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忘れえぬ女性(ひと)

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智春ともはる、あぶない!」  そんな声が聞こえた気がした。  えっと思う暇もないくらいすぐに、背中にドンッと衝撃が走り、俺はバランスを崩す。  そして視界がゆっくりと回転して……。  世界が回転し、誰かの叫び声が聞こえて、俺の視界は黒に染まった。 ……………………………………………………………………………………  赤い、いや朱い?  夜空なのに、なんで朱いのだろう。  俺はぼんやりとそう考えた。  はっきりと見えている景色なのに、どこかモヤがかかったように曖昧に感じる。  俺の顔に、何かの雫が当たったような気がする。  すこし鉄のような、それでいて生臭いような匂いが鼻をつく。  朱い雫…  ふと綺麗だと思った。  夜空を舞う椿の花びらのように見えた。  黒の中に舞い遊ぶ赤い花びら。  だけど次の瞬間に見えた光景が、俺のそんな気分を一瞬にしてかき消す。  女の人が俺に手を差し出しながら、何かを言おうと口を動かしている。  だけどその声は届かない。  そもそも、その女の人はおそらく声を出す事すら出来ていないはず。  だって彼女の喉は、月の光を反射する鈍色の何かに貫かれていたのだから。  そして赤い花びらは、彼女の喉から生み出されて、宙を舞っていたのだから。  俺は重力に引かれるように、ドンドンと落下しているのを感じる。  彼女との距離は絶望的なくらいに離れている。  なのに何故か、俺の目には彼女の姿がはっきりと見えていた。  いきて……ください、朋胤さま  声なきはずの彼女の声が聞こえた気がした。  そして俺は、絶叫した。  ………………………………………………………………………………………… 「うわぁぁぁぁ!」  自分の叫び声で、俺は意識を取り戻した。  そしてここはあの闇夜でも、椿の花が夜空を彩っていたあの場所でもないと気づく。  白い天井、白い壁。  殺風景で無機質な部屋。  ここはどこだろうとふと考える。  その時左足からけっこうな痛みが走った。  思い出した。  俺の名前は明神 智春みょうじんともはる。  星陵大付属黎浪学園せいりょうだいふぞくれいろうがくえんの2年生。  そして昼休みに学食に行こうと階段を降りているところ、誰かに危ないと言われた事とその後に凄い衝撃を背中に感じた事まで思い出した。  おそらくあのまま階段から転落して、そして足の痛みから骨折したのだろうと推察する。 「参ったなぁ……」  誰もいない部屋だと解っているから、大きな声でぼやく。  なんであんな所で、このタイミングで階段落ちを経験しなければならないんだろう。  軽く怒りを覚えて、大声を出しそうになり、ふと先ほど見た夢を思い出した。  アレは何だったのかと、細部をおもいだそうと必死になる。  出てきた女性に見覚えはない。  生まれてこの方、あれほどに美しくて儚くて、悲しそうな人を見た記憶がない。  ならあの人は誰なのだろうか、夢に出てきた人物の事を詮索しても仕方ないのだけど、俺はどうしてもあの人の姿が気になって仕方なかった。  なんと言えば良いのだろう、例えるのが難しいのだけれども、ただの夢と一笑に付してしまうには、あまりにも鮮烈でありそして、あまりにも胸が苦しくなったからだろう。  まるであの女性に逢った事があり、そしてあの状景を体験した事があるかのように、心が締め付けられて、訳もなく悲しくなり、そして胸の奥で小さな火がチロチロと燃えているような、そんな不快さを覚えてしまったのだ。 (朋胤……、あの女性は朋胤と言っていた。誰の事だろう)  女性の事が気になり、そして彼女が口にした朋胤という名前が妙に引っかかった。  喉元まで出かかっている言葉が出てこないような、そんなもどかしさすら感じる。  怪我をして病院に入院したというのに、何故こんな事に煩わされなければならないのかと、俺は今日だけで何回目になるのか解らないため息を吐いた。  



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智春ともはる、あぶない!」  そんな声が聞こえた気がした。  えっと思う暇もないくらいすぐに、背中にドンッと衝撃が走り、俺はバランスを崩す。  そして視界がゆっくりと回転して……。  世界が回転し、誰かの叫び声が聞こえて、俺の視界は黒に染まった。 ……………………………………………………………………………………  赤い、いや朱い?  夜空なのに、なんで朱いのだろう。  俺はぼんやりとそう考えた。  はっきりと見えている景色なのに、どこかモヤがかかったように曖昧に感じる。  俺の顔に、何かの雫が当たったような気がする。  すこし鉄のような、それでいて生臭いような匂いが鼻をつく。  朱い雫…  ふと綺麗だと思った。  夜空を舞う椿の花びらのように見えた。  黒の中に舞い遊ぶ赤い花びら。  だけど次の瞬間に見えた光景が、俺のそんな気分を一瞬にしてかき消す。  女の人が俺に手を差し出しながら、何かを言おうと口を動かしている。  だけどその声は届かない。  そもそも、その女の人はおそらく声を出す事すら出来ていないはず。  だって彼女の喉は、月の光を反射する鈍色の何かに貫かれていたのだから。  そして赤い花びらは、彼女の喉から生み出されて、宙を舞っていたのだから。  俺は重力に引かれるように、ドンドンと落下しているのを感じる。  彼女との距離は絶望的なくらいに離れている。  なのに何故か、俺の目には彼女の姿がはっきりと見えていた。  いきて……ください、朋胤さま  声なきはずの彼女の声が聞こえた気がした。  そして俺は、絶叫した。  ………………………………………………………………………………………… 「うわぁぁぁぁ!」  自分の叫び声で、俺は意識を取り戻した。  そしてここはあの闇夜でも、椿の花が夜空を彩っていたあの場所でもないと気づく。  白い天井、白い壁。  殺風景で無機質な部屋。  ここはどこだろうとふと考える。  その時左足からけっこうな痛みが走った。  思い出した。  俺の名前は明神 智春みょうじんともはる。  星陵大付属黎浪学園せいりょうだいふぞくれいろうがくえんの2年生。  そして昼休みに学食に行こうと階段を降りているところ、誰かに危ないと言われた事とその後に凄い衝撃を背中に感じた事まで思い出した。  おそらくあのまま階段から転落して、そして足の痛みから骨折したのだろうと推察する。 「参ったなぁ……」  誰もいない部屋だと解っているから、大きな声でぼやく。  なんであんな所で、このタイミングで階段落ちを経験しなければならないんだろう。  軽く怒りを覚えて、大声を出しそうになり、ふと先ほど見た夢を思い出した。  アレは何だったのかと、細部をおもいだそうと必死になる。  出てきた女性に見覚えはない。  生まれてこの方、あれほどに美しくて儚くて、悲しそうな人を見た記憶がない。  ならあの人は誰なのだろうか、夢に出てきた人物の事を詮索しても仕方ないのだけど、俺はどうしてもあの人の姿が気になって仕方なかった。  なんと言えば良いのだろう、例えるのが難しいのだけれども、ただの夢と一笑に付してしまうには、あまりにも鮮烈でありそして、あまりにも胸が苦しくなったからだろう。  まるであの女性に逢った事があり、そしてあの状景を体験した事があるかのように、心が締め付けられて、訳もなく悲しくなり、そして胸の奥で小さな火がチロチロと燃えているような、そんな不快さを覚えてしまったのだ。 (朋胤……、あの女性は朋胤と言っていた。誰の事だろう)  女性の事が気になり、そして彼女が口にした朋胤という名前が妙に引っかかった。  喉元まで出かかっている言葉が出てこないような、そんなもどかしさすら感じる。  怪我をして病院に入院したというのに、何故こんな事に煩わされなければならないのかと、俺は今日だけで何回目になるのか解らないため息を吐いた。  



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