〈悪魔〉の棲み家

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「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」  母がそう言ったのは、いつのことだっただろうか――?  母は昔、〈七つの大罪〉と呼ばれる組織にいた。  母にとって、そこがどんなところであったのか、俺は今ひとつ理解できない。彼女は〈七つの大罪〉に対して、古巣を見る目で懐かしむこともあれば、敵愾心むき出しで激しい罵りの言葉を放つこともあったから。  だがそこは、彼女が手玉に取れる程度のところであって、決して恐れるほどのものではなかったはずなのだ。何故なら自信過剰な彼女自身が、そう言っていたのだから――。 「結局のところ、〈七つの大罪〉って、なんなのさ? 語源は『キリスト教の教え』ってやつだろ?」  かつて俺は、母にそう尋ねた。  この大華王国において、『神』といえば天空の神フェイレン。白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を有する神。この地上の、ありとあらゆる事象を見通す万能の神様だ。  だから、その代理人たる王もまた、同じ姿と力を持つのだと言われる。実際、国民は黒髪黒目であるにも関わらず、王宮の最奥に住まう王は、異色の姿をしている。  フェイレン神を信じているかと問われれば、俺は「別に?」と答える。けれど、異国の神様の教えとやらを、この国で説くのはナンセンスだと思う。 「『七つの大罪』は、『人間を罪に導く七つの欲』。ルイフォン、どんなものか知っている?」  俺とそっくりな癖のある前髪の下で、母の目は悪戯を仕掛けている子供のように楽しげだった。つまり、俺が絶対に正解を答えられないと確信している。そして、そういうときは、悔しいことに、まったくもってその通りなのだった。  俺はふくれっ面になりながら、とりあえず知っていることを答えた。何も言わないのは癪だったから。 「えっと……、傲慢、嫉妬、色欲……あと、なんだっけ?」 「『高慢』『物欲』『嫉妬』『憤怒』『色欲』『貧食』『怠惰』……だと、言いたい?」 「そうそう、そんな感じのやつ」  俺はそう言ってから、しまった、と思った。母が嬉しそうに……というか、実に嫌らしく、俺を馬鹿にしたように、にやぁりと笑ったからだ。 「あんた、いったい、いつの古代人?」  そう言いながら、母は滑らかにキーボードを叩き始めた。 〈七つの大罪〉に身請けされるまで文盲だった彼女は、大人になった今も、自らの手で文字を書くことが苦手だった。 1.Genetic modification 遺伝子を改造すること 2.Carrying out experiments on humans 人体実験を行うこと 3.Polluting the environment 環境を汚染すること 4.Causing social injustice 社会的な不公正を行うこと 5.Causing poverty 他人を貧困にすること 6.Becoming obscenely wealthy 悪辣に金を得ること 7.Taking drugs 薬物を濫用すること 「これが現代の『七つの大罪』。『新・七つの大罪』と、いわれるものよ。つまり、これらを犯す組織が、この国で〈七つの大罪〉と呼ばれている『闇の研究組織』」 「なんで、わざわざ異教の宗教用語を組織名に使うわけ?」 「うちの神様は自虐的な偽善者ってことでしょうね」 「わけが分かんないよ」  時々、母の言葉は難解になる。それは隠していることがあるからだ。彼女には触れてはいけない過去がある――らしい。 「で、なんで、〈七つの大罪〉が別格なの?」  俺は最近クラックした企業の記録なんかを思い出しながら、そう尋ねた。  一本裏道に入れば、法も倫理も、ただの寝言になるこの国で、『闇の研究組織』なんて珍しくもない。彼女は、属していた感傷から物を言っているのかもしれない、なんて思いながらも、この母に限ってはそんなことはあるまい、とも思う。  けれど、彼女は曖昧に笑っただけだった。 「あそこでは、知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶのよ」  それは、おとぎ話の絵本などを読み聞かせてくれたことのない母が、俺に語った神話のような物語――。 〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。  その代償として、その体には『契約』が刻み込まれる。  ひとたび交わされれば、決して逃れることのできない『呪い』。犯せば、滅びは必ず訪れる……。 「母さんは……?」 「あたしは、〈悪魔〉に拾われた、ただの捨て猫よ。だから、〈悪魔〉に足首ひとつ、くれてやっただけ」  彼女が口にしたのは、冗談めいた謎かけのような言葉だったけれど、俺が生まれるずっと前から彼女の足首は永遠にうしなわれていた。  そこで彼女は少し、考え込む素振りを見せた。回転椅子の肘掛けに肘をつき、指先を口元に当てる。小柄な彼女のそんな仕草は、俺ほどの餓鬼がいるくせに妙に子供っぽかった。 「けれど――」  不意に、母が再び口を開いた。 「――悪魔なんかより人間のほうが、よほど残酷だと思うわ」  そう言って彼女は、首元に光る金色の鈴に、そっと指を触れた。



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「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」  母がそう言ったのは、いつのことだっただろうか――?  母は昔、〈七つの大罪〉と呼ばれる組織にいた。  母にとって、そこがどんなところであったのか、俺は今ひとつ理解できない。彼女は〈七つの大罪〉に対して、古巣を見る目で懐かしむこともあれば、敵愾心むき出しで激しい罵りの言葉を放つこともあったから。  だがそこは、彼女が手玉に取れる程度のところであって、決して恐れるほどのものではなかったはずなのだ。何故なら自信過剰な彼女自身が、そう言っていたのだから――。 「結局のところ、〈七つの大罪〉って、なんなのさ? 語源は『キリスト教の教え』ってやつだろ?」  かつて俺は、母にそう尋ねた。  この大華王国において、『神』といえば天空の神フェイレン。白金の髪と澄んだ青灰色の瞳を有する神。この地上の、ありとあらゆる事象を見通す万能の神様だ。  だから、その代理人たる王もまた、同じ姿と力を持つのだと言われる。実際、国民は黒髪黒目であるにも関わらず、王宮の最奥に住まう王は、異色の姿をしている。  フェイレン神を信じているかと問われれば、俺は「別に?」と答える。けれど、異国の神様の教えとやらを、この国で説くのはナンセンスだと思う。 「『七つの大罪』は、『人間を罪に導く七つの欲』。ルイフォン、どんなものか知っている?」  俺とそっくりな癖のある前髪の下で、母の目は悪戯を仕掛けている子供のように楽しげだった。つまり、俺が絶対に正解を答えられないと確信している。そして、そういうときは、悔しいことに、まったくもってその通りなのだった。  俺はふくれっ面になりながら、とりあえず知っていることを答えた。何も言わないのは癪だったから。 「えっと……、傲慢、嫉妬、色欲……あと、なんだっけ?」 「『高慢』『物欲』『嫉妬』『憤怒』『色欲』『貧食』『怠惰』……だと、言いたい?」 「そうそう、そんな感じのやつ」  俺はそう言ってから、しまった、と思った。母が嬉しそうに……というか、実に嫌らしく、俺を馬鹿にしたように、にやぁりと笑ったからだ。 「あんた、いったい、いつの古代人?」  そう言いながら、母は滑らかにキーボードを叩き始めた。 〈七つの大罪〉に身請けされるまで文盲だった彼女は、大人になった今も、自らの手で文字を書くことが苦手だった。 1.Genetic modification 遺伝子を改造すること 2.Carrying out experiments on humans 人体実験を行うこと 3.Polluting the environment 環境を汚染すること 4.Causing social injustice 社会的な不公正を行うこと 5.Causing poverty 他人を貧困にすること 6.Becoming obscenely wealthy 悪辣に金を得ること 7.Taking drugs 薬物を濫用すること 「これが現代の『七つの大罪』。『新・七つの大罪』と、いわれるものよ。つまり、これらを犯す組織が、この国で〈七つの大罪〉と呼ばれている『闇の研究組織』」 「なんで、わざわざ異教の宗教用語を組織名に使うわけ?」 「うちの神様は自虐的な偽善者ってことでしょうね」 「わけが分かんないよ」  時々、母の言葉は難解になる。それは隠していることがあるからだ。彼女には触れてはいけない過去がある――らしい。 「で、なんで、〈七つの大罪〉が別格なの?」  俺は最近クラックした企業の記録なんかを思い出しながら、そう尋ねた。  一本裏道に入れば、法も倫理も、ただの寝言になるこの国で、『闇の研究組織』なんて珍しくもない。彼女は、属していた感傷から物を言っているのかもしれない、なんて思いながらも、この母に限ってはそんなことはあるまい、とも思う。  けれど、彼女は曖昧に笑っただけだった。 「あそこでは、知的好奇心に魂を売り渡した研究者を〈悪魔〉と呼ぶのよ」  それは、おとぎ話の絵本などを読み聞かせてくれたことのない母が、俺に語った神話のような物語――。 〈悪魔〉は〈神〉から名前を貰い、潤沢な資金と絶対の加護、蓄積された門外不出の技術を元に、更なる高みを目指す。  その代償として、その体には『契約』が刻み込まれる。  ひとたび交わされれば、決して逃れることのできない『呪い』。犯せば、滅びは必ず訪れる……。 「母さんは……?」 「あたしは、〈悪魔〉に拾われた、ただの捨て猫よ。だから、〈悪魔〉に足首ひとつ、くれてやっただけ」  彼女が口にしたのは、冗談めいた謎かけのような言葉だったけれど、俺が生まれるずっと前から彼女の足首は永遠にうしなわれていた。  そこで彼女は少し、考え込む素振りを見せた。回転椅子の肘掛けに肘をつき、指先を口元に当てる。小柄な彼女のそんな仕草は、俺ほどの餓鬼がいるくせに妙に子供っぽかった。 「けれど――」  不意に、母が再び口を開いた。 「――悪魔なんかより人間のほうが、よほど残酷だと思うわ」  そう言って彼女は、首元に光る金色の鈴に、そっと指を触れた。



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