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2.伏流にひそむ蛇-3

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 四年前――。  シャオリエの知り合いだという少年は、徐々に笑うようになった。この店に運び込まれた当初は、抜け殻のようにベッドに座っているだけだったことを思い返すと、見違えるようだった。  本来の彼は明朗快活な性格であるという話も、嘘ではないのだろう。スーリンにも、そう信じられるようになってきた。  そんなある日だった。彼――ルイフォンの異父姉だという女性が店を訪ねてきたのは。  彼女は、ひと目見て鷹刀の血族と分かる、美麗な容姿をしていた。年の頃は、二十歳くらいだろうか。ルイフォンとは、少し歳が離れていた。 「……っ!? セレイエ?」  シャオリエが真顔で驚いた。それが、笑い顔に歪んだかと思うと、いつもの喰えない瞳に、うっすらと涙が浮かび上がる。  わけありなのだと、スーリンは察した。  それとなく聞こえた会話によれば、母親が強盗に襲われたことを知ったセレイエが、残された異父弟のところに駆けつけた、ということらしい。けれど、彼を引き取りに来たわけではないようだ。  それ以上のことは分からなかった。ただ、シャオリエが余計な詮索はしない、という態度なのが読み取れた。  つまりセレイエは、『そういう世界にいる人』だ。鷹刀一族の人間なら、そんなこともあるだろう。スーリンだって、大手を振れる立場でもない。だから、気にすることでもないと思った。  シャオリエとの挨拶が終わったセレイエを、スーリンがルイフォンのもとへ案内することになった。  どうやら、この異父姉弟が会うのは随分と久しぶりらしい。  母親を失ったショックから、だいぶ立ち直りかけているとはいえ、まだまだルイフォンは不安だらけだろう。身内の来訪は心強いに違いない。  この美しい異父姉を見たら、彼はどんな顔をするのだろうか。泣くのだろうか、甘えるのだろうか。それとも、強がりを言って困らせるのだろうか。  彼の反応はとても気になる。だが、スーリンはシャオリエと違って悪趣味ではないのだ。感動の再会は、ふたりきりにしてあげるべきだろう。  だから、スーリンは部屋の前で立ち止まった。扉は開けずに。 「あとで、お茶をお持ちしますから、お話の区切りのよいところでお呼びくださいね」  そう言って、セレイエに頭を下げ、さっと隣室に控えたのだった。  ……どのくらい時間が経っただろうか。隣の部屋から、どたん、と大きな音がした。何かが倒れたような感じだった。  椅子でも倒したのだろうか。――そう思ったとき、低いうめき声が響いてきた。  スーリンはその声を知っていた。最近はあまり聞かなくなったが、ルイフォンが来たばかりのころ、夜な夜な彼がうなされていたときの声だった。  フラッシュバックだ。  即座にそう思った。母親のことを異父姉に説明している途中で、恐怖と衝撃を思い出してしまったのだろう。  スーリンは迷わず駆け出した。  理由は知らないが、こうなったときのルイフォンは、母親の形見の鈴を見せると落ち着くのだ。だから、その鈴を髪飾りの一部にして、彼の身に着けさせている。それをセレイエに教えなくては、と思った。  扉を開けた瞬間、スーリンは「きゃぁっ!」と、悲鳴を上げた。  熱気の塊が襲ってきたのだ。  空気に弾き飛ばされるという感覚を、初めて味わった。ちりちりと肌がける。 「な、何、これ……?」  部屋の景色が、陽炎のように揺らめいた。そこには、ルイフォンもセレイエもおらず、高熱を発する光のたまだけが存在した。  強く弱く、たまは緩やかに明暗を繰り返す。それは生命の息吹にも似ており、たまではなく羽化を待つ繭のようにも感じられた。不可思議な、恐ろしいものであるはずなのに……神々しい。  スーリンは瞬きを忘れ、聖なる輝きに魅入られた。  ふと。  たまの一部が、たわんだように見えた。そう思った刹那、繭を形成していた光がほどけ、糸となって漂う。やがて光の糸は、まったく別の形状をとった。それはまるで――。 「光の、天使……」  まさに、その言葉がふさわしい姿が、そこにあった。  光を紡ぎ合わせて作ったような羽をまとう、絶世の美女。濡れたようにつやめく漆黒の髪は、光を弾いて白金に輝く。 「見られちゃった……」  天使の姿をしたセレイエが、肩をすくめて微笑んだ。と同時に、苦しげに息を吐きながら、ふらりと倒れる。 「セレイエさん!」  駆け寄ろうとしたスーリンを、セレイエは手を付き出して制する。虚ろに潤んだ瞳で見上げ、途切れ途切れに声を出した。 「火傷……する、わ。それ、より……私の鞄から、小瓶を……」  何が起きているのか。その疑問を口にするより先に、セレイエの言葉に従うべきだと、体が動いた。スーリンは、言われるままに小瓶を探し、セレイエに渡す。  セレイエに近づいたとき、『火傷する』の意味を理解した。彼女の体は、人間ではあり得ないほどの高熱を発していた。 「ありがとう……」  手と手が触れないよう、つまむようにして小瓶を受け取ったセレイエは、一気に中身を飲み干した。 「――!」  スーリンが最初に感じた変化は、肌の感覚だった。部屋中から、ちりちりと感じていた熱の痛みがなくなった。  はっとセレイエを見ると、落ち着いた、和らいだ顔になっていた。そして、背中に吸い込まれていくように、光の羽が消えていく。まるで、今まで幻を見ていたのかと疑いたくなるほどに、跡形あとかたもなく……。 「驚かせてごめんなさいね」  ばつの悪そうな顔で、セレイエは前髪をくしゃりと掻き上げた。見るからに大人の女性といった雰囲気なのに、照れ隠しのような仕草が可愛らしい。  ――が、そういう問題ではなくて……! 「セ、セレイエさん、今のは……」 「その前に、ルイフォンを動かすの、手伝ってくれる? 完全に意識がないから、ひとりじゃ無理だと思うの」  そのとき初めて、スーリンは床に横たわるルイフォンに気づいた。 「きゃああ! ルイフォン!?」 「大丈夫よ。もう落ち着いているから」  セレイエの言葉には半信半疑だったが、ともかくふたりで彼をベッドに運んだ。  スーリンは枕元で膝を付き、ルイフォンの顔を見つめた。頬は青白く、額は汗で猫毛が張り付き、妙に色めいている。  呼吸は安定していた。倒れている彼を見たときには、心臓が止まるかと思ったが、どうやら本当に大丈夫そうだった。  スーリンは、ほっと息をついた。その背後から、声が掛けられた。  「それで――。やっぱり、気になる?」  セレイエは、やや困ったような顔をしていた。状況から考えて、見なかったことにしてほしいのだろう。どう答えるべきか、スーリンは思案する。しかし、それは徒労に終わった。 「気にならないわけないわよね。聞いた私が、愚かだったわ」  セレイエが自己完結した。 「まぁ、簡単に言えば、私は〈七つの大罪〉の関係者で、さっき見た通りに〈天使〉。それ以上の説明は、聞かないほうが無難なのは分かるわよね?」 「……っ!」  スーリンは自分の顔から、さぁっと血の気が引いていくのが分かった。  こくこくと頷くことしかできなかった。噂でしか知らないが、〈七つの大罪〉は危険だ。多少なりとも裏の世界を知る者なら、関わるべきではないと判断できる。 「ああ、ごめんなさい。怖がる必要はないわ。私の身元はシャオリエさんが保証してくれると思うし、私はあなたに危害を加えるつもりはないの。あなたが狙われることもないから、安心して」 「わ、私……、今日、見たことは、絶対に誰にも言いません!」  気づいたら、スーリンは叫んでいた。セレイエの言ったことなど、半分も耳に入っていなかった。  ただ、不思議なことに、セレイエを怖いと思わなかった。『凄いものを見てしまった』ことは恐ろしいのに、それを起こした彼女には、むしろ心惹かれる。神性を帯びたあの光が、悪いものには思えなかった。 「そう、ありがとう。でも私としては、しばらくの間、内緒にしてくれるだけで充分なの。だから、こうしましょう」  そう言って、セレイエはいたずらを思いついた子供のように笑った。 「遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子」 「え?」  まるで予言のような言葉に、スーリンは戸惑った。けれどもセレイエは、嬉しそうに口元をほころばせている。 「ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない。――その子が現れたら、今日、あなたが見たことを誰に話してもいいわ。だから、それまでは内緒にしてほしいの」  スーリンは何も言うことができなかった。きょとんと、セレイエを見つめるだけだ。 「こういう約束の仕方なら、謎掛けみたいでわくわくするでしょう?」  楽しげに言われても、同意するのは難しい。否、さすがに無理だ。スーリンは返答に窮する。 「それとも、強制的に忘れてもらったほうが、あなたの心の負担が軽いかしら?」 「ど、どういうこと、ですか……?」  不穏な発言に、スーリンは焦った。適当に相槌を打っておくべきだったのかと後悔する。  セレイエは〈七つの大罪〉の関係者だと名乗った。――〈七つの大罪〉は……、……。恐怖に思考が止まる。  そんなスーリンに、セレイエは「ううん。やめておくわ」と言って、くすりと笑った。 「私の体調も悪いし、ミスがあったら、あなたを廃人にしてしまうもの。それより、あなたを信用するわ」  背筋がひやりとするようなことを平然と言いながら、セレイエは鞄からあの小瓶をもう一本出して、飲み干す。ふぅ、息をつく彼女の顔は、随分と疲弊して見えた。  中身は薬の類なのだろう。  スーリンは先ほど頼まれて鞄を開けたが、中に同じ小瓶がぎっしりと詰まっているのを見た。つまり、それだけ必要になると考えていた――ということになるのだろうか? 「あの、まだ、お辛いんですか?」  恐る恐る、尋ねた。  すると、セレイエがふわりと微笑んだ。今までの、どこか悪ふざけのような表情とは違う、とても綺麗な、心からの笑顔だった。 「ありがとう、大丈夫よ。……優しいのね」  セレイエは緩やかにベッドに近づいた。そして、ルイフォンの髪をくしゃりと撫でた。 「あなたの、その優しさに甘えてしまうことになるけれど――。この子のことをよろしくね……」 「――そのあと、セレイエさんはペンダントが『運命のひと』の目印だと教えてくれて、ルイフォンが目を覚ます前に帰っていったの。けど、目覚めたルイフォンは、セレイエさんが訪ねてきたことを覚えていなかったわ……」  そう言って、スーリンは締めくくった。  メイシアは呆然としていた。信じられないような話だった。 「セレイエさんが、〈天使〉……。どうして〈七つの大罪〉なんかに……」  乾いた声で、呟く。衝撃に、頭がうまく働かない。  セレイエにとって、〈七つの大罪〉は母親のキリファを〈天使〉にした、忌むべき組織だ。近寄るはずがない。まさか、逃げ出したキリファの娘と知られ、捕まって無理やりに……? 「その理由は、シャオリエ姐さんに訊いておいたわ」 「え?」  待ち構えていたかのようなスーリンに、メイシアは軽く目を見開く。 「あの綺麗な〈天使〉というものは、記憶を操る力を研究するための、可哀想な実験体だと教えてもらったわ。――けど、セレイエさんは、生まれつき。生粋の〈天使〉だそうよ」 「っ!」 「〈天使〉だったお母さんから、能力を受け継いでしまったみたい。それで彼女は、自分のことや〈天使〉について知りたくて、自ら〈七つの大罪〉に入ったそうよ」 「……そう、だったんですか」  唐突に与えられた事実に、メイシアは衝撃を受けていた。  ルイフォンは、後天的に与えられた〈天使〉の能力が遺伝するわけない、と言っていた。けれど、セレイエは受け継いでいた……。 「じゃあ、ルイフォンは……? ルイフォンも、いずれは〈天使〉に……?」  メイシアは愕然とし、顔色を変える。 「ううん、シャオリエ姐さんが言うには、彼は違うみたい。彼には〈天使〉の兆候が見られないそうよ」  そうなのか……。  メイシアは、ほっと胸をなでおろすと同時に、いろいろと教えてくれたスーリンに感謝した。 「これを返すわね」  スーリンがペンダントを差し出す。  さらさらと音を立てながら、銀の鎖がメイシアの掌に流れ落ちてきた。馴染みの感触なのに、心にざわつきを覚える。美しい石の煌めきも、どこかそっけなく感じる。  ずっと身につけていたはずの、お守りのペンダント。  けれど、異母弟のハオリュウは、見たことがないと証言した。たった今スーリンが、これはセレイエの持ち物だったと確認した。  メイシアの記憶と矛盾する。……そう『記憶』だ。〈天使〉が関わる出来ごとにおいて、自分の記憶が正しいとは限らない。  ぼんやりと靄がかかったような頭の中が、すっと晴れていく。記憶は戻らなくとも、からくりの構図が見えてきた。  ――ホンシュアだ。  熱暴走によって亡くなった〈天使〉。セレイエの〈影〉だったと思われる人物。  メイシアは、一度だけ彼女と会っている。実家の藤咲家に、仕立て屋として現れた。父と異母弟が囚われ、困りきっていたメイシアに近づき、鷹刀一族のもとへ行くようにそそのかした。  ペンダントは、そのときに渡されたのだ。受け取ったという記憶は消され、代わりに『お守りとして、ずっと持っていた』という記憶を刻まれて。  こうしてペンダントはメイシアの手に渡り、ルイフォンとの運命の出逢いが果たされる。セレイエの予言通りに――。  そこまで考えて、メイシアは、はっとした。  違う。ホンシュアは、イーレオに『貴族シャトーア令嬢誘拐の罪』を着せるために、メイシアを鷹刀一族の屋敷に向かわせたのだ。メイシアがルイフォンと出逢ったのは、その結果に過ぎない。  けれど、ホンシュアの言葉がなければ、貴族シャトーアのメイシアは、凶賊ダリジィンのルイフォンと知り合うことはなかった。  ――つまり、一連の事件そのものが、ふたりを巡り合わせるために仕組まれた……? 「メイシア? 顔色が悪いわ」  大丈夫? と、心配そうに覗き込むスーリンによって、メイシアは現実に引き戻された。 「あのね、メイシア。私、本当は、一生、誰にも言うつもりはなかったの。だって、〈七つの大罪〉が関わる話だもの、口にしないほうが無難だわ。だから、あなたに初めて会ったときに『運命のひと』だと思っても、姐さんにも誰にも、何も言わなかったのよ」  スーリンは一度そこで言葉を切り、じっとメイシアを見つめた。 「けど、あなたの家に起きた悲劇の顛末を聞いて、考えを改めたの。これは、私が握りつぶしていい情報じゃないわ」  淡々とした口調だった。けれど、ぱっちりとした目が、確かにメイシアを思いやっていた。 「どう? 少しは役に立ったかしら?」 「はい。とても重要な情報でした。どうもありがとうございました」  メイシアは、心からの感謝を込めて、スーリンに頭を下げる。 「そう。よかったわ」  ふっと緩んだ表情が、今までの深刻さを消し去る。 「私としては、姐さんからイーレオ様に伝えてもらうつもりだったんだけど、姐さんは、私からあなたに話すべきだと言い張って。それで、あなたがこの店に来るかどうかの賭けになったの。勝ったほうの意見に従う約束でね。――いろいろ、ごめんなさいね」  と、そのとき。部屋の外がにわかに騒がしくなった。階段を駆け上がってくる気配に続き、廊下を走る足音が響く。 「おい、スーリン! ここを開けろ!」  どんどんどんどん、と。扉が揺れた。  聞き慣れたテノールに、メイシアの胸が締め付けられる。  ――ルイフォン……!  喧嘩したのに、彼を傷つけるような言動をとったのに、心配して来てくれたのだ。 「ああ! もうっ! 絶対、私がメイシアをいじめていると思っているわ! こういうのが面倒臭いから、姐さんから話を持っていってほしかったのに!」  スーリンが、ルイフォンには聞こえないように小声で文句を言う。そして、いつもの黄色い声に戻って、扉に向かって叫んだ。 「鍵が掛かっているの! 無理に開けないでよ!」 「それが分かっているから、開けろって言ってんだ!」 「だったら、ちょっとくらい待ちなさいよ! 扉が壊れちゃうわ!」  怒鳴り声の応酬をしながらも、スーリンは手早く髪をまとめ、いつもの元気なポニーテールを仕上げた。 「メイシア、いい?」  スーリンが、ずいと身を乗り出し、メイシアに迫る。 「私の正体は、言っちゃ駄目だからね! うまく、私に話を合わせるのよ!」  隠しごとのできないメイシアに対し、頼もしい『仲良しの女友達』は、なかなか難しい命令を言い残して、扉に向かって走っていった。



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 四年前――。  シャオリエの知り合いだという少年は、徐々に笑うようになった。この店に運び込まれた当初は、抜け殻のようにベッドに座っているだけだったことを思い返すと、見違えるようだった。  本来の彼は明朗快活な性格であるという話も、嘘ではないのだろう。スーリンにも、そう信じられるようになってきた。  そんなある日だった。彼――ルイフォンの異父姉だという女性が店を訪ねてきたのは。  彼女は、ひと目見て鷹刀の血族と分かる、美麗な容姿をしていた。年の頃は、二十歳くらいだろうか。ルイフォンとは、少し歳が離れていた。 「……っ!? セレイエ?」  シャオリエが真顔で驚いた。それが、笑い顔に歪んだかと思うと、いつもの喰えない瞳に、うっすらと涙が浮かび上がる。  わけありなのだと、スーリンは察した。  それとなく聞こえた会話によれば、母親が強盗に襲われたことを知ったセレイエが、残された異父弟のところに駆けつけた、ということらしい。けれど、彼を引き取りに来たわけではないようだ。  それ以上のことは分からなかった。ただ、シャオリエが余計な詮索はしない、という態度なのが読み取れた。  つまりセレイエは、『そういう世界にいる人』だ。鷹刀一族の人間なら、そんなこともあるだろう。スーリンだって、大手を振れる立場でもない。だから、気にすることでもないと思った。  シャオリエとの挨拶が終わったセレイエを、スーリンがルイフォンのもとへ案内することになった。  どうやら、この異父姉弟が会うのは随分と久しぶりらしい。  母親を失ったショックから、だいぶ立ち直りかけているとはいえ、まだまだルイフォンは不安だらけだろう。身内の来訪は心強いに違いない。  この美しい異父姉を見たら、彼はどんな顔をするのだろうか。泣くのだろうか、甘えるのだろうか。それとも、強がりを言って困らせるのだろうか。  彼の反応はとても気になる。だが、スーリンはシャオリエと違って悪趣味ではないのだ。感動の再会は、ふたりきりにしてあげるべきだろう。  だから、スーリンは部屋の前で立ち止まった。扉は開けずに。 「あとで、お茶をお持ちしますから、お話の区切りのよいところでお呼びくださいね」  そう言って、セレイエに頭を下げ、さっと隣室に控えたのだった。  ……どのくらい時間が経っただろうか。隣の部屋から、どたん、と大きな音がした。何かが倒れたような感じだった。  椅子でも倒したのだろうか。――そう思ったとき、低いうめき声が響いてきた。  スーリンはその声を知っていた。最近はあまり聞かなくなったが、ルイフォンが来たばかりのころ、夜な夜な彼がうなされていたときの声だった。  フラッシュバックだ。  即座にそう思った。母親のことを異父姉に説明している途中で、恐怖と衝撃を思い出してしまったのだろう。  スーリンは迷わず駆け出した。  理由は知らないが、こうなったときのルイフォンは、母親の形見の鈴を見せると落ち着くのだ。だから、その鈴を髪飾りの一部にして、彼の身に着けさせている。それをセレイエに教えなくては、と思った。  扉を開けた瞬間、スーリンは「きゃぁっ!」と、悲鳴を上げた。  熱気の塊が襲ってきたのだ。  空気に弾き飛ばされるという感覚を、初めて味わった。ちりちりと肌がける。 「な、何、これ……?」  部屋の景色が、陽炎のように揺らめいた。そこには、ルイフォンもセレイエもおらず、高熱を発する光のたまだけが存在した。  強く弱く、たまは緩やかに明暗を繰り返す。それは生命の息吹にも似ており、たまではなく羽化を待つ繭のようにも感じられた。不可思議な、恐ろしいものであるはずなのに……神々しい。  スーリンは瞬きを忘れ、聖なる輝きに魅入られた。  ふと。  たまの一部が、たわんだように見えた。そう思った刹那、繭を形成していた光がほどけ、糸となって漂う。やがて光の糸は、まったく別の形状をとった。それはまるで――。 「光の、天使……」  まさに、その言葉がふさわしい姿が、そこにあった。  光を紡ぎ合わせて作ったような羽をまとう、絶世の美女。濡れたようにつやめく漆黒の髪は、光を弾いて白金に輝く。 「見られちゃった……」  天使の姿をしたセレイエが、肩をすくめて微笑んだ。と同時に、苦しげに息を吐きながら、ふらりと倒れる。 「セレイエさん!」  駆け寄ろうとしたスーリンを、セレイエは手を付き出して制する。虚ろに潤んだ瞳で見上げ、途切れ途切れに声を出した。 「火傷……する、わ。それ、より……私の鞄から、小瓶を……」  何が起きているのか。その疑問を口にするより先に、セレイエの言葉に従うべきだと、体が動いた。スーリンは、言われるままに小瓶を探し、セレイエに渡す。  セレイエに近づいたとき、『火傷する』の意味を理解した。彼女の体は、人間ではあり得ないほどの高熱を発していた。 「ありがとう……」  手と手が触れないよう、つまむようにして小瓶を受け取ったセレイエは、一気に中身を飲み干した。 「――!」  スーリンが最初に感じた変化は、肌の感覚だった。部屋中から、ちりちりと感じていた熱の痛みがなくなった。  はっとセレイエを見ると、落ち着いた、和らいだ顔になっていた。そして、背中に吸い込まれていくように、光の羽が消えていく。まるで、今まで幻を見ていたのかと疑いたくなるほどに、跡形あとかたもなく……。 「驚かせてごめんなさいね」  ばつの悪そうな顔で、セレイエは前髪をくしゃりと掻き上げた。見るからに大人の女性といった雰囲気なのに、照れ隠しのような仕草が可愛らしい。  ――が、そういう問題ではなくて……! 「セ、セレイエさん、今のは……」 「その前に、ルイフォンを動かすの、手伝ってくれる? 完全に意識がないから、ひとりじゃ無理だと思うの」  そのとき初めて、スーリンは床に横たわるルイフォンに気づいた。 「きゃああ! ルイフォン!?」 「大丈夫よ。もう落ち着いているから」  セレイエの言葉には半信半疑だったが、ともかくふたりで彼をベッドに運んだ。  スーリンは枕元で膝を付き、ルイフォンの顔を見つめた。頬は青白く、額は汗で猫毛が張り付き、妙に色めいている。  呼吸は安定していた。倒れている彼を見たときには、心臓が止まるかと思ったが、どうやら本当に大丈夫そうだった。  スーリンは、ほっと息をついた。その背後から、声が掛けられた。  「それで――。やっぱり、気になる?」  セレイエは、やや困ったような顔をしていた。状況から考えて、見なかったことにしてほしいのだろう。どう答えるべきか、スーリンは思案する。しかし、それは徒労に終わった。 「気にならないわけないわよね。聞いた私が、愚かだったわ」  セレイエが自己完結した。 「まぁ、簡単に言えば、私は〈七つの大罪〉の関係者で、さっき見た通りに〈天使〉。それ以上の説明は、聞かないほうが無難なのは分かるわよね?」 「……っ!」  スーリンは自分の顔から、さぁっと血の気が引いていくのが分かった。  こくこくと頷くことしかできなかった。噂でしか知らないが、〈七つの大罪〉は危険だ。多少なりとも裏の世界を知る者なら、関わるべきではないと判断できる。 「ああ、ごめんなさい。怖がる必要はないわ。私の身元はシャオリエさんが保証してくれると思うし、私はあなたに危害を加えるつもりはないの。あなたが狙われることもないから、安心して」 「わ、私……、今日、見たことは、絶対に誰にも言いません!」  気づいたら、スーリンは叫んでいた。セレイエの言ったことなど、半分も耳に入っていなかった。  ただ、不思議なことに、セレイエを怖いと思わなかった。『凄いものを見てしまった』ことは恐ろしいのに、それを起こした彼女には、むしろ心惹かれる。神性を帯びたあの光が、悪いものには思えなかった。 「そう、ありがとう。でも私としては、しばらくの間、内緒にしてくれるだけで充分なの。だから、こうしましょう」  そう言って、セレイエはいたずらを思いついた子供のように笑った。 「遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子」 「え?」  まるで予言のような言葉に、スーリンは戸惑った。けれどもセレイエは、嬉しそうに口元をほころばせている。 「ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない。――その子が現れたら、今日、あなたが見たことを誰に話してもいいわ。だから、それまでは内緒にしてほしいの」  スーリンは何も言うことができなかった。きょとんと、セレイエを見つめるだけだ。 「こういう約束の仕方なら、謎掛けみたいでわくわくするでしょう?」  楽しげに言われても、同意するのは難しい。否、さすがに無理だ。スーリンは返答に窮する。 「それとも、強制的に忘れてもらったほうが、あなたの心の負担が軽いかしら?」 「ど、どういうこと、ですか……?」  不穏な発言に、スーリンは焦った。適当に相槌を打っておくべきだったのかと後悔する。  セレイエは〈七つの大罪〉の関係者だと名乗った。――〈七つの大罪〉は……、……。恐怖に思考が止まる。  そんなスーリンに、セレイエは「ううん。やめておくわ」と言って、くすりと笑った。 「私の体調も悪いし、ミスがあったら、あなたを廃人にしてしまうもの。それより、あなたを信用するわ」  背筋がひやりとするようなことを平然と言いながら、セレイエは鞄からあの小瓶をもう一本出して、飲み干す。ふぅ、息をつく彼女の顔は、随分と疲弊して見えた。  中身は薬の類なのだろう。  スーリンは先ほど頼まれて鞄を開けたが、中に同じ小瓶がぎっしりと詰まっているのを見た。つまり、それだけ必要になると考えていた――ということになるのだろうか? 「あの、まだ、お辛いんですか?」  恐る恐る、尋ねた。  すると、セレイエがふわりと微笑んだ。今までの、どこか悪ふざけのような表情とは違う、とても綺麗な、心からの笑顔だった。 「ありがとう、大丈夫よ。……優しいのね」  セレイエは緩やかにベッドに近づいた。そして、ルイフォンの髪をくしゃりと撫でた。 「あなたの、その優しさに甘えてしまうことになるけれど――。この子のことをよろしくね……」 「――そのあと、セレイエさんはペンダントが『運命のひと』の目印だと教えてくれて、ルイフォンが目を覚ます前に帰っていったの。けど、目覚めたルイフォンは、セレイエさんが訪ねてきたことを覚えていなかったわ……」  そう言って、スーリンは締めくくった。  メイシアは呆然としていた。信じられないような話だった。 「セレイエさんが、〈天使〉……。どうして〈七つの大罪〉なんかに……」  乾いた声で、呟く。衝撃に、頭がうまく働かない。  セレイエにとって、〈七つの大罪〉は母親のキリファを〈天使〉にした、忌むべき組織だ。近寄るはずがない。まさか、逃げ出したキリファの娘と知られ、捕まって無理やりに……? 「その理由は、シャオリエ姐さんに訊いておいたわ」 「え?」  待ち構えていたかのようなスーリンに、メイシアは軽く目を見開く。 「あの綺麗な〈天使〉というものは、記憶を操る力を研究するための、可哀想な実験体だと教えてもらったわ。――けど、セレイエさんは、生まれつき。生粋の〈天使〉だそうよ」 「っ!」 「〈天使〉だったお母さんから、能力を受け継いでしまったみたい。それで彼女は、自分のことや〈天使〉について知りたくて、自ら〈七つの大罪〉に入ったそうよ」 「……そう、だったんですか」  唐突に与えられた事実に、メイシアは衝撃を受けていた。  ルイフォンは、後天的に与えられた〈天使〉の能力が遺伝するわけない、と言っていた。けれど、セレイエは受け継いでいた……。 「じゃあ、ルイフォンは……? ルイフォンも、いずれは〈天使〉に……?」  メイシアは愕然とし、顔色を変える。 「ううん、シャオリエ姐さんが言うには、彼は違うみたい。彼には〈天使〉の兆候が見られないそうよ」  そうなのか……。  メイシアは、ほっと胸をなでおろすと同時に、いろいろと教えてくれたスーリンに感謝した。 「これを返すわね」  スーリンがペンダントを差し出す。  さらさらと音を立てながら、銀の鎖がメイシアの掌に流れ落ちてきた。馴染みの感触なのに、心にざわつきを覚える。美しい石の煌めきも、どこかそっけなく感じる。  ずっと身につけていたはずの、お守りのペンダント。  けれど、異母弟のハオリュウは、見たことがないと証言した。たった今スーリンが、これはセレイエの持ち物だったと確認した。  メイシアの記憶と矛盾する。……そう『記憶』だ。〈天使〉が関わる出来ごとにおいて、自分の記憶が正しいとは限らない。  ぼんやりと靄がかかったような頭の中が、すっと晴れていく。記憶は戻らなくとも、からくりの構図が見えてきた。  ――ホンシュアだ。  熱暴走によって亡くなった〈天使〉。セレイエの〈影〉だったと思われる人物。  メイシアは、一度だけ彼女と会っている。実家の藤咲家に、仕立て屋として現れた。父と異母弟が囚われ、困りきっていたメイシアに近づき、鷹刀一族のもとへ行くようにそそのかした。  ペンダントは、そのときに渡されたのだ。受け取ったという記憶は消され、代わりに『お守りとして、ずっと持っていた』という記憶を刻まれて。  こうしてペンダントはメイシアの手に渡り、ルイフォンとの運命の出逢いが果たされる。セレイエの予言通りに――。  そこまで考えて、メイシアは、はっとした。  違う。ホンシュアは、イーレオに『貴族シャトーア令嬢誘拐の罪』を着せるために、メイシアを鷹刀一族の屋敷に向かわせたのだ。メイシアがルイフォンと出逢ったのは、その結果に過ぎない。  けれど、ホンシュアの言葉がなければ、貴族シャトーアのメイシアは、凶賊ダリジィンのルイフォンと知り合うことはなかった。  ――つまり、一連の事件そのものが、ふたりを巡り合わせるために仕組まれた……? 「メイシア? 顔色が悪いわ」  大丈夫? と、心配そうに覗き込むスーリンによって、メイシアは現実に引き戻された。 「あのね、メイシア。私、本当は、一生、誰にも言うつもりはなかったの。だって、〈七つの大罪〉が関わる話だもの、口にしないほうが無難だわ。だから、あなたに初めて会ったときに『運命のひと』だと思っても、姐さんにも誰にも、何も言わなかったのよ」  スーリンは一度そこで言葉を切り、じっとメイシアを見つめた。 「けど、あなたの家に起きた悲劇の顛末を聞いて、考えを改めたの。これは、私が握りつぶしていい情報じゃないわ」  淡々とした口調だった。けれど、ぱっちりとした目が、確かにメイシアを思いやっていた。 「どう? 少しは役に立ったかしら?」 「はい。とても重要な情報でした。どうもありがとうございました」  メイシアは、心からの感謝を込めて、スーリンに頭を下げる。 「そう。よかったわ」  ふっと緩んだ表情が、今までの深刻さを消し去る。 「私としては、姐さんからイーレオ様に伝えてもらうつもりだったんだけど、姐さんは、私からあなたに話すべきだと言い張って。それで、あなたがこの店に来るかどうかの賭けになったの。勝ったほうの意見に従う約束でね。――いろいろ、ごめんなさいね」  と、そのとき。部屋の外がにわかに騒がしくなった。階段を駆け上がってくる気配に続き、廊下を走る足音が響く。 「おい、スーリン! ここを開けろ!」  どんどんどんどん、と。扉が揺れた。  聞き慣れたテノールに、メイシアの胸が締め付けられる。  ――ルイフォン……!  喧嘩したのに、彼を傷つけるような言動をとったのに、心配して来てくれたのだ。 「ああ! もうっ! 絶対、私がメイシアをいじめていると思っているわ! こういうのが面倒臭いから、姐さんから話を持っていってほしかったのに!」  スーリンが、ルイフォンには聞こえないように小声で文句を言う。そして、いつもの黄色い声に戻って、扉に向かって叫んだ。 「鍵が掛かっているの! 無理に開けないでよ!」 「それが分かっているから、開けろって言ってんだ!」 「だったら、ちょっとくらい待ちなさいよ! 扉が壊れちゃうわ!」  怒鳴り声の応酬をしながらも、スーリンは手早く髪をまとめ、いつもの元気なポニーテールを仕上げた。 「メイシア、いい?」  スーリンが、ずいと身を乗り出し、メイシアに迫る。 「私の正体は、言っちゃ駄目だからね! うまく、私に話を合わせるのよ!」  隠しごとのできないメイシアに対し、頼もしい『仲良しの女友達』は、なかなか難しい命令を言い残して、扉に向かって走っていった。



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