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月の見えぬ夜

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 美月は満たされていた。  そのはずなのに何故か今宵は寝付けずに居る。    だから隣で眠る智春を起こさぬように気を使いながら、ゆっくりと布団から外に出る。  ふと眺めると智春の身体にすがりつくようにして眠る咲耶の姿があった。  その二人の姿を美月は少し羨ましく思い眺めてみる。 (これほど素直に思いを表せられる彼女が、羨ましい)  口にすることはできぬ思いを心のなかに浮かべ、複雑な思いを込めた視線でそっと二人を見下ろす。  どのくらいそうしていたのか、彼女の中で諦めの気持ちが勝ったのか、美月はそっと目を伏せて小さく息を吐くと、足音を立てぬように気を配りながらそっと部屋から出た。 「今宵は月さえも見えぬ闇夜……か」  鈴を転がすような声でそう呟く。  その言葉にはどこか寂しげな音が含まれている。  美月は空を見上げていた顔を、ゆっくりと下ろしあたりを眺める。  彼女の探していた人はやはりそこに居た。  板張りの廊下、その先の縁の下にそっち腰掛けて、見えないはずの月を探すように空を見上げている女性。  傍らにおいた蝋燭の光に照らされるそのかんばせは妹の目から見ても美しいと思えた。 (このようなときになっても、いやこのような時だからこそ、より一層その神秘的な面立ちが際立つ。姉妹だと言うのに妬ましいこと……)  胸に小さな棘がチクリと刺さったような感覚がして、美月は顔を小さく顰める。    だがそれも一瞬のこと、如何なる感情を抱いていたとしても大切で切り離せぬ姉のことを思い、悲しい気持ちになる。  その想いのために苦しみ、苦しむがゆえにその神秘的な美しさが増す。  愛おしい姉のその思いを感じ取った美月は足音を立てないように気を配りながらゆっくりと陽女に近づいていく。  陽女はそんな美月の姿に気が付かぬ様子で、手にした盃を飲み干すでもなくゆらゆらと揺らしていた。 「初めて……」  美月が陽女から10歩ほどに近づいた時、突然陽女が口を開いた。 「初めて……主格しゅかくを恨めしく思いました」  その言葉は美月に聞かせる意図なのか、それとも独白なのか。 「姉様……」  美月はその言葉に対して答えるべき言葉が見当たらず、一言そう言うと口をつぐむ。 「主格はこうなることを予想していたのでしょうかね……これほどまでにあの方を恋い慕うように仕向けておきながら」 「そこまで……予想していなかったと、配慮していなかったと……私はそう思います」  陽女の背後に立ち、同じ方向に顔を向けたまま美月は囁くようにそう答える。 「恐らく主格は、わたしたちがこのような思いを抱くとは想像もしていなかったと……そう思いますよ」 「そう……かもしれないわ、でもそれはとても無慈悲で、とても辛いことよ」    視線は交わさずとも、ふたりとも同じ思いを抱いていることが解っていた。  それだけ智春に懸想しようとも、そしてこの先の出来事にどのような結末が訪れようとも、選ばれる人物は決まっていると、二人はそう解っていたのだ。 「姉様……皮肉めいた言葉になったらごめんなさい……でも言わせてほしい」 「なにかしら……美月……」  苦しい口調で陽女に話し掛ける美月。  ようやくそんな美月の方に顔を向けた陽女は儚く微笑んだ。 「……やっと……月に日が勝つのですね……いえ、そういう言い方は卑怯なのかもしれないけど」  美月は声もなく涙を流しながら、どうしても陽女を見ることができずに、涙を堪えるかのように顔を空に向けたまま言う。  月のない、ただ暗い空を見上げて。 「そう……ね。そういうことになるの……ね」  日が勝つと言われたのに、浮かない顔で陽女は言うと、手にしていた盃をゆっくりと美月に差し出す。 「姉妹水入らず……涙酒と行きましょう」  無理矢理に微笑んで陽女は姉としての体裁を保つ。  そうしないとこの繊細で優しい妹は、さらなる悲しみを抱いてしまうとそう思ったから。 「ふふ……姉様の酌でお酒をいただくのは初めて……ありがとう姉様」  流れる涙を止めることができぬまま、それでも美月は精一杯微笑んで姉を見た。 「仕方ないこと……全ては定められた運命なのだから」  誰に言うわけでもなく、その言葉は自分と美月に言い聞かせるような響きを持って、闇夜に溶けていく。  もう良いのだ。  想いも、因縁も、えにしも……全て在るべきところに行き着き、在るべき形になる。  それが定めであり、それが宿命なのだと美月は思った。  だから選ばれるのが月でなくとも、この因縁が始まった頃からずっと続いていた、月と主の蜜月が終わるのもまた、定められたことなのだと、そう思い込むことで飲み込もうと思った。  だから陽女の手から受け取った盃を、迷うことなく一口で飲み干す。  酒とともに流れていけ、この思いも未練も、吐き出したくなる気持ちも全部。  もう一度月のない空を見上げて美月は思った。  月のない空……それは愛するあの男の隣に、自分が居ないことの暗示のように感じられて、美月はまたそっと涙を流した。



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月の見えぬ夜

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 美月は満たされていた。  そのはずなのに何故か今宵は寝付けずに居る。    だから隣で眠る智春を起こさぬように気を使いながら、ゆっくりと布団から外に出る。  ふと眺めると智春の身体にすがりつくようにして眠る咲耶の姿があった。  その二人の姿を美月は少し羨ましく思い眺めてみる。 (これほど素直に思いを表せられる彼女が、羨ましい)  口にすることはできぬ思いを心のなかに浮かべ、複雑な思いを込めた視線でそっと二人を見下ろす。  どのくらいそうしていたのか、彼女の中で諦めの気持ちが勝ったのか、美月はそっと目を伏せて小さく息を吐くと、足音を立てぬように気を配りながらそっと部屋から出た。 「今宵は月さえも見えぬ闇夜……か」  鈴を転がすような声でそう呟く。  その言葉にはどこか寂しげな音が含まれている。  美月は空を見上げていた顔を、ゆっくりと下ろしあたりを眺める。  彼女の探していた人はやはりそこに居た。  板張りの廊下、その先の縁の下にそっち腰掛けて、見えないはずの月を探すように空を見上げている女性。  傍らにおいた蝋燭の光に照らされるそのかんばせは妹の目から見ても美しいと思えた。 (このようなときになっても、いやこのような時だからこそ、より一層その神秘的な面立ちが際立つ。姉妹だと言うのに妬ましいこと……)  胸に小さな棘がチクリと刺さったような感覚がして、美月は顔を小さく顰める。    だがそれも一瞬のこと、如何なる感情を抱いていたとしても大切で切り離せぬ姉のことを思い、悲しい気持ちになる。  その想いのために苦しみ、苦しむがゆえにその神秘的な美しさが増す。  愛おしい姉のその思いを感じ取った美月は足音を立てないように気を配りながらゆっくりと陽女に近づいていく。  陽女はそんな美月の姿に気が付かぬ様子で、手にした盃を飲み干すでもなくゆらゆらと揺らしていた。 「初めて……」  美月が陽女から10歩ほどに近づいた時、突然陽女が口を開いた。 「初めて……主格しゅかくを恨めしく思いました」  その言葉は美月に聞かせる意図なのか、それとも独白なのか。 「姉様……」  美月はその言葉に対して答えるべき言葉が見当たらず、一言そう言うと口をつぐむ。 「主格はこうなることを予想していたのでしょうかね……これほどまでにあの方を恋い慕うように仕向けておきながら」 「そこまで……予想していなかったと、配慮していなかったと……私はそう思います」  陽女の背後に立ち、同じ方向に顔を向けたまま美月は囁くようにそう答える。 「恐らく主格は、わたしたちがこのような思いを抱くとは想像もしていなかったと……そう思いますよ」 「そう……かもしれないわ、でもそれはとても無慈悲で、とても辛いことよ」    視線は交わさずとも、ふたりとも同じ思いを抱いていることが解っていた。  それだけ智春に懸想しようとも、そしてこの先の出来事にどのような結末が訪れようとも、選ばれる人物は決まっていると、二人はそう解っていたのだ。 「姉様……皮肉めいた言葉になったらごめんなさい……でも言わせてほしい」 「なにかしら……美月……」  苦しい口調で陽女に話し掛ける美月。  ようやくそんな美月の方に顔を向けた陽女は儚く微笑んだ。 「……やっと……月に日が勝つのですね……いえ、そういう言い方は卑怯なのかもしれないけど」  美月は声もなく涙を流しながら、どうしても陽女を見ることができずに、涙を堪えるかのように顔を空に向けたまま言う。  月のない、ただ暗い空を見上げて。 「そう……ね。そういうことになるの……ね」  日が勝つと言われたのに、浮かない顔で陽女は言うと、手にしていた盃をゆっくりと美月に差し出す。 「姉妹水入らず……涙酒と行きましょう」  無理矢理に微笑んで陽女は姉としての体裁を保つ。  そうしないとこの繊細で優しい妹は、さらなる悲しみを抱いてしまうとそう思ったから。 「ふふ……姉様の酌でお酒をいただくのは初めて……ありがとう姉様」  流れる涙を止めることができぬまま、それでも美月は精一杯微笑んで姉を見た。 「仕方ないこと……全ては定められた運命なのだから」  誰に言うわけでもなく、その言葉は自分と美月に言い聞かせるような響きを持って、闇夜に溶けていく。  もう良いのだ。  想いも、因縁も、えにしも……全て在るべきところに行き着き、在るべき形になる。  それが定めであり、それが宿命なのだと美月は思った。  だから選ばれるのが月でなくとも、この因縁が始まった頃からずっと続いていた、月と主の蜜月が終わるのもまた、定められたことなのだと、そう思い込むことで飲み込もうと思った。  だから陽女の手から受け取った盃を、迷うことなく一口で飲み干す。  酒とともに流れていけ、この思いも未練も、吐き出したくなる気持ちも全部。  もう一度月のない空を見上げて美月は思った。  月のない空……それは愛するあの男の隣に、自分が居ないことの暗示のように感じられて、美月はまたそっと涙を流した。



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