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3.桜花の懐抱-1

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 実のところ、メイシアの実家である藤咲家の状況は、それほど単純ではなかった。  メイシアは、『父と異母弟が囚われた』と言っていた。それは間違いではなかったが、ふたりは同時に拉致されたわけではない。  まず異母弟が誘拐された。そのあと、藤咲家と斑目一族の間で、いくつかのやり取りがあった。それから、父親が囚えられた。おそらく、身代金でも手渡そうとして騙されたのだろう。  メイシアが執務室に来るまでの間に調べられたことは、そのくらいだった。あとは斑目一族を雇った貴族シャトーア厳月いわつきという家であり、藤咲家を敵視しているということくらいか。  自室に向かいながら、ルイフォンは眠い目をこすった。結構、厄介そうだな、と思いつつ、口元は笑みを浮かべている。  彼は、渦中の少女に思いを馳せた。  彼の父親は彼女のことを『小鳥』と呼んだが、彼は『桜の精』と言ったほうが正しいのではないか、と思った。儚くも優美で、それでいて根は強い。  ルイフォンが角を曲がると、長い廊下の向こうにふたつの影が見えた。メイシアとミンウェイである。  彼は心を弾ませながら、ふたりに駆け寄った。 「よっ」  軽く挨拶をする。  そして、振り向いたメイシアを見て、彼は言葉を失った。  その顔は、一流職人の手による精巧な人形のようであった。彼を見上げる瞳は、世界を映すことを拒絶した、硝子玉である。  ああ、とルイフォンは思った。  口ではどんなに気丈なことを言っても、彼女は何ひとつ不自由なく育った貴族シャトーアである。明確に「娼婦になれ」と言われれば、やはりショックも大きいだろう。  彼も凶賊ダリジィンに属する身であるので、今までに何人もの売られてきた娘を見てきた。彼女たちは平民バイスア自由民スーイラであったが、娼館に来た当初は大概の娘がふさぎ込んだ。中には自暴自棄になり、手に負えなくなった者も、少なからずいる。だから、メイシアがこうなるのも、無理はない。  しかし一方で、彼女の無謀に一途なあの目が気に入っていた彼としては、落胆の溜め息をつかざるを得なかった。 「なんだよ、その顔……」 「ルイフォン、少し、そっとしておいてあげて」  今にも倒れそうな様子のメイシアを支えながら、ミンウェイが代わって答える。 「……分かっているさ」  口をついて出たのは、ふてくされた子供のような声だった。後で遊ぼうと思っていた玩具を、理不尽に取り上げられて、拗ねている。そんな幼稚さに自己嫌悪したルイフォンは、ミンウェイに指摘される前に、大股でこの場を去ろうとした。  そのときだった。 「……ルイフォン様」  喪心状態と思われたメイシアが、彼の名を呼んだ。そして、彼女は、硝子玉の瞳のまま、頬の筋肉を弛緩させることで『笑顔』の表情を作った。 「先ほどは数々のご助言、ありがとうございました。これから、しばらくお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」  用意された台本を読み上げるがごとく、流暢な音声が彼女の口から流れる。  これは、なんだ――と、ルイフォンの背に悪寒が走った。  根の強い桜は、強風を受け流すことができずに、ぽっきりと折れてしまうのだろうか。やりきれない思いは言葉の刃となり、気づいたら彼の口から飛び出していた。 「……心を壊した娼婦など、抱く価値もないぞ」 「なっ……!」  ミンウェイの眉が跳ね上がった。彼女は唇をわなわなと震わせ、二の句を継げない。  それなのに、メイシアはにこにこと微笑むだけであった。  ルイフォンは前髪を掻き上げた。  抑えようもない苛立ちを感じていた。彼は、目の前の人形から、作り物の笑顔の仮面をはぎ取りたい衝動に駆られた。  彼はメイシアの顎に手をかけた。 「何するのよ!?」  ミンウェイがメイシアを庇うように前に出て、ルイフォンの手を鋭く振り払う。鍛えているだけあって、女の身とはいえ、腕にびりびりときた。 「痛ぇな……」 「ルイフォン、あなた、おかしいわよ」 「おかしいのは、こいつのほうだろ!」 「だから、少しの間、そっとしておいてあげて、って言っているじゃない!」 「けど、こいつ、今にも壊れそうじゃないか……! こいつは、あの難攻不落な頑固親父を口説き落としたんだぞ。それが、こんなところで壊れてしまっていいはずがない!」  ミンウェイが「ルイフォン……」と呟いたまま、絶句した。  ルイフォンとミンウェイの視線が、交錯する。  嫌な緊迫感が、場を占める。  ぴん、と張り詰めた空気を破ったのは、細く高い呟きだった。 「…………おふたりとも……」  メイシアから、無垢な幼子のような響きがこぼれ落ちる。 「私は大丈夫です。……私は、イーレオ様とのお約束を守ります。決して逃げたりなんかしません……」 「馬鹿野郎。そうやって気負うから壊れていくんだ」  ルイフォンはミンウェイを押しのけて、メイシアを抱きしめた。腕の中で、彼女の体が急速に強張っていくのを感じるが、そんなことは気にしない。  彼女は見た目よりも、ずっと強い。  けれど、やはり桜は柳ではないから、嵐からは守ってやらねばなるまい。  ルイフォンはメイシアの髪をくしゃりと撫でた。そして、できるだけ優しい声で、耳元に囁く。 「お前の最初の相手は俺だからな? だから全部、任せろ」  メイシアの顔が見る間に紅に染め上げられた。羞恥と狼狽に、自然な表情が戻ってくる。  そんなふたりの様子に、ミンウェイの肩の荷が下りたかのように息を吐いた。それから彼女は、いたずらっぽく口元を緩めた。 「ちょっと、ルイフォン……」  ミンウェイの腕がするすると伸び、ルイフォンの首に巻きついた。そのまま首を締めるようにして、彼をメイシアから引き剥がし、自分の元へと寄せてくる。 「ミンウェイ!?」 「調子に乗らないの! 彼女は今のところ『総帥の』愛人よ。手を出すことなんかできない高嶺の花よ」  ミンウェイはルイフォンの頭を押さえ込み、悪ガキを懲らしめるように、ぐりぐりと拳で頭を撫で繰り回した。ふたりの体は密着し、ルイフォンが悲鳴を上げる。 「ミンウェイ! 無用にでかい胸を押し付けて、俺を窒息させるな」  彼が一本に編んだ髪を振って暴れると、それと共に、金の鈴がぴょこぴょこと楽しげに跳ねた。 「あら、スタイルを褒めてくれてありがとう。でも、無用なんかじゃないわよ」  さらりと言うミンウェイ。調子に乗って、より強く締め付ける。 「可愛い叔父様を誘惑するのに必要でしょう?」 「俺、お前に惑わされるほど、女に不自由していないから!」 「えっ……!?」  メイシアが目を丸くしていた。 「あ、これ、いつものスキンシップだから気にしないで」  ミンウェイがにっこりと笑う。 「え、いえ、そうではなくて……。『叔父様』……?」  メイシアは恐る恐る、といった体だった。  おおかた、姉弟か従姉弟くらいに思われていたのだろう――本人たちは苦笑して、頷き合う。 「私は鷹刀イーレオの孫娘。で、ルイフォンは末の息子」 「俺はあの助平親父が、老年に入ってからの子供だからな。俺よりずいぶん年上の行かず後家だけど、ミンウェイは俺の姪ということになる」  ルイフォンが口の端を上げて笑った。その彼の耳を、ミンウェイが引っ張る。 「さりげなく暴言を吐いていない?」 「俺は事実しか言わない」  ぶん、と頭を振って、ルイフォンがミンウェイの拘束を解く。 「あなたには少し言葉遣いを教えてあげないといけないわね」 「いや、俺は充分に礼儀正しいから」  いけしゃあしゃあと言い、「じゃあ、俺は部屋に籠もるから」とルイフォンは手を振った。ミンウェイは、はっとしたように真顔になる。 「お祖父じい様の命令?」 「そう。〈フェレース〉としての仕事」  すっと目を細めたルイフォンの口元に、矜持が見え隠れする。 「昨日、徹夜していたでしょう?」 「『若者は働け』だそうだ。あ、俺の晩飯は部屋に運ぶように言っておいてくれ」 「無理しないでよ」 「そう思うなら、親父に注意しておいてくれ」  ルイフォンは、そう言い残して、その場を後にした。



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前のエピソード 2.凶賊の総帥-3

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 実のところ、メイシアの実家である藤咲家の状況は、それほど単純ではなかった。  メイシアは、『父と異母弟が囚われた』と言っていた。それは間違いではなかったが、ふたりは同時に拉致されたわけではない。  まず異母弟が誘拐された。そのあと、藤咲家と斑目一族の間で、いくつかのやり取りがあった。それから、父親が囚えられた。おそらく、身代金でも手渡そうとして騙されたのだろう。  メイシアが執務室に来るまでの間に調べられたことは、そのくらいだった。あとは斑目一族を雇った貴族シャトーア厳月いわつきという家であり、藤咲家を敵視しているということくらいか。  自室に向かいながら、ルイフォンは眠い目をこすった。結構、厄介そうだな、と思いつつ、口元は笑みを浮かべている。  彼は、渦中の少女に思いを馳せた。  彼の父親は彼女のことを『小鳥』と呼んだが、彼は『桜の精』と言ったほうが正しいのではないか、と思った。儚くも優美で、それでいて根は強い。  ルイフォンが角を曲がると、長い廊下の向こうにふたつの影が見えた。メイシアとミンウェイである。  彼は心を弾ませながら、ふたりに駆け寄った。 「よっ」  軽く挨拶をする。  そして、振り向いたメイシアを見て、彼は言葉を失った。  その顔は、一流職人の手による精巧な人形のようであった。彼を見上げる瞳は、世界を映すことを拒絶した、硝子玉である。  ああ、とルイフォンは思った。  口ではどんなに気丈なことを言っても、彼女は何ひとつ不自由なく育った貴族シャトーアである。明確に「娼婦になれ」と言われれば、やはりショックも大きいだろう。  彼も凶賊ダリジィンに属する身であるので、今までに何人もの売られてきた娘を見てきた。彼女たちは平民バイスア自由民スーイラであったが、娼館に来た当初は大概の娘がふさぎ込んだ。中には自暴自棄になり、手に負えなくなった者も、少なからずいる。だから、メイシアがこうなるのも、無理はない。  しかし一方で、彼女の無謀に一途なあの目が気に入っていた彼としては、落胆の溜め息をつかざるを得なかった。 「なんだよ、その顔……」 「ルイフォン、少し、そっとしておいてあげて」  今にも倒れそうな様子のメイシアを支えながら、ミンウェイが代わって答える。 「……分かっているさ」  口をついて出たのは、ふてくされた子供のような声だった。後で遊ぼうと思っていた玩具を、理不尽に取り上げられて、拗ねている。そんな幼稚さに自己嫌悪したルイフォンは、ミンウェイに指摘される前に、大股でこの場を去ろうとした。  そのときだった。 「……ルイフォン様」  喪心状態と思われたメイシアが、彼の名を呼んだ。そして、彼女は、硝子玉の瞳のまま、頬の筋肉を弛緩させることで『笑顔』の表情を作った。 「先ほどは数々のご助言、ありがとうございました。これから、しばらくお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」  用意された台本を読み上げるがごとく、流暢な音声が彼女の口から流れる。  これは、なんだ――と、ルイフォンの背に悪寒が走った。  根の強い桜は、強風を受け流すことができずに、ぽっきりと折れてしまうのだろうか。やりきれない思いは言葉の刃となり、気づいたら彼の口から飛び出していた。 「……心を壊した娼婦など、抱く価値もないぞ」 「なっ……!」  ミンウェイの眉が跳ね上がった。彼女は唇をわなわなと震わせ、二の句を継げない。  それなのに、メイシアはにこにこと微笑むだけであった。  ルイフォンは前髪を掻き上げた。  抑えようもない苛立ちを感じていた。彼は、目の前の人形から、作り物の笑顔の仮面をはぎ取りたい衝動に駆られた。  彼はメイシアの顎に手をかけた。 「何するのよ!?」  ミンウェイがメイシアを庇うように前に出て、ルイフォンの手を鋭く振り払う。鍛えているだけあって、女の身とはいえ、腕にびりびりときた。 「痛ぇな……」 「ルイフォン、あなた、おかしいわよ」 「おかしいのは、こいつのほうだろ!」 「だから、少しの間、そっとしておいてあげて、って言っているじゃない!」 「けど、こいつ、今にも壊れそうじゃないか……! こいつは、あの難攻不落な頑固親父を口説き落としたんだぞ。それが、こんなところで壊れてしまっていいはずがない!」  ミンウェイが「ルイフォン……」と呟いたまま、絶句した。  ルイフォンとミンウェイの視線が、交錯する。  嫌な緊迫感が、場を占める。  ぴん、と張り詰めた空気を破ったのは、細く高い呟きだった。 「…………おふたりとも……」  メイシアから、無垢な幼子のような響きがこぼれ落ちる。 「私は大丈夫です。……私は、イーレオ様とのお約束を守ります。決して逃げたりなんかしません……」 「馬鹿野郎。そうやって気負うから壊れていくんだ」  ルイフォンはミンウェイを押しのけて、メイシアを抱きしめた。腕の中で、彼女の体が急速に強張っていくのを感じるが、そんなことは気にしない。  彼女は見た目よりも、ずっと強い。  けれど、やはり桜は柳ではないから、嵐からは守ってやらねばなるまい。  ルイフォンはメイシアの髪をくしゃりと撫でた。そして、できるだけ優しい声で、耳元に囁く。 「お前の最初の相手は俺だからな? だから全部、任せろ」  メイシアの顔が見る間に紅に染め上げられた。羞恥と狼狽に、自然な表情が戻ってくる。  そんなふたりの様子に、ミンウェイの肩の荷が下りたかのように息を吐いた。それから彼女は、いたずらっぽく口元を緩めた。 「ちょっと、ルイフォン……」  ミンウェイの腕がするすると伸び、ルイフォンの首に巻きついた。そのまま首を締めるようにして、彼をメイシアから引き剥がし、自分の元へと寄せてくる。 「ミンウェイ!?」 「調子に乗らないの! 彼女は今のところ『総帥の』愛人よ。手を出すことなんかできない高嶺の花よ」  ミンウェイはルイフォンの頭を押さえ込み、悪ガキを懲らしめるように、ぐりぐりと拳で頭を撫で繰り回した。ふたりの体は密着し、ルイフォンが悲鳴を上げる。 「ミンウェイ! 無用にでかい胸を押し付けて、俺を窒息させるな」  彼が一本に編んだ髪を振って暴れると、それと共に、金の鈴がぴょこぴょこと楽しげに跳ねた。 「あら、スタイルを褒めてくれてありがとう。でも、無用なんかじゃないわよ」  さらりと言うミンウェイ。調子に乗って、より強く締め付ける。 「可愛い叔父様を誘惑するのに必要でしょう?」 「俺、お前に惑わされるほど、女に不自由していないから!」 「えっ……!?」  メイシアが目を丸くしていた。 「あ、これ、いつものスキンシップだから気にしないで」  ミンウェイがにっこりと笑う。 「え、いえ、そうではなくて……。『叔父様』……?」  メイシアは恐る恐る、といった体だった。  おおかた、姉弟か従姉弟くらいに思われていたのだろう――本人たちは苦笑して、頷き合う。 「私は鷹刀イーレオの孫娘。で、ルイフォンは末の息子」 「俺はあの助平親父が、老年に入ってからの子供だからな。俺よりずいぶん年上の行かず後家だけど、ミンウェイは俺の姪ということになる」  ルイフォンが口の端を上げて笑った。その彼の耳を、ミンウェイが引っ張る。 「さりげなく暴言を吐いていない?」 「俺は事実しか言わない」  ぶん、と頭を振って、ルイフォンがミンウェイの拘束を解く。 「あなたには少し言葉遣いを教えてあげないといけないわね」 「いや、俺は充分に礼儀正しいから」  いけしゃあしゃあと言い、「じゃあ、俺は部屋に籠もるから」とルイフォンは手を振った。ミンウェイは、はっとしたように真顔になる。 「お祖父じい様の命令?」 「そう。〈フェレース〉としての仕事」  すっと目を細めたルイフォンの口元に、矜持が見え隠れする。 「昨日、徹夜していたでしょう?」 「『若者は働け』だそうだ。あ、俺の晩飯は部屋に運ぶように言っておいてくれ」 「無理しないでよ」 「そう思うなら、親父に注意しておいてくれ」  ルイフォンは、そう言い残して、その場を後にした。



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