6.かがり合わせの過去と未来-1
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ユイランの部屋は二階だと、シャンリーは言った。 のんびりと、庭を散歩でもするかのような調子で、シャンリーは廊下を歩く。途中で綺麗な刺繍の壁飾りを示しては、ユイランの作であると誇らしげに教えてくれた。 けれど、メイシアはそれどころではなかった。心臓は激しく高鳴り、手足は震えて感覚がない。 チャオラウが運転手だった時点で、よもぎあんパンを届けることは名目に過ぎないと察していた。やがて、この家の人々の様子から、ルイフォンと関係の良くないユイランに会うことこそが、訪問の目的であると確信した。 そして今まさに、そのユイランと対面しようとしている。 瑞々しいはずの白磁の肌は、血の気が引いて白蝋のようになっており、花の顔は造花のように生気が失せていた。 「そんなに緊張しないでくれ……」 シャンリーが、困ったようにベリーショートの髪を掻き上げる。 一流の舞い手だからだろうか。何気ない仕草に華がある。ただし、女らしさとは別物ではあるが。 「ユイラン様は、お前に会えるのを、それはもう楽しみにしてらっしゃるんだ」 「楽しみ……?」 にわかには信じられない。――その気持ちが表に出たのだろう。シャンリーが深い溜め息をつく。 「だから、そんな顔をしないでおくれよ。――ったく、リュイセンといい、お前といい……。ユイラン様がお可哀想だ」 「リュイセン様……?」 そういえば、とメイシアは思う。 リュイセンはずっと、先ほどの応接室にいた。けれど、ひと言もなかった。 「リュイセン様は、どうかされたのでしょうか……?」 「うん、まぁ。……リュイセンは、母親のユイラン様とうまくいってなくてな。だから『ちょっと、いい話』をしてやったら、思った以上の効果があって放心状態になっちまった」 「え……?」 「気になるなら、落ち着いたときにでもリュイセンに訊くといい。あいつは他人には冷たいが、お前のことは身内だと思っているようだから教えてくれるだろう」 ふくれっ面くらいはするだろうけどな、とシャンリーは少しだけ意地悪く笑う。 メイシアの顔も、つられてほころんだ。そして、気づいた。ゆっくりとした歩調は、萎縮に震えるメイシアの心をほぐすためだ。 理由もなく脅えていないで、歩み寄ってほしい。――シャンリーの無言の声が聞こえる。 「あの……、ユイラン様はどんなお方なのでしょうか?」 メイシアがおずおずと口を開くと、シャンリーは軽く目を見張り、続けて破顔した。 「お優しい方だよ。私など、赤ん坊のころから世話になっている」 「そんなに小さなときから……?」 「ああ。私は乳飲み子のときに、叔父のチャオラウに引き取られてな――」 何を思ったのか、そこでシャンリーはにやりと口角を上げた。 「考えてもみろ、あの親父殿が赤ん坊の世話などできるわけないだろう? ミルクすらまともに飲ませられない養父に、私は生命の危機を覚えてユイラン様に泣いて助けを求めたんだ。――乳を寄越せ、と」 「え?」 「――というのは、イーレオ様があとになって冗談交じりに言ったことだが……要するに親父殿のあまりの不甲斐なさに、見かねたユイラン様が赤ん坊の私の世話を申し出てくださったんだ」 同じ歳のレイウェンのいたユイランが、乳母代わりになってくれたのだという。――主従が逆転している。 メイシアは、ますます分からなくなった。 勝手な想像であるが、ルイフォンの母と険悪だったらしいことから、ユイランは冷たい女性だと思っていたのだ。それが、どうも違うらしい。 「案ずるな。会ってみれば分かる」 すっかり困惑顔のメイシアに、シャンリーは豪快に笑った。 「ユイラン様は、この奥の部屋にいらっしゃる」 そう言って通されたのは、ユイランの作業場のひとつ、という部屋だった。 そこは、まるで賑やかな園遊会が催されているかのようであった。 色鮮やかな衣服を身に着けた人形模型たちが、華麗なる群舞を繰り広げる。誰もが誇らしげに胸を張り、美しさを主張する。――躍動感あふれる姿は今にも動き出しそうで、本当はくるくると踊っているところを瞬間的に切り出したのではないかと錯覚してしまいそうだった。 メイシアは、ひと目で魅入られた。 しかもよく見れば、人形模型たちは必ずしも恵まれた体型をしているわけではなかった。 太すぎたり、細すぎたり、高すぎたり、低すぎたり……。けれど、彼女たちの衣装には絶妙な位置に切り替えが施され、あるいは優美なギャザーが入り、体型など些末な問題にしてしまっている。そうして、彼女たちは自由で気まま、自然な美を楽しんでいるのだ。 踊りの輪の間を、まるでステップでも踏むかのようにシャンリーは軽やかにすり抜けた。メイシアも遅れじと追いかける。 シャンリーが続き部屋の戸をノックすると「どうぞ」の声が返ってきた。 扉を開くと、先ほどの園遊会とは打って変わった、落ち着いた色合いが広がった。素朴で温かみのある生成りの壁紙に、明るい木目の床。手紡ぎ糸のカーテンが淡く陽光を遮る。 その中に、ひとりの女性がいた。 彼女は机に向かって何か書き物をしていたらしい。メイシアたちが部屋に入ると、眼鏡を外し椅子から立ち上がった。 「ようこそ、メイシアさん。お呼び立てしてごめんなさいね」 鷹刀一族の血縁らしく、すらりと背の高い人だった。顔立ちは、どことなくミンウェイに似ており、彼女が齢を重ねたらこうなるであろう姿をしている。 ユイランの外見は想像していた通りであった。だが同時に、想像とはかけ離れてもいた。だからメイシアは、ほんの一瞬、足を止めてしまった。 それは本当に、瞬きひとつほどの時間だった。けれども、鷹刀一族の血を引くユイランが、わずかといえどメイシアの逡巡に気づかぬはずもなかった。 綺麗に結い上げた銀髪を傾け、ユイランは上品に微笑む。ブラウスの胸元のドレープがさらさらと柔らかく流れた。 「エルファンの配偶者が、こんなにお婆ちゃんだなんて、驚いたでしょう?」 「い、いえ! そんな!」 メイシアは心臓が止まるかと思った。悲鳴のような声を上げながら、激しく首を横に振る。 「そんなに脅えないで。気にしているわけではないのよ。実際、クーティエのお婆ちゃんですものね。――というより、エルファンが若すぎるのよ。彼、私よりも十は年下なんだから」 すねたように口を尖らせ、くったくなくユイランが笑う。 メイシアは、どうしたらよいのか分からなかった。貴族の令嬢としてなら、気の利いた世辞を返すべきだろう。けれど、今の彼女にそれが求められているとは思えない。 狼狽するメイシアに、しかしユイランは気にする素振りも見せず、手招きをして椅子を勧める。切れ長の目が、何故だかきらきらと楽しげに輝いていた。 案内の役目を終えたシャンリーが退室の礼を取ると、「あなたもいたほうが、メイシアさんも気楽でしょう」と、ユイランはにこやかに引き止めた。 「さて、メイシアさん」 メイシアが向かいに座ると、ユイランは早速とばかりに口火を切った。 「どうして私があなたを呼んだのか、気になっているわよね?」 「――はい」 体は震えていた。けれど、何も言えないままでいるのは、ユイランに失礼だ。何より、自分自身が情けない。だから、先ほどのような見苦しい狼狽は繰り返すまいと、メイシアは凛と答えた。 そんな彼女に、ユイランは嬉しそうに微笑む。そして、すっと指を三本立てた。 「私の用件は、三つ」 美麗な声が、ゆっくりと響く。 「ひとつ目は、とても素敵なことよ。――さる方から、メイシアさんに服を仕立てるように依頼されたのよ。だから、その採寸をさせてほしいの」 メイシアは数秒の間、声が出なかった。 まるきり予想外で、拍子抜けしそうな用件だった。 「私に……服、ですか?」 「ええ。あなたに似合う、とっておきを作るわ。私、凄く楽しみなの」 ユイランは、腕まくりのような動作を示す。 言葉は柔らかいが、自信に満ちた口元がすっと上がった。プライドにかけて最高の品を作ると、その目が言う。 彼女に服を頼んだのは、誰であろうか? そう疑問を浮かべ、すぐに考えるまでもない、とメイシアは思った。――イーレオ以外、あり得ないだろう。 「――けど、今のあなたにとって気になるのは、ふたつ目と三つ目のほうだと思うわ」 切れ長の目が、じっとメイシアを捕らえる。白髪混じりの長い睫毛が、わずかに上がった。 それだけで、空気の色が変わる。自然体を好むらしいユイランに、化粧っ気はない。けれど、もともとの造形の美しさに加え、中からにじみ出る気高さが、彼女の持つ雰囲気を迫力あるものにしている。 ユイランから感じるのは敵意ではない。むしろ、彼女は好意的だ。なのに、メイシアは肌にざわつきを覚えた。 「その前に、あなたに言っておかなければならないことがあるの」 「なんでしょうか」 「これはたぶん、若い世代のリュイセンやルイフォンは知らないこと。……リュイセンのほうは、今ごろお兄ちゃんから教えてもらっていそうだけどね」 ふふ、とユイランは笑った。しかし、すぐに口元を引き締め、メイシアに涼やかな瞳を向ける。 「今、鷹刀の周りをうろついているミンウェイの父親、ヘイシャオ。あなたには〈蝿〉と言ったほうがいいかしら? ――彼は、私の弟なの」 「え……?」 「つまり、あなたにとって、私は『お父さんの仇』の姉、ということになるわ」 何を言われたのか、即座には理解できなかった。 黒曜石の瞳を見開き、メイシアはユイランを見つめる。 「〈蝿〉……」 かすれた声が漏れる。 ここで、その名を聞くとは思ってもいなかった。 「私のことが嫌いになってしまったかしら? それなら、それで構わないのよ。悪く思ったりはしないわ」 ユイランの声は、激しい耳鳴りに邪魔されて、途切れ途切れに届いた。メイシアは肩を丸め、ぎゅっと胸元のペンダントを握りしめる。 不意を衝れたような気持ちだった。 〈蝿〉に関しては、相手の出方を待つ形で保留となっていた。忘れかけていた不安が蘇り、目に見えぬざらついた手が心臓を鷲掴みにする。 「……」 ――違う。 忘れてはいけなかったことだ。 今聞いたことは、とても大切な『情報』だ。ルイフォンなら目の色を変えたはずだ。 身内であるユイランは、〈蝿〉のことをよく知っている。もし、この場にルイフォンがいたなら、ユイランと母親との確執は横に置いて、冷静に〈蝿〉のことを聞き出すだろう。 だから、今は動揺している場合ではない。ユイランと話をするのだ。ルイフォンのように、ルイフォンの代わりに――。 メイシアはすっと目線を上げた。そして、花がほころぶように微笑む。 「メイシアさん……?」 「お気遣い、ありがとうございます。けれど、たとえご姉弟でも、あなたと〈蝿〉は別の人です」 心が落ち着いてくると、頭も回ってくる。 〈蝿〉は、イーレオが不当に総帥位を奪ったとして恨んでいる。それならば〈蝿〉の姉であるユイランにとっても、イーレオは憎しみの対象ではないのだろうか? けれど、イーレオとユイランは信頼関係にあるように思える。そうでなければイーレオは、メイシアとユイランを引き合わせたりしない。 そう考えてメイシアは、はっとした。 「……ユイラン様のご用件のふたつ目。ひょっとして、イーレオ様からのご指示ですか? 私に〈蝿〉のことを話すように、という――」 「あら……」 ユイランは思わず声を漏らし、上品な仕草で口元に指先を当てた。目尻が下がり、優しい皺が寄る。 「敏い子だとは聞いていたけれど、本当ね」 肩をすくめ、けれど嬉しそうに「参ったわ」と首を振る。 「つくづく、あなたにはルイフォンと共に、鷹刀に残ってほしかったと思うわ。ルイフォンたら、キリファさんにそっくりで思い切りがいいんだから……」 「え?」 メイシアは違和感を覚えた。 ユイランと、ルイフォンの母親キリファは仲が悪かったのではないだろうか。それが、随分と親しげな物言いである。 「あなたへの用件のふたつ目は、だいたいあっているわ。正確には、過去の鷹刀のことをあなたに話してほしい、とのイーレオ様のご依頼よ。漠然と『過去のこと』と言われても、困ってしまうのだけどね」 そう言って、ユイランは机の上の書き物を示す。何を話せばよいのかまとめていたらしい。 「イーレオ様も、突然、現れたヘイシャオ――〈蝿〉については心を痛めてらっしゃるわ。だから、あなたを頼りたいのよ。そのためには、まず鷹刀という家について知ってもらいたい、ということね」 「何故、私などを頼りに……?」 「あら? あなたから『イーレオ様のお役に立つ権利がある』と言ったのでしょう?」 ユイランが、とても嬉しそうに声をはずませる。一族の力になろうとしてくれるメイシアを、純粋に喜んでいるらしい。 「!」 メイシアは、自分の行き過ぎた態度を思い出し、赤面した。 その発言は、少し前の月が綺麗な日に、イーレオとふたりきりで話したときのものだ。あの夜、イーレオから重大な事実をほのめかされたのだ……。 「そしてね、キリファさんの死と、死んだはずのヘイシャオが再び現れたことは、無関係ではないはずなのよ」 ユイランは強い目で、きっぱりと言い切った。メイシアは戸惑い、声を失う。 少しの間をおいて、ユイランは表情を和らげた。 「このことは、三つ目の用件と関わりがあるの」 「三つ目の用件?」 「ええ、私からあなたへの依頼。――届け物をしてほしいの」 よもぎあんパンに引き続き、またしても『届け物』とは……? メイシアが小首をかしげると、ユイランは軽く口元をほころばせた。 「預かったときには、リュイセンにでも頼めばいいかと思っていたのだけど、今ならあなたにお願いするのが一番ふさわしいわ」 「……どんな、お届け物でしょうか?」 メイシアは、おずおずと尋ねる。 「四年前、キリファさんが亡くなる少し前に、彼女が私に預けた……ルイフォンへの手紙」 「え……?」 思いもよらぬ『届け物』だった。 亡くなったキリファが手紙を遺していた。しかも、不仲であったはずのユイランに託した……。 メイシアは、ごくりと唾を呑み込む。 「この手紙をルイフォンに渡すには、条件があったの」 「条件……ですか?」 胸騒ぎがした。そして、それはすぐに衝撃に変わる――。 「『女王の婚約が決まったら』――キリファさんはそう言ったのよ」 「――っ!」 「つまりキリファさんは、女王陛下のご婚約を契機に、何かが起こることを知っていたことになるわ」 女王の婚約が決まり、藤咲家が婚礼衣装担当家に選ばれた。 妬んだライバルの厳月家が斑目一族を雇い、藤咲家を窮地に陥れた。その裏で糸を引いていたのは――〈蝿〉……。 『発端は、女王だ』 『まだトップシークレットだが……。女王の結婚が決まった』 耳の中に、ルイフォンのテノールが蘇る。 あの日――。 メイシアが鷹刀一族の屋敷を訪れ、ルイフォンと出逢った運命の日。 調査報告として、彼はそう告げた。 すべては、『女王の婚約』から始まっていた……。
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