砂の追憶

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 私の母は、とても美しく、聡明な人だった。  つややかに光り輝く黒絹の髪。人形細工師の御業を思わせる麗しの顔貌。儚さすら感じられる嫋やかなる肢体。  彼女が鍵盤に指を滑らせれば子犬の跳ねる光景が浮かび、絵筆を振るえば画布から小鳥のさえずりが聞こえた。詩を詠めば叡知と機知に富んだ世界に聞き手を誘い、馬の背にまたがれば人馬一体となって風と化す。  稀有なる佳人であり才媛――。  彼女のまわりだけ空気が違うのが、子供だった私にも、はっきりと感じられた。  あらゆる教養と美貌を備えた社交界の華は、口下手で穏やかな夫をそっと盛り立てるだけの機転と話術にも長けていた。  しかし、それが不幸の始まりだった。  華やかすぎる彼女に対し、夫である私の父は凡庸すぎた。ふたりの釣り合いが取れていたのは、家柄だけ。彼女の助力は彼にとって重荷でしかなかった。――勿論、そんな大人の事情を私が理解したのは、もっとずっとあとのことだけれど。  母が藤咲の屋敷からいなくなったあと、私は庭の端で空を見上げるのが日課となった。  白い雲がすうっと流れながら、自在に形を変えていくのが不思議でならなかった。  誰の目を気にすることなく、木陰にひとり座っているのは、揺り籠の中みたい心地がよかった。  私の心も、自由に空を飛んでいたのだ……。  その日は、とても風が強かった。  突然、私の頭上のすれすれを白い雲が通り抜けた。  驚いたのは一瞬だけで、すぐに芝に落ちた雲の正体を見つけた。  白い帽子だった。 「きゃあああ! 待ってぇ!」  少し離れたところから、甲高い女性の声が響いた。帽子の持ち主だろう。  庭を巡る石畳に、見知らぬ人の姿が見えた。  そういえば、秘書の妹が事務見習いに来ると、父が言っていたことを思い出す。  私は帽子を拾い上げ、それを子供なりに高く掲げた。彼女は満面の笑みを浮かべ、走ってくる。  ――と、思ったら、盛大に転んだ。  私と帽子に気をとられ、足元の段差に気づかなかったのだ。 「あああ! やだ! 恥ずかしい……」  顔を真っ赤にして、彼女は慌てて立ち上がる。擦りむいた膝がスカートから覗いていた。 「だ、だいじょう、ぶ……ですか……?」  彼女に駆け寄った私は、おっかなびっくり、そう尋ねた。 「ありがとう! 私は大丈夫!」  彼女は満面の笑顔で応える。それから眉を曇らせ、私の顔を覗き込んだ。 「あなた、メイシアちゃんよね? あなたこそ、大丈夫?」  その言葉に、私はきょとんとする。 「目に、砂が入っちゃった?」 「え……?」 「だって、目が真っ赤で、涙ぽろぽろよ?」  そのあと、私は自分が何を言ったのか、よく覚えていない。  ただ、彼女がバックから「いいものがあるの」とクッキーを出してくれたのは覚えている。  見るからに手作りのそれは、彼女が転んだ拍子に崩れてしまったようだった。得意げだった彼女の顔が「ああ!」という悲愴な声とともに一転したのが、あまりにも衝撃的で、私は思わず笑ってしまった――。今から考えれば、とても失礼なことだったのだけど……。  さくさくとしたクッキーは、口の中でほろほろと甘く溶けた。  砂のようにさらさらの食感なので、『サブレー』と呼ばれるのだと、彼女が教えてくれた。  そのときのサブレーの味は、今でも忘れない。  やがて、父が彼女と再婚した。  貴族シャトーアの奥方となったのち、彼女が厨房に入ることは決して許されなかった。  だから、それは、私の思い出の中にだけある、懐かしい味。  脆く儚い砂の記憶――。



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 私の母は、とても美しく、聡明な人だった。  つややかに光り輝く黒絹の髪。人形細工師の御業を思わせる麗しの顔貌。儚さすら感じられる嫋やかなる肢体。  彼女が鍵盤に指を滑らせれば子犬の跳ねる光景が浮かび、絵筆を振るえば画布から小鳥のさえずりが聞こえた。詩を詠めば叡知と機知に富んだ世界に聞き手を誘い、馬の背にまたがれば人馬一体となって風と化す。  稀有なる佳人であり才媛――。  彼女のまわりだけ空気が違うのが、子供だった私にも、はっきりと感じられた。  あらゆる教養と美貌を備えた社交界の華は、口下手で穏やかな夫をそっと盛り立てるだけの機転と話術にも長けていた。  しかし、それが不幸の始まりだった。  華やかすぎる彼女に対し、夫である私の父は凡庸すぎた。ふたりの釣り合いが取れていたのは、家柄だけ。彼女の助力は彼にとって重荷でしかなかった。――勿論、そんな大人の事情を私が理解したのは、もっとずっとあとのことだけれど。  母が藤咲の屋敷からいなくなったあと、私は庭の端で空を見上げるのが日課となった。  白い雲がすうっと流れながら、自在に形を変えていくのが不思議でならなかった。  誰の目を気にすることなく、木陰にひとり座っているのは、揺り籠の中みたい心地がよかった。  私の心も、自由に空を飛んでいたのだ……。  その日は、とても風が強かった。  突然、私の頭上のすれすれを白い雲が通り抜けた。  驚いたのは一瞬だけで、すぐに芝に落ちた雲の正体を見つけた。  白い帽子だった。 「きゃあああ! 待ってぇ!」  少し離れたところから、甲高い女性の声が響いた。帽子の持ち主だろう。  庭を巡る石畳に、見知らぬ人の姿が見えた。  そういえば、秘書の妹が事務見習いに来ると、父が言っていたことを思い出す。  私は帽子を拾い上げ、それを子供なりに高く掲げた。彼女は満面の笑みを浮かべ、走ってくる。  ――と、思ったら、盛大に転んだ。  私と帽子に気をとられ、足元の段差に気づかなかったのだ。 「あああ! やだ! 恥ずかしい……」  顔を真っ赤にして、彼女は慌てて立ち上がる。擦りむいた膝がスカートから覗いていた。 「だ、だいじょう、ぶ……ですか……?」  彼女に駆け寄った私は、おっかなびっくり、そう尋ねた。 「ありがとう! 私は大丈夫!」  彼女は満面の笑顔で応える。それから眉を曇らせ、私の顔を覗き込んだ。 「あなた、メイシアちゃんよね? あなたこそ、大丈夫?」  その言葉に、私はきょとんとする。 「目に、砂が入っちゃった?」 「え……?」 「だって、目が真っ赤で、涙ぽろぽろよ?」  そのあと、私は自分が何を言ったのか、よく覚えていない。  ただ、彼女がバックから「いいものがあるの」とクッキーを出してくれたのは覚えている。  見るからに手作りのそれは、彼女が転んだ拍子に崩れてしまったようだった。得意げだった彼女の顔が「ああ!」という悲愴な声とともに一転したのが、あまりにも衝撃的で、私は思わず笑ってしまった――。今から考えれば、とても失礼なことだったのだけど……。  さくさくとしたクッキーは、口の中でほろほろと甘く溶けた。  砂のようにさらさらの食感なので、『サブレー』と呼ばれるのだと、彼女が教えてくれた。  そのときのサブレーの味は、今でも忘れない。  やがて、父が彼女と再婚した。  貴族シャトーアの奥方となったのち、彼女が厨房に入ることは決して許されなかった。  だから、それは、私の思い出の中にだけある、懐かしい味。  脆く儚い砂の記憶――。



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