喪失……壊れていく心
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大きな庭園の中で一人の少女が花を摘んでいた。 まだ小学生の低学年くらいの年齢だろうか、その少女は一心に花を見ているがその背後には、少女には似つかわしくない黒服の体つきの良い男たちが控えていた。 一種異様とも見えるその光景。 しかしそれは、少女にとっては日常であり当たり前の光景だった。 「ねえ……貞将。この花、とてもきれいなの……。お祖父様は喜んでくれるかしら」 背後に控える黒服の中でも、少女に近い場所に立っている男に、少女は問いかける。 その声は年齢からすれば酷く醒めた、抑揚のない声だった。 「当主様はご多忙であり、また実務以外に興味を持たれないお方です……」 少女の問になんと返すのが正しいのか、貞将と呼ばれた男は少し逡巡したが、安易に希望的観測を告げてその後に事実を知った少女が深く傷つくことを考慮して、差し障りのない言葉でしかし否定的な意図を告げる。 「そう……。お祖父様にとって私は要らない子なんだね……」 悲しみのこもった声で少女が呟く。 男はそれに対して答えられる言葉を見つけることが出来ず、だまって少女の背中を見つめた。 少女の体が小刻みに震え、地面にいくつもの滴が落ちて染みを作るのをただ黙ってみているしか出来なかった。 「不憫……な娘よな……」 貞将は毎日の業務として、少女が一日をどう過ごしていたかを当主に告げるため、その執務室を訪問して今日あった出来事を詳細に報告していた。 その時、当主である守藤 清忠が漏らした言葉に、驚きを感じてふと目線を上げてその姿を見てしまう。 「……おかしいか? この私がそういう感傷を抱くことが」 ギロリと形容するのがふさわしいような、強い視線で睨みつけられて貞将は反射的に頭を下げる。 「まぁ……良い。この家を守るために、綺麗なことだけではない様々のことに手を染めてきた私だ、お前たちが私をどう思っているかも想像できる」 貞将の態度に清忠は一つだけ小さなため息をつくと、すこし力のない声で言った。 しかし使用人でしか無い貞将は、その言葉に対して答えるべき言葉を持ち合わせておらず、ただひたすらに頭を下げるしかなかった。 「私の……存在意義は、この家を守ること。古の呪縛からこの家を解き放つこと。それがなせぬなら私は今ここに生きている意味すら無い。だが……私とて血の流れる人の子ではある。あのような幼い子どもに、まさか陽奈美が宿ってしまうとは……。仕方ないことでは有るが不憫だと思ってしまうのだ」 貞将がこの屋敷に仕えるようになってもう20年余が経っていたが、これは彼が始めて聞いた守藤家当主の表には出ることのない、人間的弱さだと思った。 そしてそれを知った彼は、不憫なだけの可哀想な少女に、わずかばかりの希望があることを知った。 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 自分に厳しく当たり、家のためにとすべてを捧げることを強要してきたお祖父様。 そんな彼が持つ、ほんの僅かではあったが人間的な感情を、咲耶はじつは貞将から聞いていた。 それは余りにも理不尽な仕打ちに、彼女自信が耐えきれなくなり、自ら命を立とうとしたある日のこと。 今まさに喉に刃を突き立てようとした彼女の手を、力強く叩いてナイフを取り上げた貞将が、涙ながらに伝えてくれた守藤清忠の人としての弱さ。 清忠自身もまた、家のために自分の様々なものを犠牲にして生きてきたこと。 家の為にすべてを犠牲にした清忠ゆえに、それをまた咲耶に強要してしまっていること。 表には出さないが、彼の中に残っている人間的な部分は、それを酷く悔いて哀れと感じていること。 それでもその全てを受け入れて、赦すことは出来なかったけれど、その時に咲耶は救われた気持ちを抱いてしまった。 『私はお祖父様にとって不要な存在ではないのだ……目的を果たすことが出来たならその時はきっと』 淡く甘い夢であった。 しかしこの家に来て初めて、咲耶は……いや緖美は縋るものを見出していた。 だからこそ耐えることが出来た。 理不尽なこと、奪われること、強要されること……その全てに押しつぶされそうになりながら、それでも耐えることが出来たのは、縋れるものを見つけたからだった。 しかしその全てが今、無惨に消されてしまっていた。 ほんの僅かばかりの気まぐれと、壊れないようにするための懐柔であったかもしれないけれど、それでも本当に数える程度しかなかったが、清忠が送ってくれたプレゼント。 清忠手の届かぬ場所で、密かに育んだ友情やそんな友達から送られた、ささやかだけど嬉しい宝物。 そんな思い出の全てが……消えてしまったことを、そしてその喪失感がどれほど自分を深く傷つけるのかを、咲耶は身を持って知ってしまった。 (これで全てなくなった) 咲耶は今の状況をそう受け止めていた。 忌まわしい思い出がほとんどではあったが、それでも自分が10年以上の時を過ごした場所が消えた。 その事実は咲耶の心を深くえぐり、その血を流させる。 それは彼女自身が思っていたよりも、大きな衝撃を彼女に与えた様だ。 生まれた場所の思い出もほとんど無く、育ってきたはずの場所さえ失った。 自分は陽奈美という存在を核として生み出された人形だといわれ続けた彼女は、自らも自覚しないままに、無意識下のその言葉を刷り込まれていた。 そのような危うい精神のバランスの上で成り立っていた心は、目に見える思い出の形を喪失したことで、無理やり押さえつけていた負の感情が溢れ出してくることを止めることができなくなっていた。 (やっぱり高野宮咲耶なんて存在は必要ないのかもしれない……望まれたのは陽奈美であって私じゃない) 物心ついた頃からいわれ続けた言葉。 呪いのようにその心にまとわりついて離れていかない負の言葉。 智春や美月や陽女と過ごす中で、少しずつ薄れ始めようとしていたその感情は、しかしこの状況で明確な意志を持って蠢動を始めた。 「ふ……ふふ……高野宮咲耶なんて……必要ないん……だ……」 小さく、しかしはっきりと唇から溢れる言葉。 咲耶自身もそれが自分の声とは思えないほどに、冷え込んだ冷たい言葉。 「あいつが……あの人が……私を『木偶人形』と読んでいた理由がわかる。私は必要とされる存在じゃない……利用価値がなくなればあっさりと捨てて消してしまえる程度の存在なんだ」 咲耶の唇からこぼれ続ける不穏な言葉。 しかしその声はあまりに小さすぎて、彼女を遠巻きにしかし、心配げに見つめる3人の耳には届かなかった。 「利用価値がなくなれば捨てられてしまう存在なのに……それなのに、裏切って……対立していたはずの人たちと協力しているとか……自分がバカバカしすぎて……笑える」 力なく畳に崩れ落ちていた咲耶が、不自然な動きでゆらりと立ち上がていく。 上半身が力なくフラフラとして、足元もおぼつかないがそれでもゆっくりと、いやユラリと言う方が適切な動きで立ち上がる。 「ねえ……美月……あの人が言っていたわ……。あなたは姑息な姦計を用いて人の和を乱し、そして孤立させて潰すと……ほんとに、そうなのね。あなたの甘言に乗せられて……敵であったはずのあなた達に馴れ合って……そして私は居場所を失った……」 「咲耶……さん、何を言っているの……」 突然名指しをされた美月が、戸惑ったような表情を浮かべて咲耶を見る。 そんな美月に、凍てつくかと思うほどの冷たい視線を向けて、ゆらりと立ち上がった咲耶が口の端を歪めて笑いかける。 「はは……ははは……、あなたの言葉に踊らされて……あなた達の言葉で夢を見てしまって……そして全て失った。帰るべき家も、家族も……思い出も……全部、全部失ってしまった……ああ……ああああああ!」 咲耶の冷たい目が、美月を捉えて離さない。 美月もまた、覚悟を決めたような顔で、咲耶に相対して身構えている。 部屋の中に緊張が走り、空気が目に見えるかのように張り詰める。 こうなってしまっては、もう2人がぶつかり合うしか無いのかと誰もがそう思っていた。 だけど俺の緊張はここで限界を迎えてしまった。 俺は思いっきり吹き出して、これ以上面白いことはないとでもいうかのように思い切り笑い出す。 漫才や落語でも見ていたのかと思うほどに、ひたすらに笑い息が続かなくなってゼィゼイとしてしまうほどに、ただただ笑った。 そんな俺の様子に、咲耶が気色ばむ。 美月に向けられていたはずの凍てつく様な目線は、今度は燃え上がる炎のような怒りを込めて俺に向けられている。 「何が……何がおかしいのよ!智春……あなただけは私の苦しみをわかってくれていると思っていたのに!やはり月に付くのね……あなたにとって月が大切でそれ以外はどうでも……」 「お前はバカか!オレはお前がそんな愚か者だと思ってなかったぞ!」 みなぎる怒気を言葉に乗せてオレにぶつけてくる咲耶。 しかし彼女の言葉が終わる前に、オレは畳みかけるように言葉を重ねた。 俺の気迫にあれほどまでに漲らせていた怒気を一瞬おさめて、咲耶は意味がわからないとでも言いたげな顔で俺を見つめている。 「この3日間は……お前にとってそんなに軽いのか? 俺たちが重ねた絆は……時間こそ短かったけど、それでも確かなものじゃなかったのか? なんでアイツの……須佐之男の罠にそうもあっさり引っかかって俺たちを疑うんだ……俺は、俺たちはお前にとってその程度にしかなれないのか……」 「でも……でも……、あの人を裏切ってあなたたちに味方をしたから……だから私の過去は、思い出は……」 「なるほど……ね。それがお前のウィークポイントで、渇望していたもの……なのか」 先程の怒気が鳴りを潜め、力なく言葉を吐き出す咲耶。 視線からも怒気と力が失われて、頼りなさげに俺と美月を見つめている。 「まぁ……アイツがこうやって精神を攻撃してくることは予想できていたし、その標的はこの間まで己の手駒だった緖美……いや、咲耶だろうとは思っていたけどな……。だがこうもあっさりやられるとは……さすが相手のホーム。ちょっとこっちには分が悪いな」 言いながら部屋の中に視線を巡らせ、俺は不自然に残されていたカレンダーに目を留める。 部屋の荷物が全て失われているのに、カレンダーだけ残されているとは、あからさますぎるなと肩をすくめる。 俺の視線をたどり、その意図を察した陽女はそのカレンダーをしばし凝視して、何かに気がついたのか表情を変えた。 「禍津根之石……こんなものを持ち出していたなんて」 表情が変わった陽女を見て、同じくカレンダーを凝視していた美月が叫ぶようにそういう。 「禍津根之石? それは一体何なんだ。聞いたこともない」 聞き慣れない言葉だが、その言葉の持つ嫌な雰囲気に俺は僅かばかり顔を顰めて問う。 「根之国(黄泉国)にある石です。亡者の怨念が蓄積されて結晶化したものといわれていて、それ故に禍々しい気を発して心が弱っている人を魔や闇といったものに引き込む力があるといわれています……」 「つまり……過去の思い出のすべてを失ったと、気持ちが弱っていた咲耶をさらに動揺させあわよくば俺たちと対立させるために仕掛けていたと……そういうことか。須佐之男……美月の言う通り陰険で嫌な野郎だな」 俺は説明を聞いて、その周到なやり口になんとも言えない不快感を感じて、肩をすくめると吐き捨てるようにそういった。 「カラクリが分かればこの程度、どうとでもなるけれど……」 そこまで言って言葉を切って美月は、俺の顔を眺めそして次に咲耶の顔をじっと見つめた。 俺はなんとなく美月の言いたいことがわかったが、これは2人で乗り越えるべき問題なんだと理解して、敢えて口を挟むことはしなかった。 そんな俺の考えを理解してくれたのだろう、陽女は目を細めて2人を見つめながら、俺に頷いてくれた。 「いくらあの男の仕掛けた罠で、そうなるのも仕方ないことだと言っても……それでも私は気に入らないわ……ねぇ、私達が過ごしたこの2日ってなんだったの? 過去も今も全部乗り越えて先に進むためだったんじゃないの? 思い出……ね。それってあなたの心に残っていないの? ものがなくなればそれで全て終わっちゃう程度のものなの?」 俺と陽女の許しが出たと理解した美月は、一度だけ目を閉じて息を吸って吐いたあと、見開いた目で咲耶を見据えて、一息でまくしたてる。 「私達だって、人の法から外れた存在で……思い出の物なんて何も残せていない。全部記憶だけよ!でも……だけど……私達は幸せだと感じていたし、その思い出があったから今日まで生きてこれた!智春様がずっと現れてくれなくても待っていられた!……あんたが陽奈美を持つというなら……なんでそれが出来ないのよ!」 美月の目からしらずに涙が流れ落ちていた。 彼女は咲耶に言って聞かせると同時に、自分たちを重ねていたのだろう。 何度も死して生まれ落ち、記憶はあっても何も残すことが出来なかった存在である彼女、いや彼女たちは、だからこそその思い出、記憶を重視してある種それが全てであるかのように思っている。 「甘ったれないで……よ。物が消えたから何? あなたはそれで、今まで生きてきた記憶も思い出もなくすの? 今まで蓄積したそれらを否定するの? 答えなさい!高野宮咲耶!」 彼女に出会ってから、そのクールで理知的な外見とは似つかわしくない、激情を何度も目にしてきたけれど、これ程まで激しい感情を表に出した美月を俺は初めて見たように思う。 ボロボロと涙を流し続けながら、それでも激しい感情を込めた目で寸分も違えることなく咲耶を睨みつけて、荒い息を吐きながら詰め寄る美月。 だからこそ彼女が、本心で本音で、咲耶にぶつかっているということが解る。 それが解っているから、俺も陽女も、美月を止めることはしなかった。 裏のない正直な、心からの感情の発露……それこそが禍津根之石にとらわれている咲耶を開放できる方法だと信じているから。 そして……その思いに咲耶は必ず答えてくれると、やはり信じているから。 「ごめん……なさい……私……私は……」 しばらくにらみ合っていた2人の視線。 それはツィと咲耶が目を逸らせたことで終わった。 震える声で、ポロポロと涙をこぼしながら畳の上に座り込んだ咲耶は、弱々しくそう声を発した。 これでこの悪趣味な、一つ目の試練は終わったのだと、ようやくオレは一つ息を吐いた。
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