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2.伏流にひそむ蛇-2

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 スーリンは、こくこくと可愛らしく喉を鳴らしてお茶を飲むと、今度はマカロンに目を移した。メイシアが手土産に持ってきた、料理長自慢の作である。 「ミンウェイさんのお勧めはピスタチオだって聞いているけど、メイシアさんのお勧めは何かしら?」  緊張のあまり、出された茶杯も手つかずだったメイシアは、びくりと肩を震わせた。 「わ、私も、ピスタチオが一番だと思います」  上ずる声に焦りながらも、なんとか答える。スーリンは、嬉しそうに「ありがとう」と言うと、緑色のマカロンに手を伸ばした。  カリッと美味しそうな音を立て、落ちそうなほっぺたを両手で押さえる。うっとりと目をつぶり、「あぁ、幸せ」と体をくねらせると、くるくる巻き毛のポニーテールが、とろけるように背中を滑った。  スーリンは、とてもご機嫌だった。――少なくとも表面上は。  けれどきっと、恋仇を前に、はらわたが煮えくり返る思いであるに違いない。どんな罵倒も受け止める覚悟で来たメイシアだったが、なまじ、上辺うわべが和やかであるだけに、かえって恐ろしかった。こんな調子では、スーリンと仲良くなりたいなどという野望は、夢のまた夢である。  なんとか気持ちを落ち着けようと、メイシアはペンダントを握りしめた。困ったときの彼女の癖で、こうすると不思議と心が鎮まるのだ。  ――が、今日に限っては逆効果であった。  思い出したのだ。この前、繁華街に来たときには、ルイフォンの指示でペンダントを置いてきたことを。治安の悪い場所で貴金属を身に着けているのは、危険だと教えられた。それを、すっかり忘れていた……。  さぁっと青ざめたメイシアを、スーリンが怪訝な顔で見つめる。 「どうしたの?」 「い、いえ……」  ペンダントのことは、今更どうしようもない。それよりも、スーリンと話をしなければと、メイシアは慌てて口を開く。 「きょ、今日は、ありがとうございました。それから、もう随分と前のことになってしまいましたが、私のために厳月の情報をどうもありがとうございました」 「いいのよ、そんなこと。そもそも厳月家の件なんて、メイシアさんを呼ぶための口実だもの」 「……っ!」  さらりと言ってのけたスーリンに、メイシアは声を失う。 「えっ、やだ。まさか、気づいてなかったわけじゃないでしょ?」 「そ、それは……。何か別のご用件があるとは思っておりましたが……」  その返答に、スーリンは安堵の息をついた。 「ああ、よかった。何も分からずに来られたんじゃ、面倒臭いもの」  やはり、とメイシアは思った。見かけは穏やかでも、スーリンの腹の中は、憤懣ふんまんやるかたないのだ。 「不穏な発言をした途端に、ほっとされるのも、妙な気分だわ」  スーリンが、ぷくっと頬をふくらませる。メイシアとしては、そんなつもりはまるでなかったのだが、何か顔に出ていたらしい。 「メイシアさん。あなたが私のところに来ることを、ルイフォンは止めなかったの?」 「え?」  好奇心むき出しの瞳が、メイシアをじっと見つめる。 「反対……されました」 「よかった」 「!?」 「止めなかったら、私、ルイフォンを軽蔑したわ。大事な恋人を、過去の遊び相手のところにやるなんてあり得ないもの!」  スーリンは黄色い声を張り上げ、嬉しそうに言う。  その笑顔が、心からのものに見え、メイシアは余計に怖くなった。体を震わせ、無意識にペンダントを触る。 「でも、あなたがここに来たということは、喧嘩してきたのね? ……ルイフォンに同情するわ」 「……」 「悔しいけど、すべてシャオリエ姐さんの読み通り。私の負けだわ」  参りました、とばかりにちょこんと頭を下げる。悔しいと言いつつも、その仕草は、むしろ楽しそうだ。メイシアは押し黙るしかできなかった。 「あのね、姐さんと賭けていたのよ。私は、あなたが来ないほうにね。――おかげで私は、姐さんのくだらないお遊びに付き合う羽目に……ああ、あなたには関係ないわね」  ぺろっと舌を出し、スーリンは肩をすくめる。  一方的にまくしたてられる言葉は、連続性に欠けていて、どう解釈したらよいのか分からない。メイシアは、呆然としたまま、翻弄されるがままだった。 「さて。では、期待通りにいきましょうか?」  スーリンが、にっこりと笑った。小首をかしげたさまは、実に可愛らしく、くるくるのポニーテールが可憐に揺れる。 「ルイフォンは、私の男なの。返して」  手首がくるんと返され、小柄な彼女に見合った小さな掌が差し出された。ぱっちりとした愛らしい瞳が、じっと訴えかける。 「そ、それは、できませんっ」  自分を奮い立たせ、メイシアは力いっぱい声を絞り出した。その様子に、スーリンが、ふふ、と嗤う。 「震えているの? ――おかしいわね。あなたはこう言われるのが分かっていて、私のところに来たんでしょ? ルイフォンが止めたのにも関わらず、ね」 「っ!」 「あなたの考えていることなんて、お見通しよ。自分が割り込んできたせいで、ルイフォンと仲の良かった私が切り捨てられるのは耐えられない。『お友達』として、ルイフォンと今後も付き合ってほしい。――そう言いに来たんでしょ?」  メイシアは息を呑んだ。 「図星ね。なんて甘くて、可愛らしくて、自己中心的で、傲慢なお嬢様なの?」 「わ、分かっています。――だから、私……、ルイフォンと喧嘩したあと、もう一度、ひとりでよく考えました」 「ふうん?」  スーリンが軽く腕を組み、促すように顎を上げた。意外な発言だったようで、険のあった目元がわずかに好奇心に寄る。 「私は、私とスーリンさんが仲良くなれば、皆が良好な関係を築けると考えました。だから、お会いして、そうお話しようと思いました。けれど、ルイフォンに『自己満足だ』と言われました。――確かに、その通りだと気づきました。だって、大前提が抜けていたんですから」 「大前提?」  きょとんと、スーリンがおうむ返しに尋ねる。 「はい。仲良くなるよりも前に、まず……、――私とルイフォンの仲を、スーリンさんに納得してもらう必要があったんです」 「何それ! なんで私がそんなこと――……」  そう言いかけたスーリンに、メイシアは礼儀知らずを承知で言葉をかぶせた。 「その上で、今までとは別の新たな関係を作るのでなければ、意味がありません。上辺うわべだけの付き合いなら、私は貴族シャトーアの世界でさんざん経験しています。でも、私が欲しいのは、ルイフォンが教えてくれた『本当に大切な、人の絆』です」  貴族シャトーアだったころの友達とは、お互いに『わきまえた』付き合いしかしてこなかった。家柄の上下や、将来の嫁ぎ先によってはそれきりの縁になるのだという諦観。――ルイフォンと出逢ったことで、自分が寂しい人間だったことに気づいた。 『俺は欲張りだから、全員、必要だ』と、彼は言った。  だからメイシアも、欲張ってスーリンを手に入れる――。  スーリンは、ぱちぱちと何度も瞬きをしていた。口元に手をやり、しばし悩むように眉を寄せ、メイシアに尋ねる。 「要するに、ルイフォンとの仲を気持ちよく認めろ、ってことね? その上で、仲良くしましょう、と。虫のいい話だわ。――喧嘩を売りに来たの?」 「喧嘩ではありません」  メイシアは、凛と言い切った。そして、澄んだ黒曜石の瞳で、静かに迫る。 「『事実』をご報告に参りました。スーリンさんが認めてくださっても、くださらなくても変わることのない、『事実』です。――それをご説明に来ました」 「…………え?」 「スーリンさん。すみませんが、ルイフォンのことは諦めてください。彼は、私に『一生、共に過ごして欲しい』と言ってくれました。つまり、ルイフォンは、私の男、です!」  そう口にした瞬間、メイシアは顔から火を吹いた。耳まで真っ赤になって、うつむく。  逆鱗に触れただろうか。  どう考えても、仲良くしましょう、という態度ではない。自分でも信じられないくらい、浅ましいと思う。けれど、スーリンには、はっきり告げるべきことだ。  すべては、ここからなのだから。  メイシアはペンダントを握りしめながら、長い黒髪に隠れるように身を縮めた。そして、じっとスーリンの反応を待つ――。 「…………はぁ、……参ったわ……」  疲れきったような呟きが聞こえてきた。続けて、かたん、とテーブルに肘を付く音がする。メイシアが恐る恐る顔を上げて見れば、スーリンが頭を抱えて突っ伏していた。 「あぁ、もぅ………。聞いているほうが恥ずかしくて、耐えられないわ……。一世一代の大宣言って、ところなんだろうけど、私はもう、あなたの名演説に感動できるほど純粋ピュアじゃないの。きついわ……」 「え?」 「メイシアさん、私の仕事を理解している?」  スーリンの意図を測りかね、メイシアは声を詰まらせた。 「汚い言い方をすればいくらでも汚く言えるけど、店に来たばかりの私に、イーレオ様が言ってくださった言葉があるの。――『夢を見せる仕事だ』ってね」  スーリンは体を起こし、口元を緩めた。すっと後ろに手を回し、ポニーテールを留めていた髪飾りをほどく。高く結い上げられていた髪が解き放たれ、首筋をするりと滑り落ちると、今度は背中でくるくると踊った。  たったそれだけ。服も化粧も変わっていないのに、スーリンの顔は先ほどまでとは別人のように大人びていた。 「スーリン、さん……?」 「はじめまして、メイシア。こちらが本当の私よ」  目を丸くするメイシアに、スーリンはくすくすと声を立てる。その笑い方もまた、今までとは違っていた。 「私はね、女優の卵だったの。だからイーレオ様は『最高の恋人を演じてやれ』と教えてくださった。そっと寄り添って『お疲れ様』『頑張ったね』と、欲しい言葉をくれる癒やしの恋人に。客は、欲を満たすために店を訪れるけれど、本当に満たされたいのは心だから、と」  スーリンは遠くを見つめ、ふっと微笑む。 「ルイフォンがシャオリエ姐さんのところに預けられたとき、彼の心はおかしくなっていた。だから、彼は客ではないけれど、世話係を任された私は、彼のための理想の恋人を作り出したの。それが、あなたの知っているスーリン――ちょっとすねたり、いたずらしたりするけれど、彼のことが大好きな、無邪気で元気な女の子よ」 「あのスーリンさんは、演技……?」 「妖艶なお姉さんに慰められるよりも、健気で元気な同年代の少女に励まされるほうが、ずっと健全でしょ?」  そう言って、スーリンは片目をつぶる。可愛らしい仕草だが、どこかなまめかしく、同性のメイシアでもどきりとする。 「それでは、本当に……」 「ねぇ、私と初めて会ったとき、おかしいと思わなかった? 『スーリン』は、どう見てもルイフォンが大好きなのに、彼が連れてきたあなたを敵視しなかった。彼が仮眠をとるときも、そっとふたりきりにしてあげたでしょ?」 「――!」  仮眠を取るというルイフォンに付き添って、ふたりきりになった。  そのとき交わした言葉に、自由なルイフォンに惹かれて……恋に落ちた。  ほんの一時いっときの出来ごとだけれど、あのときに、すべてが決まった――。  目を見開いて正面を見やれば、得意げな顔のスーリンが、とっておきの秘密だとでも言うように口元に人差し指を当てていた。 「ルイフォンの『運命のひと』が現れたんだ、って分かったわ」  祝福するように――けれど、どこか寂しげで、切なげにスーリンは微笑む。 「私の役目は終わったの。だから、夢の恋人は、もうおしまいよ」  泡沫うたかたの幻は、いつかは消えるさだめだから。  スーリンとは、これきり。ルイフォンの前にも、メイシアの前にも、二度と現れない――。 「そんな……! ルイフォンになんて言ったら……」  胸が苦しくなった。そして、気づいた。  ここに来る前、ルイフォンの恩人だから、スーリンを大切にしたい、仲良くしたいと思った。それは、やはり義務的な感情に過ぎなかったのだ。  けれど今、ルイフォンを大切にしてくれたスーリンの心に触れ、彼女の縁を途切れさせてしまうのは嫌だという気持ちが芽生えた。  貴族シャトーアだったころのような、割り切った付き合いとは違う。この人をもっと知りたい、深く話したい。絆を持ちたい。  イーレオがよく言う『人を魅了する人間』の意味が分かった気がする。メイシアは、スーリンに魅了されたのだ。 「スーリンさん、私、スーリンさんが大切です。好きです。私っ……」 「ちょっと、待って! メイシア、あなた何をひとりで盛り上がっているの? もうっ、だから、純粋培養のお嬢様は嫌なのよ。私は、あなたみたいにおめでたくないの。そういうの苦手なのよ!」  スーリンは、いらいらと髪を掻き上げる。 「それに! 聞き捨てならないことを言っていた気がするんだけど!」 「聞き捨てならないこと、ですか?」 「そう! 『ルイフォンになんて言ったら』って――まさか、ルイフォンに『あのスーリンは演技でした』って、言うつもりなの!?」 「え……」  メイシアとしては、スーリンが二度とルイフォンに会うつもりがないのを感じて、彼になんて言えばいいのか、と口走っただけだ。スーリンは勘違いしている。  けれど、問われて初めて気づいた。ルイフォンに真実を伝えるべきか、否か。彼のところに戻ったら、どちらかを選択しなければならない。  真実を伝えれば、ルイフォンはショックを受けるだろう。裏切られたような気持ちになるかもしれない。彼のことは傷つけたくない。……けれど、スーリンに悪気はなく、むしろ親身になってくれた結果だ。それに、隠しごとは厳禁であるし、こんな重要なことを彼に隠すことは果たして……。 「お願い、そこで悩まないで!」  スーリンの悲鳴のような叫びが、メイシアの思考を遮った。 「いい? 私の掌の上で踊らされていたなんて知ったら、ルイフォンの男のプライドがズタズタになるの。理解して! 彼が可哀想だわ」  その言葉は、諭すというよりも哀願に近かった。  額に手をやりながら、「喧嘩してまでこの店に来るところからして、男心を理解していないのは分かりきっていたけど――」と、スーリンはこぼす。 「仕方ないわね」  彼女は、吐き出すように溜め息をついた。 「いいわ、あなたのおめでたい提案に乗ってあげるわ。たぶん、それが一番、無難だろうから」 「おめでたい提案?」 「あなたたちの仲を気持ちよく認めて、更にあなたと仲良くする、ってやつよ。その代わり、『仲良しの女友達』の忠告を聞きなさい。――私の正体を、ルイフォンに言ったら駄目よ」  すっと身を乗り出し、つやめいた声でスーリンはメイシアに迫る。どう考えても、忠告ではなくて命令の口調。更にいえば、脅迫にしか聞こえなかったが、色気たっぷりの流し目は、いたずらに笑っていた。 「はいっ! ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」  メイシアが深々と頭を下げると、スーリンは「堅苦しいのは鬱陶しいわ」とすげなく言い放った。 「それじゃあ、私があなたを呼んだ『本当の用件』について、話しましょうか」 「えっ!?」  メイシアは目をぱちくりさせた。  ルイフォンの件で呼ばれたのではなかったのか。そう思い、はっと気づく。あのスーリンが演技であるのなら、本当のスーリンにとってはメイシアを呼び出す理由にならないのだ。  では、いったいなんの用件が?  目まぐるしく表情を変えるメイシアの様子に、スーリンがくすくすと笑った。 「そう。今までの話は全部『おまけ』よ。あなたが思いつめたような顔をして現れるから、きっと『恋仇』の私に何か言いたいのね、と思ってお相手したの」 「……」 「ごめんなさいね。でも、可愛がっていた弟を奪っていくようなものなのだから、少しぐらいの意地悪は許されると思うわ」  悪びれもせず、スーリンはにこにこと笑った。それから、お茶に手をつけはぐっていたメイシアに茶杯を勧め、自身はマカロンをひとつ摘んで口に入れる。 「メイシア、悪いけど、そのペンダントを見せて」  マカロンに舌鼓をうったあと、不意にスーリンが言った。メイシアは不思議に思いながらも、言われるままにペンダントを手渡す。  受け取ったスーリンは、自分の掌の上でじっとそれを見つめ、何度か転がしたあと、呟いた。 「ああ、やっぱり。メイシアが『運命のひと』で合っていたのね」 「どういうことですか?」  先ほども、スーリンは『運命のひと』と言っていた。比喩的な表現だと思ったのだが、どうやら違うらしい。スーリンは掌から顔を上げ、まっすぐにメイシアを見つめた。 「ルイフォンがシャオリエ姐さんのところに来たばかりのころ、彼に会いに来た人が言ったの」 『遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子』 『ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない』 『その子が現れたら、今日、あなたが見たことを誰に話してもいいわ。だから、それまでは内緒にしてほしいの』 「その人は『そのときには、この目印が彼女の手に渡っているはず』と、身に着けていたペンダントを外して、私に見せてくれたの。『けど、アクセサリーだから、外しちゃうこともあるかしら?』とも言っていた。実際、初めて会ったときには着けてなかったわよね?」 「!?」  メイシアは思わず胸元に手をやるが、ペンダントはスーリンの掌にあるのだから、そこには当然、何もなかった。 「何故……? 私のお守りなのに……。ずっと身に着け……」  言い掛けて、驚愕に息が止まった。 『ずっと身に着けている』――それは嘘だと、異母弟のハオリュウが証言した。もう随分と昔、ルイフォンたちが父の救出に向かっている間に、姉弟ふたりだけで話したときのことだ。 「どういうこと……? ルイフォンに会いに来た方って、どなたですか!?」  メイシアの心臓が、にわかに早鐘を打ち始めた。  そして、それは、スーリンの返答を聞いたときに、最高潮に達する――。 「ルイフォンのお異父姉ねえさんの――セレイエさんよ」



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 スーリンは、こくこくと可愛らしく喉を鳴らしてお茶を飲むと、今度はマカロンに目を移した。メイシアが手土産に持ってきた、料理長自慢の作である。 「ミンウェイさんのお勧めはピスタチオだって聞いているけど、メイシアさんのお勧めは何かしら?」  緊張のあまり、出された茶杯も手つかずだったメイシアは、びくりと肩を震わせた。 「わ、私も、ピスタチオが一番だと思います」  上ずる声に焦りながらも、なんとか答える。スーリンは、嬉しそうに「ありがとう」と言うと、緑色のマカロンに手を伸ばした。  カリッと美味しそうな音を立て、落ちそうなほっぺたを両手で押さえる。うっとりと目をつぶり、「あぁ、幸せ」と体をくねらせると、くるくる巻き毛のポニーテールが、とろけるように背中を滑った。  スーリンは、とてもご機嫌だった。――少なくとも表面上は。  けれどきっと、恋仇を前に、はらわたが煮えくり返る思いであるに違いない。どんな罵倒も受け止める覚悟で来たメイシアだったが、なまじ、上辺うわべが和やかであるだけに、かえって恐ろしかった。こんな調子では、スーリンと仲良くなりたいなどという野望は、夢のまた夢である。  なんとか気持ちを落ち着けようと、メイシアはペンダントを握りしめた。困ったときの彼女の癖で、こうすると不思議と心が鎮まるのだ。  ――が、今日に限っては逆効果であった。  思い出したのだ。この前、繁華街に来たときには、ルイフォンの指示でペンダントを置いてきたことを。治安の悪い場所で貴金属を身に着けているのは、危険だと教えられた。それを、すっかり忘れていた……。  さぁっと青ざめたメイシアを、スーリンが怪訝な顔で見つめる。 「どうしたの?」 「い、いえ……」  ペンダントのことは、今更どうしようもない。それよりも、スーリンと話をしなければと、メイシアは慌てて口を開く。 「きょ、今日は、ありがとうございました。それから、もう随分と前のことになってしまいましたが、私のために厳月の情報をどうもありがとうございました」 「いいのよ、そんなこと。そもそも厳月家の件なんて、メイシアさんを呼ぶための口実だもの」 「……っ!」  さらりと言ってのけたスーリンに、メイシアは声を失う。 「えっ、やだ。まさか、気づいてなかったわけじゃないでしょ?」 「そ、それは……。何か別のご用件があるとは思っておりましたが……」  その返答に、スーリンは安堵の息をついた。 「ああ、よかった。何も分からずに来られたんじゃ、面倒臭いもの」  やはり、とメイシアは思った。見かけは穏やかでも、スーリンの腹の中は、憤懣ふんまんやるかたないのだ。 「不穏な発言をした途端に、ほっとされるのも、妙な気分だわ」  スーリンが、ぷくっと頬をふくらませる。メイシアとしては、そんなつもりはまるでなかったのだが、何か顔に出ていたらしい。 「メイシアさん。あなたが私のところに来ることを、ルイフォンは止めなかったの?」 「え?」  好奇心むき出しの瞳が、メイシアをじっと見つめる。 「反対……されました」 「よかった」 「!?」 「止めなかったら、私、ルイフォンを軽蔑したわ。大事な恋人を、過去の遊び相手のところにやるなんてあり得ないもの!」  スーリンは黄色い声を張り上げ、嬉しそうに言う。  その笑顔が、心からのものに見え、メイシアは余計に怖くなった。体を震わせ、無意識にペンダントを触る。 「でも、あなたがここに来たということは、喧嘩してきたのね? ……ルイフォンに同情するわ」 「……」 「悔しいけど、すべてシャオリエ姐さんの読み通り。私の負けだわ」  参りました、とばかりにちょこんと頭を下げる。悔しいと言いつつも、その仕草は、むしろ楽しそうだ。メイシアは押し黙るしかできなかった。 「あのね、姐さんと賭けていたのよ。私は、あなたが来ないほうにね。――おかげで私は、姐さんのくだらないお遊びに付き合う羽目に……ああ、あなたには関係ないわね」  ぺろっと舌を出し、スーリンは肩をすくめる。  一方的にまくしたてられる言葉は、連続性に欠けていて、どう解釈したらよいのか分からない。メイシアは、呆然としたまま、翻弄されるがままだった。 「さて。では、期待通りにいきましょうか?」  スーリンが、にっこりと笑った。小首をかしげたさまは、実に可愛らしく、くるくるのポニーテールが可憐に揺れる。 「ルイフォンは、私の男なの。返して」  手首がくるんと返され、小柄な彼女に見合った小さな掌が差し出された。ぱっちりとした愛らしい瞳が、じっと訴えかける。 「そ、それは、できませんっ」  自分を奮い立たせ、メイシアは力いっぱい声を絞り出した。その様子に、スーリンが、ふふ、と嗤う。 「震えているの? ――おかしいわね。あなたはこう言われるのが分かっていて、私のところに来たんでしょ? ルイフォンが止めたのにも関わらず、ね」 「っ!」 「あなたの考えていることなんて、お見通しよ。自分が割り込んできたせいで、ルイフォンと仲の良かった私が切り捨てられるのは耐えられない。『お友達』として、ルイフォンと今後も付き合ってほしい。――そう言いに来たんでしょ?」  メイシアは息を呑んだ。 「図星ね。なんて甘くて、可愛らしくて、自己中心的で、傲慢なお嬢様なの?」 「わ、分かっています。――だから、私……、ルイフォンと喧嘩したあと、もう一度、ひとりでよく考えました」 「ふうん?」  スーリンが軽く腕を組み、促すように顎を上げた。意外な発言だったようで、険のあった目元がわずかに好奇心に寄る。 「私は、私とスーリンさんが仲良くなれば、皆が良好な関係を築けると考えました。だから、お会いして、そうお話しようと思いました。けれど、ルイフォンに『自己満足だ』と言われました。――確かに、その通りだと気づきました。だって、大前提が抜けていたんですから」 「大前提?」  きょとんと、スーリンがおうむ返しに尋ねる。 「はい。仲良くなるよりも前に、まず……、――私とルイフォンの仲を、スーリンさんに納得してもらう必要があったんです」 「何それ! なんで私がそんなこと――……」  そう言いかけたスーリンに、メイシアは礼儀知らずを承知で言葉をかぶせた。 「その上で、今までとは別の新たな関係を作るのでなければ、意味がありません。上辺うわべだけの付き合いなら、私は貴族シャトーアの世界でさんざん経験しています。でも、私が欲しいのは、ルイフォンが教えてくれた『本当に大切な、人の絆』です」  貴族シャトーアだったころの友達とは、お互いに『わきまえた』付き合いしかしてこなかった。家柄の上下や、将来の嫁ぎ先によってはそれきりの縁になるのだという諦観。――ルイフォンと出逢ったことで、自分が寂しい人間だったことに気づいた。 『俺は欲張りだから、全員、必要だ』と、彼は言った。  だからメイシアも、欲張ってスーリンを手に入れる――。  スーリンは、ぱちぱちと何度も瞬きをしていた。口元に手をやり、しばし悩むように眉を寄せ、メイシアに尋ねる。 「要するに、ルイフォンとの仲を気持ちよく認めろ、ってことね? その上で、仲良くしましょう、と。虫のいい話だわ。――喧嘩を売りに来たの?」 「喧嘩ではありません」  メイシアは、凛と言い切った。そして、澄んだ黒曜石の瞳で、静かに迫る。 「『事実』をご報告に参りました。スーリンさんが認めてくださっても、くださらなくても変わることのない、『事実』です。――それをご説明に来ました」 「…………え?」 「スーリンさん。すみませんが、ルイフォンのことは諦めてください。彼は、私に『一生、共に過ごして欲しい』と言ってくれました。つまり、ルイフォンは、私の男、です!」  そう口にした瞬間、メイシアは顔から火を吹いた。耳まで真っ赤になって、うつむく。  逆鱗に触れただろうか。  どう考えても、仲良くしましょう、という態度ではない。自分でも信じられないくらい、浅ましいと思う。けれど、スーリンには、はっきり告げるべきことだ。  すべては、ここからなのだから。  メイシアはペンダントを握りしめながら、長い黒髪に隠れるように身を縮めた。そして、じっとスーリンの反応を待つ――。 「…………はぁ、……参ったわ……」  疲れきったような呟きが聞こえてきた。続けて、かたん、とテーブルに肘を付く音がする。メイシアが恐る恐る顔を上げて見れば、スーリンが頭を抱えて突っ伏していた。 「あぁ、もぅ………。聞いているほうが恥ずかしくて、耐えられないわ……。一世一代の大宣言って、ところなんだろうけど、私はもう、あなたの名演説に感動できるほど純粋ピュアじゃないの。きついわ……」 「え?」 「メイシアさん、私の仕事を理解している?」  スーリンの意図を測りかね、メイシアは声を詰まらせた。 「汚い言い方をすればいくらでも汚く言えるけど、店に来たばかりの私に、イーレオ様が言ってくださった言葉があるの。――『夢を見せる仕事だ』ってね」  スーリンは体を起こし、口元を緩めた。すっと後ろに手を回し、ポニーテールを留めていた髪飾りをほどく。高く結い上げられていた髪が解き放たれ、首筋をするりと滑り落ちると、今度は背中でくるくると踊った。  たったそれだけ。服も化粧も変わっていないのに、スーリンの顔は先ほどまでとは別人のように大人びていた。 「スーリン、さん……?」 「はじめまして、メイシア。こちらが本当の私よ」  目を丸くするメイシアに、スーリンはくすくすと声を立てる。その笑い方もまた、今までとは違っていた。 「私はね、女優の卵だったの。だからイーレオ様は『最高の恋人を演じてやれ』と教えてくださった。そっと寄り添って『お疲れ様』『頑張ったね』と、欲しい言葉をくれる癒やしの恋人に。客は、欲を満たすために店を訪れるけれど、本当に満たされたいのは心だから、と」  スーリンは遠くを見つめ、ふっと微笑む。 「ルイフォンがシャオリエ姐さんのところに預けられたとき、彼の心はおかしくなっていた。だから、彼は客ではないけれど、世話係を任された私は、彼のための理想の恋人を作り出したの。それが、あなたの知っているスーリン――ちょっとすねたり、いたずらしたりするけれど、彼のことが大好きな、無邪気で元気な女の子よ」 「あのスーリンさんは、演技……?」 「妖艶なお姉さんに慰められるよりも、健気で元気な同年代の少女に励まされるほうが、ずっと健全でしょ?」  そう言って、スーリンは片目をつぶる。可愛らしい仕草だが、どこかなまめかしく、同性のメイシアでもどきりとする。 「それでは、本当に……」 「ねぇ、私と初めて会ったとき、おかしいと思わなかった? 『スーリン』は、どう見てもルイフォンが大好きなのに、彼が連れてきたあなたを敵視しなかった。彼が仮眠をとるときも、そっとふたりきりにしてあげたでしょ?」 「――!」  仮眠を取るというルイフォンに付き添って、ふたりきりになった。  そのとき交わした言葉に、自由なルイフォンに惹かれて……恋に落ちた。  ほんの一時いっときの出来ごとだけれど、あのときに、すべてが決まった――。  目を見開いて正面を見やれば、得意げな顔のスーリンが、とっておきの秘密だとでも言うように口元に人差し指を当てていた。 「ルイフォンの『運命のひと』が現れたんだ、って分かったわ」  祝福するように――けれど、どこか寂しげで、切なげにスーリンは微笑む。 「私の役目は終わったの。だから、夢の恋人は、もうおしまいよ」  泡沫うたかたの幻は、いつかは消えるさだめだから。  スーリンとは、これきり。ルイフォンの前にも、メイシアの前にも、二度と現れない――。 「そんな……! ルイフォンになんて言ったら……」  胸が苦しくなった。そして、気づいた。  ここに来る前、ルイフォンの恩人だから、スーリンを大切にしたい、仲良くしたいと思った。それは、やはり義務的な感情に過ぎなかったのだ。  けれど今、ルイフォンを大切にしてくれたスーリンの心に触れ、彼女の縁を途切れさせてしまうのは嫌だという気持ちが芽生えた。  貴族シャトーアだったころのような、割り切った付き合いとは違う。この人をもっと知りたい、深く話したい。絆を持ちたい。  イーレオがよく言う『人を魅了する人間』の意味が分かった気がする。メイシアは、スーリンに魅了されたのだ。 「スーリンさん、私、スーリンさんが大切です。好きです。私っ……」 「ちょっと、待って! メイシア、あなた何をひとりで盛り上がっているの? もうっ、だから、純粋培養のお嬢様は嫌なのよ。私は、あなたみたいにおめでたくないの。そういうの苦手なのよ!」  スーリンは、いらいらと髪を掻き上げる。 「それに! 聞き捨てならないことを言っていた気がするんだけど!」 「聞き捨てならないこと、ですか?」 「そう! 『ルイフォンになんて言ったら』って――まさか、ルイフォンに『あのスーリンは演技でした』って、言うつもりなの!?」 「え……」  メイシアとしては、スーリンが二度とルイフォンに会うつもりがないのを感じて、彼になんて言えばいいのか、と口走っただけだ。スーリンは勘違いしている。  けれど、問われて初めて気づいた。ルイフォンに真実を伝えるべきか、否か。彼のところに戻ったら、どちらかを選択しなければならない。  真実を伝えれば、ルイフォンはショックを受けるだろう。裏切られたような気持ちになるかもしれない。彼のことは傷つけたくない。……けれど、スーリンに悪気はなく、むしろ親身になってくれた結果だ。それに、隠しごとは厳禁であるし、こんな重要なことを彼に隠すことは果たして……。 「お願い、そこで悩まないで!」  スーリンの悲鳴のような叫びが、メイシアの思考を遮った。 「いい? 私の掌の上で踊らされていたなんて知ったら、ルイフォンの男のプライドがズタズタになるの。理解して! 彼が可哀想だわ」  その言葉は、諭すというよりも哀願に近かった。  額に手をやりながら、「喧嘩してまでこの店に来るところからして、男心を理解していないのは分かりきっていたけど――」と、スーリンはこぼす。 「仕方ないわね」  彼女は、吐き出すように溜め息をついた。 「いいわ、あなたのおめでたい提案に乗ってあげるわ。たぶん、それが一番、無難だろうから」 「おめでたい提案?」 「あなたたちの仲を気持ちよく認めて、更にあなたと仲良くする、ってやつよ。その代わり、『仲良しの女友達』の忠告を聞きなさい。――私の正体を、ルイフォンに言ったら駄目よ」  すっと身を乗り出し、つやめいた声でスーリンはメイシアに迫る。どう考えても、忠告ではなくて命令の口調。更にいえば、脅迫にしか聞こえなかったが、色気たっぷりの流し目は、いたずらに笑っていた。 「はいっ! ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」  メイシアが深々と頭を下げると、スーリンは「堅苦しいのは鬱陶しいわ」とすげなく言い放った。 「それじゃあ、私があなたを呼んだ『本当の用件』について、話しましょうか」 「えっ!?」  メイシアは目をぱちくりさせた。  ルイフォンの件で呼ばれたのではなかったのか。そう思い、はっと気づく。あのスーリンが演技であるのなら、本当のスーリンにとってはメイシアを呼び出す理由にならないのだ。  では、いったいなんの用件が?  目まぐるしく表情を変えるメイシアの様子に、スーリンがくすくすと笑った。 「そう。今までの話は全部『おまけ』よ。あなたが思いつめたような顔をして現れるから、きっと『恋仇』の私に何か言いたいのね、と思ってお相手したの」 「……」 「ごめんなさいね。でも、可愛がっていた弟を奪っていくようなものなのだから、少しぐらいの意地悪は許されると思うわ」  悪びれもせず、スーリンはにこにこと笑った。それから、お茶に手をつけはぐっていたメイシアに茶杯を勧め、自身はマカロンをひとつ摘んで口に入れる。 「メイシア、悪いけど、そのペンダントを見せて」  マカロンに舌鼓をうったあと、不意にスーリンが言った。メイシアは不思議に思いながらも、言われるままにペンダントを手渡す。  受け取ったスーリンは、自分の掌の上でじっとそれを見つめ、何度か転がしたあと、呟いた。 「ああ、やっぱり。メイシアが『運命のひと』で合っていたのね」 「どういうことですか?」  先ほども、スーリンは『運命のひと』と言っていた。比喩的な表現だと思ったのだが、どうやら違うらしい。スーリンは掌から顔を上げ、まっすぐにメイシアを見つめた。 「ルイフォンがシャオリエ姐さんのところに来たばかりのころ、彼に会いに来た人が言ったの」 『遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子』 『ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない』 『その子が現れたら、今日、あなたが見たことを誰に話してもいいわ。だから、それまでは内緒にしてほしいの』 「その人は『そのときには、この目印が彼女の手に渡っているはず』と、身に着けていたペンダントを外して、私に見せてくれたの。『けど、アクセサリーだから、外しちゃうこともあるかしら?』とも言っていた。実際、初めて会ったときには着けてなかったわよね?」 「!?」  メイシアは思わず胸元に手をやるが、ペンダントはスーリンの掌にあるのだから、そこには当然、何もなかった。 「何故……? 私のお守りなのに……。ずっと身に着け……」  言い掛けて、驚愕に息が止まった。 『ずっと身に着けている』――それは嘘だと、異母弟のハオリュウが証言した。もう随分と昔、ルイフォンたちが父の救出に向かっている間に、姉弟ふたりだけで話したときのことだ。 「どういうこと……? ルイフォンに会いに来た方って、どなたですか!?」  メイシアの心臓が、にわかに早鐘を打ち始めた。  そして、それは、スーリンの返答を聞いたときに、最高潮に達する――。 「ルイフォンのお異父姉ねえさんの――セレイエさんよ」



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