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5.紡ぎあげられた邂逅ー2

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 静寂なる厨房に、気配もなくうずくまっていた女――ホンシュア。  間違いなく、初対面の相手だった。  だが彼女は、「逢えた」というひとことを歓喜で彩り、感涙する。その涙に嘘は感じられなかった。  ルイフォンに引き寄せられるように、ホンシュアは立ち上がろうとする。  熱のせいだろうか、動きは緩慢だった。途中で「あっ」と小さな悲鳴を上げ、よろける。そのまま力なく、ぺたんと、へたり込んだ。彼女は眉根を寄せ、苦しげに息を吐く。 「お、おい!」  ルイフォンは思わず一歩、駆け寄った。 「待て、ルイフォン!」  深入りしそうな彼を、半ば叱るようにしてリュイセンが呼ぶ。 「そいつは、〈七つの大罪〉なんだろ? 耳を貸すな」  ルイフォンは、父親のイーレオに似ている。外見ではなく、内面が。――楽天家で、好奇心が強く、情にあつく、情に脆い。  だからこそ、自分がそばに居てやらねばならぬのだと、リュイセンは思う。  彼は、ルイフォンが背負っているコウレンに気遣いながらも、強引に肩を掴んで出口へと促した。 「ああ……、やっぱり。リュイセンは、お父さんそっくりになったのね」  ホンシュアが、懐かしいものを見る目で微笑んだ。リュイセンは、その顔に本能的な恐怖を覚えた。それは未知のものへの戦慄だった。  荒い息をつきながら、ホンシュアは厨房の壁にもたれ掛かる。 「ルイフォンだけなら、ファンルゥが連れてきてくれる可能性があった。けど、リュイセンがいたら、確率は限りなくゼロ」  気だるげでありながらも、しっかりとした口調。だが、それは気力によるものに過ぎないと、額に浮かぶ汗が証明している。 「何者だ、お前……」  満足げな表情を浮かべるホンシュアの不気味さに、リュイセンは思わず疑問を口にしていた。  双刀の柄に手をやりながら、彼は、そろそろとホンシュアに歩み寄る。 「何故、俺たちのことを知って……」  言いかけて、リュイセンは途中で口を閉ざした。反応したら相手の思う壺だと気づいたのだ。  彼は振り切るように背を向けた。ホンシュアの体が利かないのは確かだ。だから、このまま無視して立ち去ればよい。そうすべきだ、と。 「ま、待てよ、リュイセン!」  大股で勝手口に向かうリュイセンを、ルイフォンは目線だけで追った。頭では冷静な兄貴分について行くべきだと分かっているのだが、心と体はホンシュアを向いたままだった。 「行っていいわよ、ルイフォン」  そっと背中を押すように、ホンシュアはそう言って、にこやかに笑う。  状況に対して不自然なほどの、晴れ晴れとした笑顔だった。汗で額に貼り付いた黒髪すら、清々しく見える。 「あなたが元気なことが確認できれば、それで充分。顔が見られてよかったわ」 「なっ? なんだよ、それ!?」  大仰に現れたくせに、顔を見ただけで充分だなんて、あまりにも奇妙だ。彼女が求めているのは、こんなあっさりとした邂逅ではないはずだ。 「違うだろ!? お前は必死だった。何か、深いわけが……」 「ルイフォン、あなたって子は、変わってないわね」 「え……?」 「私があなたに逢うことには、なんの意味もないの。ただ、私が逢いたかっただけ」  愛しげな眼差しで、ホンシュアがルイフォンを見つめる。まったく知らない顔なのに、どこか見覚えがあった。 「もしかして、母さん……?」  口調が違う。雰囲気が違う。何より、別人の姿だ。――でも、知っている。 「ほら、リュイセンが待っているわよ」 「はぐらかすなよ! ――俺は、母さんが死んだ直後の記憶が曖昧だ。……俺は何か、重要なことを忘れている? お前は母さんじゃないけど、それに近い――!」  促すホンシュアに、ルイフォンは叩きつけるように言い放った。  心臓が早鐘のように鳴っていた。体の内部から、溢れそうな何かを感じる。封じられた不明瞭な記憶がもどかしい。 「……『母さん』」  無意識に、ルイフォンの唇が動いた。  刹那、ホンシュアの瞳が揺らいだ。ルイフォンをじっと見つめる瞳から、ひと筋の涙が、頬を伝う。  薄い闇が、空気を墨色に染め上げ、あらゆる物音を舐め尽くしていた。その中を、ホンシュアが震えながら、白くおぼろな腕を伸ばしてくる。むき出しの肩に載っていた髪が、さらさらと流れ落ちる音が聞こえた気がした。 「…………、…………ルイフォン、来て」  彼女は、儚げに微笑んだ。  ルイフォンは足を……踏み出そうとして、動けなかった。 「……え」  気持ちは前に進んでいるのに、足がすくむ。自分の知らない『何か』を、体が恐れていた。  ――嘘だろ、俺が脅えるなんて……。  信じられない思いに、呼吸が乱れ、冷や汗が出る。  それは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。けれど、ルイフォンには意識が遠のきそうなほど長い時間に感じられた。  不意に、背中が軽くなった。  驚いて振り返ると、ルイフォンが背負っていたコウレンを、リュイセンが抱えていた。 「行ってやれよ」  リュイセンがホンシュアを顎でしゃくる。投げやりのような、面倒臭そうな、いつもの憮然とした顔だ。  野生の獣の勘に近い敏感さで、彼は本質を見抜く。事情が分からなくとも、必要なことと、そうでないことの区別の見極めに狂いはない。  ルイフォンが戸惑っていると、小さな影が走ってきた。『話が始まったあとは、お喋りは我慢』の指切りを、ホンシュアと交わしていたファンルゥである。  可愛い掌が、ありったけの力でルイフォンを押した。彼が一歩よろめくと、怒られると思ったのか、そばにいたリュイセンの後ろにささっと隠れる。  親譲りの猪突猛進さに、「よくやった」とリュイセンが笑いかけると、ファンルゥは驚いたように目をぱちくりとした。リュイセンのことは、怒ってばかりの怖い人だと思っていたのだ。  嬉しさのあまり、彼女はリュイセンの足にぎゅっと抱きつき、頬を擦り寄せる。お口チャックの約束を守ったままの喜びの意思表示である。 「お、おい」  突然の可愛い攻撃に、猛者リュイセンが動揺を隠せない。コウレンを落とさないように、ファンルゥのすりすりを避けようと、無駄な努力をした。  そんな光景を目に、ルイフォンは、肩の力が抜けるのを感じた。  何を怖がっていたのだろう。  ルイフォンは、ゆっくりとホンシュアに近づいた。座ったままの彼女に合わせ、膝を付く。彼女の顔が、ふわりと緩んだ。  ホンシュアは上体を傾け、ルイフォンの癖のある前髪に指先を伸ばした。触れたかと思うと、くしゃり、と撫でる。彼がよくやる仕草とそっくりだった。  そのまま彼女は、崩れ落ちるようにルイフォンの胸に倒れ込んだ。  思わず抱きとめた素肌の肩は、明らかに人の体温を越えており、胸に預けられた額は熱く脈打っていた。 「ごめんね。私……、お母さんじゃ、ないよ」  喘ぐような高温の息が、ルイフォンの体に掛かる。 「ルイフォン、……ごめんね」 「何を謝っている?」  ホンシュアは、ためらうように一度、息を止め、それから少しだけ、からかいを含んだ、けれど柔らかな声で言った。 「あの子……メイシア。私の選んだあの子を、ルイフォンは……どう思った?」 「え?」  選んだ――?  虚をかれたような、告白。 「どういう……?」 「あなたはきっと、私を恨む……。私だって……自分が正しいとは思わない」 「おい、何を言って……?」 「ごめんね……。私が仕組んだの」  支離滅裂だ。要領を得ない。 「いったい、何を……?」  ホンシュアはルイフォンの問いには答えずに、言葉を重ねていく。まるで、追い詰められているかのように懸命に――。  必死に伝えようとしている言葉には、絶対に意味があるはずだ。これは、ホンシュアがルイフォンに与えようとしている大事な情報なのだ。  ルイフォンは心に刻み込むように、耳を傾ける。 「あの子……、いいことを言うわね。『……それがどんなに罪だとしても、私は何度でも同じことをします』」 「それ、メイシアが貧民街でタオロンに言った言葉だ……。どうして知って……?」  不意にホンシュアが顔を上げ、くすりと笑う。 「〈ムスカ〉の端末……こっそり乗っ取っておいたの」 「なっ!?」  驚くルイフォンを、ホンシュアはいたずらな表情で見つめている。  それが、ふっと真顔になり、はっきりと告げた。 「……それがどんなに罪だとしても、私は何度でも同じことをするわ」  ホンシュアは、とても綺麗に笑った。  そして、深く清らかな、慈愛の声で、言った。 「逢えてよかった……『ライシェン』」  その瞬間、ルイフォンの脳裏に、さらさらとした鎖の感触が浮かび上がった。そして流れるような、金属の響き合う音。  これは記憶の狭間で忘れられていた、過去の経験だ。『思い出した』という、強い感覚があるから間違いない。  けれど、いったい、何を示しているのか? 「あ、れ……?」  ルイフォンは、つい最近、この古い記憶と同じものを味わったことに気づいた。 「……メイシアのペンダントだ」  手の中から机の上へ、すっと消えていく、くすぐったい触り心地と高い音色。メイシアにペンダントを返したときの記憶と重なった。  ――と、思ったと同時に、脳を激しく揺すぶられるような感覚がした。目の前が真っ暗になる。 「うわぁぁぁ……」  まるで、頭をかち割られたかのような激痛――!  ルイフォンはたまらず、頭を抑えながら床にうずくまった。 「え? ルイフォン!? ――ライシェン? ……駄目ぇ!」  ホンシュアが絹を裂くような悲鳴を上げると共に、彼女の背中から光と熱が噴き出した。  露出した白い肌。肩甲骨のくぼみの辺りから、白金の光の糸があふれ出て、互いに繋がり合い、網の目のように広がっていく。それは、人間の背丈ほどまで伸びると、大きく横に広がった。 「これは、いったい……なんだ!?」  黙って状況を見守っていたリュイセンも、この異様な事態に驚きを隠せなかった。唖然としたように呟くと、答えは足元から返ってきた。 「〈天使〉の羽。ホンシュアは〈天使〉なの」  ファンルゥが、知っていることを自慢するかのように、得意気に言う。 「〈天使〉!?」  まさに、その言葉通り、ホンシュアの背には光の羽が現れていた。  光の糸の一本一本は均一の太さではなく、細くなったり太くなったりを繰り返しながら、複雑に絡み合っていた。そして時々、糸の内部をひときわ強い光が駆け抜けるように、輝きが伝搬していく。  まるで、生命が激しく脈打っているかのよう――けれども、羽全体として見れば、風にそよぐかのように、ゆったりと優雅に波打っている。  その輝きは徐々に増していき、ホンシュアの黒髪さえも、まばゆく照らされ、白金に輝いて見えた。  ホンシュアは、苦しんでいるルイフォンの体を起こす。羽が大きく広がり、光でいだくように彼を包み込んだ。  ルイフォンの表情が、すぅっと穏やかになっていく……。  そして、薄く目を開けた。  そのとき――。 「厨房から、光……?」  廊下から、低い呟きが聞こえた。 「ここにいたのか、〈サーペンス〉!」  憤りを含んだ声が響き、厨房と廊下を区切る扉が開かれた。  そこに、〈ムスカ〉がいた。



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 静寂なる厨房に、気配もなくうずくまっていた女――ホンシュア。  間違いなく、初対面の相手だった。  だが彼女は、「逢えた」というひとことを歓喜で彩り、感涙する。その涙に嘘は感じられなかった。  ルイフォンに引き寄せられるように、ホンシュアは立ち上がろうとする。  熱のせいだろうか、動きは緩慢だった。途中で「あっ」と小さな悲鳴を上げ、よろける。そのまま力なく、ぺたんと、へたり込んだ。彼女は眉根を寄せ、苦しげに息を吐く。 「お、おい!」  ルイフォンは思わず一歩、駆け寄った。 「待て、ルイフォン!」  深入りしそうな彼を、半ば叱るようにしてリュイセンが呼ぶ。 「そいつは、〈七つの大罪〉なんだろ? 耳を貸すな」  ルイフォンは、父親のイーレオに似ている。外見ではなく、内面が。――楽天家で、好奇心が強く、情にあつく、情に脆い。  だからこそ、自分がそばに居てやらねばならぬのだと、リュイセンは思う。  彼は、ルイフォンが背負っているコウレンに気遣いながらも、強引に肩を掴んで出口へと促した。 「ああ……、やっぱり。リュイセンは、お父さんそっくりになったのね」  ホンシュアが、懐かしいものを見る目で微笑んだ。リュイセンは、その顔に本能的な恐怖を覚えた。それは未知のものへの戦慄だった。  荒い息をつきながら、ホンシュアは厨房の壁にもたれ掛かる。 「ルイフォンだけなら、ファンルゥが連れてきてくれる可能性があった。けど、リュイセンがいたら、確率は限りなくゼロ」  気だるげでありながらも、しっかりとした口調。だが、それは気力によるものに過ぎないと、額に浮かぶ汗が証明している。 「何者だ、お前……」  満足げな表情を浮かべるホンシュアの不気味さに、リュイセンは思わず疑問を口にしていた。  双刀の柄に手をやりながら、彼は、そろそろとホンシュアに歩み寄る。 「何故、俺たちのことを知って……」  言いかけて、リュイセンは途中で口を閉ざした。反応したら相手の思う壺だと気づいたのだ。  彼は振り切るように背を向けた。ホンシュアの体が利かないのは確かだ。だから、このまま無視して立ち去ればよい。そうすべきだ、と。 「ま、待てよ、リュイセン!」  大股で勝手口に向かうリュイセンを、ルイフォンは目線だけで追った。頭では冷静な兄貴分について行くべきだと分かっているのだが、心と体はホンシュアを向いたままだった。 「行っていいわよ、ルイフォン」  そっと背中を押すように、ホンシュアはそう言って、にこやかに笑う。  状況に対して不自然なほどの、晴れ晴れとした笑顔だった。汗で額に貼り付いた黒髪すら、清々しく見える。 「あなたが元気なことが確認できれば、それで充分。顔が見られてよかったわ」 「なっ? なんだよ、それ!?」  大仰に現れたくせに、顔を見ただけで充分だなんて、あまりにも奇妙だ。彼女が求めているのは、こんなあっさりとした邂逅ではないはずだ。 「違うだろ!? お前は必死だった。何か、深いわけが……」 「ルイフォン、あなたって子は、変わってないわね」 「え……?」 「私があなたに逢うことには、なんの意味もないの。ただ、私が逢いたかっただけ」  愛しげな眼差しで、ホンシュアがルイフォンを見つめる。まったく知らない顔なのに、どこか見覚えがあった。 「もしかして、母さん……?」  口調が違う。雰囲気が違う。何より、別人の姿だ。――でも、知っている。 「ほら、リュイセンが待っているわよ」 「はぐらかすなよ! ――俺は、母さんが死んだ直後の記憶が曖昧だ。……俺は何か、重要なことを忘れている? お前は母さんじゃないけど、それに近い――!」  促すホンシュアに、ルイフォンは叩きつけるように言い放った。  心臓が早鐘のように鳴っていた。体の内部から、溢れそうな何かを感じる。封じられた不明瞭な記憶がもどかしい。 「……『母さん』」  無意識に、ルイフォンの唇が動いた。  刹那、ホンシュアの瞳が揺らいだ。ルイフォンをじっと見つめる瞳から、ひと筋の涙が、頬を伝う。  薄い闇が、空気を墨色に染め上げ、あらゆる物音を舐め尽くしていた。その中を、ホンシュアが震えながら、白くおぼろな腕を伸ばしてくる。むき出しの肩に載っていた髪が、さらさらと流れ落ちる音が聞こえた気がした。 「…………、…………ルイフォン、来て」  彼女は、儚げに微笑んだ。  ルイフォンは足を……踏み出そうとして、動けなかった。 「……え」  気持ちは前に進んでいるのに、足がすくむ。自分の知らない『何か』を、体が恐れていた。  ――嘘だろ、俺が脅えるなんて……。  信じられない思いに、呼吸が乱れ、冷や汗が出る。  それは、ほんの一瞬のことだったのかもしれない。けれど、ルイフォンには意識が遠のきそうなほど長い時間に感じられた。  不意に、背中が軽くなった。  驚いて振り返ると、ルイフォンが背負っていたコウレンを、リュイセンが抱えていた。 「行ってやれよ」  リュイセンがホンシュアを顎でしゃくる。投げやりのような、面倒臭そうな、いつもの憮然とした顔だ。  野生の獣の勘に近い敏感さで、彼は本質を見抜く。事情が分からなくとも、必要なことと、そうでないことの区別の見極めに狂いはない。  ルイフォンが戸惑っていると、小さな影が走ってきた。『話が始まったあとは、お喋りは我慢』の指切りを、ホンシュアと交わしていたファンルゥである。  可愛い掌が、ありったけの力でルイフォンを押した。彼が一歩よろめくと、怒られると思ったのか、そばにいたリュイセンの後ろにささっと隠れる。  親譲りの猪突猛進さに、「よくやった」とリュイセンが笑いかけると、ファンルゥは驚いたように目をぱちくりとした。リュイセンのことは、怒ってばかりの怖い人だと思っていたのだ。  嬉しさのあまり、彼女はリュイセンの足にぎゅっと抱きつき、頬を擦り寄せる。お口チャックの約束を守ったままの喜びの意思表示である。 「お、おい」  突然の可愛い攻撃に、猛者リュイセンが動揺を隠せない。コウレンを落とさないように、ファンルゥのすりすりを避けようと、無駄な努力をした。  そんな光景を目に、ルイフォンは、肩の力が抜けるのを感じた。  何を怖がっていたのだろう。  ルイフォンは、ゆっくりとホンシュアに近づいた。座ったままの彼女に合わせ、膝を付く。彼女の顔が、ふわりと緩んだ。  ホンシュアは上体を傾け、ルイフォンの癖のある前髪に指先を伸ばした。触れたかと思うと、くしゃり、と撫でる。彼がよくやる仕草とそっくりだった。  そのまま彼女は、崩れ落ちるようにルイフォンの胸に倒れ込んだ。  思わず抱きとめた素肌の肩は、明らかに人の体温を越えており、胸に預けられた額は熱く脈打っていた。 「ごめんね。私……、お母さんじゃ、ないよ」  喘ぐような高温の息が、ルイフォンの体に掛かる。 「ルイフォン、……ごめんね」 「何を謝っている?」  ホンシュアは、ためらうように一度、息を止め、それから少しだけ、からかいを含んだ、けれど柔らかな声で言った。 「あの子……メイシア。私の選んだあの子を、ルイフォンは……どう思った?」 「え?」  選んだ――?  虚をかれたような、告白。 「どういう……?」 「あなたはきっと、私を恨む……。私だって……自分が正しいとは思わない」 「おい、何を言って……?」 「ごめんね……。私が仕組んだの」  支離滅裂だ。要領を得ない。 「いったい、何を……?」  ホンシュアはルイフォンの問いには答えずに、言葉を重ねていく。まるで、追い詰められているかのように懸命に――。  必死に伝えようとしている言葉には、絶対に意味があるはずだ。これは、ホンシュアがルイフォンに与えようとしている大事な情報なのだ。  ルイフォンは心に刻み込むように、耳を傾ける。 「あの子……、いいことを言うわね。『……それがどんなに罪だとしても、私は何度でも同じことをします』」 「それ、メイシアが貧民街でタオロンに言った言葉だ……。どうして知って……?」  不意にホンシュアが顔を上げ、くすりと笑う。 「〈ムスカ〉の端末……こっそり乗っ取っておいたの」 「なっ!?」  驚くルイフォンを、ホンシュアはいたずらな表情で見つめている。  それが、ふっと真顔になり、はっきりと告げた。 「……それがどんなに罪だとしても、私は何度でも同じことをするわ」  ホンシュアは、とても綺麗に笑った。  そして、深く清らかな、慈愛の声で、言った。 「逢えてよかった……『ライシェン』」  その瞬間、ルイフォンの脳裏に、さらさらとした鎖の感触が浮かび上がった。そして流れるような、金属の響き合う音。  これは記憶の狭間で忘れられていた、過去の経験だ。『思い出した』という、強い感覚があるから間違いない。  けれど、いったい、何を示しているのか? 「あ、れ……?」  ルイフォンは、つい最近、この古い記憶と同じものを味わったことに気づいた。 「……メイシアのペンダントだ」  手の中から机の上へ、すっと消えていく、くすぐったい触り心地と高い音色。メイシアにペンダントを返したときの記憶と重なった。  ――と、思ったと同時に、脳を激しく揺すぶられるような感覚がした。目の前が真っ暗になる。 「うわぁぁぁ……」  まるで、頭をかち割られたかのような激痛――!  ルイフォンはたまらず、頭を抑えながら床にうずくまった。 「え? ルイフォン!? ――ライシェン? ……駄目ぇ!」  ホンシュアが絹を裂くような悲鳴を上げると共に、彼女の背中から光と熱が噴き出した。  露出した白い肌。肩甲骨のくぼみの辺りから、白金の光の糸があふれ出て、互いに繋がり合い、網の目のように広がっていく。それは、人間の背丈ほどまで伸びると、大きく横に広がった。 「これは、いったい……なんだ!?」  黙って状況を見守っていたリュイセンも、この異様な事態に驚きを隠せなかった。唖然としたように呟くと、答えは足元から返ってきた。 「〈天使〉の羽。ホンシュアは〈天使〉なの」  ファンルゥが、知っていることを自慢するかのように、得意気に言う。 「〈天使〉!?」  まさに、その言葉通り、ホンシュアの背には光の羽が現れていた。  光の糸の一本一本は均一の太さではなく、細くなったり太くなったりを繰り返しながら、複雑に絡み合っていた。そして時々、糸の内部をひときわ強い光が駆け抜けるように、輝きが伝搬していく。  まるで、生命が激しく脈打っているかのよう――けれども、羽全体として見れば、風にそよぐかのように、ゆったりと優雅に波打っている。  その輝きは徐々に増していき、ホンシュアの黒髪さえも、まばゆく照らされ、白金に輝いて見えた。  ホンシュアは、苦しんでいるルイフォンの体を起こす。羽が大きく広がり、光でいだくように彼を包み込んだ。  ルイフォンの表情が、すぅっと穏やかになっていく……。  そして、薄く目を開けた。  そのとき――。 「厨房から、光……?」  廊下から、低い呟きが聞こえた。 「ここにいたのか、〈サーペンス〉!」  憤りを含んだ声が響き、厨房と廊下を区切る扉が開かれた。  そこに、〈ムスカ〉がいた。



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