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7.幾重もの祝福-1

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 硬質なリノリウムの床に、カタカタという打鍵の音が跳ね返る。  時折り止まっては、また勢いよく叩きつける。あるいはキーを押すことなく考え込み、苛々と指先だけが揺れ動く。  OAグラスが、モニタ画面の四角い光を反射する。無機質で無表情な顔が、ただひたすら文字を追う。彼本来の、端正な顔立ちが浮き彫りになる――。  自室の隣、通称『仕事部屋』にて、ルイフォンは研ぎ澄まされたような集中力でもって、母の遺産〈ベロ〉と戦っていた。  彼をぐるり囲むように、円形に配置された机には、多種多様な機械類が載せられている。この空間を、メイシアは魔方陣みたいだと言った。彼女からすると、天才クラッカー〈フェレース〉は魔法使いに見えるのだろう。  メイシアは知らなかっただろうが、伝説に残るようなコンピュータのエキスパートを、俗に魔術師ウィザードと呼ぶ。だから、なかなかセンスのある発言であったのだが、本当の魔術師ウィザードは彼ではなく、先代〈フェレース〉である彼の母キリファだ。  ルイフォンは手を止めた。  そして、溜め息をひとつ……。  使い魔たるコンピュータ〈ベロ〉は、彼の忠実なるしもべ――であるはずだった。  しかし屋敷が警察隊に襲われたとき、〈ベロ〉はルイフォンのプログラムを無視した。キリファが作った人工知能の独断に従った。  母と住んでいた家にある〈ケル〉も同様で、ルイフォンの命令を勝手に書き換えて、メイシアを敷地内に入れた。〈ケル〉はメイシアを知らなかったはずだから、〈ケル〉と〈ベロ〉は結託しているのだろう。  つまり魔術師ウィザードキリファの死後も、〈ケル〉と〈ベロ〉は彼女の使い魔だということだ。――ルイフォンではなく。  しかも〈ベロ〉は、娼館の女主人シャオリエをモデルにしている。あの口調、あの性格からして間違いない。母も何故、あんな傍迷惑はためいわくな人格をもとに人工知能を作ったのやら。  おかげで、皆をあれだけ驚かせたのに、本人そっくりの口ぶりで『もう手出ししないから、あとはせいぜい頑張りなさいね』と、しれっと言ったきり説明もなしだ。  だから、あの事件のあと、ルイフォンは必死に人工知能〈ベロ〉の解明に勤しんでいた。その結果、ほんのわずかではあるが、〈ベロ〉の正体が分かってきた。  要するに、ルイフォンが知っていた〈ベロ〉は、いわば『張りぼて』だったのだ。あるいは『影武者』、『隠れ蓑』といってもいい。  真の〈ベロ〉は、別のところに隠れていて普段は何もしない。けれど常に監視の目は光らせていて、必要なときには張りぼての〈ベロ〉を乗っ取る、ということらしい。 「……腹、減ったな」  ルイフォンはOAグラスを外して、机に置いた。  メイシアは今日、ミンウェイとよもぎあんパンを作るのだと、朝から楽しみにしていた。彼女の奮闘ぶりは非常に気になる。しかし、邪魔をしてしまうのは悪いので、ルイフォンはおとなしく仕事部屋に籠もった。そしたら、時が経つのを忘れてしまったのだ。  途中でメイドが昼食を持ってきてくれたが、片手間に食べていたから、料理長自慢のサンドイッチの味もよく覚えていない。だが、量が足りなかったのは確かなようだ。  時計を見れば、もうすぐお茶の時間である。  そろそろメイシアが呼びに来てくれるだろう。きっと、彼女お手製のよもぎあんパンをご馳走してもらえるに違いない。 「……」  腹が減っていた。  たまには自分から行くのもよいだろうと、ルイフォンは立ち上がる。  両手を上げて背筋を伸ばし、腕を回して肩周りをほぐす。首を曲げれば凝り固まった筋肉が悲鳴をあげ、その動きに併せて一本に編まれた髪が振り子のように揺れた。  部屋を出る彼の後ろ姿は相変わらずの猫背で、せっかく伸ばしてもすぐに元の木阿弥だと、毛先を彩る金の鈴が笑っていた。  メイシアは厨房にいなかった。  それどころか、屋敷内にはいなかった。 「ミンウェイ! 何故、メイシアを行かせた!?」  ルイフォンは、ミンウェイに詰め寄った。殴りかかりたい衝動は理性で抑えたが、鋭い殺気は隠しようもなく、彼女のまとう草の香りを霧散させる。 「お祖父様のご命令だったのよ」 「親父の!?」  それを聞いた途端、彼は執務室に向かって走り出した。  草薙家――。  チャオラウの養女の姓を名乗っているから『草薙』だが、つまりエルファンの正妻ユイランの家だ。 『ユイランは――ひょっとしたら鷹刀の誰よりも喰えない相手よ』  ルイフォンの母キリファは、ユイランに苦手意識があった。あの傲岸不遜な母が曲者と認め、なるべく避けていた人物なのだ。 「ふざけんなよ、糞親父!」  メイシアをあの家に行かせる理由が、何処にあるというのだ?  リュイセンが一緒であるというから、生命の危険だけはないと思うが、どんな嫌な目に遭っているか分からない。  階段を駆け上がるルイフォンの尻で、携帯端末が振動した。  この忙しいときにと、電源を切ろうとした彼の目に、発信者の名前が映る。 「リュイセン!?」  この上もなく好都合な相手であり、同時にメイシアの身に不安を覚え、心臓が凍りつく。  震える手で電話を受けると、甲高い声が響いた。 『ルイフォン大叔父上! 大変なの!』  まったく聞き覚えのない、少女の声。  あどけなさを残した可憐さは、まだ子供と言ってもいいかもしれない。だが、今のルイフォンには相手を推察する余裕などなかった。 「誰だ、お前?」  警戒心むき出しで、低く唸る。 『草薙レイウェンの娘、クーティエよ。リュイセンにぃの姪、と言ったほうがいい?』 「リュイセンの姪……? ――ユイランの……孫か!?」 『そうよ。にぃがいつも言っている通り、頭の回転は早いわね』  クーティエは、褒めていた。だが、明らかに年下の少女に褒められて喜ぶようなルイフォンではなかった。 「この野郎! メイシアをどうした!?」  端末を握りつぶす勢いで力を込め、怒鳴りつける。 『だから、大変なのよ! 今すぐうちに来て!』  その言葉の終わらないうちに、ルイフォンは今度は外に飛び出した。  ユイランの――草薙レイウェンの家には行ったことはないが、鷹刀一族に関係のある情報なら、彼はすべて把握している。当然、場所は知っていた。  ヘルメットすらも、もどかしく、ルイフォンはそのままバイクを疾走はしらせた。  事故すれすれの運転を繰り返し、対向車の怒声を置き去りにしながら、あっという間に目的地に到着する。 「早かったわね」  洒落た門扉の前で、十歳ほどの少女が待っていた。  つややかな黒髪を両耳の上で高く結い上げ、花の髪飾りで留めている。顔立ちは鷹刀一族そのもの。良くいえば利発そうな、悪くいえば小生意気そうな雰囲気の少女だった。  お互いに顔を知らぬが、名乗らなくとも分かった。 「メイシアに何をした!?」  獲物を見つけた獣の目で、ルイフォンは少女――クーティエに迫る。  全身の毛を逆立てるように肩を怒らせ、視線で噛み殺さんばかりに睨みつける。ことの次第によっては、彼女を捕らえて人質とし、メイシアの身柄と交換することを考えた。  一方クーティエは、「えっ!?」と短く叫んで目を丸くした。  自分に向けられた殺気が分からぬような彼女ではない。ルイフォンの形相に、思わず逃げ腰になる。けれど、靴のかかとがこつんと門扉に当たり、退路がたれていることを知らしめられた。 「わ、私が何かしたんじゃないわ!」  彼女としては、一刻も早くルイフォンに来てもらえるよう、少しだけ大げさに言ったつもりだった。あくまでも『少しだけ』である。まさか自分が狙われるなどとは、微塵にも思ってもいなかった。  クーティエは窮地に立たされた。――だが、救いの神はすぐに現れた。 「叔父上、娘が失礼いたしました」  馴染みのある魅惑の低い声質。だが、甘やかな優しい響きは、ルイフォンのよく知る者ではない。  神々しいばかりの美の化身。リュイセンをとおばかり歳を取らせたような姿でありながら、まとう雰囲気はまるで違う――穏やかな微笑がそこにあった。 「レイウェン……か?」 「はい」  そう言って彼は門扉を開き、ルイフォンを招き入れる。 「本日は、娘が不躾にお呼びだてして申し訳ございませんでした」  血統を示すような立派な体躯をふたつに折り、大人の男が少年のルイフォンに礼をる。その物腰は柔らかく、かつ堂々としていた。 「――っ」  心からの謝罪と敬意が感じられ、ルイフォンは言葉を詰まらせる。  レイウェンと会うのは初めてではない。だが、十年以上も前のことだ。ほぼ初対面と言っていいだろう。  見慣れた鷹刀一族の容姿で、こうも下手したてに出られると、調子が狂う。何しろ、イーレオやエルファンと同じ顔なのだ。  レイウェンは頭を上げると、目を細めてルイフォンを見つめた。 「突然のことでしたが、あなたにお会いできて嬉しいです、叔父上。――この呼び方は他人行儀ですので、『ルイフォンさん』と呼ばせてくださいね」  親しみの込もった微笑みが、なんともこそばゆい。やや強引であるのに、それを感じさせないのは、さすが鷹刀の血族というところか。 「ゆっくりお話したいところですが、まずはメイシアさんのところに行きましょう」  ルイフォンは、メイシアの名前に顔色を変えた。レイウェンが「ご案内します」と続けるよりも先に、家に向かって走り出す。アプローチがまっすぐに伸びており、迷うことなどなかった。  唖然と見送るクーティエが、ぽつりと呟いた。 「メイシアのために、飛んで行っちゃったのよね……?」 「当然だよ。彼にとって、メイシアさんは何よりも大切な方なんだからね。その想いを、君はからかうような真似をしたんだよ?」  たしなめるようにレイウェンが言う。 「う……。悪かったと思っている。けど、こういうの……憧れちゃうわ」  非を認めつつも、少女らしく頬を上気させる娘に対し、レイウェンは穏やかに苦笑した。  初めて訪れる他人の家に、勝手に入り込んだルイフォンを待っていたのは、一見、男にしか見えない背の高い女性――レイウェンの妻、シャンリーだった。  彼女はルイフォンの姿を見つけると、彼が口を開くよりも早く叫んだ。 「ルイフォン、待っていたぞ! こっちだ!」  廊下を走る彼女を追い、彼もまた走る。  リュイセンやチャオラウの姿もあったのだが、ルイフォンには見えていない。彼らが半ば呆れ顔だったことも、当然のことながら知るよしもない。 「この先の階段を上がった二階だ!」  シャンリーが指差すと、ルイフォンは彼女を追い越して奥へと駆け抜けた。  階段の前で急停止すると、勢い余った黒髪が振り切られんばかりに流れゆき、金の鈴を煌めかせる。 「メイシア!」  二階に向かって、ルイフォンは叫んだ。木製の手すりを引っ掴み、彼は床を蹴る。  そのとき、頭上から扉の開く音がした。 「ルイフォン!」  硝子を弾いたような、高く透き通った声。  その響きを聞いただけで、彼の心は共鳴して大きく震えた。  ――メイシア……!  彼女が無事で、そこに居る。  そう思っただけで膝から崩れ落ちそうになり、手すりを握りしめて体を支えた。  姿勢を崩し、目線の下がった彼の耳に、聞き慣れぬ衣擦きぬずれの音が届いた。不思議に思い、彼は足元から続く階段に視界を広げていく。  幾つもの段を巡り、たどり着いたその先は――。 「………………!」  天窓から陽射しが舞い降り、夢見るように幻想的な光景を浮かび上がらせていた。  そこに、純白をまとった彼女がいた。  銀色のティアラから、柔らかな風のようなベールが流れ落ち、薄い布地を透かした淡い光が全身を包み込む。  長い髪は結い上げられ、楚々としたパールで飾られていた。普段は隠されているうなじが、誘うようにベール越しに見え隠れする。  華奢な肩は、わずかにベールで覆われているものの、素肌の白さはおしげもなく晒されており、鎖骨のラインはくっきりと際立つ。可愛らしくありながらも、しっとりとした色香が匂い立っていた。  細い腰を強調しつつも、幾重にもフリルの連なった豪奢なスカートは大きく広がり、彼女が一歩、階段を降りれば、長い長い裾がするするとあとを追いかける。  今にも泣き出しそうな顔は、大きすぎる喜びからのものであると、彼は知っている。  彼は階段を一気に駆け上がり、彼女を抱きしめた。美しくも儚げな彼女は、彼の腕の中で確かな熱を持った存在になった。  涙に濡れた彼女の吐息が、彼の耳に掛かる。 「ハオリュウが……、ハオリュウが、私にドレスを……って。ユイラン様に、頼んでくれたの……!」



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 硬質なリノリウムの床に、カタカタという打鍵の音が跳ね返る。  時折り止まっては、また勢いよく叩きつける。あるいはキーを押すことなく考え込み、苛々と指先だけが揺れ動く。  OAグラスが、モニタ画面の四角い光を反射する。無機質で無表情な顔が、ただひたすら文字を追う。彼本来の、端正な顔立ちが浮き彫りになる――。  自室の隣、通称『仕事部屋』にて、ルイフォンは研ぎ澄まされたような集中力でもって、母の遺産〈ベロ〉と戦っていた。  彼をぐるり囲むように、円形に配置された机には、多種多様な機械類が載せられている。この空間を、メイシアは魔方陣みたいだと言った。彼女からすると、天才クラッカー〈フェレース〉は魔法使いに見えるのだろう。  メイシアは知らなかっただろうが、伝説に残るようなコンピュータのエキスパートを、俗に魔術師ウィザードと呼ぶ。だから、なかなかセンスのある発言であったのだが、本当の魔術師ウィザードは彼ではなく、先代〈フェレース〉である彼の母キリファだ。  ルイフォンは手を止めた。  そして、溜め息をひとつ……。  使い魔たるコンピュータ〈ベロ〉は、彼の忠実なるしもべ――であるはずだった。  しかし屋敷が警察隊に襲われたとき、〈ベロ〉はルイフォンのプログラムを無視した。キリファが作った人工知能の独断に従った。  母と住んでいた家にある〈ケル〉も同様で、ルイフォンの命令を勝手に書き換えて、メイシアを敷地内に入れた。〈ケル〉はメイシアを知らなかったはずだから、〈ケル〉と〈ベロ〉は結託しているのだろう。  つまり魔術師ウィザードキリファの死後も、〈ケル〉と〈ベロ〉は彼女の使い魔だということだ。――ルイフォンではなく。  しかも〈ベロ〉は、娼館の女主人シャオリエをモデルにしている。あの口調、あの性格からして間違いない。母も何故、あんな傍迷惑はためいわくな人格をもとに人工知能を作ったのやら。  おかげで、皆をあれだけ驚かせたのに、本人そっくりの口ぶりで『もう手出ししないから、あとはせいぜい頑張りなさいね』と、しれっと言ったきり説明もなしだ。  だから、あの事件のあと、ルイフォンは必死に人工知能〈ベロ〉の解明に勤しんでいた。その結果、ほんのわずかではあるが、〈ベロ〉の正体が分かってきた。  要するに、ルイフォンが知っていた〈ベロ〉は、いわば『張りぼて』だったのだ。あるいは『影武者』、『隠れ蓑』といってもいい。  真の〈ベロ〉は、別のところに隠れていて普段は何もしない。けれど常に監視の目は光らせていて、必要なときには張りぼての〈ベロ〉を乗っ取る、ということらしい。 「……腹、減ったな」  ルイフォンはOAグラスを外して、机に置いた。  メイシアは今日、ミンウェイとよもぎあんパンを作るのだと、朝から楽しみにしていた。彼女の奮闘ぶりは非常に気になる。しかし、邪魔をしてしまうのは悪いので、ルイフォンはおとなしく仕事部屋に籠もった。そしたら、時が経つのを忘れてしまったのだ。  途中でメイドが昼食を持ってきてくれたが、片手間に食べていたから、料理長自慢のサンドイッチの味もよく覚えていない。だが、量が足りなかったのは確かなようだ。  時計を見れば、もうすぐお茶の時間である。  そろそろメイシアが呼びに来てくれるだろう。きっと、彼女お手製のよもぎあんパンをご馳走してもらえるに違いない。 「……」  腹が減っていた。  たまには自分から行くのもよいだろうと、ルイフォンは立ち上がる。  両手を上げて背筋を伸ばし、腕を回して肩周りをほぐす。首を曲げれば凝り固まった筋肉が悲鳴をあげ、その動きに併せて一本に編まれた髪が振り子のように揺れた。  部屋を出る彼の後ろ姿は相変わらずの猫背で、せっかく伸ばしてもすぐに元の木阿弥だと、毛先を彩る金の鈴が笑っていた。  メイシアは厨房にいなかった。  それどころか、屋敷内にはいなかった。 「ミンウェイ! 何故、メイシアを行かせた!?」  ルイフォンは、ミンウェイに詰め寄った。殴りかかりたい衝動は理性で抑えたが、鋭い殺気は隠しようもなく、彼女のまとう草の香りを霧散させる。 「お祖父様のご命令だったのよ」 「親父の!?」  それを聞いた途端、彼は執務室に向かって走り出した。  草薙家――。  チャオラウの養女の姓を名乗っているから『草薙』だが、つまりエルファンの正妻ユイランの家だ。 『ユイランは――ひょっとしたら鷹刀の誰よりも喰えない相手よ』  ルイフォンの母キリファは、ユイランに苦手意識があった。あの傲岸不遜な母が曲者と認め、なるべく避けていた人物なのだ。 「ふざけんなよ、糞親父!」  メイシアをあの家に行かせる理由が、何処にあるというのだ?  リュイセンが一緒であるというから、生命の危険だけはないと思うが、どんな嫌な目に遭っているか分からない。  階段を駆け上がるルイフォンの尻で、携帯端末が振動した。  この忙しいときにと、電源を切ろうとした彼の目に、発信者の名前が映る。 「リュイセン!?」  この上もなく好都合な相手であり、同時にメイシアの身に不安を覚え、心臓が凍りつく。  震える手で電話を受けると、甲高い声が響いた。 『ルイフォン大叔父上! 大変なの!』  まったく聞き覚えのない、少女の声。  あどけなさを残した可憐さは、まだ子供と言ってもいいかもしれない。だが、今のルイフォンには相手を推察する余裕などなかった。 「誰だ、お前?」  警戒心むき出しで、低く唸る。 『草薙レイウェンの娘、クーティエよ。リュイセンにぃの姪、と言ったほうがいい?』 「リュイセンの姪……? ――ユイランの……孫か!?」 『そうよ。にぃがいつも言っている通り、頭の回転は早いわね』  クーティエは、褒めていた。だが、明らかに年下の少女に褒められて喜ぶようなルイフォンではなかった。 「この野郎! メイシアをどうした!?」  端末を握りつぶす勢いで力を込め、怒鳴りつける。 『だから、大変なのよ! 今すぐうちに来て!』  その言葉の終わらないうちに、ルイフォンは今度は外に飛び出した。  ユイランの――草薙レイウェンの家には行ったことはないが、鷹刀一族に関係のある情報なら、彼はすべて把握している。当然、場所は知っていた。  ヘルメットすらも、もどかしく、ルイフォンはそのままバイクを疾走はしらせた。  事故すれすれの運転を繰り返し、対向車の怒声を置き去りにしながら、あっという間に目的地に到着する。 「早かったわね」  洒落た門扉の前で、十歳ほどの少女が待っていた。  つややかな黒髪を両耳の上で高く結い上げ、花の髪飾りで留めている。顔立ちは鷹刀一族そのもの。良くいえば利発そうな、悪くいえば小生意気そうな雰囲気の少女だった。  お互いに顔を知らぬが、名乗らなくとも分かった。 「メイシアに何をした!?」  獲物を見つけた獣の目で、ルイフォンは少女――クーティエに迫る。  全身の毛を逆立てるように肩を怒らせ、視線で噛み殺さんばかりに睨みつける。ことの次第によっては、彼女を捕らえて人質とし、メイシアの身柄と交換することを考えた。  一方クーティエは、「えっ!?」と短く叫んで目を丸くした。  自分に向けられた殺気が分からぬような彼女ではない。ルイフォンの形相に、思わず逃げ腰になる。けれど、靴のかかとがこつんと門扉に当たり、退路がたれていることを知らしめられた。 「わ、私が何かしたんじゃないわ!」  彼女としては、一刻も早くルイフォンに来てもらえるよう、少しだけ大げさに言ったつもりだった。あくまでも『少しだけ』である。まさか自分が狙われるなどとは、微塵にも思ってもいなかった。  クーティエは窮地に立たされた。――だが、救いの神はすぐに現れた。 「叔父上、娘が失礼いたしました」  馴染みのある魅惑の低い声質。だが、甘やかな優しい響きは、ルイフォンのよく知る者ではない。  神々しいばかりの美の化身。リュイセンをとおばかり歳を取らせたような姿でありながら、まとう雰囲気はまるで違う――穏やかな微笑がそこにあった。 「レイウェン……か?」 「はい」  そう言って彼は門扉を開き、ルイフォンを招き入れる。 「本日は、娘が不躾にお呼びだてして申し訳ございませんでした」  血統を示すような立派な体躯をふたつに折り、大人の男が少年のルイフォンに礼をる。その物腰は柔らかく、かつ堂々としていた。 「――っ」  心からの謝罪と敬意が感じられ、ルイフォンは言葉を詰まらせる。  レイウェンと会うのは初めてではない。だが、十年以上も前のことだ。ほぼ初対面と言っていいだろう。  見慣れた鷹刀一族の容姿で、こうも下手したてに出られると、調子が狂う。何しろ、イーレオやエルファンと同じ顔なのだ。  レイウェンは頭を上げると、目を細めてルイフォンを見つめた。 「突然のことでしたが、あなたにお会いできて嬉しいです、叔父上。――この呼び方は他人行儀ですので、『ルイフォンさん』と呼ばせてくださいね」  親しみの込もった微笑みが、なんともこそばゆい。やや強引であるのに、それを感じさせないのは、さすが鷹刀の血族というところか。 「ゆっくりお話したいところですが、まずはメイシアさんのところに行きましょう」  ルイフォンは、メイシアの名前に顔色を変えた。レイウェンが「ご案内します」と続けるよりも先に、家に向かって走り出す。アプローチがまっすぐに伸びており、迷うことなどなかった。  唖然と見送るクーティエが、ぽつりと呟いた。 「メイシアのために、飛んで行っちゃったのよね……?」 「当然だよ。彼にとって、メイシアさんは何よりも大切な方なんだからね。その想いを、君はからかうような真似をしたんだよ?」  たしなめるようにレイウェンが言う。 「う……。悪かったと思っている。けど、こういうの……憧れちゃうわ」  非を認めつつも、少女らしく頬を上気させる娘に対し、レイウェンは穏やかに苦笑した。  初めて訪れる他人の家に、勝手に入り込んだルイフォンを待っていたのは、一見、男にしか見えない背の高い女性――レイウェンの妻、シャンリーだった。  彼女はルイフォンの姿を見つけると、彼が口を開くよりも早く叫んだ。 「ルイフォン、待っていたぞ! こっちだ!」  廊下を走る彼女を追い、彼もまた走る。  リュイセンやチャオラウの姿もあったのだが、ルイフォンには見えていない。彼らが半ば呆れ顔だったことも、当然のことながら知るよしもない。 「この先の階段を上がった二階だ!」  シャンリーが指差すと、ルイフォンは彼女を追い越して奥へと駆け抜けた。  階段の前で急停止すると、勢い余った黒髪が振り切られんばかりに流れゆき、金の鈴を煌めかせる。 「メイシア!」  二階に向かって、ルイフォンは叫んだ。木製の手すりを引っ掴み、彼は床を蹴る。  そのとき、頭上から扉の開く音がした。 「ルイフォン!」  硝子を弾いたような、高く透き通った声。  その響きを聞いただけで、彼の心は共鳴して大きく震えた。  ――メイシア……!  彼女が無事で、そこに居る。  そう思っただけで膝から崩れ落ちそうになり、手すりを握りしめて体を支えた。  姿勢を崩し、目線の下がった彼の耳に、聞き慣れぬ衣擦きぬずれの音が届いた。不思議に思い、彼は足元から続く階段に視界を広げていく。  幾つもの段を巡り、たどり着いたその先は――。 「………………!」  天窓から陽射しが舞い降り、夢見るように幻想的な光景を浮かび上がらせていた。  そこに、純白をまとった彼女がいた。  銀色のティアラから、柔らかな風のようなベールが流れ落ち、薄い布地を透かした淡い光が全身を包み込む。  長い髪は結い上げられ、楚々としたパールで飾られていた。普段は隠されているうなじが、誘うようにベール越しに見え隠れする。  華奢な肩は、わずかにベールで覆われているものの、素肌の白さはおしげもなく晒されており、鎖骨のラインはくっきりと際立つ。可愛らしくありながらも、しっとりとした色香が匂い立っていた。  細い腰を強調しつつも、幾重にもフリルの連なった豪奢なスカートは大きく広がり、彼女が一歩、階段を降りれば、長い長い裾がするするとあとを追いかける。  今にも泣き出しそうな顔は、大きすぎる喜びからのものであると、彼は知っている。  彼は階段を一気に駆け上がり、彼女を抱きしめた。美しくも儚げな彼女は、彼の腕の中で確かな熱を持った存在になった。  涙に濡れた彼女の吐息が、彼の耳に掛かる。 「ハオリュウが……、ハオリュウが、私にドレスを……って。ユイラン様に、頼んでくれたの……!」



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