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虚入り

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 ガンガンと何かを叩き付ける音が、狭い虚空に響く。  私は被っていた狐をかたどった面をそっと外す。  ひとしずくの涙が頬を流れていく。  何度も繰り返してきたこと。  もう既に経験したことなれど、それでもやはり私の心は深い悲しみと、大きな喪失感で埋め尽くされている。 (やはり変えることは出来なかった……)    いつもの私にはあり得ないような、弱々しい声を漏らす。  自分以外誰もいない場所と解っているから、ついつい本当の感情が漏れてしまう。  ずっと……あの人の側に居たかった。    伴侶に選ばれ、契りを結び、一月余りの短い時間ではあったが、夫婦めのととして過ごすことが出来た。  それで良かったはずだった。  私の望むものは満たされたはずで、憂いなく成すべき役割に就くことが出来ると思っていた。  しかしそれは私自身の都合の良い、希望的憶測でしかなかった。    何度も繰り返したこと、覚悟も決めていた。  だからこそ今回は、今までと同じ懊悩に悩まされることはないだろうと、そう信じていた。  しかしそれは余りにも甘い見立て。  むしろ私は、今までで一番強い未練と喪失と絶望を感じていることを自覚する。 「本当に人の感情とはままならぬものなのですね……」    漆黒の闇。  一条の光すら差し込まぬ密室。  その狭い空間に、自分の声が響きそして消えてく。  それはまるで結ばれたはずなのに、絡み合いすぎて解けず、ゆえに断ち切られた糸のようであった。  恐らく私とあの人が生きる世界を隔てるための扉が、頑強に打ち付けられたのだろう。  やがて僅かに出来た隙間を埋めるため、煮えた鉄が流し込まれて、私の世界は完全に隔絶される。  怖くはない。  このような漆黒の閉所に閉じ込められたことは、怖くはなかった。  ただ二度とあの人と、手を繋ぎ笑い合い、触れあうことが出来ないという事実が恐ろしかった。 「ずっと……ずっとお慕い申し上げておりました……共に過ごせると淡い夢を見てしまいました」  誰にも聞いてもらえない独白。  唯々流れ落ちる涙。  自分自身が言い出したこと。  根の国と中津国を隔てるための儀式。  思い付いたときは名案だと感じた。  自分がこれほどまでに、人に惹かれてしまうなんて予想もしていなかったから。  これほどまでに、愛に溺れてしまうことなど考えもしなかったから。  でもいまは、ただあの人が愛おしい。  あれほど敬慕して、崇拝し、尊敬していた姉と争ってでも、あの方の心を手に入れたいという浅ましい想いに捕らわれたただの人と同じになってしまった自分に自嘲する。  いや……愚かなのは私だけではない。  姉もまた私と同じくらいに、あの人を愛しているのだから。  私たちは姉妹そろって愚かなのだ。 「姉様……日和媛……どうか、私亡き後のあの方を……どうか幸せにしてあげてください」  頬を伝う涙は止まることを知らず、地面を濡らしていく。  虚入りをした以上、私はここで成さなければならないことがある。  けれど今だけは、今少しだけは……最後の思い出に浸りたい。  今生の別れを告げ、杯を打ち割ったあの人が、私に向けた悲しみと慈愛の入り交じった瞳を思い出したい。  そしてその刹那に交わされた、声なき想いをかみ締めたい。  だけど贄に選ばれた私には、それほどの時間は残されていないようだった。  漆黒の闇の中から、生臭く粘り着くような空気が湧き上がってくる。 「黄泉醜女よもつしこめ黄泉軍よもついくさこれはこれは熱烈な歓迎……こちらも相応の歓待をせねばならぬな……」  ゆるりと立ち上がる。  右手と左手でそれぞれ異なる印を組む。 「我の肉を食い尽くすとも、この扉は開かぬ……主らをこの先に通すことはあり得ぬ事。さぁとくと戯れようぞ」  あの人には一度も見せたことがない。  冷酷な夜の王の顔。  死を司りし月を冠たる私の、その力を持って根の国からの進行を止める。  月である私が贄に選ばれたときに、なすべき事はそれだった。 「愛しい人……またお逢いしましょう……」  誰にも聞こえないように、私は口中で小さく別れを告げると、左手で組んでいた印より力を放ち、閉ざされていた鉄扉に守護の法をかける。  これで万が一のことがあっても、こやつらが外に出ることは叶わないだろう。  かなり大がかりの術式なので、神ならぬ身には大きく消耗をしてしまうが、私はふらつく足を必死で踏ん張り、虚空から這い出てくる黄泉醜女や黄泉軍と対峙する。  ◇◇◇◇  天空を星が一つ流れていった。  それは長く尾を引きながら、やがてすぅっと消えていった。 (燈月媛……逝ってしまったのですね……)  悲しみを感じるはずもないと思っていたのに、胸に刃が突き立てられたかのような痛みを感じる。  我々は神格より生み出された、人ではないもののはずなのに、何故こうも人に似てしまったのかと自問する。  目的と任務を遂行するためだけなら、このような感情は不要だったはずなのに。  愛情も、悲しみも、苦しみも寂しさも、きっと目的を果たすだけであれば不要、いやむしろ足かせになろう。  なのに何故、私たちはこんな感情を持ってしまったのだろうか。 「貴方には解るのですか……燈月媛。いえ……月読」  流れ星が消えた先に目をやるが、私の問いには誰も答えてくれなかった。   「日和媛ひわひめ……そこに居ますか」    あの人が私を呼ぶ声が聞こえた。  私はすぐさま縁側から部屋へと入る。  そこにはやつれ果て、死を目前にした愛するお方の姿があった。 (燈月……貴方はやはり、この人を連れて、いえこの人と共にいくのですね。私を残して)  悲しみで溢れそうになる涙を、小袖で目頭を押さえることで耐えると、私は愛する人の顔を黙って見つめた。  



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 ガンガンと何かを叩き付ける音が、狭い虚空に響く。  私は被っていた狐をかたどった面をそっと外す。  ひとしずくの涙が頬を流れていく。  何度も繰り返してきたこと。  もう既に経験したことなれど、それでもやはり私の心は深い悲しみと、大きな喪失感で埋め尽くされている。 (やはり変えることは出来なかった……)    いつもの私にはあり得ないような、弱々しい声を漏らす。  自分以外誰もいない場所と解っているから、ついつい本当の感情が漏れてしまう。  ずっと……あの人の側に居たかった。    伴侶に選ばれ、契りを結び、一月余りの短い時間ではあったが、夫婦めのととして過ごすことが出来た。  それで良かったはずだった。  私の望むものは満たされたはずで、憂いなく成すべき役割に就くことが出来ると思っていた。  しかしそれは私自身の都合の良い、希望的憶測でしかなかった。    何度も繰り返したこと、覚悟も決めていた。  だからこそ今回は、今までと同じ懊悩に悩まされることはないだろうと、そう信じていた。  しかしそれは余りにも甘い見立て。  むしろ私は、今までで一番強い未練と喪失と絶望を感じていることを自覚する。 「本当に人の感情とはままならぬものなのですね……」    漆黒の闇。  一条の光すら差し込まぬ密室。  その狭い空間に、自分の声が響きそして消えてく。  それはまるで結ばれたはずなのに、絡み合いすぎて解けず、ゆえに断ち切られた糸のようであった。  恐らく私とあの人が生きる世界を隔てるための扉が、頑強に打ち付けられたのだろう。  やがて僅かに出来た隙間を埋めるため、煮えた鉄が流し込まれて、私の世界は完全に隔絶される。  怖くはない。  このような漆黒の閉所に閉じ込められたことは、怖くはなかった。  ただ二度とあの人と、手を繋ぎ笑い合い、触れあうことが出来ないという事実が恐ろしかった。 「ずっと……ずっとお慕い申し上げておりました……共に過ごせると淡い夢を見てしまいました」  誰にも聞いてもらえない独白。  唯々流れ落ちる涙。  自分自身が言い出したこと。  根の国と中津国を隔てるための儀式。  思い付いたときは名案だと感じた。  自分がこれほどまでに、人に惹かれてしまうなんて予想もしていなかったから。  これほどまでに、愛に溺れてしまうことなど考えもしなかったから。  でもいまは、ただあの人が愛おしい。  あれほど敬慕して、崇拝し、尊敬していた姉と争ってでも、あの方の心を手に入れたいという浅ましい想いに捕らわれたただの人と同じになってしまった自分に自嘲する。  いや……愚かなのは私だけではない。  姉もまた私と同じくらいに、あの人を愛しているのだから。  私たちは姉妹そろって愚かなのだ。 「姉様……日和媛……どうか、私亡き後のあの方を……どうか幸せにしてあげてください」  頬を伝う涙は止まることを知らず、地面を濡らしていく。  虚入りをした以上、私はここで成さなければならないことがある。  けれど今だけは、今少しだけは……最後の思い出に浸りたい。  今生の別れを告げ、杯を打ち割ったあの人が、私に向けた悲しみと慈愛の入り交じった瞳を思い出したい。  そしてその刹那に交わされた、声なき想いをかみ締めたい。  だけど贄に選ばれた私には、それほどの時間は残されていないようだった。  漆黒の闇の中から、生臭く粘り着くような空気が湧き上がってくる。 「黄泉醜女よもつしこめ黄泉軍よもついくさこれはこれは熱烈な歓迎……こちらも相応の歓待をせねばならぬな……」  ゆるりと立ち上がる。  右手と左手でそれぞれ異なる印を組む。 「我の肉を食い尽くすとも、この扉は開かぬ……主らをこの先に通すことはあり得ぬ事。さぁとくと戯れようぞ」  あの人には一度も見せたことがない。  冷酷な夜の王の顔。  死を司りし月を冠たる私の、その力を持って根の国からの進行を止める。  月である私が贄に選ばれたときに、なすべき事はそれだった。 「愛しい人……またお逢いしましょう……」  誰にも聞こえないように、私は口中で小さく別れを告げると、左手で組んでいた印より力を放ち、閉ざされていた鉄扉に守護の法をかける。  これで万が一のことがあっても、こやつらが外に出ることは叶わないだろう。  かなり大がかりの術式なので、神ならぬ身には大きく消耗をしてしまうが、私はふらつく足を必死で踏ん張り、虚空から這い出てくる黄泉醜女や黄泉軍と対峙する。  ◇◇◇◇  天空を星が一つ流れていった。  それは長く尾を引きながら、やがてすぅっと消えていった。 (燈月媛……逝ってしまったのですね……)  悲しみを感じるはずもないと思っていたのに、胸に刃が突き立てられたかのような痛みを感じる。  我々は神格より生み出された、人ではないもののはずなのに、何故こうも人に似てしまったのかと自問する。  目的と任務を遂行するためだけなら、このような感情は不要だったはずなのに。  愛情も、悲しみも、苦しみも寂しさも、きっと目的を果たすだけであれば不要、いやむしろ足かせになろう。  なのに何故、私たちはこんな感情を持ってしまったのだろうか。 「貴方には解るのですか……燈月媛。いえ……月読」  流れ星が消えた先に目をやるが、私の問いには誰も答えてくれなかった。   「日和媛ひわひめ……そこに居ますか」    あの人が私を呼ぶ声が聞こえた。  私はすぐさま縁側から部屋へと入る。  そこにはやつれ果て、死を目前にした愛するお方の姿があった。 (燈月……貴方はやはり、この人を連れて、いえこの人と共にいくのですね。私を残して)  悲しみで溢れそうになる涙を、小袖で目頭を押さえることで耐えると、私は愛する人の顔を黙って見つめた。  



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