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9.蒼天への転調-1

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『夜の闇から目覚めた瞬間に、彼女の姿を瞳に映したいんだ。そして……』 『そして?』  口ごもる父親に、小さなメイシアは小首をかしげた。 『暁の光の中で、彼女に『おはよう』って言ってもらいたい――』  そう言って、若かりしころのコウレンは、照れたように笑った。  まっさらな光が闇を払い、東の空が白み始めた。薄明の空は、あっという間に千変万化の暁色に染め上げられ、鮮やかなる色彩の舞台を築き上げる。  光の帯の裾野が、カーテンの開け放された窓から入り込んだ。時々刻々と変化する光の中で、ルイフォンは、ふと目を覚ます。いつもなら、まだまだ夢の中の時間だが、なんとなく予感がして、自然にまぶたが開いたのだ。 「お、おはよう……」  緊張を帯びているものの、優しく澄んだ声。首筋をくすぐる、柔らかな吐息――。  目の前に、メイシアがいた。  暁のあかよりも、もっとあかく頬を染め、黒曜石の瞳には、彼女を見つめる彼の顔が映っている。 「ああ……」  そうか、と。  こみ上げてくる想いに、ルイフォンの胸が熱くなった。 「おはよう、メイシア」  一晩中抱きしめていた手で、彼女の髪に触れた。黒髪をくと、絹の滑らかさが指先に吸い付く。  その手にぐっと力を入れ、彼は彼女を抱き寄せた。触れ合った素肌が、ぬくもりを分かち合う。  言い知れぬ心地よさに包まれ、ルイフォンは呟くように漏らした。 「メイシアの親父さんの気持ちが、痛いほど分かる。……俺ね。今、凄く幸せ」  寝物語に聞いた、メイシアの父、コウレンの言葉。穏やかな男の、生涯で一度きりの暴挙ともいえる我儘――。  ルイフォンは少しだけ体を離し、メイシアとまっすぐに向き合った。  鋭い瞳に、力強さを載せ、彼は告げる。 「メイシア、俺と一生、共に過ごしてほしい」  彼女が目を瞬かせた。何を今更、と思っているのだろう。  けれど彼は、言わずにはいられなかった。 「お前は間違いなく、お前が思い描いていたのと、まったく違う人生を歩むことになる。けど、絶対に後悔させたりしない。俺が、必ずお前を幸せにする」 「ルイフォン……」 「だから俺に、お前の人生を賭けてくれ」  彼女の幸せを誓い、自分の幸せを望む。  そして、心からこいねがう。 「――ずっと、そばに……居てください」  テノールの響きが、暁の光に溶ける。  メイシアの瞳に、薄っすらと涙が溜まっていった。けれど、彼女は微笑んでいた。彼のそばで、幸せそうに――。 「はい」  彼らは、どちらからともなく微笑み、口づけを交わした。  台所が、オリーブオイルで炒めたニンニクの良い香りで満たされる。そこに、赤唐辛子のぴりっとした刺激臭が加わり、空気が引き締まる。  寸動鍋がぐつぐつと音を立てて沸騰すると、ルイフォンは手際よく塩を入れ、続けて、両手でひねったパスタを勢いよく放り込んだ。その瞬間、鍋の中で花開くように乾麺が広がる。 『ある程度の家事はできる』と言った、彼の言葉に嘘はなかった。「それじゃ、朝飯にするか」と言ったあと、彼はまっすぐに台所に向かい、おもむろに調理を始めたのである。  メイシアは呆然と、慣れた手つきの彼を見つめていた。 「ルイフォン、凄い……」 「惚れ直した?」  彼は、くるりと振り返り、得意気に口の端を上げる。 「うん。私は何もできないのに、ルイフォンは……」 「こら、落ち込まない。――これは俺の自慢料理だからな。上手くて当然だ」  インスタント食品を出してきたほうがよかっただろうか、とルイフォンは少しだけ考える。けれど、メイシアはそんなものを食べたことがないだろう。何より、ふたりで迎える初めての朝だ。できるだけ洒落た思い出にしたかったのだ。  普段は無人の家であるため、備蓄できる食材は限られている。そんな中で、彼が定番にしているメニュー――ニンニクと唐辛子のパスタ『ペペロンチーノ』。ニンニクは芽が伸び始めていたが、よくあることなので気にしない。朝からニンニクたっぷりはどうかとも思うが、これが一番得意なのだから仕方ない。本当は言うほどレパートリーはないのだから。  ルイフォンはコーヒー豆を出してきて、ガリガリとミルで挽き始めた。あたりに芳しい香りが漂い、メイシアが目を丸くするのを楽しむ。 「メイシア、その棚からコーヒーカップを取って」  手持ち無沙汰の彼女に、そっと頼んだ。彼女は嬉しそうに動き始め、コーヒーカップと共に見つけた皿とフォークも、遠慮がちに持ってくる。 「気が利くな。ありがとう」  すぐそばに彼女が居て、一緒に何かをしている。幸せだ、と彼は思った。  幸せだからこそ、もっと幸せにしてやるべきだ、と彼は思った。  少々、唐辛子を入れすぎたのか、時折、顔をしかめていたが、ルイフォンの作ったパスタは概ねメイシアに好評だった。彼は満足そうに目を細め、コーヒーを口にする。  昨日の雨は、すっかり上がっていた。  庭を覆い尽くす桜の花びらは、初春の残骸と成り果てていたが、代わりに、芽吹きを迎えた木々が、全身に浴びた雨雫で陽光を弾き、光の花を咲かせている。  透き通った蒼天が、世界を巡っていた。穏やかで、温かく、心地よい。  このまま時が止まれば、永遠に安らかで平穏な、ふたりきりの王国だ。  ルイフォンは、向かいに座るメイシアを見た。彼女は、コーヒーカップを両手で包み込み、大切そうに香りを楽しんでいた。彼の淹れてくれたコーヒーを宝物のように見つめ、少しずつ口に含む。 「メイシア」  ようやく、彼女がカップをソーサーに置いたとき、彼は静かに声を掛けた。彼女は、どうしたの? と、きょとんと彼を見る。 「鷹刀と、ハオリュウのところに戻ろう」 「え……?」  何を言われたのか理解できない、とばかりに、彼女の表情が止まった。喜怒哀楽のどれでもない顔で、じっと彼を見つめ返し、彼の真意を問う。 「俺は、お前に『すべてを振り切っちまえ』と言ったし、お前も『振り切ってきた』と言ったけどさ。本当は俺たち、そんなことをする必要ないんじゃないか?」  彼女と、ふたりきりでいたい。その気持ちに偽りはない。けれど、彼女を閉じた世界に押し込めたら、それは鳥籠の中と同じなのだ。  彼女には自由に羽ばたいてほしい。青天も荒天も、どんな空でも――。 「俺たちは別に、駆け落ちするほど周りに反対されてないはずだ。それよりも……」  ルイフォンは、にやりと不敵に笑った。まるで挑むように、猫の目を鋭く光らせる。 「俺たちは、皆に祝福されるべきだろう?」 「ルイフォン……」  メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。  彼女は慌てて拭おうとするが、先を読んで身を乗り出していたルイフォンの指先が伸び、彼女よりも先にそれをすくい取る。  濡れた指をぺろりと舐めると、案の定、しょっぱい。けれど、顔を真っ赤にして、信じられないものを見る目をしているメイシアが、可愛いのでよしとする。  深刻になりすぎずに、直感的に、我儘に、気ままに。笑いながら彼女と生きていきたい。だから、少し惜しい気もするけれど、戻るべきだと彼は判断したのだ。 「ルイフォン……。私、本当に何もできないから、ルイフォンに呆れられたのかと思ったの。だから、戻ろうって言われたのかと……」  再び涙ぐみながら、メイシアが言う。 「俺は別に気にしないけど……。そうだな。メイシアが気にするなら、これからできるようになればいいだけだろ?」  その言葉に、彼女はぱっと目を輝かせ「はい」と嬉しそうに頷く。  くるくる変わる彼女の表情を見ながら、彼はふっと真顔になった。 「俺ね、やっぱ、まだまだ餓鬼なんだと思う。自分で稼げるし、お前を養えるし、それで充分だと思っていた。けど、たぶん、まだそれだけじゃ駄目なんだと思った」  彼女がこの家に来てから考えたこと。黙っていたほうが格好いいかもしれないけれど、彼女には伝えておきたかった。 「俺が鷹刀を出て何が起きたかといえば、周りを心配させただけだった。俺が自分自身に折り合いをつければいいだけのことに、周りを巻き込んだ。俺は……」  ――と、そこまで言ったとき、ルイフォンは強い視線を感じた。  黒曜石の瞳が、斬りつけるかのように凛と彼を見つめていた。思わず言葉を呑み込む。そんな彼を押し切るように、たおやかなくせに揺るぎない声が響いた。 「それは違うと思うの。ルイフォンが出ていったから、私は追いかけることができた。ルイフォンが欲しかったから、流されたり諦めたりしないで、自分の意志を持つことができた。私にとっては、必要なことだったの。……凄く大事なことだった」 「メイシア……」 「ルイフォンが懸命に考えて行動したことは、すべて意味のあることなの。だから、そのことをルイフォン自身にも悪く言ってほしくない」 「けど……!」  不意に、メイシアの表情が緩んだ。  細い指が伸びてきて、ルイフォンの癖のある前髪が、ふわりと巻き上げられる。猫毛にくしゃりと指を絡め、彼女は愛しそうに彼を見つめた。 「うん。ルイフォンが言いたいことは分かっている。私たちは未熟だ、ってことでしょう? ――私もそう思う」  彼女は微笑む。夢見るような目で、現実を見据えながら。 「私、いろいろなことを覚えたい。ルイフォンの役に立ちたいから――あなたと一緒に生きるための力を蓄えたい。……だから、今は戻るのに賛成する」 「ありがとう……」  ルイフォンは椅子から立ち、テーブルを回り込んでメイシアを背中から抱きしめた。いまだに緊張で強張る肩を包み込み、黒髪に顔をうずめて、耳元で囁く。 「……でも、たまにはこの家で、お前とふたりきりで過ごしたい。……というのは、我儘?」  その瞬間、彼女の頬が、かぁっと熱を持つのを感じた。 「う、ううん……。我儘じゃない」  消え入りそうなほどに小さな声が返ってくる。  ルイフォンは目を細め、彼女の頬に口づけた。……当然の如く、彼女の体温が、更に急上昇するのを承知で。  そのまま、彼女を抱きしめる。少しうつむくと、癖のある前髪が目にかかり、背中で編んだ髪が鈴を揺らした。 「……メイシア」  やや硬質なテノールが響く。 「もうひとつ、話がある」 「え?」 「『ホンシュア』って名前、覚えているか?」  メイシアの心臓が、どきりと高鳴った。 「私を鷹刀に行くように仕向けた、偽の仕立て屋。――そして、ルイフォンが斑目の別荘で会ったという〈天使〉……」 「そうだ。彼女は、メイシアのことを『選んだ』と言っていた。……俺たちは、彼女によって引き合わされたらしい」  腕の中のメイシアが、小さく震えた。漠然とした不安が彼女を襲うのを感じ、彼は強く抱きしめる。  ホンシュアは、彼が『ルイフォン』であることを知っていて、そのくせ『ライシェン』という名前でも呼んだ。何かを知っている。何かが隠されている。 「ホンシュアがルイフォンのお母様……ということは……?」  遠慮がちに、メイシアが尋ねた。  ホンシュアもまた、〈影〉にされてしまった不幸な人で、その中身はルイフォンの母親なのではないか。――そう言いたいのだろう。〈影〉という言葉を避けたところに、メイシアが父親の最期を思い出したことが感じられ、痛ましい。  ホンシュアは〈影〉である。それは正しいと思う。けれど――。 「彼女は母さんじゃない。雰囲気も、口調も違う。……でも、何か重要なことを知っている……と思う」 「――なら、私ももう一度、彼女に会って、お話したい」  メイシアは微笑みながら、一緒にホンシュアに会いに行こうと言う。  危険を伴うかもしれない。だから、言い出しにくかった。けれど彼の負担を軽くするような言葉で、当然のように言ってくれる。それが嬉しくて、心地よい。 「ありがとう」  まばゆい蒼天のもと、ルイフォンは、メイシアがそばに居る幸せを噛みしめた。 「ホンシュア! ホンシュアァ……!」  小さな体全身を使って、ファンルゥは叫んだ。  自由奔放な癖っ毛を、ぴょんぴょんと肩で跳ねかせ、まるで癇癪でも起こしているかのように、足を踏み鳴らす。  彼女の両手は、ホンシュアが横たわるベッドのシーツを皺くちゃに握りしめていた。本当は、ホンシュアの手を握りたかったのだが、熱くて触れることも叶わないのである。  近くにいるだけで火傷しそうなほどの熱気に、ファンルゥは本能的な恐怖を感じている。  けれど、ホンシュアは素敵な〈天使〉で、大切なお友達なのだ。放っておくことなんて、できるわけがなかった。  ホンシュアは、苦しそうに熱い息を吐く。肩がむき出しの、薄いキャミソールワンピース姿なのに、うわ言のように「熱い、熱い」と繰り返す……。 「パパ! ホンシュアには、お薬が必要なの! あのおじさんは、まだ!?」  くりっとした丸い目に涙を浮かべ、ファンルゥは背後に立つ父親を振り返った。  こっそり地下に遊びに行っていたことがばれても、それで怒られることより、ホンシュアを助けることのほうが、ずっと大事だった。だから彼女は、父のタオロンを頼った。  ホンシュアは、〈ムスカ〉という、おじさんの持っている薬を飲めば、具合いが良くなる。〈ムスカ〉は、嫌なおじさんだけれど、物凄いお医者さんらしい。  父に頼んで、〈ムスカ〉から薬を貰う。――ひとりで〈ムスカ〉に会うのは怖かったし、そもそも何処で何をしているのか知らなかったから。  それが、ファンルゥにできる精一杯だった。  一方、タオロンはといえば、呆然としていた。  リュイセンに負わされた傷は、〈ムスカ〉によってふさがれたが、まだ動くのは億劫だった。そんな状態で休んでいたら、必死の形相の愛娘が、部屋に駆け込んできたのだ。  心配をかけたくない彼としては、娘には負傷したことを悟られたくない。仕方なく手を引かれるままについていけば、きな臭い地下である。扉を開けた瞬間、部屋から熱気が押し寄せてきた。  そして、ベッドに横たわる、薄着の女。〈ムスカ〉に『〈サーペンス〉』と呼ばれていた女だ。その女の背から――『羽』が生えていた……。  そう、光の糸が網の目のように広がった『それ』は、確かに羽としか言いようがない。ファンルゥが、ちゃんと『〈天使〉なの』と説明していたのに、子供の戯言たわごとと聞き流していたのを反省する。 「パパ! パパ!」  愛娘の声に、タオロンは、はっとする。慌てて携帯端末を取り出して、〈ムスカ〉を呼び出した。  ほどなく現れた〈ムスカ〉は、やや不機嫌そうな様子だった。ファンルゥが、さっとタオロンの影に隠れ、服の裾を握る。 「あなたから連絡があったので、てっきり例の件の色良い返事かと思ったんですが――。また、厄介なことになっていますね」 〈ムスカ〉は、鼻を鳴らし、大仰に溜め息をついた。  タオロンもファンルゥも気づかなかったが、ルイフォンに壊されたサングラスは、予備のものに替わっていた。一目見れば鷹刀一族の者と分かる容貌を、斑目一族の前で晒すのは得策ではないからだ。 「彼女はいったい、何者だ?」  タオロンはホンシュアを示し、当然の疑問をぶつける。 「見ての通り、〈天使〉ですよ」 「真面目に答えろ!」 「心外ですね。私はきちんと、お答えしていますよ? それとも、『〈七つの大罪〉の技術の結晶』とでも言えば、納得されるんですか?」 〈ムスカ〉は、別に嘘を言っているわけではないのだろう。ただ、それがタオロンの常識の範疇を超えているだけだ。  聞くだけ無駄だということに、タオロンは遅まきながら気づいた。 「とりあえず、知らせてくださったことには感謝しますが、他人の部屋に勝手に入り込むとは、子供の躾がなっていませんね」 〈ムスカ〉はそう言って、タオロン父娘をぎろりと睨む。 「この際ですから、例の件の返事をしてもらいましょう。――あなたは、私にくだりますか? それとも、斑目の総帥の要求通り、娘を差し出しますか?」 「く……っ」  タオロンは、〈影〉と呼ばれる別人になった『藤咲コウレン』を、鷹刀一族の人間に救出『させる』というめいを受けていた。適度に交戦することで、不信感をいだかせないのが彼の役目だった。  けれど、安否を心配する家族に、偽者の『藤咲コウレン』を『送り込む』ことは、タオロンにはできなかった。だから射殺しようとした。結局、失敗に終わったが、その現場は監視役に目撃されており、彼は総帥の不興を買ったのだ。 「鷹刀の子猫によって、斑目は経済的に壊滅状態です。厳月家との仲も微妙になっています。だからこそ総帥は、私の機嫌をとっておきたいはずです。私があなた方、父娘が欲しいといえば、しぶしぶながらでも応じてくれるでしょう」 「……ファンルゥの安全は、保証されるんだろうな?」 「勿論ですよ」 〈ムスカ〉が口の端を上げる。  信用できない相手だが、それでも、ファンルゥが目の届かないところに連れて行かれるよりは、ましだった。 「分かった。お前の駒になろう……」  奥歯を噛み締め、タオロンは決断する。 「賢い選択ですよ。では、〈天使〉はなんとかしますから、あなた方は出ていってください」  そう言って〈ムスカ〉は、タオロンとファンルゥを部屋から追い立てた。



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『夜の闇から目覚めた瞬間に、彼女の姿を瞳に映したいんだ。そして……』 『そして?』  口ごもる父親に、小さなメイシアは小首をかしげた。 『暁の光の中で、彼女に『おはよう』って言ってもらいたい――』  そう言って、若かりしころのコウレンは、照れたように笑った。  まっさらな光が闇を払い、東の空が白み始めた。薄明の空は、あっという間に千変万化の暁色に染め上げられ、鮮やかなる色彩の舞台を築き上げる。  光の帯の裾野が、カーテンの開け放された窓から入り込んだ。時々刻々と変化する光の中で、ルイフォンは、ふと目を覚ます。いつもなら、まだまだ夢の中の時間だが、なんとなく予感がして、自然にまぶたが開いたのだ。 「お、おはよう……」  緊張を帯びているものの、優しく澄んだ声。首筋をくすぐる、柔らかな吐息――。  目の前に、メイシアがいた。  暁のあかよりも、もっとあかく頬を染め、黒曜石の瞳には、彼女を見つめる彼の顔が映っている。 「ああ……」  そうか、と。  こみ上げてくる想いに、ルイフォンの胸が熱くなった。 「おはよう、メイシア」  一晩中抱きしめていた手で、彼女の髪に触れた。黒髪をくと、絹の滑らかさが指先に吸い付く。  その手にぐっと力を入れ、彼は彼女を抱き寄せた。触れ合った素肌が、ぬくもりを分かち合う。  言い知れぬ心地よさに包まれ、ルイフォンは呟くように漏らした。 「メイシアの親父さんの気持ちが、痛いほど分かる。……俺ね。今、凄く幸せ」  寝物語に聞いた、メイシアの父、コウレンの言葉。穏やかな男の、生涯で一度きりの暴挙ともいえる我儘――。  ルイフォンは少しだけ体を離し、メイシアとまっすぐに向き合った。  鋭い瞳に、力強さを載せ、彼は告げる。 「メイシア、俺と一生、共に過ごしてほしい」  彼女が目を瞬かせた。何を今更、と思っているのだろう。  けれど彼は、言わずにはいられなかった。 「お前は間違いなく、お前が思い描いていたのと、まったく違う人生を歩むことになる。けど、絶対に後悔させたりしない。俺が、必ずお前を幸せにする」 「ルイフォン……」 「だから俺に、お前の人生を賭けてくれ」  彼女の幸せを誓い、自分の幸せを望む。  そして、心からこいねがう。 「――ずっと、そばに……居てください」  テノールの響きが、暁の光に溶ける。  メイシアの瞳に、薄っすらと涙が溜まっていった。けれど、彼女は微笑んでいた。彼のそばで、幸せそうに――。 「はい」  彼らは、どちらからともなく微笑み、口づけを交わした。  台所が、オリーブオイルで炒めたニンニクの良い香りで満たされる。そこに、赤唐辛子のぴりっとした刺激臭が加わり、空気が引き締まる。  寸動鍋がぐつぐつと音を立てて沸騰すると、ルイフォンは手際よく塩を入れ、続けて、両手でひねったパスタを勢いよく放り込んだ。その瞬間、鍋の中で花開くように乾麺が広がる。 『ある程度の家事はできる』と言った、彼の言葉に嘘はなかった。「それじゃ、朝飯にするか」と言ったあと、彼はまっすぐに台所に向かい、おもむろに調理を始めたのである。  メイシアは呆然と、慣れた手つきの彼を見つめていた。 「ルイフォン、凄い……」 「惚れ直した?」  彼は、くるりと振り返り、得意気に口の端を上げる。 「うん。私は何もできないのに、ルイフォンは……」 「こら、落ち込まない。――これは俺の自慢料理だからな。上手くて当然だ」  インスタント食品を出してきたほうがよかっただろうか、とルイフォンは少しだけ考える。けれど、メイシアはそんなものを食べたことがないだろう。何より、ふたりで迎える初めての朝だ。できるだけ洒落た思い出にしたかったのだ。  普段は無人の家であるため、備蓄できる食材は限られている。そんな中で、彼が定番にしているメニュー――ニンニクと唐辛子のパスタ『ペペロンチーノ』。ニンニクは芽が伸び始めていたが、よくあることなので気にしない。朝からニンニクたっぷりはどうかとも思うが、これが一番得意なのだから仕方ない。本当は言うほどレパートリーはないのだから。  ルイフォンはコーヒー豆を出してきて、ガリガリとミルで挽き始めた。あたりに芳しい香りが漂い、メイシアが目を丸くするのを楽しむ。 「メイシア、その棚からコーヒーカップを取って」  手持ち無沙汰の彼女に、そっと頼んだ。彼女は嬉しそうに動き始め、コーヒーカップと共に見つけた皿とフォークも、遠慮がちに持ってくる。 「気が利くな。ありがとう」  すぐそばに彼女が居て、一緒に何かをしている。幸せだ、と彼は思った。  幸せだからこそ、もっと幸せにしてやるべきだ、と彼は思った。  少々、唐辛子を入れすぎたのか、時折、顔をしかめていたが、ルイフォンの作ったパスタは概ねメイシアに好評だった。彼は満足そうに目を細め、コーヒーを口にする。  昨日の雨は、すっかり上がっていた。  庭を覆い尽くす桜の花びらは、初春の残骸と成り果てていたが、代わりに、芽吹きを迎えた木々が、全身に浴びた雨雫で陽光を弾き、光の花を咲かせている。  透き通った蒼天が、世界を巡っていた。穏やかで、温かく、心地よい。  このまま時が止まれば、永遠に安らかで平穏な、ふたりきりの王国だ。  ルイフォンは、向かいに座るメイシアを見た。彼女は、コーヒーカップを両手で包み込み、大切そうに香りを楽しんでいた。彼の淹れてくれたコーヒーを宝物のように見つめ、少しずつ口に含む。 「メイシア」  ようやく、彼女がカップをソーサーに置いたとき、彼は静かに声を掛けた。彼女は、どうしたの? と、きょとんと彼を見る。 「鷹刀と、ハオリュウのところに戻ろう」 「え……?」  何を言われたのか理解できない、とばかりに、彼女の表情が止まった。喜怒哀楽のどれでもない顔で、じっと彼を見つめ返し、彼の真意を問う。 「俺は、お前に『すべてを振り切っちまえ』と言ったし、お前も『振り切ってきた』と言ったけどさ。本当は俺たち、そんなことをする必要ないんじゃないか?」  彼女と、ふたりきりでいたい。その気持ちに偽りはない。けれど、彼女を閉じた世界に押し込めたら、それは鳥籠の中と同じなのだ。  彼女には自由に羽ばたいてほしい。青天も荒天も、どんな空でも――。 「俺たちは別に、駆け落ちするほど周りに反対されてないはずだ。それよりも……」  ルイフォンは、にやりと不敵に笑った。まるで挑むように、猫の目を鋭く光らせる。 「俺たちは、皆に祝福されるべきだろう?」 「ルイフォン……」  メイシアの目から、ひと筋の涙がこぼれた。  彼女は慌てて拭おうとするが、先を読んで身を乗り出していたルイフォンの指先が伸び、彼女よりも先にそれをすくい取る。  濡れた指をぺろりと舐めると、案の定、しょっぱい。けれど、顔を真っ赤にして、信じられないものを見る目をしているメイシアが、可愛いのでよしとする。  深刻になりすぎずに、直感的に、我儘に、気ままに。笑いながら彼女と生きていきたい。だから、少し惜しい気もするけれど、戻るべきだと彼は判断したのだ。 「ルイフォン……。私、本当に何もできないから、ルイフォンに呆れられたのかと思ったの。だから、戻ろうって言われたのかと……」  再び涙ぐみながら、メイシアが言う。 「俺は別に気にしないけど……。そうだな。メイシアが気にするなら、これからできるようになればいいだけだろ?」  その言葉に、彼女はぱっと目を輝かせ「はい」と嬉しそうに頷く。  くるくる変わる彼女の表情を見ながら、彼はふっと真顔になった。 「俺ね、やっぱ、まだまだ餓鬼なんだと思う。自分で稼げるし、お前を養えるし、それで充分だと思っていた。けど、たぶん、まだそれだけじゃ駄目なんだと思った」  彼女がこの家に来てから考えたこと。黙っていたほうが格好いいかもしれないけれど、彼女には伝えておきたかった。 「俺が鷹刀を出て何が起きたかといえば、周りを心配させただけだった。俺が自分自身に折り合いをつければいいだけのことに、周りを巻き込んだ。俺は……」  ――と、そこまで言ったとき、ルイフォンは強い視線を感じた。  黒曜石の瞳が、斬りつけるかのように凛と彼を見つめていた。思わず言葉を呑み込む。そんな彼を押し切るように、たおやかなくせに揺るぎない声が響いた。 「それは違うと思うの。ルイフォンが出ていったから、私は追いかけることができた。ルイフォンが欲しかったから、流されたり諦めたりしないで、自分の意志を持つことができた。私にとっては、必要なことだったの。……凄く大事なことだった」 「メイシア……」 「ルイフォンが懸命に考えて行動したことは、すべて意味のあることなの。だから、そのことをルイフォン自身にも悪く言ってほしくない」 「けど……!」  不意に、メイシアの表情が緩んだ。  細い指が伸びてきて、ルイフォンの癖のある前髪が、ふわりと巻き上げられる。猫毛にくしゃりと指を絡め、彼女は愛しそうに彼を見つめた。 「うん。ルイフォンが言いたいことは分かっている。私たちは未熟だ、ってことでしょう? ――私もそう思う」  彼女は微笑む。夢見るような目で、現実を見据えながら。 「私、いろいろなことを覚えたい。ルイフォンの役に立ちたいから――あなたと一緒に生きるための力を蓄えたい。……だから、今は戻るのに賛成する」 「ありがとう……」  ルイフォンは椅子から立ち、テーブルを回り込んでメイシアを背中から抱きしめた。いまだに緊張で強張る肩を包み込み、黒髪に顔をうずめて、耳元で囁く。 「……でも、たまにはこの家で、お前とふたりきりで過ごしたい。……というのは、我儘?」  その瞬間、彼女の頬が、かぁっと熱を持つのを感じた。 「う、ううん……。我儘じゃない」  消え入りそうなほどに小さな声が返ってくる。  ルイフォンは目を細め、彼女の頬に口づけた。……当然の如く、彼女の体温が、更に急上昇するのを承知で。  そのまま、彼女を抱きしめる。少しうつむくと、癖のある前髪が目にかかり、背中で編んだ髪が鈴を揺らした。 「……メイシア」  やや硬質なテノールが響く。 「もうひとつ、話がある」 「え?」 「『ホンシュア』って名前、覚えているか?」  メイシアの心臓が、どきりと高鳴った。 「私を鷹刀に行くように仕向けた、偽の仕立て屋。――そして、ルイフォンが斑目の別荘で会ったという〈天使〉……」 「そうだ。彼女は、メイシアのことを『選んだ』と言っていた。……俺たちは、彼女によって引き合わされたらしい」  腕の中のメイシアが、小さく震えた。漠然とした不安が彼女を襲うのを感じ、彼は強く抱きしめる。  ホンシュアは、彼が『ルイフォン』であることを知っていて、そのくせ『ライシェン』という名前でも呼んだ。何かを知っている。何かが隠されている。 「ホンシュアがルイフォンのお母様……ということは……?」  遠慮がちに、メイシアが尋ねた。  ホンシュアもまた、〈影〉にされてしまった不幸な人で、その中身はルイフォンの母親なのではないか。――そう言いたいのだろう。〈影〉という言葉を避けたところに、メイシアが父親の最期を思い出したことが感じられ、痛ましい。  ホンシュアは〈影〉である。それは正しいと思う。けれど――。 「彼女は母さんじゃない。雰囲気も、口調も違う。……でも、何か重要なことを知っている……と思う」 「――なら、私ももう一度、彼女に会って、お話したい」  メイシアは微笑みながら、一緒にホンシュアに会いに行こうと言う。  危険を伴うかもしれない。だから、言い出しにくかった。けれど彼の負担を軽くするような言葉で、当然のように言ってくれる。それが嬉しくて、心地よい。 「ありがとう」  まばゆい蒼天のもと、ルイフォンは、メイシアがそばに居る幸せを噛みしめた。 「ホンシュア! ホンシュアァ……!」  小さな体全身を使って、ファンルゥは叫んだ。  自由奔放な癖っ毛を、ぴょんぴょんと肩で跳ねかせ、まるで癇癪でも起こしているかのように、足を踏み鳴らす。  彼女の両手は、ホンシュアが横たわるベッドのシーツを皺くちゃに握りしめていた。本当は、ホンシュアの手を握りたかったのだが、熱くて触れることも叶わないのである。  近くにいるだけで火傷しそうなほどの熱気に、ファンルゥは本能的な恐怖を感じている。  けれど、ホンシュアは素敵な〈天使〉で、大切なお友達なのだ。放っておくことなんて、できるわけがなかった。  ホンシュアは、苦しそうに熱い息を吐く。肩がむき出しの、薄いキャミソールワンピース姿なのに、うわ言のように「熱い、熱い」と繰り返す……。 「パパ! ホンシュアには、お薬が必要なの! あのおじさんは、まだ!?」  くりっとした丸い目に涙を浮かべ、ファンルゥは背後に立つ父親を振り返った。  こっそり地下に遊びに行っていたことがばれても、それで怒られることより、ホンシュアを助けることのほうが、ずっと大事だった。だから彼女は、父のタオロンを頼った。  ホンシュアは、〈ムスカ〉という、おじさんの持っている薬を飲めば、具合いが良くなる。〈ムスカ〉は、嫌なおじさんだけれど、物凄いお医者さんらしい。  父に頼んで、〈ムスカ〉から薬を貰う。――ひとりで〈ムスカ〉に会うのは怖かったし、そもそも何処で何をしているのか知らなかったから。  それが、ファンルゥにできる精一杯だった。  一方、タオロンはといえば、呆然としていた。  リュイセンに負わされた傷は、〈ムスカ〉によってふさがれたが、まだ動くのは億劫だった。そんな状態で休んでいたら、必死の形相の愛娘が、部屋に駆け込んできたのだ。  心配をかけたくない彼としては、娘には負傷したことを悟られたくない。仕方なく手を引かれるままについていけば、きな臭い地下である。扉を開けた瞬間、部屋から熱気が押し寄せてきた。  そして、ベッドに横たわる、薄着の女。〈ムスカ〉に『〈サーペンス〉』と呼ばれていた女だ。その女の背から――『羽』が生えていた……。  そう、光の糸が網の目のように広がった『それ』は、確かに羽としか言いようがない。ファンルゥが、ちゃんと『〈天使〉なの』と説明していたのに、子供の戯言たわごとと聞き流していたのを反省する。 「パパ! パパ!」  愛娘の声に、タオロンは、はっとする。慌てて携帯端末を取り出して、〈ムスカ〉を呼び出した。  ほどなく現れた〈ムスカ〉は、やや不機嫌そうな様子だった。ファンルゥが、さっとタオロンの影に隠れ、服の裾を握る。 「あなたから連絡があったので、てっきり例の件の色良い返事かと思ったんですが――。また、厄介なことになっていますね」 〈ムスカ〉は、鼻を鳴らし、大仰に溜め息をついた。  タオロンもファンルゥも気づかなかったが、ルイフォンに壊されたサングラスは、予備のものに替わっていた。一目見れば鷹刀一族の者と分かる容貌を、斑目一族の前で晒すのは得策ではないからだ。 「彼女はいったい、何者だ?」  タオロンはホンシュアを示し、当然の疑問をぶつける。 「見ての通り、〈天使〉ですよ」 「真面目に答えろ!」 「心外ですね。私はきちんと、お答えしていますよ? それとも、『〈七つの大罪〉の技術の結晶』とでも言えば、納得されるんですか?」 〈ムスカ〉は、別に嘘を言っているわけではないのだろう。ただ、それがタオロンの常識の範疇を超えているだけだ。  聞くだけ無駄だということに、タオロンは遅まきながら気づいた。 「とりあえず、知らせてくださったことには感謝しますが、他人の部屋に勝手に入り込むとは、子供の躾がなっていませんね」 〈ムスカ〉はそう言って、タオロン父娘をぎろりと睨む。 「この際ですから、例の件の返事をしてもらいましょう。――あなたは、私にくだりますか? それとも、斑目の総帥の要求通り、娘を差し出しますか?」 「く……っ」  タオロンは、〈影〉と呼ばれる別人になった『藤咲コウレン』を、鷹刀一族の人間に救出『させる』というめいを受けていた。適度に交戦することで、不信感をいだかせないのが彼の役目だった。  けれど、安否を心配する家族に、偽者の『藤咲コウレン』を『送り込む』ことは、タオロンにはできなかった。だから射殺しようとした。結局、失敗に終わったが、その現場は監視役に目撃されており、彼は総帥の不興を買ったのだ。 「鷹刀の子猫によって、斑目は経済的に壊滅状態です。厳月家との仲も微妙になっています。だからこそ総帥は、私の機嫌をとっておきたいはずです。私があなた方、父娘が欲しいといえば、しぶしぶながらでも応じてくれるでしょう」 「……ファンルゥの安全は、保証されるんだろうな?」 「勿論ですよ」 〈ムスカ〉が口の端を上げる。  信用できない相手だが、それでも、ファンルゥが目の届かないところに連れて行かれるよりは、ましだった。 「分かった。お前の駒になろう……」  奥歯を噛み締め、タオロンは決断する。 「賢い選択ですよ。では、〈天使〉はなんとかしますから、あなた方は出ていってください」  そう言って〈ムスカ〉は、タオロンとファンルゥを部屋から追い立てた。



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