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6.哀に溶けゆく雨雫-2

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 ふと、空を見たくなった。  だから、ルイフォンはテラスに出た。ガーデンチェアーに身を預け、天を仰ぐ。  けれど、そこに青い空はなかった。  薄暗い雲が広がっていく。ところどころに濃淡を作りながら流れていくのに、気づけば、世界は単調な灰色一色に塗り替わっている。  曇天が、そのまま落ちてきそうな錯覚に見舞われ、目眩がしてきた。ルイフォンは逃げるように目線を下げる。庭を見やると、芝で覆われているはずのそこは、一面の桜の花びらで埋め尽くされていた。  鷹刀一族の屋敷の大樹ほど立派ではないが、この庭にも桜がある。定期的に庭師に手入れを頼んでいるのだが、昨日から今日にかけて一気に散った花びらは、まだ手付かずの状態のようだった。  これは酷いなと、彼は溜め息をつく。いつもなら、すぐにも庭師を呼ぶところだが――。今は人に会いたくなかった。  おそらく、近いうちに彼を心配したミンウェイあたりがやってくるだろう。だからルイフォンは、家の玄関扉は勿論、門扉も〈ケル〉によってロックした。よって現在、この屋敷は彼以外、何人なんびとたりとも立ち入ることはできなくなっている。 「……ごめんな」  届くわけもない謝罪を口にする。  遠くから、重い雨の匂いがした。大気の苦い圧力を感じ、彼は背を丸める。  ――彼女の父親を殺害した。  取り返しの付かないことをした。  殺すことだけが解決策だと思い込んだ。それが救いになるのだと信じ込んだ。  けれど、父親は子供たちを忘れていなかった。 『君たちの顔を見たい』――そう願った。  最後に『見えてきた』と言っていたが、あれは嘘だ。あの状況で目が見えるわけがない。だから、あの言葉は子供たちを悲しませないための愛情だ。 「親父さん……、すみません……」  彼と、言葉を交わしたかった。  彼に、『メイシアを一生、大切にします』と、きっぱり宣言したかった。周りに冷やかされながら――祝福されながら。  拳銃を持った手を狙えばよかった。毒なんか塗らなければよかった。  たとえ何年掛かったとしても、必ず元に戻してやると――。  誰がなんと言っても……。 「――俺だけは……、信じるべきだったんだよ!」  拳を握りしめ、ルイフォンは叫ぶ。  固く目をつむり、声にならない声を上げる。  激しく頭を振り、一本に編まれた髪が背で暴れる。けれど金色の鈴は、曇天のもとでは光を放つことはない。  誰も、ルイフォンを責めなかった。  誰ひとり、ルイフォンを責めなかった。 「でも、それじゃ、親父さんは死んで当然、ってことじゃねぇか! 親父さんが可哀想じゃねぇか! なんで、誰も分からねぇんだよ!」  それは、ルイフォンのためだ。残されたルイフォンを傷つけないために、皆が気を遣う。  だから、せめて、自分だけは――。  ――あの穏やかで優しい父親のために、憤り、悼み、悲しみ――責めようと……思ったのだ。  肩を落とし、溜め息をつく。  ルイフォンは、ガーデンチェアーに身を投げ出した。  また、薄暗い空が目に入る――。  不意に、天から雫が降ってきた。  ぽつり、と。ルイフォンの頬を濡らす。 「雨……」  テラスの上にも、細長い筋を伸ばしながら、水滴が落ちてくる。  灰色のコンクリートに、薄黒い点がぽつり、ぽつりと描画されていく。あちらに、こちらに。不規則なようでいて、まんべんなく。たとえ近くに落ちても、決してぴたりと重なることなく――。 「はは……。雨の奴、綺麗な乱数を作りやがる」  そう呟いてから、ルイフォンは馬鹿だな、と思った。自然現象を相手に『乱数を作る』とは変だろう。彼の組むプログラムではないのだ。 「ああ、頭が働いてねぇや。疲れてんのか、俺……」  テラスに現れた点描画は、時々刻々と変化していく。激しくはないものの、すぐには止みそうもない。  ルイフォンは雨空を見上げる。  ――そして、想う。 「メイシア……」  違う世界から舞い込んできた小鳥。  彼女に鳥籠が似合うとは思わない。けれど、彼女が飛ぶべき空は澄み渡った青天であって、渦巻く嵐の荒天ではない。  だから、忘れてほしい。  彼女が嵐に見舞われたのは、ほんの数日。刹那のできごと。  一緒に居た時間は、たったそれだけだから。 「代わりに俺が、一生忘れないから」  癖のある前髪をかすめ、冷たい雨の雫がまぶたを濡らす。頬の曲線をなぞり、顎から滴る。  空が、ルイフォンを包み込む。 「泣く資格のない俺のために、泣いてくれるのか? ――なんて、な……」  メイシアは――。  ――きっと、泣いているだろう……。 「……フォン……」 「ルイ…………ン……」  小鳥がさえずるような、高く澄んだ声が聞こえた。  けれど、それは、彼女を愛おしむ心が求めた幻聴だろう。この屋敷は〈ケル〉によって、外界から固く閉ざされているのだから。  ルイフォンがそう思ったとき、強い風が吹いた。  雨の重みに逆らい、庭を埋め尽くす花びらを盛大に巻き上げる。さわぁ……と、鮮やかに花が歌い、空に舞う。  一度、地に落ちたはずの花々が、再び天に戻り、華やかな薄紅色の花吹雪となって蘇る。 「ルイフォン――!」  花嵐の向こうから、桜の精が現れた。  黒絹の長い髪を風になびかせ、白磁の肌をほんのり桜色に染めて走ってくる。  彼の姿を確認すると、彼女は黒曜石の瞳を輝かせた。 「ルイフォン。私、来たの!」  彼女は肩で息をしながら、彼に叫んだ。 「何もかも、全部、無視して……。――振り切ってきたの……!」 「……メイシア!?」  彼女が口にしたのは、彼女に想いを告げたときに、彼が言った言葉――。 『振り切っちまえよ』 『しがらみも『取り引き』も、全部、無視だ』 『――俺のところに来い』 「だから、あなたも――」  彼は身動きが取れなかった。  透き通るような、凛とした声が雨を払う。たおやかな外見に反する、揺るぎない意志が風を貫く。 「私のところに来て!」  メイシアは、極上の微笑みを彼に向けた。 「私は、あなたが欲しい……!」  さらさらとした黒髪が、優しく頬を縁取る。まろみを帯びた柔らかな表情。長い睫毛を載せた目尻は下がり、淡い唇は緩やかに上っている。  想いが胸を、突き上げた。  彼女の笑顔に吸い込まれる。魅了される。惹きつけられてやまない。彼女の必死なときの顔といえば、泣き顔ばかりが思い浮かぶのに――。 「……なんで、お前、笑っているんだよ」  他に言うべき言葉は、幾らでもあるはずだった。  しかし、彼の口から出たのは、そんな救いようもなく間抜けなもので――その声は、今にも泣き出しそうなほどに震えていた。 「だって……」  答える彼女の声にも、震えが混じる。 「目の前に……、ルイフォンが、居る、から……!」  その瞬間、メイシアの両目から雨雫が落ちた。けれど彼女は、変わらずに笑っていた。  メイシアを雨に濡らすわけにもいかず、ルイフォンはやむを得ず彼女を家に上げた。  玄関に入る際に判明したのだが、〈ケル〉のセキュリティ情報が書き換えられていた。メイシアに、ルイフォンと同等の権限が与えられていたのである。だから彼女は、門扉を通過できたのだ。 〈ケル〉を書き換えた犯人は、鷹刀一族の屋敷の人工知能〈ベロ〉しかあり得ないだろう。ルイフォンは眉を寄せる。  手出ししないと言いながら、何かとちょっかいを出してくる性格。そして、あの口調。〈ベロ〉が誰を元に作られたものか想像がつく。  メイシアを居間に案内し、ルイフォンはタオルを持ってきた。無人の家であるが、週に一度は家政婦に掃除を頼んでいるし、たまに彼が泊まり込んで〈ケル〉のメンテナンスをするので、ある程度のものは揃っている。  彼女は、勧められたソファーの端に小さくなって座っていた。  黒髪に、薄紅の花びらが一枚、くっついていた。彼はそれを取ってやろうと思ったが、肌に貼りつく濡れた髪が妙になまめかしく、思わず唾を呑む。迂闊に触れたりしたら歯止めが効かなくなりそうだった。だから、気づかないふりをした。 「寒くないか?」  わずかに目線をそらしながら、彼はタオルを渡す。本当は、すげなく『すぐに帰れよ』と言うつもりだった。 「ルイフォンこそ。ずっと外にいたんでしょう?」  彼女は首を振り、逆に心配そうに尋ね返す。そして、「あ、花びら」――そう言って、彼の前髪に手を伸ばした。 「……っ!」  反射的に、彼は身を引いた。  触れてはいけない。触れられてはならない。  それは禁忌だ。  体は冷え切っているのに、全身から汗が吹き出す。 「す、すみません」  メイシアは、傷ついた顔をしていた。肩をすぼめ、瞳に萎縮が混じる。言葉遣いが変わる。そんな彼女を見るのが辛くて、彼は自分もタオルで頭を拭くふりをして彼女に背を向けた。 「誰が……お前をこの家に連れてきたんだ?」  それは純粋な疑問のはずだった。けれど、気づいたら不機嫌な声になっていた。きっぱり『帰れ』と言えない弱さが、彼女を連れてきた者を卑怯に責めていた。 「ミンウェイか?」  しかし、医者である彼女は、大怪我を負ったハオリュウにつきっきりだろう。だから、リュイセンだろうか。  そう考えていたルイフォンの耳に、意外な答えが返ってきた。 「エルファン様です」 「エルファン!?」  一番、高みの見物を決め込みそうな人物の名前だった。 「はい。……この家は、エルファン様がルイフォンのお母様のために建てられた家なんですね。来る途中で教えてくださいました」 「……ああ。母さんは、エルファンの愛人だったから」  髪を拭いていたルイフォンの手が止まる。指からタオルが滑り落ち、髪先を飾る金色の鈴を大きく揺らしてから床に落ちた。  ルイフォンの母は、常に金色の鈴の付いた革のチョーカーを身に着けていた。 『それ、首輪じゃん』と彼が言うと、『あたしは鷹刀の飼い猫なのよ』と彼女は自慢げに笑っていた。  チョーカーの贈り主は、エルファンだった。  彼女は死ぬまで、それを外すことはなかった。 「……ルイフォン」  緊張したメイシアの声が、背後から聞こえてきた。彼女がソファーから立ち上がる衣擦れの音と、一歩だけ彼に歩み寄ったものの、そこで立ち止まる小さな気配――。 「私は、ルイフォンがお父様を殺したなんて思っていません。でも、ルイフォンはそう思っています。――どちらが正しいのかは、誰にも分かりません」 「メイシア。その話は、もう終わった話だ。俺の罪は、俺が裁く。俺はお前から離れ、お前を自由にする。俺の世界は、お前にふさわしくない」  声を荒らげたいのを抑え、彼は低く冷静に言った。やはり彼女を家に上げるべきではなかった。そのまま帰すべきだったと、後悔がこみ上げる。  これ以上、話しても無駄なのだ。 「お前なら分かるだろう? 平行線だ」  庭で見た極上の笑顔に、胸を揺さぶられた。  彼を欲しいと言ってくれた言葉に、心が踊った。  今、後ろを振り返って、手を伸ばせば、彼女は彼のものになる。けれど、それは許されない。彼自身がそれを許さない。 「だからもう、この話は終わりなんだ」  はっきりと、口に出して言うべきだ。  ――彼女に、別れを。  苦しくてたまらない。けれど、このままでは、彼女も終止符を打てない。  ならば、できるだけ優しい声で言いたい。  心を込めて。 『さよなら』を――。  ルイフォンは、決意と共に、深く息を吸い込んだ。喉元が熱い。鼻の奥がつんとする。  それでも彼は、振り返る。彼女に手を伸ばすためではなく、彼女の手を振り払うために。 「メイ……」 「ルイフォン」  薄紅色の唇が、静かに彼の名を呼んだ。  黒曜石の瞳を見た瞬間、口から出掛かった声が途切れる。  彼女なら、彼の言おうとしていることを理解しているはずだ。彼が、彼女と向き合った意味を間違えないはずだ。  ――なのに、彼女は。  切なげに、愛しげに……微笑んでいた。 「あなたの言う通り、平行線にしかならない話は、もう終わりです。ここから先は『あなた』と『私』の話です」  メイシアは穏やかに宣言した。  優しい面差しに、有無を言わせぬ強さが宿る。  彼女は、こんなに強かっただろうか。こんな場面で笑えるほど、強かっただろうか。 「エルファン様が、おっしゃっていました。『大切なものは、決して手放すな』って」 「……っ!」  びくりと震えたルイフォンの背で、金色の鈴が跳ねた。 「私――、あなたを手に入れます。あなたが欲しいから」 「メイシア……、だから、俺は……」  尻窄みになっていく彼の言葉を、彼女は鮮やかに無視した。 「すべてを振り切ってきた私は『藤咲メイシア』ではない、ただの『メイシア』です。何も持っていません。ルイフォンと初めて執務室で逢ったときと同じです」  そう言って、懐かしむようにメイシアは目を細める。 「あのとき、総帥代理を名乗ったルイフォンは、私に『お前は何を差し出すつもりだ?』と訊きました。その答えも同じ――」  メイシアは間を取る。あのときと同じように。  すっと息を吸い、花がほころぶようにあでやかに笑う。 「――『私』です。私は、あなたに『私』を差し出します」 「なっ……」 「そして、私が欲しいものは『ルイフォン』。あなたの抱えている痛みも、後悔も、因縁も、罪も、傷も、何もかも全部、含めて『ルイフォン』です」  黒曜石の瞳が、ぐっと彼の心の奥を覗き込んだ。  濁りのない、どこまでも澄んだ深い黒。彼のあらゆる感情の色を飲み込み、優しい黒の中に溶かしていく。 「ここにいるのは、ただの『あなた』と『私』。――欲しいものは欲しいと言ってよいと、我儘だとしても本心を言ってよいと、ルイフォンが教えてくれました。だから、私は言えます。何度でも言います」  彼女は笑う。  大切なのは、むき出しの本心だと彼に示すように。 「私は、あなたが欲しい」  息をするのと同じくらい自然に、彼女は告げる。  白い耳たぶに掛けられていた髪がひと房、音もなくこぼれ落ちた。雨に濡れた黒髪のしっとりとした質感が、柔らかな唇をかすめて流れていく。 「あなたのそばに居たい。この先を、あなたと一緒に生きていきたい」  まっすぐに彼を見つめる彼女は、純粋で、無垢で。  それを穢したくないから離れようとしたのに、彼女は細い腕を懸命に広げて彼を包み込もうとする。  彼女は、強く求める。強く望む。強く訴える――彼が欲しいと。 「…………っ」  ルイフォンの頬に、熱が走った。目尻から顎にかけて、一直線に痛みが駆け抜ける。  メイシアが目を丸くしていた。大きく息を吸い込んだ口のまま、固まっている。 「あ…………?」  彼は自分の頬に触れ、透明な涙の存在を確かめる。 「嘘だろ……。子供じゃあるめぇし……」  制御できない涙腺に、彼は驚く。  けれど、指先を濡らす雫は紛れもなく真実だった。 「俺は…………」  ――こんなに脆くなんかないはずだ。  冷静で、先読みができて、大局的に物を考えられる人間のはずだ。  彼女が大切なら、彼女を遠ざけられるだけの強さを持っているはずだ。  頭ではそう考えているのに、彼の魂が涙を流し、彼の体をき動かす。  足が彼女に近づく。  手が彼女に伸びる。  触れたかった髪に触れ、抱きしめたかった肩を抱く。 「……ごめん、メイシア。……俺、やっぱり、お前が欲しい。お前にとって、俺のそばは決して心地よい場所じゃないはずだ。けど、俺は……我儘だから」  彼女の髪に顔をうずめると、優しい雨の匂いと、黒絹の滑らかさが彼を包んだ。  湿り気を帯びた彼女の呼吸を、彼の耳朶が受ける。彼の熱を奪う吸気の冷たさと、彼に熱を与える呼気の温かさ。  頬が彼女の首筋と接すると、脈打つ血潮を感じた。肌が香り、彼の鼻腔をくすぐる。  彼女が、すぐそばで息づいているという実感と、幸福。  華奢な骨格は、彼の両腕にすっぽりと収まった。柔らかな感触の中に少しだけ含まれた、筋肉の緊張が伝わってくる。  強く抱きしめたい衝動と、傷つけてはならないという理性とがせめぎ合う。 「メイシア、愛している」  胸の想いを、彼女に告げる。 「一生、大切にする」  宣言する。  彼女に――。  そして、何処かで彼女を見守っているはずの彼に、誓いを立てる。  ――親父さん、メイシアを一生、大切にします。  彼女の細い指先が、少しだけ強く彼の体を握りしめた。  彼の耳元で彼女は小さく囁き、頬を染める。彼は言葉を返して頷き、彼女を抱き上げた。  雨が優しく窓を叩く。  窓硝子で出逢った雫は触れ合い、混じり合って溶けていく――。



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 ふと、空を見たくなった。  だから、ルイフォンはテラスに出た。ガーデンチェアーに身を預け、天を仰ぐ。  けれど、そこに青い空はなかった。  薄暗い雲が広がっていく。ところどころに濃淡を作りながら流れていくのに、気づけば、世界は単調な灰色一色に塗り替わっている。  曇天が、そのまま落ちてきそうな錯覚に見舞われ、目眩がしてきた。ルイフォンは逃げるように目線を下げる。庭を見やると、芝で覆われているはずのそこは、一面の桜の花びらで埋め尽くされていた。  鷹刀一族の屋敷の大樹ほど立派ではないが、この庭にも桜がある。定期的に庭師に手入れを頼んでいるのだが、昨日から今日にかけて一気に散った花びらは、まだ手付かずの状態のようだった。  これは酷いなと、彼は溜め息をつく。いつもなら、すぐにも庭師を呼ぶところだが――。今は人に会いたくなかった。  おそらく、近いうちに彼を心配したミンウェイあたりがやってくるだろう。だからルイフォンは、家の玄関扉は勿論、門扉も〈ケル〉によってロックした。よって現在、この屋敷は彼以外、何人なんびとたりとも立ち入ることはできなくなっている。 「……ごめんな」  届くわけもない謝罪を口にする。  遠くから、重い雨の匂いがした。大気の苦い圧力を感じ、彼は背を丸める。  ――彼女の父親を殺害した。  取り返しの付かないことをした。  殺すことだけが解決策だと思い込んだ。それが救いになるのだと信じ込んだ。  けれど、父親は子供たちを忘れていなかった。 『君たちの顔を見たい』――そう願った。  最後に『見えてきた』と言っていたが、あれは嘘だ。あの状況で目が見えるわけがない。だから、あの言葉は子供たちを悲しませないための愛情だ。 「親父さん……、すみません……」  彼と、言葉を交わしたかった。  彼に、『メイシアを一生、大切にします』と、きっぱり宣言したかった。周りに冷やかされながら――祝福されながら。  拳銃を持った手を狙えばよかった。毒なんか塗らなければよかった。  たとえ何年掛かったとしても、必ず元に戻してやると――。  誰がなんと言っても……。 「――俺だけは……、信じるべきだったんだよ!」  拳を握りしめ、ルイフォンは叫ぶ。  固く目をつむり、声にならない声を上げる。  激しく頭を振り、一本に編まれた髪が背で暴れる。けれど金色の鈴は、曇天のもとでは光を放つことはない。  誰も、ルイフォンを責めなかった。  誰ひとり、ルイフォンを責めなかった。 「でも、それじゃ、親父さんは死んで当然、ってことじゃねぇか! 親父さんが可哀想じゃねぇか! なんで、誰も分からねぇんだよ!」  それは、ルイフォンのためだ。残されたルイフォンを傷つけないために、皆が気を遣う。  だから、せめて、自分だけは――。  ――あの穏やかで優しい父親のために、憤り、悼み、悲しみ――責めようと……思ったのだ。  肩を落とし、溜め息をつく。  ルイフォンは、ガーデンチェアーに身を投げ出した。  また、薄暗い空が目に入る――。  不意に、天から雫が降ってきた。  ぽつり、と。ルイフォンの頬を濡らす。 「雨……」  テラスの上にも、細長い筋を伸ばしながら、水滴が落ちてくる。  灰色のコンクリートに、薄黒い点がぽつり、ぽつりと描画されていく。あちらに、こちらに。不規則なようでいて、まんべんなく。たとえ近くに落ちても、決してぴたりと重なることなく――。 「はは……。雨の奴、綺麗な乱数を作りやがる」  そう呟いてから、ルイフォンは馬鹿だな、と思った。自然現象を相手に『乱数を作る』とは変だろう。彼の組むプログラムではないのだ。 「ああ、頭が働いてねぇや。疲れてんのか、俺……」  テラスに現れた点描画は、時々刻々と変化していく。激しくはないものの、すぐには止みそうもない。  ルイフォンは雨空を見上げる。  ――そして、想う。 「メイシア……」  違う世界から舞い込んできた小鳥。  彼女に鳥籠が似合うとは思わない。けれど、彼女が飛ぶべき空は澄み渡った青天であって、渦巻く嵐の荒天ではない。  だから、忘れてほしい。  彼女が嵐に見舞われたのは、ほんの数日。刹那のできごと。  一緒に居た時間は、たったそれだけだから。 「代わりに俺が、一生忘れないから」  癖のある前髪をかすめ、冷たい雨の雫がまぶたを濡らす。頬の曲線をなぞり、顎から滴る。  空が、ルイフォンを包み込む。 「泣く資格のない俺のために、泣いてくれるのか? ――なんて、な……」  メイシアは――。  ――きっと、泣いているだろう……。 「……フォン……」 「ルイ…………ン……」  小鳥がさえずるような、高く澄んだ声が聞こえた。  けれど、それは、彼女を愛おしむ心が求めた幻聴だろう。この屋敷は〈ケル〉によって、外界から固く閉ざされているのだから。  ルイフォンがそう思ったとき、強い風が吹いた。  雨の重みに逆らい、庭を埋め尽くす花びらを盛大に巻き上げる。さわぁ……と、鮮やかに花が歌い、空に舞う。  一度、地に落ちたはずの花々が、再び天に戻り、華やかな薄紅色の花吹雪となって蘇る。 「ルイフォン――!」  花嵐の向こうから、桜の精が現れた。  黒絹の長い髪を風になびかせ、白磁の肌をほんのり桜色に染めて走ってくる。  彼の姿を確認すると、彼女は黒曜石の瞳を輝かせた。 「ルイフォン。私、来たの!」  彼女は肩で息をしながら、彼に叫んだ。 「何もかも、全部、無視して……。――振り切ってきたの……!」 「……メイシア!?」  彼女が口にしたのは、彼女に想いを告げたときに、彼が言った言葉――。 『振り切っちまえよ』 『しがらみも『取り引き』も、全部、無視だ』 『――俺のところに来い』 「だから、あなたも――」  彼は身動きが取れなかった。  透き通るような、凛とした声が雨を払う。たおやかな外見に反する、揺るぎない意志が風を貫く。 「私のところに来て!」  メイシアは、極上の微笑みを彼に向けた。 「私は、あなたが欲しい……!」  さらさらとした黒髪が、優しく頬を縁取る。まろみを帯びた柔らかな表情。長い睫毛を載せた目尻は下がり、淡い唇は緩やかに上っている。  想いが胸を、突き上げた。  彼女の笑顔に吸い込まれる。魅了される。惹きつけられてやまない。彼女の必死なときの顔といえば、泣き顔ばかりが思い浮かぶのに――。 「……なんで、お前、笑っているんだよ」  他に言うべき言葉は、幾らでもあるはずだった。  しかし、彼の口から出たのは、そんな救いようもなく間抜けなもので――その声は、今にも泣き出しそうなほどに震えていた。 「だって……」  答える彼女の声にも、震えが混じる。 「目の前に……、ルイフォンが、居る、から……!」  その瞬間、メイシアの両目から雨雫が落ちた。けれど彼女は、変わらずに笑っていた。  メイシアを雨に濡らすわけにもいかず、ルイフォンはやむを得ず彼女を家に上げた。  玄関に入る際に判明したのだが、〈ケル〉のセキュリティ情報が書き換えられていた。メイシアに、ルイフォンと同等の権限が与えられていたのである。だから彼女は、門扉を通過できたのだ。 〈ケル〉を書き換えた犯人は、鷹刀一族の屋敷の人工知能〈ベロ〉しかあり得ないだろう。ルイフォンは眉を寄せる。  手出ししないと言いながら、何かとちょっかいを出してくる性格。そして、あの口調。〈ベロ〉が誰を元に作られたものか想像がつく。  メイシアを居間に案内し、ルイフォンはタオルを持ってきた。無人の家であるが、週に一度は家政婦に掃除を頼んでいるし、たまに彼が泊まり込んで〈ケル〉のメンテナンスをするので、ある程度のものは揃っている。  彼女は、勧められたソファーの端に小さくなって座っていた。  黒髪に、薄紅の花びらが一枚、くっついていた。彼はそれを取ってやろうと思ったが、肌に貼りつく濡れた髪が妙になまめかしく、思わず唾を呑む。迂闊に触れたりしたら歯止めが効かなくなりそうだった。だから、気づかないふりをした。 「寒くないか?」  わずかに目線をそらしながら、彼はタオルを渡す。本当は、すげなく『すぐに帰れよ』と言うつもりだった。 「ルイフォンこそ。ずっと外にいたんでしょう?」  彼女は首を振り、逆に心配そうに尋ね返す。そして、「あ、花びら」――そう言って、彼の前髪に手を伸ばした。 「……っ!」  反射的に、彼は身を引いた。  触れてはいけない。触れられてはならない。  それは禁忌だ。  体は冷え切っているのに、全身から汗が吹き出す。 「す、すみません」  メイシアは、傷ついた顔をしていた。肩をすぼめ、瞳に萎縮が混じる。言葉遣いが変わる。そんな彼女を見るのが辛くて、彼は自分もタオルで頭を拭くふりをして彼女に背を向けた。 「誰が……お前をこの家に連れてきたんだ?」  それは純粋な疑問のはずだった。けれど、気づいたら不機嫌な声になっていた。きっぱり『帰れ』と言えない弱さが、彼女を連れてきた者を卑怯に責めていた。 「ミンウェイか?」  しかし、医者である彼女は、大怪我を負ったハオリュウにつきっきりだろう。だから、リュイセンだろうか。  そう考えていたルイフォンの耳に、意外な答えが返ってきた。 「エルファン様です」 「エルファン!?」  一番、高みの見物を決め込みそうな人物の名前だった。 「はい。……この家は、エルファン様がルイフォンのお母様のために建てられた家なんですね。来る途中で教えてくださいました」 「……ああ。母さんは、エルファンの愛人だったから」  髪を拭いていたルイフォンの手が止まる。指からタオルが滑り落ち、髪先を飾る金色の鈴を大きく揺らしてから床に落ちた。  ルイフォンの母は、常に金色の鈴の付いた革のチョーカーを身に着けていた。 『それ、首輪じゃん』と彼が言うと、『あたしは鷹刀の飼い猫なのよ』と彼女は自慢げに笑っていた。  チョーカーの贈り主は、エルファンだった。  彼女は死ぬまで、それを外すことはなかった。 「……ルイフォン」  緊張したメイシアの声が、背後から聞こえてきた。彼女がソファーから立ち上がる衣擦れの音と、一歩だけ彼に歩み寄ったものの、そこで立ち止まる小さな気配――。 「私は、ルイフォンがお父様を殺したなんて思っていません。でも、ルイフォンはそう思っています。――どちらが正しいのかは、誰にも分かりません」 「メイシア。その話は、もう終わった話だ。俺の罪は、俺が裁く。俺はお前から離れ、お前を自由にする。俺の世界は、お前にふさわしくない」  声を荒らげたいのを抑え、彼は低く冷静に言った。やはり彼女を家に上げるべきではなかった。そのまま帰すべきだったと、後悔がこみ上げる。  これ以上、話しても無駄なのだ。 「お前なら分かるだろう? 平行線だ」  庭で見た極上の笑顔に、胸を揺さぶられた。  彼を欲しいと言ってくれた言葉に、心が踊った。  今、後ろを振り返って、手を伸ばせば、彼女は彼のものになる。けれど、それは許されない。彼自身がそれを許さない。 「だからもう、この話は終わりなんだ」  はっきりと、口に出して言うべきだ。  ――彼女に、別れを。  苦しくてたまらない。けれど、このままでは、彼女も終止符を打てない。  ならば、できるだけ優しい声で言いたい。  心を込めて。 『さよなら』を――。  ルイフォンは、決意と共に、深く息を吸い込んだ。喉元が熱い。鼻の奥がつんとする。  それでも彼は、振り返る。彼女に手を伸ばすためではなく、彼女の手を振り払うために。 「メイ……」 「ルイフォン」  薄紅色の唇が、静かに彼の名を呼んだ。  黒曜石の瞳を見た瞬間、口から出掛かった声が途切れる。  彼女なら、彼の言おうとしていることを理解しているはずだ。彼が、彼女と向き合った意味を間違えないはずだ。  ――なのに、彼女は。  切なげに、愛しげに……微笑んでいた。 「あなたの言う通り、平行線にしかならない話は、もう終わりです。ここから先は『あなた』と『私』の話です」  メイシアは穏やかに宣言した。  優しい面差しに、有無を言わせぬ強さが宿る。  彼女は、こんなに強かっただろうか。こんな場面で笑えるほど、強かっただろうか。 「エルファン様が、おっしゃっていました。『大切なものは、決して手放すな』って」 「……っ!」  びくりと震えたルイフォンの背で、金色の鈴が跳ねた。 「私――、あなたを手に入れます。あなたが欲しいから」 「メイシア……、だから、俺は……」  尻窄みになっていく彼の言葉を、彼女は鮮やかに無視した。 「すべてを振り切ってきた私は『藤咲メイシア』ではない、ただの『メイシア』です。何も持っていません。ルイフォンと初めて執務室で逢ったときと同じです」  そう言って、懐かしむようにメイシアは目を細める。 「あのとき、総帥代理を名乗ったルイフォンは、私に『お前は何を差し出すつもりだ?』と訊きました。その答えも同じ――」  メイシアは間を取る。あのときと同じように。  すっと息を吸い、花がほころぶようにあでやかに笑う。 「――『私』です。私は、あなたに『私』を差し出します」 「なっ……」 「そして、私が欲しいものは『ルイフォン』。あなたの抱えている痛みも、後悔も、因縁も、罪も、傷も、何もかも全部、含めて『ルイフォン』です」  黒曜石の瞳が、ぐっと彼の心の奥を覗き込んだ。  濁りのない、どこまでも澄んだ深い黒。彼のあらゆる感情の色を飲み込み、優しい黒の中に溶かしていく。 「ここにいるのは、ただの『あなた』と『私』。――欲しいものは欲しいと言ってよいと、我儘だとしても本心を言ってよいと、ルイフォンが教えてくれました。だから、私は言えます。何度でも言います」  彼女は笑う。  大切なのは、むき出しの本心だと彼に示すように。 「私は、あなたが欲しい」  息をするのと同じくらい自然に、彼女は告げる。  白い耳たぶに掛けられていた髪がひと房、音もなくこぼれ落ちた。雨に濡れた黒髪のしっとりとした質感が、柔らかな唇をかすめて流れていく。 「あなたのそばに居たい。この先を、あなたと一緒に生きていきたい」  まっすぐに彼を見つめる彼女は、純粋で、無垢で。  それを穢したくないから離れようとしたのに、彼女は細い腕を懸命に広げて彼を包み込もうとする。  彼女は、強く求める。強く望む。強く訴える――彼が欲しいと。 「…………っ」  ルイフォンの頬に、熱が走った。目尻から顎にかけて、一直線に痛みが駆け抜ける。  メイシアが目を丸くしていた。大きく息を吸い込んだ口のまま、固まっている。 「あ…………?」  彼は自分の頬に触れ、透明な涙の存在を確かめる。 「嘘だろ……。子供じゃあるめぇし……」  制御できない涙腺に、彼は驚く。  けれど、指先を濡らす雫は紛れもなく真実だった。 「俺は…………」  ――こんなに脆くなんかないはずだ。  冷静で、先読みができて、大局的に物を考えられる人間のはずだ。  彼女が大切なら、彼女を遠ざけられるだけの強さを持っているはずだ。  頭ではそう考えているのに、彼の魂が涙を流し、彼の体をき動かす。  足が彼女に近づく。  手が彼女に伸びる。  触れたかった髪に触れ、抱きしめたかった肩を抱く。 「……ごめん、メイシア。……俺、やっぱり、お前が欲しい。お前にとって、俺のそばは決して心地よい場所じゃないはずだ。けど、俺は……我儘だから」  彼女の髪に顔をうずめると、優しい雨の匂いと、黒絹の滑らかさが彼を包んだ。  湿り気を帯びた彼女の呼吸を、彼の耳朶が受ける。彼の熱を奪う吸気の冷たさと、彼に熱を与える呼気の温かさ。  頬が彼女の首筋と接すると、脈打つ血潮を感じた。肌が香り、彼の鼻腔をくすぐる。  彼女が、すぐそばで息づいているという実感と、幸福。  華奢な骨格は、彼の両腕にすっぽりと収まった。柔らかな感触の中に少しだけ含まれた、筋肉の緊張が伝わってくる。  強く抱きしめたい衝動と、傷つけてはならないという理性とがせめぎ合う。 「メイシア、愛している」  胸の想いを、彼女に告げる。 「一生、大切にする」  宣言する。  彼女に――。  そして、何処かで彼女を見守っているはずの彼に、誓いを立てる。  ――親父さん、メイシアを一生、大切にします。  彼女の細い指先が、少しだけ強く彼の体を握りしめた。  彼の耳元で彼女は小さく囁き、頬を染める。彼は言葉を返して頷き、彼女を抱き上げた。  雨が優しく窓を叩く。  窓硝子で出逢った雫は触れ合い、混じり合って溶けていく――。



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