を選ばねばならぬというしきたりなのだから」  そう言いながら、男は彼女の妹の首筋にその唇を寄せる。  少し湿った音と妹のの上げる切ない吐息が、しばしあたりの空気の中に染み込んでいく。 「それにな……適度に愛想を振りまいておけば、あれは良い働きをする。その働きの分の賃金だと思えば妥当であろう」  首筋から唇を離し、今度は互いの唇を重ね合い、そしてゆっくりとその唇を離しながら男が言う。 「まぁ……本当に悪いお方。朋胤さまのその素振りで……あの女は舞い上がってその気になってしまっているというのに……。ご存知ですか朋胤さま。あの女……今度こそは自分が選ばれるかもしれないと思ってるんですよ」  すこし小馬鹿にしたようなニュアンスの声、そしてクスクスという笑い声が続く。 「馬鹿な女だ。私が月音以外に心奪われるはずがなかろう……それもまだわからず、夢を見ているから体の良い小間使い扱いされても気が付かぬのよ。そして私がその様な愚かな女を伴侶に選ぶはずがないと理解もできぬ」  薄々は感じていた……、でもそれは朋胤さまが月音に心を傾けていて、自分が選ばれることはないだろうという予感めいた思いであって、まさかここまでないがしろにされているとは彼女自身、思っていなかった。  だから悲しかった。  怒りは感じていない。  ただ傷つき、悲しくて、そして自分の思いが本当に無意味だったという虚無感を抱いただけ。  胸の奥で何かがピシッと乾いた音を立てた気がする。  その音とともに、自分が自分であるはずの思いが、気持ちが感情がどんどんと流れ出していくような気がする。 「でも……まさかとは思いますが……朋胤さま。僅かばかりの情をかけてまさかあの女を抱いてはおりませんよね」  最愛の妹の声とは思えぬ、醜悪な声が汚らわしい言葉を紡ぎ出す。 「馬鹿を言うでない月音。たとえこの世界に、女があやつだけになろうとも、私があの女を抱くことなどは有りえないこと。愛想よくして適度にうまく扱うが関の山。あの様な女に触れたいなどとは思わぬ」  いいながら妹の着物を開けさせ、その乳房に吸い付くように顔を寄せる朋胤。  ああ……やはりこの2人にとって、体の良いコマであったのか。  彼女―陽奈美―は深い悲しみを感じて一雫の涙を流す。  諦念とも悔恨とも取れる気持ちが、彼女の心の中を黒く染め上げていく。   (私は何故この2人を、己の命にも等しいくらいに、いや己の命よりも大切だと思っていたのだろうか)    思わず彼女は総自問してしまう。  これほどまでに疎まれ、蔑ろにされて、それでも何故私はこの2人を守ろうとしているのだろうか。 「ああ……朋胤さま……、契夜まで待てないのです……あ……あぁぁ!!」  昏い思いに囚われて、呆然としていた彼女の耳にひどく甘く、どこか色気のある嬌声が聞こえる。  妹が抱かれ、その悦楽ゆえに漏らした声であると知り、彼女はその場に座り込む。  嗚呼……全部無意味なことだった。  愛されたいと願う気持ちも。  ただそばにいるだけでも十分だと思っていた心も。  恋い慕う相手だからこそ、身を捧げて尽くしたいと思った気持ちも。  全て無意味で、ただ利用されていただけだったのだと……彼女は絶望を抱きながら理解した。 「だから……分別の解るいい子を演じるのは止めておけと、何度も言ったのだがな」  地面に座り込み、呆然としていた陽奈美のは以後から不意に声が上がる。  先程まで一切の気配を感じていなかったのに、急に投げかけられた声に警戒心を呼び起こした陽奈美は顔を上げる。  そこには自分によく似た姿の女が立っていた。 「貴方は……何者なのです……」  静かな声で誰何する。 「私は私……。正しくは私は貴方のもう一つの心……とでも言うべきかしらね」  陽奈美は眼の前に立つ、自分に似た女性の放つ言葉に、微かな違和感とからかわれたという怒りにも似た羞恥を感じて、勢いよく立ち上がると、間合いを広げようと後ろに飛ぶ。   「そんなに警戒しなくても……良いのに。私は貴方で貴方は私なのだから、危害を加えることはないわ」  陽奈美と同じ顔をした女は、ニィッと醜悪な笑顔を彼女に向けて、敵意がないことを示すように両手を広げて見せる。 「それより……貴方はそれでいいの? 大切な妹だからと身を引いて守ってきたその気持を、踏みにじられたままで。愛しいから慕っているからと、我が身を捨ててまで尽くしてきた男に、あの様に言われて……」 「な……何が言いたいのですか」  少し気持ちが揺れてしまったことを自覚して、そんな自分に嫌悪を感じた陽奈美は、震える声で言い返す。 「恩には恩を、仇には仇を、報いには報いを……それが当たり前の摂理じゃないかしら? 貴方を良いように使い傷つけてもなんとも思わないような奴らなら、傷つけても良いんじゃないのって言いたいの」 「そ……んな、月音は大切な、何よりも大事な妹。朋胤さまはどれほどに無体な事をされても、それでも私がおしたい申し上げる方……そんな二人に私が……」 「いつまで、物わかりの良い女を気取り続けるの? それで貴方は報われたの? あの2人はそんな貴方の善意に漬け込んで良いように利用しているだけなのに、それでもまだそんな事を言うの? いつまで物わかりの良い子を演じ続けるの。自分の心が壊れてまで演じ続ける意味はあるのかしらね」  暗示をかけるかのように、真正面から陽奈美の目を見つめ、そして言い聞かせるかのようにゆっくりとそういう陽奈美に似た女。  その言葉に、陽奈美は心が揺れてしまっていることを自覚する。  何故自分だけが犠牲にならなければならないのか。  何故報われないと知りながら、自分を犠牲にし続けるのか。  姉だから……なら姉はすべてを犠牲にしなければならないのか、幸せになってはいけないのか。  次から次へととめどなく溢れてくる思いの奔流に、押し流されそうになるのを、歯を食いしばって必死に耐えようとする陽奈美。  だが陽奈美に似た女は、更にダメ押しするように今度はその耳に唇を寄せてそっと囁く。 「なら……姉である貴女の思いを踏みにじった、姉妹の嬢すら裏切ったあの女を消せばいいのよ。その後じっくりと時間を掛けて、あの男の心を取り戻せば良い。それが貴方にとって唯一幸せになれる方法」  女の言葉がするりと耳から入り、心に染み渡っていく。  不自然なほどに抵抗もなく、受け入れてしまっている。  それに疑問を抱く間もなく、妹が……月音が上げる、一種淫らでいて色気のある吐息がハッキリと耳に届く。  そして陽奈美は、ゆっくりと懐に手を入れ、護身用に持ち歩いていた匕首を取り出して、その刃先を見つめる。  仇には仇を、報いには報いを……  先程の女の言葉が頭の中を駆け巡り、どんどんと思考が鈍化してしまっていることに陽奈美は気が付かなかった。 (邪魔な妹を消せば……朋胤さまは私を見てくださる)  その言葉が徐々に心のなかを侵食していき、少しづつ正常な判断ができなくなっていくことに彼女は気がつくことができなかった。  そして自分に似たあの女の口元が、いびつに歪んでいることにもまた、気がつくことができていなかった。 (月音……いつもいつも、貴方ばかりが選ばれて、でもそれも仕方のないことと思っていたのに……それだけで飽き足らず私のことをそこまで蔑ろにしていたなんて……許せない)  普段の彼女なら、絶対に考えることがない事なのに、今の彼女はその考えが正しいと思い迷うことがなかった。  ゆっくりと視線を、2人が居た方向に向ける。  いつの間にか2人はその体を地面に横たえて、重なり合っていた。  朋胤が動くたびに、月音があられのない声を上げ、その声が余計に陽奈美の心をざわつかせる。 (もう……いい。もう沢山だ。貴方は今まで何度も選ばれて、さんざんいい目を見てきたのでしょう……なら、一度くらい私にも……私だって報われたいのだから……消えて……)  ゆっくりと匕首を右手で構え、ゆっくりとした足取りで2人に近づいていく。  2人は互いを貪ることに夢中なのか、陽奈美の動きに一切気が付かず、ただ唇を吸いあい、体を弄りあいそして淫らに腰を動かしている。  その姿が余計に陽奈美の怒りを煽っていく。   (これで……もう!!)  最後の理性が消し飛び、右手を大きく振りかぶりその手に握った匕首を突き立てようとしたその時。 「何をしている!」  という短い叫びと同時に、陽奈美の手に衝撃が走り、その手の中から匕首が地面へと撃ち落とされた。  何が起きたのかと、振り返る陽奈美の目に、見覚えのある男の姿があった。  身につけている衣装は違うが、眼の前で妹と情を交わし合っている朋胤と似た男が、右手に一振りの刀を構えたまま陽奈美を睨みつけている。 「この程度の安い幻術にかかるとは……よほど痛いところを突かれたのか陽女」  朋胤に似た男がそう言う。 (陽女?……陽女とは誰のこと……私は陽奈美……いや……私は、私……は)  ぼやけていた思考が、急速に鮮明になっていく。  私は……稲森陽女だ。    陽奈美は過去のことでしかない。  なのに何故今、眼の前で月音と朋胤さまが……。  急速に湧き上がる疑問、現実にそぐわない状況、それはすぐに答えを導き出した。 「……咲耶様のことを、笑えませんね。私もまた心の弱さを利用されてしまったのですか……」  静かに、平坦な声で『私』はそう言った。  心の奥底から激しい怒りが湧き上がってきているのを自分でも感じる。  それは過去の思いを汚されたから。  妹への愛を揺らがされたから。  一番大切なことを偽りに利用されたから。 「……これは、看過できません。まさか……これほどまでに人の想いを、思い出を……踏みにじるなんて」  眼の前に立つ、私に似た顔の女をじっと睨みつける。  あれほど余裕ぶって私に暗示をかけてきた女は、先程までの態度が嘘のように、顔を蒼白にして、微かに体を震わせて私を見ている。 「ま……待って。私は貴方の本心を貴方に教えただけ。貴方の心を開放してあげただけ……」  かすかに震える声で女が私に向かって言う。  それはただの言い訳、そして命乞いにしか聞こえなくて、私は更に一歩女に近づく。 「ま……まって。私はただ指示に従っただけ。そうしろと命じられただけなの」  遂にはその場にへたり込んだその女は、震えていることを隠そうともせず必死に私に訴えかけてくる。 「……貴方の事情など私が知る必要はない。貴方は私の大切な思い出を記憶を、そして想いを穢した。その事実だけで万死に値すること。だから命乞いも言い訳も無意味……」  私は怒りすぎて、冷たくなった心のまま、そう言って、そして拾い上げた匕首をゆっくりと女に振り下ろした。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「無様なところを……お見せしてしまいました」  匕首のひとふりを受けただけで、あっさりと霧散した女。  それに伴いいつの間にか消えていた、森の風景と月音、そして朋胤様の姿。  そのすべてを見て、ようやくそれが誰かによって仕組まれた幻覚であったことを理解した私は、智春さまにむかって深々と頭を下げた。    あの場面で智春さまが来てくれなければ、どうなっていたのだろうかと考える。  あの幻術に操られたまま、あの2人を殺してしまっていたら、私はきっと抜け出すこともできず、下手をすれば黒い心に支配されてしまっていたかもしれないと、そう思うと今になって震えが来てしまう。 「大丈夫だ……俺もちっとばかし、不快で怒りと悲しみを抱いてしまうような幻覚を見せられたからな……」  いつもの朗らかな感じではない、思いやりに溢れた顔でもない、苦々し気でいて何か深く痛みに耐えているようなそんな表情で、智春さまは私にそう答えた。 「俺だけでなく、陽女までこうなっていたということは……他の二人も……」 「そうですね……心配です。咲耶さまは先程も心を乱されたばかり……今度はどうなってしまうのか……」  私と智春さまは顔を見合わせてそう話、そして互いの脳裏に最悪の状況が思い浮かんでしまったことを振り払うかのように頭を振り、次にすべきことのため動き始めた。  



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偽計暗躍

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 彼女は今、自分の眼の前で起こっている出来事を、信じられないという気持ちと同時に、やはりという諦めに似た気持ちの両方を抱いて見つめていた。  鬱蒼と生い茂った木々の、その1つに身を預けるようにして寄りかかる一人の女。  彼女のよく知る、最愛の妹。  そしてその妹と、熱のこもった視線を交わし合っているのは、彼女がこの世界で唯一、恋い慕う男。 「……朋胤さま……貴方は本当に罪な人……」  距離が離れているのだから、本来は聞こえるはずがないほどの囁く声。  しかしその声はハッキリと彼女の耳に届いていた。  聞きたくないと心は拒絶しているのに、その思いとは裏腹に鮮明に彼女の耳はその音を捉えている。 「仕方ないことだ。守藤の家の【娘二人のうちの一人】を選ばねばならぬというしきたりなのだから」  そう言いながら、男は彼女の妹の首筋にその唇を寄せる。  少し湿った音と妹のの上げる切ない吐息が、しばしあたりの空気の中に染み込んでいく。 「それにな……適度に愛想を振りまいておけば、あれは良い働きをする。その働きの分の賃金だと思えば妥当であろう」  首筋から唇を離し、今度は互いの唇を重ね合い、そしてゆっくりとその唇を離しながら男が言う。 「まぁ……本当に悪いお方。朋胤さまのその素振りで……あの女は舞い上がってその気になってしまっているというのに……。ご存知ですか朋胤さま。あの女……今度こそは自分が選ばれるかもしれないと思ってるんですよ」  すこし小馬鹿にしたようなニュアンスの声、そしてクスクスという笑い声が続く。 「馬鹿な女だ。私が月音以外に心奪われるはずがなかろう……それもまだわからず、夢を見ているから体の良い小間使い扱いされても気が付かぬのよ。そして私がその様な愚かな女を伴侶に選ぶはずがないと理解もできぬ」  薄々は感じていた……、でもそれは朋胤さまが月音に心を傾けていて、自分が選ばれることはないだろうという予感めいた思いであって、まさかここまでないがしろにされているとは彼女自身、思っていなかった。  だから悲しかった。  怒りは感じていない。  ただ傷つき、悲しくて、そして自分の思いが本当に無意味だったという虚無感を抱いただけ。  胸の奥で何かがピシッと乾いた音を立てた気がする。  その音とともに、自分が自分であるはずの思いが、気持ちが感情がどんどんと流れ出していくような気がする。 「でも……まさかとは思いますが……朋胤さま。僅かばかりの情をかけてまさかあの女を抱いてはおりませんよね」  最愛の妹の声とは思えぬ、醜悪な声が汚らわしい言葉を紡ぎ出す。 「馬鹿を言うでない月音。たとえこの世界に、女があやつだけになろうとも、私があの女を抱くことなどは有りえないこと。愛想よくして適度にうまく扱うが関の山。あの様な女に触れたいなどとは思わぬ」  いいながら妹の着物を開けさせ、その乳房に吸い付くように顔を寄せる朋胤。  ああ……やはりこの2人にとって、体の良いコマであったのか。  彼女―陽奈美―は深い悲しみを感じて一雫の涙を流す。  諦念とも悔恨とも取れる気持ちが、彼女の心の中を黒く染め上げていく。   (私は何故この2人を、己の命にも等しいくらいに、いや己の命よりも大切だと思っていたのだろうか)    思わず彼女は総自問してしまう。  これほどまでに疎まれ、蔑ろにされて、それでも何故私はこの2人を守ろうとしているのだろうか。 「ああ……朋胤さま……、契夜まで待てないのです……あ……あぁぁ!!」  昏い思いに囚われて、呆然としていた彼女の耳にひどく甘く、どこか色気のある嬌声が聞こえる。  妹が抱かれ、その悦楽ゆえに漏らした声であると知り、彼女はその場に座り込む。  嗚呼……全部無意味なことだった。  愛されたいと願う気持ちも。  ただそばにいるだけでも十分だと思っていた心も。  恋い慕う相手だからこそ、身を捧げて尽くしたいと思った気持ちも。  全て無意味で、ただ利用されていただけだったのだと……彼女は絶望を抱きながら理解した。 「だから……分別の解るいい子を演じるのは止めておけと、何度も言ったのだがな」  地面に座り込み、呆然としていた陽奈美のは以後から不意に声が上がる。  先程まで一切の気配を感じていなかったのに、急に投げかけられた声に警戒心を呼び起こした陽奈美は顔を上げる。  そこには自分によく似た姿の女が立っていた。 「貴方は……何者なのです……」  静かな声で誰何する。 「私は私……。正しくは私は貴方のもう一つの心……とでも言うべきかしらね」  陽奈美は眼の前に立つ、自分に似た女性の放つ言葉に、微かな違和感とからかわれたという怒りにも似た羞恥を感じて、勢いよく立ち上がると、間合いを広げようと後ろに飛ぶ。   「そんなに警戒しなくても……良いのに。私は貴方で貴方は私なのだから、危害を加えることはないわ」  陽奈美と同じ顔をした女は、ニィッと醜悪な笑顔を彼女に向けて、敵意がないことを示すように両手を広げて見せる。 「それより……貴方はそれでいいの? 大切な妹だからと身を引いて守ってきたその気持を、踏みにじられたままで。愛しいから慕っているからと、我が身を捨ててまで尽くしてきた男に、あの様に言われて……」 「な……何が言いたいのですか」  少し気持ちが揺れてしまったことを自覚して、そんな自分に嫌悪を感じた陽奈美は、震える声で言い返す。 「恩には恩を、仇には仇を、報いには報いを……それが当たり前の摂理じゃないかしら? 貴方を良いように使い傷つけてもなんとも思わないような奴らなら、傷つけても良いんじゃないのって言いたいの」 「そ……んな、月音は大切な、何よりも大事な妹。朋胤さまはどれほどに無体な事をされても、それでも私がおしたい申し上げる方……そんな二人に私が……」 「いつまで、物わかりの良い女を気取り続けるの? それで貴方は報われたの? あの2人はそんな貴方の善意に漬け込んで良いように利用しているだけなのに、それでもまだそんな事を言うの? いつまで物わかりの良い子を演じ続けるの。自分の心が壊れてまで演じ続ける意味はあるのかしらね」  暗示をかけるかのように、真正面から陽奈美の目を見つめ、そして言い聞かせるかのようにゆっくりとそういう陽奈美に似た女。  その言葉に、陽奈美は心が揺れてしまっていることを自覚する。  何故自分だけが犠牲にならなければならないのか。  何故報われないと知りながら、自分を犠牲にし続けるのか。  姉だから……なら姉はすべてを犠牲にしなければならないのか、幸せになってはいけないのか。  次から次へととめどなく溢れてくる思いの奔流に、押し流されそうになるのを、歯を食いしばって必死に耐えようとする陽奈美。  だが陽奈美に似た女は、更にダメ押しするように今度はその耳に唇を寄せてそっと囁く。 「なら……姉である貴女の思いを踏みにじった、姉妹の嬢すら裏切ったあの女を消せばいいのよ。その後じっくりと時間を掛けて、あの男の心を取り戻せば良い。それが貴方にとって唯一幸せになれる方法」  女の言葉がするりと耳から入り、心に染み渡っていく。  不自然なほどに抵抗もなく、受け入れてしまっている。  それに疑問を抱く間もなく、妹が……月音が上げる、一種淫らでいて色気のある吐息がハッキリと耳に届く。  そして陽奈美は、ゆっくりと懐に手を入れ、護身用に持ち歩いていた匕首を取り出して、その刃先を見つめる。  仇には仇を、報いには報いを……  先程の女の言葉が頭の中を駆け巡り、どんどんと思考が鈍化してしまっていることに陽奈美は気が付かなかった。 (邪魔な妹を消せば……朋胤さまは私を見てくださる)  その言葉が徐々に心のなかを侵食していき、少しづつ正常な判断ができなくなっていくことに彼女は気がつくことができなかった。  そして自分に似たあの女の口元が、いびつに歪んでいることにもまた、気がつくことができていなかった。 (月音……いつもいつも、貴方ばかりが選ばれて、でもそれも仕方のないことと思っていたのに……それだけで飽き足らず私のことをそこまで蔑ろにしていたなんて……許せない)  普段の彼女なら、絶対に考えることがない事なのに、今の彼女はその考えが正しいと思い迷うことがなかった。  ゆっくりと視線を、2人が居た方向に向ける。  いつの間にか2人はその体を地面に横たえて、重なり合っていた。  朋胤が動くたびに、月音があられのない声を上げ、その声が余計に陽奈美の心をざわつかせる。 (もう……いい。もう沢山だ。貴方は今まで何度も選ばれて、さんざんいい目を見てきたのでしょう……なら、一度くらい私にも……私だって報われたいのだから……消えて……)  ゆっくりと匕首を右手で構え、ゆっくりとした足取りで2人に近づいていく。  2人は互いを貪ることに夢中なのか、陽奈美の動きに一切気が付かず、ただ唇を吸いあい、体を弄りあいそして淫らに腰を動かしている。  その姿が余計に陽奈美の怒りを煽っていく。   (これで……もう!!)  最後の理性が消し飛び、右手を大きく振りかぶりその手に握った匕首を突き立てようとしたその時。 「何をしている!」  という短い叫びと同時に、陽奈美の手に衝撃が走り、その手の中から匕首が地面へと撃ち落とされた。  何が起きたのかと、振り返る陽奈美の目に、見覚えのある男の姿があった。  身につけている衣装は違うが、眼の前で妹と情を交わし合っている朋胤と似た男が、右手に一振りの刀を構えたまま陽奈美を睨みつけている。 「この程度の安い幻術にかかるとは……よほど痛いところを突かれたのか陽女」  朋胤に似た男がそう言う。 (陽女?……陽女とは誰のこと……私は陽奈美……いや……私は、私……は)  ぼやけていた思考が、急速に鮮明になっていく。  私は……稲森陽女だ。    陽奈美は過去のことでしかない。  なのに何故今、眼の前で月音と朋胤さまが……。  急速に湧き上がる疑問、現実にそぐわない状況、それはすぐに答えを導き出した。 「……咲耶様のことを、笑えませんね。私もまた心の弱さを利用されてしまったのですか……」  静かに、平坦な声で『私』はそう言った。  心の奥底から激しい怒りが湧き上がってきているのを自分でも感じる。  それは過去の思いを汚されたから。  妹への愛を揺らがされたから。  一番大切なことを偽りに利用されたから。 「……これは、看過できません。まさか……これほどまでに人の想いを、思い出を……踏みにじるなんて」  眼の前に立つ、私に似た顔の女をじっと睨みつける。  あれほど余裕ぶって私に暗示をかけてきた女は、先程までの態度が嘘のように、顔を蒼白にして、微かに体を震わせて私を見ている。 「ま……待って。私は貴方の本心を貴方に教えただけ。貴方の心を開放してあげただけ……」  かすかに震える声で女が私に向かって言う。  それはただの言い訳、そして命乞いにしか聞こえなくて、私は更に一歩女に近づく。 「ま……まって。私はただ指示に従っただけ。そうしろと命じられただけなの」  遂にはその場にへたり込んだその女は、震えていることを隠そうともせず必死に私に訴えかけてくる。 「……貴方の事情など私が知る必要はない。貴方は私の大切な思い出を記憶を、そして想いを穢した。その事実だけで万死に値すること。だから命乞いも言い訳も無意味……」  私は怒りすぎて、冷たくなった心のまま、そう言って、そして拾い上げた匕首をゆっくりと女に振り下ろした。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 「無様なところを……お見せしてしまいました」  匕首のひとふりを受けただけで、あっさりと霧散した女。  それに伴いいつの間にか消えていた、森の風景と月音、そして朋胤様の姿。  そのすべてを見て、ようやくそれが誰かによって仕組まれた幻覚であったことを理解した私は、智春さまにむかって深々と頭を下げた。    あの場面で智春さまが来てくれなければ、どうなっていたのだろうかと考える。  あの幻術に操られたまま、あの2人を殺してしまっていたら、私はきっと抜け出すこともできず、下手をすれば黒い心に支配されてしまっていたかもしれないと、そう思うと今になって震えが来てしまう。 「大丈夫だ……俺もちっとばかし、不快で怒りと悲しみを抱いてしまうような幻覚を見せられたからな……」  いつもの朗らかな感じではない、思いやりに溢れた顔でもない、苦々し気でいて何か深く痛みに耐えているようなそんな表情で、智春さまは私にそう答えた。 「俺だけでなく、陽女までこうなっていたということは……他の二人も……」 「そうですね……心配です。咲耶さまは先程も心を乱されたばかり……今度はどうなってしまうのか……」  私と智春さまは顔を見合わせてそう話、そして互いの脳裏に最悪の状況が思い浮かんでしまったことを振り払うかのように頭を振り、次にすべきことのため動き始めた。  



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