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3.幽鬼からの使者-1

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 スーリンに追い立てられるようにして、ルイフォンとメイシアは店の外に出された。その際、メイシアがシャオリエに挨拶をしていきたいと言ったのだが、あいにく来客中だとかで叶わなかった。  来客というのは嘘だろう。――ルイフォンは、そう疑う。  今回のことはシャオリエが引っ掻き回していたのは明らかで、だから、文句を言われたくなくて隠れているのだ。  とはいえ、初めはシャオリエに激怒したものの、今ではこれでよかったのだと、ルイフォンも思っている。掌の上で踊らされたようでむかつくが、シャオリエは妙手を打った。  感謝すべきなのかもしれない。――礼など言いたくはないが。だから、顔を合わせずにすんでほっとしているのは、彼のほうかもしれなかった。  そして。それよりも。  ルイフォンの心を占めるのは、スーリンからもたらされた、新たなる衝撃。  ――異父姉セレイエが、〈天使〉だった。  しかも、抜け殻のようだった時期のルイフォンに会いに来て、〈天使〉の羽で彼に何かをしたという。  頭の中が、そのことでいっぱいになる……。  メイシアは、心ここにあらずのルイフォンの後ろを遠慮がちに歩いていた。煉瓦の敷石にして、数枚分ほど遅れた距離である。  蔦を這わせたアーチをくぐり抜け、シャオリエご自慢のアンティーク調の建物が見えなくなったあたりで、彼女は思い切ったように駆け寄り、ルイフォンの袖を引いた。 「ん? なんだ?」  そう応じたものの、彼はうわの空である。 「あの、ごめんなさい。……ルイフォンがショックを受けているのは分かるけど、気をつけないと……」  このあたりは治安が悪いから。そういうことだろう。 「……ああ」  頭を切り替えるべきだなと、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。 「あ、あの、ね」  うつむき加減だったメイシアが、唐突に、ぐっとルイフォンを見上げた。長い黒絹の髪がさらさらと後ろに流れ、久しく直視できなかった顔があらわになる。  眉の下がった弱り顔からは、話しかけることをためらい、けれども懸命に声を掛けた――そんな心の葛藤がありありと読み取れた。彼女は、彼の袖を必死に握りしめる。どこにも行かないで、と言うように。  その表情に、どきりとした。 「ルイフォンが来てくれて、嬉しかった。ありがとう。……喧嘩して、ごめんなさい。……それから、あのっ。屋敷に戻ったら、一緒にいろいろ考えさせてほしいの。私で役に立つか分からないけど……」  ひと息に言って、じっとルイフォンを見つめる。黒曜石の瞳が自信なさげに揺れていた。彼が怒っていないかと、不安なのだ。  次の瞬間、ルイフォンの腕は、彼が意識するよりも先に、勝手に彼女を抱きしめていた。「きゃっ」という、小さな悲鳴など、耳に入らない。  ――何をひとりで考え込んでいたのだろう。  彼には、彼女が居る。何よりも大切な、最愛のメイシアが。 「俺のほうこそ、悪かった」 「ううん。私がルイフォンのことを分かっていなかったの」  腕の中で、メイシアがふるふると首を振る。申し訳なさそうに萎縮して。  そんな顔は不要だ。それより、彼女には笑顔が似合う。 「お互い様、ってことで、喧嘩は終わりにしようぜ」  頭上に広がる青空のように、ルイフォンの声が朗らかに突き抜けた。メイシアが、こくりと頷き、「はい」と微笑む。  まったく違う世界から飛び込んできてくれた彼女。すれ違うこともあるけれど、こうやって分かり合っていけばいい。  ルイフォンは満ち足りた気持ちで息をつくと、腕の中の彼女を解放した。  ――と、そのとき。メイシアの手が、ルイフォンの首へと伸びてきた。  えっ? と思ったときには、背伸びした彼女が、彼の耳たぶに唇を寄せていた。 「好き、なの。ルイフォンが。……だから、喧嘩して、ルイフォンのそばにいられなかったのが、凄く辛かったの……」  そう囁き、真っ赤になって彼から離れる。 「メイシア!?」  いったい、どうした?   ルイフォンは激しく動揺するが、すぐに気づく。  スーリンだ。彼女に何か、吹き込まれたのだ……。  ――しかし、こういうことなら大歓迎である。  ルイフォンは、半歩下がったところにいるメイシアに手を伸ばし、引き寄せた。 「俺も、お前がそばにいないのは辛かった。……だから、さ――」  彼女の肩を抱き、横に並ばせる。 「――お前の居場所はここだろ?」  彼のテノールの響きにあわせ、彼女が極上の笑顔をこぼした。  シャオリエの店の付近は、貴族シャトーアもお忍びで遊びに来るような特別区で、小奇麗に飾り立てられた遊興施設が連なっている。そこから貧民街の方向に抜けると、別世界のように荒れた廃墟となり、急速に治安が悪くなる。  だが、ルイフォンが向かっているのは繁華街の中心部だ。少々、雰囲気の悪い道を通過せねばならないが、彼ひとりなら、まず狙われることはない。  だから、つい、いつもの習慣で歩いてきてしまった。しかし、メイシアを連れているなら、店から車を使うべきだったのだ。  今更、後悔しても遅い。  ひと目でこのあたりの自由民スーイラと分かる、ゴロツキ然とした男がやってきた。極上の獲物を見つけたと、下衆な笑みを隠しもしない。ごみ箱から漁ってきたようなボロボロのシャツを身につけ、近づいてきただけで不潔感からくる異臭が漂う。 「小僧。いい女、連れてんなぁ」  ねとつく目線が、メイシアを舐める。脅えた彼女から、血の気が引いていくのが分かった。  話の通じるような相手ではない。メイシアの前で荒事をしたくはないが、先手必勝だ。  ルイフォンは無言のまま、しなやかに体をかがめて一歩踏み込み、低い位置から一気に相手の喉元に掌底を喰らわせる。 「うぐっ!?」  喉仏を正確に狙った一撃に、相手の男はひとたまりもなかった。その場にしゃがみこみ、砂まみれの地面に手をつき、激しく咳き込む。  ルイフォンは、すかさず相手の腹に蹴りを入れた――というところで、彼は、はっと気づく。  数人の男たちが、行く手を阻んでいた。そして、背後にも幾人か……。その全員が、刃の欠けたナイフやら鉄パイプやらで武装している。 「気をつけろ! あいつ、餓鬼のくせにやるぞ!」 「だが、あの上玉を見逃す手はねぇ」 「全員で行けば大丈夫だ!」 「女を狙え!」  ぎらぎらとした獣の目が、メイシアを襲う。  ルイフォンは戦慄した。彼女の細い腰を引き寄せ、緊張の面持ちで敵を見据える。  ふたりは完全に囲まれていた。そして、彼我ひがの距離は、じりじりと狭まってくる。  突破できないことはない。  だが、多勢に無勢のこの状況で、メイシアに指一本、触れさせずに切り抜けることは……。  ルイフォンが、ごくりと唾を呑んだ。――そのときだった。 「お前ら!」  野太い声が響いた。  続いて、圧倒的な存在感を持った巨躯が、路地からぬっと現れる。 「誰だ、おま……」  男たちのひとりが誰何すいかするも、その声は途中で途切れた。  それは、彼らの『狩り』に水を差す、無粋な乱入者の顔を見知っていたためではない。――『知る必要がない』ことを、瞬時に悟ったからであった。  乱入者は、腰にいた大刀をすらりと抜きながら、悠々と歩いてきた。  見るからに重量のある幅広の刃を軽々と振り上げる。緩やかに頭上に掲げたかと思ったら、それを竜巻のように回転させ、鋭い風切り音をうならせた。 「凶賊ダリジィン……」  強さを誇示し、余計な争いごとを避けるための刀技だということを、自由民スーイラの男たちはおそらく知らないだろう。しかし、自分たちがこの大男の足元にも及ばないことは理解できる。すなわち、関わるべきでない相手だということを。  腰の引けた男たちが後ずさる。大男の歩みと共に一定の距離を保って下がっていくさまは、まるで大男に弾き飛ばされているかのようで滑稽であった。  ルイフォンとメイシアを囲んでいた輪はいつの間にか消え去り、大男が悠然と近づいてきた。  よく陽に焼けた浅黒い肌。意思の強そうな太い眉。刈り上げた短髪と額の間に、赤いバンダナがきつく巻かれている。  大刀がひときわ激しくうなりを上げ、ルイフォンの前でぴたりと止まった。勢いに乗っていたはずの刃が微動だにしない。筋骨隆々とした太い腕のせる技であった。 「前も、こんなふうに出会ったな。――斑目タオロン」  ルイフォンが口にした『斑目』の名に、男たちがどよめく。それを受け、タオロンが男たちを威圧するように瞳を巡らせた。 「お前らが狙っていた獲物は、鷹刀ルイフォンだ。知っていたか?」 「な……、何っ!? ――『鷹刀』……?」  今まで、ルイフォンを餓鬼と侮っていた男たちが一気に蒼白になった。  タオロンは大刀をくるりと旋回させ、鞘に収める。その視線は、まっすぐにルイフォンに向けられていた。  何故、突然タオロンが現れたのか――。  理由は分からぬが、この登場の仕方は、偶然などではない。タオロンは、ルイフォンとの接触の機会を待っていたのだ。  情報屋によると、タオロンは〈ムスカ〉の強い要望によって、事実上〈ムスカ〉の部下のような立場になったらしい。  ――つまり、〈ムスカ〉が動いた、ということになるのか……?  ルイフォンの猫の目がすっと細まり、緊張と興奮がないまぜになる。  彼にとって、自由民スーイラの男たちなど、もはや目障りなだけの、どうでもいい雑魚であった。とっとと追い払って、タオロンと話を進めるに限る。  ルイフォンは男たちを睥睨し、挑発するように嗤った。 「お前たちの中に、鷹刀と斑目の争いにくちばしを突っ込む、勇気のある奴はいるか?」  タオロンとの因縁は『鷹刀と斑目の争い』ではないのだが、この際、そうしておいたほうが脅しの効果が高いだろう。彼の意図を読み取ったのか、タオロンも深々と頷いた。 「お前らの獲物を横取りするようで悪いが、こいつを俺に譲ってほしい」  そう言って、一歩前に出る。言葉の上では下手したてに出ているが、鋭い眼光が『従わなければ、まずお前らを斬る』と雄弁に物語っていた。 「ど、どうぞ、ご自由に!」 「すまんな。では、お前らは外してくれ」 「はっ、はいぃ!」  男たちは散り散りになって逃げ出した。初めにルイフォンに倒された男も、仲間に引きずられながら、なんとか退散していく。  すっかり男たちの姿が見えなくなったのを確認すると、ルイフォンは改めてタオロンと向き合った。 「お前のおかげで助かったようなもんだな。とりあえず、礼を言っておく」  それで、なんの用件だ、と切り出そうとしたときだった。  ざっと音を立て、空気が動いた。 「!?」  気づいたら――。  ……タオロンが、足元で土下座していた。 「タ、タオロン!?」  ルイフォンは仰天した。  タオロンの巨躯が、力いっぱい地面に伏している。勢いよく地べたに頭をこすりつけたためか、刈り上げた短髪が土埃と砂をかぶっていた。  ……理解できない。  むしろ、不意に襲いかかられたほうが、よほど納得できた。  タオロンは、無言で頭を下げ続けた。風に巻かれた土埃になぶられても、微動だにしない。 「おい、なんの真似だよ?」  不可解な状況に焦れて、ルイフォンが尋ねる。 「俺が、何をどう謝罪しても、それは言い訳にしかならない」 「謝罪?」  更なる疑問に、ルイフォンは眉を寄せる。 「自己満足でしかないのは分かっている。だが、頭を下げさせてくれ」  いったい、なんだと言うのだろう?  最後にタオロンと会ったのは、メイシアの父コウレンを救出するために、斑目一族の別荘に潜入したときだ。  あのとき既に、コウレンは厳月家の当主の〈影〉にされてしまっていた。そのことを知っていたタオロンは、いわば『偽者』であるコウレンを連れ帰らせまいと、殺害しようとした。――凶賊ダリジィンの誇りを捨て、銃を使ってまでして……。 「もしかして、メイシアの親父さんが〈影〉にされたことを、斑目の一員として責任を感じているのか……?」 「ああ。あの技術は、人として許されねぇ。……〈七つの大罪〉と関わるのは、人間をやめるのと同じだ」  タオロンは、そう言い捨てた。 「タオロンさんが悪いわけではないでしょう……?」  一歩下がったところで、遠慮がちに見守っていたメイシアが口を開く。たおやかでありながらも、凛と響く鈴の音に、しかし、タオロンはうつむいたまま、首を左右に振る。 「俺は、お前にそんなふうに言ってもらえる資格なんてねぇ……。どうしようもねぇ、最低野郎なんだ……」  タオロンは、拳を地面に打ち付けた。ただならぬ様子に、メイシアが「タオロンさん?」と、不審の声を上げるも、彼はそれを聞き流す。 「お前らに会いに来た用件を言おう……」  歯切れ悪くそう言い、タオロンはゆっくりと立ち上がった。 「まず、はじめに。死んだホンシュアという〈天使〉からの伝言だ。――あの女は、お前らに謝りたいと言っていた」 「――!?」  予想外のことに、ルイフォンとメイシアは顔を見合わせた。 「本来の計画では、藤咲メイシアの父親が〈影〉にされることはなかったそうだ。それが、自分の考えの甘さから〈ムスカ〉を暴走させ、〈天使〉の力を悪用させてしまった。なんと詫びたらよいか分からない、と」  太い声が、淡々と告げる。 「〈ムスカ〉に与えられた〈天使〉は自分で最後だから、自分が死ねば、〈ムスカ〉は〈天使〉を使えない。それで安心できるかどうか分からないが、ひとつの情報として、お前らに伝えて欲しい、そう言われた」  タオロンは、そこで言葉を切った。  そして、太い眉を寄せ、突き刺さらんばかりの真剣な眼差しをルイフォンに向ける。 「『ルイフォン、あなたが幸せになる道を選んで』――それが、あの女の……遺言だった」 「…………っ」  何を言えばいいのか。何を感じればいいのか。まるで分からない。  ホンシュアは、セレイエの〈影〉だ。またしても、セレイエだ。  支離滅裂な情報が乱雑に押し込まれ、思考が飽和状態だ。耳鳴りがして、ルイフォンは頭を抱え込む。 「ルイフォン……」  メイシアが彼の顔を覗き込み、ぎゅっと彼の手を握った。 「……ああ、大丈夫だ」  ルイフォンもまた、手を握り返す。  見栄かもしれない。だが、彼女がそばにいれば、平気だと答えられる。彼女がそばにいることが、彼を強くする……。  タオロンは、その場を動かぬまま、そっと背を向けた。  薄汚いこの道を囲う灰色の塀を見るともなしに見やり、彼は息をつく。そして、ふと思い立ったように頭の赤いバンダナに触れ、結び目をきつく結び直した。  それから彼は、意を決したように太い眉に力を入れると、体を半回転させて再びルイフォンたちと向き合う。ざりっと、砂を踏む音を大きく響かせたのは、彼らの注意を自分に促すためだった。 「そして、次の――本来の用件だ。……俺は、〈ムスカ〉の命令で……藤咲メイシア、お前を捕らえに来た………」  苦しげに呻くように、タオロンは吐き捨てた。  ルイフォンの心臓が跳ね上がり、メイシアを背中に庇う。  以前、タオロンと対峙したときは、シャオリエから貰った筋弛緩剤があった。だから、かろうじてタオロンを倒せた。けれど、純粋な戦闘では、万にひとつも勝ち目はない……。  ルイフォンの額を冷や汗が流れる。 「すまん……、本当に……。俺は〈ムスカ〉の手下だ。〈七つの大罪〉に加担しているも同然だ」  悲痛な声が響いた。  単純明快なタオロンが、自分の意に沿わない行動をする理由は、ただひとつ。愛娘ファンルゥのため。人質になっているのだろう。  だから、絶対に引くことができない。  タオロンは腰の大刀を抜き、構える。 「鷹刀ルイフォン。俺は、お前にも藤咲メイシアにも、怪我をさせたくない。だから、本当は『黙って従ってくれ』と言いたい。……だが、お前相手に、それは無意味だと分かっている」 「タオロン……」 「……本気で行くぞ!」  刹那、タオロンの闘気が膨れ上がった。近くにいるだけで、背筋を悪寒が突き抜ける。 「メイシア、下がれ! お前は逃げろ!」  足のすくんでいる彼女を、半ば押し出すようにして、後ろに追いやった。  敵う相手ではない。だから、真っ向から勝負してはならない。  ルイフォンは懐から、いつも携帯しているナイフを取り出した。  接近戦用の武器だ。しかし、彼我ひがの力量を考えれば、近づいたら確実にやられる。前回は硝子の街灯に投げて、破片をばらまいた。だが、同じ手は二度、使えまい。  だから今度は、素直に相手に向かって投げる。ただし、正面からはぶつからない。  身の軽さを活かし、塀を蹴って高く跳ねる。できれば、奴の背後に回り込み、奇襲をかけるように、死角をついて……。  ――一撃必殺だ。弾かれたら次の手はない……。  ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。 「ル、ルイフォン、待って!」  背後からメイシアが叫んだ。 「早く、逃げろ!」 「ううん。〈ムスカ〉は私を『捕らえろ』と言ったの! 私の命は保証されている。だから、私、タオロンさんについていって、〈ムスカ〉の居場所をつきとめる!」 「駄目だ!」  ルイフォンが、そう叫び返したときだった。 「そろそろ、私の出番ということで、いいか?」  笑いを含んだ声が、灰色の塀の裏側から聞こえてきた。男であるなら高めだが、女声のアルトにしては、やや低い。  声の主は、長い足を綺麗に揃え、ひらりと塀を乗り越えた。音も立てずに地面に降り立つさまは優美であり、ふわりと舞う土埃さえ、華麗な演出の一部に見える。 「シャンリー様!」  メイシアが叫んだ。  それは、繁華街を訪れるにあたり、彼女が依頼した護衛の名前だった。



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 スーリンに追い立てられるようにして、ルイフォンとメイシアは店の外に出された。その際、メイシアがシャオリエに挨拶をしていきたいと言ったのだが、あいにく来客中だとかで叶わなかった。  来客というのは嘘だろう。――ルイフォンは、そう疑う。  今回のことはシャオリエが引っ掻き回していたのは明らかで、だから、文句を言われたくなくて隠れているのだ。  とはいえ、初めはシャオリエに激怒したものの、今ではこれでよかったのだと、ルイフォンも思っている。掌の上で踊らされたようでむかつくが、シャオリエは妙手を打った。  感謝すべきなのかもしれない。――礼など言いたくはないが。だから、顔を合わせずにすんでほっとしているのは、彼のほうかもしれなかった。  そして。それよりも。  ルイフォンの心を占めるのは、スーリンからもたらされた、新たなる衝撃。  ――異父姉セレイエが、〈天使〉だった。  しかも、抜け殻のようだった時期のルイフォンに会いに来て、〈天使〉の羽で彼に何かをしたという。  頭の中が、そのことでいっぱいになる……。  メイシアは、心ここにあらずのルイフォンの後ろを遠慮がちに歩いていた。煉瓦の敷石にして、数枚分ほど遅れた距離である。  蔦を這わせたアーチをくぐり抜け、シャオリエご自慢のアンティーク調の建物が見えなくなったあたりで、彼女は思い切ったように駆け寄り、ルイフォンの袖を引いた。 「ん? なんだ?」  そう応じたものの、彼はうわの空である。 「あの、ごめんなさい。……ルイフォンがショックを受けているのは分かるけど、気をつけないと……」  このあたりは治安が悪いから。そういうことだろう。 「……ああ」  頭を切り替えるべきだなと、ルイフォンは癖のある前髪をくしゃりと掻き上げる。 「あ、あの、ね」  うつむき加減だったメイシアが、唐突に、ぐっとルイフォンを見上げた。長い黒絹の髪がさらさらと後ろに流れ、久しく直視できなかった顔があらわになる。  眉の下がった弱り顔からは、話しかけることをためらい、けれども懸命に声を掛けた――そんな心の葛藤がありありと読み取れた。彼女は、彼の袖を必死に握りしめる。どこにも行かないで、と言うように。  その表情に、どきりとした。 「ルイフォンが来てくれて、嬉しかった。ありがとう。……喧嘩して、ごめんなさい。……それから、あのっ。屋敷に戻ったら、一緒にいろいろ考えさせてほしいの。私で役に立つか分からないけど……」  ひと息に言って、じっとルイフォンを見つめる。黒曜石の瞳が自信なさげに揺れていた。彼が怒っていないかと、不安なのだ。  次の瞬間、ルイフォンの腕は、彼が意識するよりも先に、勝手に彼女を抱きしめていた。「きゃっ」という、小さな悲鳴など、耳に入らない。  ――何をひとりで考え込んでいたのだろう。  彼には、彼女が居る。何よりも大切な、最愛のメイシアが。 「俺のほうこそ、悪かった」 「ううん。私がルイフォンのことを分かっていなかったの」  腕の中で、メイシアがふるふると首を振る。申し訳なさそうに萎縮して。  そんな顔は不要だ。それより、彼女には笑顔が似合う。 「お互い様、ってことで、喧嘩は終わりにしようぜ」  頭上に広がる青空のように、ルイフォンの声が朗らかに突き抜けた。メイシアが、こくりと頷き、「はい」と微笑む。  まったく違う世界から飛び込んできてくれた彼女。すれ違うこともあるけれど、こうやって分かり合っていけばいい。  ルイフォンは満ち足りた気持ちで息をつくと、腕の中の彼女を解放した。  ――と、そのとき。メイシアの手が、ルイフォンの首へと伸びてきた。  えっ? と思ったときには、背伸びした彼女が、彼の耳たぶに唇を寄せていた。 「好き、なの。ルイフォンが。……だから、喧嘩して、ルイフォンのそばにいられなかったのが、凄く辛かったの……」  そう囁き、真っ赤になって彼から離れる。 「メイシア!?」  いったい、どうした?   ルイフォンは激しく動揺するが、すぐに気づく。  スーリンだ。彼女に何か、吹き込まれたのだ……。  ――しかし、こういうことなら大歓迎である。  ルイフォンは、半歩下がったところにいるメイシアに手を伸ばし、引き寄せた。 「俺も、お前がそばにいないのは辛かった。……だから、さ――」  彼女の肩を抱き、横に並ばせる。 「――お前の居場所はここだろ?」  彼のテノールの響きにあわせ、彼女が極上の笑顔をこぼした。  シャオリエの店の付近は、貴族シャトーアもお忍びで遊びに来るような特別区で、小奇麗に飾り立てられた遊興施設が連なっている。そこから貧民街の方向に抜けると、別世界のように荒れた廃墟となり、急速に治安が悪くなる。  だが、ルイフォンが向かっているのは繁華街の中心部だ。少々、雰囲気の悪い道を通過せねばならないが、彼ひとりなら、まず狙われることはない。  だから、つい、いつもの習慣で歩いてきてしまった。しかし、メイシアを連れているなら、店から車を使うべきだったのだ。  今更、後悔しても遅い。  ひと目でこのあたりの自由民スーイラと分かる、ゴロツキ然とした男がやってきた。極上の獲物を見つけたと、下衆な笑みを隠しもしない。ごみ箱から漁ってきたようなボロボロのシャツを身につけ、近づいてきただけで不潔感からくる異臭が漂う。 「小僧。いい女、連れてんなぁ」  ねとつく目線が、メイシアを舐める。脅えた彼女から、血の気が引いていくのが分かった。  話の通じるような相手ではない。メイシアの前で荒事をしたくはないが、先手必勝だ。  ルイフォンは無言のまま、しなやかに体をかがめて一歩踏み込み、低い位置から一気に相手の喉元に掌底を喰らわせる。 「うぐっ!?」  喉仏を正確に狙った一撃に、相手の男はひとたまりもなかった。その場にしゃがみこみ、砂まみれの地面に手をつき、激しく咳き込む。  ルイフォンは、すかさず相手の腹に蹴りを入れた――というところで、彼は、はっと気づく。  数人の男たちが、行く手を阻んでいた。そして、背後にも幾人か……。その全員が、刃の欠けたナイフやら鉄パイプやらで武装している。 「気をつけろ! あいつ、餓鬼のくせにやるぞ!」 「だが、あの上玉を見逃す手はねぇ」 「全員で行けば大丈夫だ!」 「女を狙え!」  ぎらぎらとした獣の目が、メイシアを襲う。  ルイフォンは戦慄した。彼女の細い腰を引き寄せ、緊張の面持ちで敵を見据える。  ふたりは完全に囲まれていた。そして、彼我ひがの距離は、じりじりと狭まってくる。  突破できないことはない。  だが、多勢に無勢のこの状況で、メイシアに指一本、触れさせずに切り抜けることは……。  ルイフォンが、ごくりと唾を呑んだ。――そのときだった。 「お前ら!」  野太い声が響いた。  続いて、圧倒的な存在感を持った巨躯が、路地からぬっと現れる。 「誰だ、おま……」  男たちのひとりが誰何すいかするも、その声は途中で途切れた。  それは、彼らの『狩り』に水を差す、無粋な乱入者の顔を見知っていたためではない。――『知る必要がない』ことを、瞬時に悟ったからであった。  乱入者は、腰にいた大刀をすらりと抜きながら、悠々と歩いてきた。  見るからに重量のある幅広の刃を軽々と振り上げる。緩やかに頭上に掲げたかと思ったら、それを竜巻のように回転させ、鋭い風切り音をうならせた。 「凶賊ダリジィン……」  強さを誇示し、余計な争いごとを避けるための刀技だということを、自由民スーイラの男たちはおそらく知らないだろう。しかし、自分たちがこの大男の足元にも及ばないことは理解できる。すなわち、関わるべきでない相手だということを。  腰の引けた男たちが後ずさる。大男の歩みと共に一定の距離を保って下がっていくさまは、まるで大男に弾き飛ばされているかのようで滑稽であった。  ルイフォンとメイシアを囲んでいた輪はいつの間にか消え去り、大男が悠然と近づいてきた。  よく陽に焼けた浅黒い肌。意思の強そうな太い眉。刈り上げた短髪と額の間に、赤いバンダナがきつく巻かれている。  大刀がひときわ激しくうなりを上げ、ルイフォンの前でぴたりと止まった。勢いに乗っていたはずの刃が微動だにしない。筋骨隆々とした太い腕のせる技であった。 「前も、こんなふうに出会ったな。――斑目タオロン」  ルイフォンが口にした『斑目』の名に、男たちがどよめく。それを受け、タオロンが男たちを威圧するように瞳を巡らせた。 「お前らが狙っていた獲物は、鷹刀ルイフォンだ。知っていたか?」 「な……、何っ!? ――『鷹刀』……?」  今まで、ルイフォンを餓鬼と侮っていた男たちが一気に蒼白になった。  タオロンは大刀をくるりと旋回させ、鞘に収める。その視線は、まっすぐにルイフォンに向けられていた。  何故、突然タオロンが現れたのか――。  理由は分からぬが、この登場の仕方は、偶然などではない。タオロンは、ルイフォンとの接触の機会を待っていたのだ。  情報屋によると、タオロンは〈ムスカ〉の強い要望によって、事実上〈ムスカ〉の部下のような立場になったらしい。  ――つまり、〈ムスカ〉が動いた、ということになるのか……?  ルイフォンの猫の目がすっと細まり、緊張と興奮がないまぜになる。  彼にとって、自由民スーイラの男たちなど、もはや目障りなだけの、どうでもいい雑魚であった。とっとと追い払って、タオロンと話を進めるに限る。  ルイフォンは男たちを睥睨し、挑発するように嗤った。 「お前たちの中に、鷹刀と斑目の争いにくちばしを突っ込む、勇気のある奴はいるか?」  タオロンとの因縁は『鷹刀と斑目の争い』ではないのだが、この際、そうしておいたほうが脅しの効果が高いだろう。彼の意図を読み取ったのか、タオロンも深々と頷いた。 「お前らの獲物を横取りするようで悪いが、こいつを俺に譲ってほしい」  そう言って、一歩前に出る。言葉の上では下手したてに出ているが、鋭い眼光が『従わなければ、まずお前らを斬る』と雄弁に物語っていた。 「ど、どうぞ、ご自由に!」 「すまんな。では、お前らは外してくれ」 「はっ、はいぃ!」  男たちは散り散りになって逃げ出した。初めにルイフォンに倒された男も、仲間に引きずられながら、なんとか退散していく。  すっかり男たちの姿が見えなくなったのを確認すると、ルイフォンは改めてタオロンと向き合った。 「お前のおかげで助かったようなもんだな。とりあえず、礼を言っておく」  それで、なんの用件だ、と切り出そうとしたときだった。  ざっと音を立て、空気が動いた。 「!?」  気づいたら――。  ……タオロンが、足元で土下座していた。 「タ、タオロン!?」  ルイフォンは仰天した。  タオロンの巨躯が、力いっぱい地面に伏している。勢いよく地べたに頭をこすりつけたためか、刈り上げた短髪が土埃と砂をかぶっていた。  ……理解できない。  むしろ、不意に襲いかかられたほうが、よほど納得できた。  タオロンは、無言で頭を下げ続けた。風に巻かれた土埃になぶられても、微動だにしない。 「おい、なんの真似だよ?」  不可解な状況に焦れて、ルイフォンが尋ねる。 「俺が、何をどう謝罪しても、それは言い訳にしかならない」 「謝罪?」  更なる疑問に、ルイフォンは眉を寄せる。 「自己満足でしかないのは分かっている。だが、頭を下げさせてくれ」  いったい、なんだと言うのだろう?  最後にタオロンと会ったのは、メイシアの父コウレンを救出するために、斑目一族の別荘に潜入したときだ。  あのとき既に、コウレンは厳月家の当主の〈影〉にされてしまっていた。そのことを知っていたタオロンは、いわば『偽者』であるコウレンを連れ帰らせまいと、殺害しようとした。――凶賊ダリジィンの誇りを捨て、銃を使ってまでして……。 「もしかして、メイシアの親父さんが〈影〉にされたことを、斑目の一員として責任を感じているのか……?」 「ああ。あの技術は、人として許されねぇ。……〈七つの大罪〉と関わるのは、人間をやめるのと同じだ」  タオロンは、そう言い捨てた。 「タオロンさんが悪いわけではないでしょう……?」  一歩下がったところで、遠慮がちに見守っていたメイシアが口を開く。たおやかでありながらも、凛と響く鈴の音に、しかし、タオロンはうつむいたまま、首を左右に振る。 「俺は、お前にそんなふうに言ってもらえる資格なんてねぇ……。どうしようもねぇ、最低野郎なんだ……」  タオロンは、拳を地面に打ち付けた。ただならぬ様子に、メイシアが「タオロンさん?」と、不審の声を上げるも、彼はそれを聞き流す。 「お前らに会いに来た用件を言おう……」  歯切れ悪くそう言い、タオロンはゆっくりと立ち上がった。 「まず、はじめに。死んだホンシュアという〈天使〉からの伝言だ。――あの女は、お前らに謝りたいと言っていた」 「――!?」  予想外のことに、ルイフォンとメイシアは顔を見合わせた。 「本来の計画では、藤咲メイシアの父親が〈影〉にされることはなかったそうだ。それが、自分の考えの甘さから〈ムスカ〉を暴走させ、〈天使〉の力を悪用させてしまった。なんと詫びたらよいか分からない、と」  太い声が、淡々と告げる。 「〈ムスカ〉に与えられた〈天使〉は自分で最後だから、自分が死ねば、〈ムスカ〉は〈天使〉を使えない。それで安心できるかどうか分からないが、ひとつの情報として、お前らに伝えて欲しい、そう言われた」  タオロンは、そこで言葉を切った。  そして、太い眉を寄せ、突き刺さらんばかりの真剣な眼差しをルイフォンに向ける。 「『ルイフォン、あなたが幸せになる道を選んで』――それが、あの女の……遺言だった」 「…………っ」  何を言えばいいのか。何を感じればいいのか。まるで分からない。  ホンシュアは、セレイエの〈影〉だ。またしても、セレイエだ。  支離滅裂な情報が乱雑に押し込まれ、思考が飽和状態だ。耳鳴りがして、ルイフォンは頭を抱え込む。 「ルイフォン……」  メイシアが彼の顔を覗き込み、ぎゅっと彼の手を握った。 「……ああ、大丈夫だ」  ルイフォンもまた、手を握り返す。  見栄かもしれない。だが、彼女がそばにいれば、平気だと答えられる。彼女がそばにいることが、彼を強くする……。  タオロンは、その場を動かぬまま、そっと背を向けた。  薄汚いこの道を囲う灰色の塀を見るともなしに見やり、彼は息をつく。そして、ふと思い立ったように頭の赤いバンダナに触れ、結び目をきつく結び直した。  それから彼は、意を決したように太い眉に力を入れると、体を半回転させて再びルイフォンたちと向き合う。ざりっと、砂を踏む音を大きく響かせたのは、彼らの注意を自分に促すためだった。 「そして、次の――本来の用件だ。……俺は、〈ムスカ〉の命令で……藤咲メイシア、お前を捕らえに来た………」  苦しげに呻くように、タオロンは吐き捨てた。  ルイフォンの心臓が跳ね上がり、メイシアを背中に庇う。  以前、タオロンと対峙したときは、シャオリエから貰った筋弛緩剤があった。だから、かろうじてタオロンを倒せた。けれど、純粋な戦闘では、万にひとつも勝ち目はない……。  ルイフォンの額を冷や汗が流れる。 「すまん……、本当に……。俺は〈ムスカ〉の手下だ。〈七つの大罪〉に加担しているも同然だ」  悲痛な声が響いた。  単純明快なタオロンが、自分の意に沿わない行動をする理由は、ただひとつ。愛娘ファンルゥのため。人質になっているのだろう。  だから、絶対に引くことができない。  タオロンは腰の大刀を抜き、構える。 「鷹刀ルイフォン。俺は、お前にも藤咲メイシアにも、怪我をさせたくない。だから、本当は『黙って従ってくれ』と言いたい。……だが、お前相手に、それは無意味だと分かっている」 「タオロン……」 「……本気で行くぞ!」  刹那、タオロンの闘気が膨れ上がった。近くにいるだけで、背筋を悪寒が突き抜ける。 「メイシア、下がれ! お前は逃げろ!」  足のすくんでいる彼女を、半ば押し出すようにして、後ろに追いやった。  敵う相手ではない。だから、真っ向から勝負してはならない。  ルイフォンは懐から、いつも携帯しているナイフを取り出した。  接近戦用の武器だ。しかし、彼我ひがの力量を考えれば、近づいたら確実にやられる。前回は硝子の街灯に投げて、破片をばらまいた。だが、同じ手は二度、使えまい。  だから今度は、素直に相手に向かって投げる。ただし、正面からはぶつからない。  身の軽さを活かし、塀を蹴って高く跳ねる。できれば、奴の背後に回り込み、奇襲をかけるように、死角をついて……。  ――一撃必殺だ。弾かれたら次の手はない……。  ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。 「ル、ルイフォン、待って!」  背後からメイシアが叫んだ。 「早く、逃げろ!」 「ううん。〈ムスカ〉は私を『捕らえろ』と言ったの! 私の命は保証されている。だから、私、タオロンさんについていって、〈ムスカ〉の居場所をつきとめる!」 「駄目だ!」  ルイフォンが、そう叫び返したときだった。 「そろそろ、私の出番ということで、いいか?」  笑いを含んだ声が、灰色の塀の裏側から聞こえてきた。男であるなら高めだが、女声のアルトにしては、やや低い。  声の主は、長い足を綺麗に揃え、ひらりと塀を乗り越えた。音も立てずに地面に降り立つさまは優美であり、ふわりと舞う土埃さえ、華麗な演出の一部に見える。 「シャンリー様!」  メイシアが叫んだ。  それは、繁華街を訪れるにあたり、彼女が依頼した護衛の名前だった。



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