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1.真白き夜明け-3

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 明るい陽射しが、執務室を包み込む。薄く窓硝子が開けられていても、室内はほんのりと暖かかった。  昨日は、やや風が強かったからだろうか。窓から覗く桜の枝は、だいぶ華やぎを失ってしまっている。止まっている雀が、どことなく寂しげに見えた。  そんな中、執務机の奥で頬杖をつく、鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオ。  そして、その前に立つ、青年になりかけの少年、ルイフォン――。  ルイフォンは軽く顎を上げ、いつもの猫背を伸ばし、イーレオと向き合っていた。  髪は綺麗にいて編み直し、毛先は真新しい青い飾り紐で留められている。その中央には、言わずもがなの金の鈴。上衣は、この国の人間が改まったときにしばしば着用する襟の高いそれであり、しかも首元のボタンは一番上まできちんと留めてあった。  イーレオは息子の服装には何も触れず、ただ、その傍らのメイシアに、にやりとする。昨日までの彼女なら、彼の横に二歩、後ろに一歩ほど離れたところに立っていたはずなのだ。それが、今は真横に寄り添っていた。 「藤咲家当主、藤咲コウレン氏の救出作戦については、夜中に提出した報告書に書いた通りだ」  ルイフォンがテノールを響かせた。  まだ朝の早い時間帯のためか、いつもイーレオの後ろに控えているチャオラウはいない。部下たちに朝稽古をつけているらしい。昨日の夜は遅くまで執務室で待機していたはずなのに、ご苦労なことである。  同じく総帥の補佐として執務室にいることの多いミンウェイは、先に寄ったコウレンの部屋に医者として控えていた。コウレンはまだ目を覚ましておらず、緊張して部屋を訪れたルイフォンは肩透かしを食らったのだった。  その代わりに、というわけではないが、何故か背後にある応接用のソファーで、シャオリエがくつろいでいる。部屋に入った瞬間から、ルイフォンは気になって仕方がなかったのであるが、「ひよっ子は、他人を詮索するより先に、自分の仕事をしなさい」と言われてしまった。  イーレオが、報告書を指しながら尋ねた。 「これに書いてあることに相違ないな?」 「ああ」 「ご苦労」  そう言って、イーレオは眼鏡の奥の目を細め、魅惑的な笑みを漏らす。 「こちらも首尾は上々。お前の計画通りだ。エルファンの部隊に被害はないし、経済制裁の件はシュアンがよくやってくれた。斑目は近く、組織を大幅に縮小せざるを得なくなるだろう」 「そうか。よかった」  失敗するとは微塵にも思っていなかったが、やはりほっとする。安堵の息をついたあと、ルイフォンは、にっと口角を上げた。 「まだ、親父を狙っている〈ムスカ〉や、俺に何か伝えたかったらしいホンシュアの――〈七つの大罪〉絡みの問題が残っているけど、藤咲家に関しては、これで一件落着だな」  ようやく、メイシアの今後についての話を切り出せる。本当は、彼女の父コウレンの許可を得てから、イーレオに持っていきたかったのであるが、眠っていたので仕方ない。  ルイフォンは、猫のような目を好戦的に光らせた。そして勢いのままに口を開こうとしたとき、イーレオの苦い顔に気づいた。 「親父? 何か、あったのか?」 「捕虜の件でな。あとで皆を集めてミンウェイに話してもらう」  その口調から、悪い報告だとルイフォンは察した。  出鼻をくじかれた形になったが――しかし、今ここで言うべきことは言っておかねば、と彼は腹をくくった。 「……親父、大事な話がある」 「なんだ?」  イーレオはルイフォンに目線をやった。その瞳は鋭く、冷たく、すべてを見抜くようで――実際、イーレオには、おおよその話の方向性は理解できていた。  シャオリエが、にやりと笑いながら足を組み替え、体の位置をルイフォンの姿がよく見える向きに変える。その気配を感じながら、ルイフォンは口を開いた。 「メイシアが鷹刀の助けを得るために、親父と『取り引き』したのは承知している」  承知しているも何も、彼の目の前で『取り引き』が成立したのだ。 「とりあえず、親父の愛人に。やがては娼婦になる、という約束だった」 「そうだな」 「その件、反故にして欲しい。――俺の交渉材料は、ふたつある」  ルイフォンから、彼特有の豊かな表情がすっと消え去った。彼が〈フェレース〉として真剣に仕事をするときの顔。端正だが無機質で、目だけが異様に鋭い――。 「言ってみろ」  イーレオは顎を載せていた掌から、顔を上げた。ゆっくりと背を起こし、軽く両腕を組んで睥睨する。それだけで、室温が一気に下がった。 「ふたつとも、俺が一族に貢献した案件だ。その報奨として、『取り引き』の反故を要求する」 「ほほう」 「ひとつ目は、藤咲メイシアの父、藤咲コウレン氏を斑目から救出した件。これは彼女との『取り引き』内容そのものだから、俺がやらなければ鷹刀の誰かがやることになったはずだ。――俺はこれを、綿密な事前調査や警備システムの無効化など、俺でなければ不可能な手段を用い、被害ゼロで成功させた」 「ふむ」  イーレオが相槌を打つ。その腹の内は読むことができない。 「ふたつ目は、斑目への経済制裁を提案し、それを実行するための情報を集め、敵対組織を壊滅状態へ追い込んだ件。これは、まだ誰もやったことのない手柄のはずだ。しかも、こちらも鷹刀はまったくのノーダメージだ」 「そうだな。お前は実によくやった」  深々と頷くイーレオに、ルイフォンは一歩前に勇み出た。 「なら、いいよな? メイシアの『取り引き』は反故だ」  彼女を手に入れるために、最高の策を練り、最強の手札を用意した。  総帥としてのイーレオの面目を潰すことなく、親子としての情に頼ることなく、誰もが納得するような、交渉材料だ。獲物を捕らえた猫の目が、口よりも明確に笑う。  しかし――。 「いや、却下だ」  短く発せられた低音が、無慈悲に響いた。 「な……っ!?」 「確かに、お前の働きは素晴らしい。本来なら、なんでも望みを叶えてやるべきだろう。――だが、あの『取り引き』は別だ。あれを反故にできる功績など、存在しない」  落ち着いたイーレオの眼差しが、ゆっくりとルイフォンの顔をなぞる。ややほころんだ口元が、ルイフォンには嘲笑に思えた。  ルイフォンは、つかつかと前に歩み出て、執務机を思い切り殴りつけた。 「ふざけんなっ! 何が不満だって言うんだ!?」  机に載せられていた報告書が、振動で跳ね上がる。それはルイフォンの努力の結晶だった。  しかし、目の前で拳を打ち付けられても、イーレオは微動だにしない。 「お前は、あの『取り引き』の本質が分かっていないな」  イーレオの高圧的な物言いに、ルイフォンは逆上しそうになり、すんでのところで思い留まる。  これは、交渉だ。喧嘩ではない。  冷静になれ、と自分に言い聞かせ、彼は呼吸を整えた。背後ではメイシアが心配そうに見ている。負けるわけにはいかない。 「『取り引き』の本質とは、どういうことだ?」  ルイフォンは問い返す。 「お前は、あの『取り引き』の内容をちゃんと覚えているか?」 「内容って……? 鷹刀がメイシアの父と異母弟を救出する代わりに、メイシアが親父の愛人になったのち、娼婦として働く、だろ?」  ルイフォンの答えに、イーレオは盛大な溜め息をついた。そして、目線を後ろのメイシアにやる。 「メイシア、お前が俺に提案した『対価』を言ってみろ」 「え……?」  突然話を振られ、メイシアは戸惑った。だがしかし、ルイフォンの助けになるよう、できるだけ正確に思い出す。 「私は、イーレオ様に忠誠を誓いました。ただ身を差し出すのではなく、イーレオ様のお役に立ってみせますから、と」 「そうだ」  イーレオが満足そうに笑う。 「お前は半ば、俺の言質を取るようにして、自分に価値があると言い張った。そして、そんな自分を欲しくはないか、と自分を売り込んだんだよ」 「あ……」  強引なやり口だったと思い出し、メイシアは真っ赤になった顔を両手で隠した。 「俺は、そんなお前に魅了された。だから、お前の『取り引き』に応じた。俺は別に、愛人や娼婦が欲しかったわけではない。『お前』が欲しかったんだ。――言ったろ? 俺は、世界で一番、価値があるものは『人』だと思っている、と」  イーレオはルイフォンに視線を戻す。 「あの『取り引き』は、メイシアを鷹刀に縛るためのものだ。俺はメイシアを失いたくない。――だから『取り引き』は反故にはできない」 「親父……」  ルイフォンは絶句した。  用意した交渉材料は完璧だった。それはイーレオも認めている。けれど、交渉は失敗だ。彼女の価値は、他の何ものにも代えられない。どんな功績も、彼女の価値には敵わない。そんなことは、ルイフォンが一番よく知っている。 「あ、あの、イーレオ様」  メイシアが、おずおずと前に出た。  彼女はルイフォンに「すべて任せろ」と言われていた。ただ、一緒についてきて、そばに居てくれればいいと。けれど彼女は、じっとしていられなかった。  膝をつき、こうべを垂れる。いまだ偽警察隊員の殺戮のあとが残る絨毯の上を、長い黒髪が恐れることなく、さらさらと流れていった。 「イーレオ様。私はイーレオ様を尊敬しております。私の忠誠は『取り引き』とは関係なく、イーレオ様にあります。だから、ルイフォンの功績で『取り引き』を反故にしてください。そうでないと、私……私は、ルイフォンと……」 「メイシア、ストップ」  シャオリエの声が鋭く割り込んだ。 「いい女は、男の顔を立ててあげなくちゃね?」  アーモンド型の瞳の片方をつぶって、シャオリエは意味ありげに微笑んだ。メイシアは顔を上げ、きょとんとする。 「……そういうことかよ」  ルイフォンは、溜め息をついた。やっとイーレオの意図が読めた。  彼は癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。せっかく綺麗に整えた髪が、いつものように雑に流される。彼はそのままメイシアのもとに寄り、ひざまずいたままの彼女をふわりと抱き上げた。 「きゃっ」という可愛らしい悲鳴。それを無視して、彼女を抱いたまま、彼はイーレオに向き直る。 「総帥。俺はメイシアを伴侶とし、一族に加えます。あなたは、彼女を失うことはありません。だから、あの『取り引き』は反故に――」  ルイフォンの言葉に、イーレオが満足そうに頷いた。しかし途中で、ルイフォンの瞳が急に鋭くなる。 「――と、いうシナリオにしたかったんだな?」  ルイフォンの尖った声が、イーレオに突き刺さった。 「なんだ、気に入らないのか? 俺もお前も満足の、名案だろう?」 「どこが名案だ!?」  腕の中のメイシアをぐっと胸に押し付け、ルイフォンは言い放つ。 「親父。俺は、こいつには自由であってほしいと思っている。鷹刀も藤咲も関係なく、どちらに属するということもなく、だ」 「ふむ」 「俺はこいつに、鷹刀を抜けると言った。だから、俺のところに来い、とな。そもそも俺は――〈フェレース〉は、鷹刀の協力者であって、厳密には一族じゃない」  彼は視線でイーレオを斬りつけた。 「平行線だな」  低い声でイーレオが呟く。  ルイフォンはくっと顎を上げ、不敵に笑った。それから、腕の中のメイシアの顔を覗き込み、心配するなと目だけで囁いた。 「構わねぇよ。だったら奪い取るまでだ」  ルイフォンはメイシアを抱いたまま、きびすを返す。背中で金色の鈴が揺れた。 「鷹刀イーレオ、〈フェレース〉は斑目を壊滅状態に陥らせた。同じことを鷹刀にもできる」  背中越しに、ルイフォンは静かに言った。大華王国一の凶賊ダリジィンの総帥に、対等な立場で言葉を発していた。  ――イーレオは、声に出さないよう、喉の奥で低く笑う。  この息子は、簡単には掌で踊ってくれないらしい。昔からひと筋縄でいかない餓鬼だったが、実に面白い男に育った……。  人を魅了する人間。予想外の言動で興奮させてくれる人間が、イーレオは愛しくてたまらない。 「脅迫か?」  努めて低く冷酷な声で、イーレオは尋ねた。 「交渉だ」  ルイフォンが短く切り返す。 「条件は?」 「あの『取り引き』を反故にしろ。その代わり、俺もメイシアも鷹刀に何かあれば協力する。これで譲歩できないのなら、俺はこのままメイシアをさらい、結果として鷹刀は俺もメイシアも失う」  これでイーレオは応じざるをえないはずだが、ルイフォンは駄目押しのひとことを加えた。 「一時間後に〈ベロ〉の電源が自動的に落ちるようにセットしてある」  高度な人工知能が入っていようと、電力供給が止まればコンピュータなどただのはこだ。〈ベロ〉を使っているのは主にルイフォンだと思われがちだが、風呂場の湯の温度だって〈ベロ〉の管理下にある。止まれば被害は甚大だ。 「……それは脅迫だろう」  イーレオが苦笑した。そして頼もしく育った息子の背中に目を細めながら、続ける。 「分かった。ただし、こちらからも条件がある」 「なんだ?」 「鷹刀に何かがあったとき、メイシアが協力するというのは、彼女が自由な身であって初めて可能なことだ。だが、『取り引き』が反故になれば、メイシアは貴族シャトーアの令嬢に戻る。果たして藤咲家は、お前たちの仲を認め、彼女に自由を与えてくれるかな?」  その質問に、ルイフォンの腕の中のメイシアが、彼の胸を軽く叩いた。彼は頷き、そっと彼女を床に下ろす。 「ハオリュウは認めてくれました。両親にはまだ話していませんが、きっと分かってくれると思います」  メイシアの凛とした声が響く。 「では、こうしよう。藤咲家がお前たちの仲を認めたら、あの『取り引き』は反故だ」  椅子に背を預け、イーレオは腕を組む。 「分かった。……親父、ありがとう」  ルイフォンは頭を下げた。メイシアを手に入れるのは当然の権利と思っていたが、それでも自然に頭が下がった。  彼の隣でメイシアも頭を下げる。窓から差し込む白い光が、彼女の黒髪に祝福のベールを投げかけていた。  そのとき、執務室の内線が鳴り、ミンウェイからコウレンが目覚めたとの連絡が入った――。



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何か、あったのか?」 「捕虜の件でな。あとで皆を集めてミンウェイに話してもらう」  その口調から、悪い報告だとルイフォンは察した。  出鼻をくじかれた形になったが――しかし、今ここで言うべきことは言っておかねば、と彼は腹をくくった。 「……親父、大事な話がある」 「なんだ?」  イーレオはルイフォンに目線をやった。その瞳は鋭く、冷たく、すべてを見抜くようで――実際、イーレオには、おおよその話の方向性は理解できていた。  シャオリエが、にやりと笑いながら足を組み替え、体の位置をルイフォンの姿がよく見える向きに変える。その気配を感じながら、ルイフォンは口を開いた。 「メイシアが鷹刀の助けを得るために、親父と『取り引き』したのは承知している」  承知しているも何も、彼の目の前で『取り引き』が成立したのだ。 「とりあえず、親父の愛人に。やがては娼婦になる、という約束だった」 「そうだな」 「その件、反故にして欲しい。――俺の交渉材料は、ふたつある」  ルイフォンから、彼特有の豊かな表情がすっと消え去った。彼が〈フェレース〉として真剣に仕事をするときの顔。端正だが無機質で、目だけが異様に鋭い――。 「言ってみろ」  イーレオは顎を載せていた掌から、顔を上げた。ゆっくりと背を起こし、軽く両腕を組んで睥睨する。それだけで、室温が一気に下がった。 「ふたつとも、俺が一族に貢献した案件だ。その報奨として、『取り引き』の反故を要求する」 「ほほう」 「ひとつ目は、藤咲メイシアの父、藤咲コウレン氏を斑目から救出した件。これは彼女との『取り引き』内容そのものだから、俺がやらなければ鷹刀の誰かがやることになったはずだ。――俺はこれを、綿密な事前調査や警備システムの無効化など、俺でなければ不可能な手段を用い、被害ゼロで成功させた」 「ふむ」  イーレオが相槌を打つ。その腹の内は読むことができない。 「ふたつ目は、斑目への経済制裁を提案し、それを実行するための情報を集め、敵対組織を壊滅状態へ追い込んだ件。これは、まだ誰もやったことのない手柄のはずだ。しかも、こちらも鷹刀はまったくのノーダメージだ」 「そうだな。お前は実によくやった」  深々と頷くイーレオに、ルイフォンは一歩前に勇み出た。 「なら、いいよな? メイシアの『取り引き』は反故だ」  彼女を手に入れるために、最高の策を練り、最強の手札を用意した。  総帥としてのイーレオの面目を潰すことなく、親子としての情に頼ることなく、誰もが納得するような、交渉材料だ。獲物を捕らえた猫の目が、口よりも明確に笑う。  しかし――。 「いや、却下だ」  短く発せられた低音が、無慈悲に響いた。 「な……っ!?」 「確かに、お前の働きは素晴らしい。本来なら、なんでも望みを叶えてやるべきだろう。――だが、あの『取り引き』は別だ。あれを反故にできる功績など、存在しない」  落ち着いたイーレオの眼差しが、ゆっくりとルイフォンの顔をなぞる。ややほころんだ口元が、ルイフォンには嘲笑に思えた。  ルイフォンは、つかつかと前に歩み出て、執務机を思い切り殴りつけた。 「ふざけんなっ! 何が不満だって言うんだ!?」  机に載せられていた報告書が、振動で跳ね上がる。それはルイフォンの努力の結晶だった。  しかし、目の前で拳を打ち付けられても、イーレオは微動だにしない。 「お前は、あの『取り引き』の本質が分かっていないな」  イーレオの高圧的な物言いに、ルイフォンは逆上しそうになり、すんでのところで思い留まる。  これは、交渉だ。喧嘩ではない。  冷静になれ、と自分に言い聞かせ、彼は呼吸を整えた。背後ではメイシアが心配そうに見ている。負けるわけにはいかない。 「『取り引き』の本質とは、どういうことだ?」  ルイフォンは問い返す。 「お前は、あの『取り引き』の内容をちゃんと覚えているか?」 「内容って……? 鷹刀がメイシアの父と異母弟を救出する代わりに、メイシアが親父の愛人になったのち、娼婦として働く、だろ?」  ルイフォンの答えに、イーレオは盛大な溜め息をついた。そして、目線を後ろのメイシアにやる。 「メイシア、お前が俺に提案した『対価』を言ってみろ」 「え……?」  突然話を振られ、メイシアは戸惑った。だがしかし、ルイフォンの助けになるよう、できるだけ正確に思い出す。 「私は、イーレオ様に忠誠を誓いました。ただ身を差し出すのではなく、イーレオ様のお役に立ってみせますから、と」 「そうだ」  イーレオが満足そうに笑う。 「お前は半ば、俺の言質を取るようにして、自分に価値があると言い張った。そして、そんな自分を欲しくはないか、と自分を売り込んだんだよ」 「あ……」  強引なやり口だったと思い出し、メイシアは真っ赤になった顔を両手で隠した。 「俺は、そんなお前に魅了された。だから、お前の『取り引き』に応じた。俺は別に、愛人や娼婦が欲しかったわけではない。『お前』が欲しかったんだ。――言ったろ? 俺は、世界で一番、価値があるものは『人』だと思っている、と」  イーレオはルイフォンに視線を戻す。 「あの『取り引き』は、メイシアを鷹刀に縛るためのものだ。俺はメイシアを失いたくない。――だから『取り引き』は反故にはできない」 「親父……」  ルイフォンは絶句した。  用意した交渉材料は完璧だった。それはイーレオも認めている。けれど、交渉は失敗だ。彼女の価値は、他の何ものにも代えられない。どんな功績も、彼女の価値には敵わない。そんなことは、ルイフォンが一番よく知っている。 「あ、あの、イーレオ様」  メイシアが、おずおずと前に出た。  彼女はルイフォンに「すべて任せろ」と言われていた。ただ、一緒についてきて、そばに居てくれればいいと。けれど彼女は、じっとしていられなかった。  膝をつき、こうべを垂れる。いまだ偽警察隊員の殺戮のあとが残る絨毯の上を、長い黒髪が恐れることなく、さらさらと流れていった。 「イーレオ様。私はイーレオ様を尊敬しております。私の忠誠は『取り引き』とは関係なく、イーレオ様にあります。だから、ルイフォンの功績で『取り引き』を反故にしてください。そうでないと、私……私は、ルイフォンと……」 「メイシア、ストップ」  シャオリエの声が鋭く割り込んだ。 「いい女は、男の顔を立ててあげなくちゃね?」  アーモンド型の瞳の片方をつぶって、シャオリエは意味ありげに微笑んだ。メイシアは顔を上げ、きょとんとする。 「……そういうことかよ」  ルイフォンは、溜め息をついた。やっとイーレオの意図が読めた。  彼は癖のある前髪を、くしゃりと掻き上げた。せっかく綺麗に整えた髪が、いつものように雑に流される。彼はそのままメイシアのもとに寄り、ひざまずいたままの彼女をふわりと抱き上げた。 「きゃっ」という可愛らしい悲鳴。それを無視して、彼女を抱いたまま、彼はイーレオに向き直る。 「総帥。俺はメイシアを伴侶とし、一族に加えます。あなたは、彼女を失うことはありません。だから、あの『取り引き』は反故に――」  ルイフォンの言葉に、イーレオが満足そうに頷いた。しかし途中で、ルイフォンの瞳が急に鋭くなる。 「――と、いうシナリオにしたかったんだな?」  ルイフォンの尖った声が、イーレオに突き刺さった。 「なんだ、気に入らないのか? 俺もお前も満足の、名案だろう?」 「どこが名案だ!?」  腕の中のメイシアをぐっと胸に押し付け、ルイフォンは言い放つ。 「親父。俺は、こいつには自由であってほしいと思っている。鷹刀も藤咲も関係なく、どちらに属するということもなく、だ」 「ふむ」 「俺はこいつに、鷹刀を抜けると言った。だから、俺のところに来い、とな。そもそも俺は――〈フェレース〉は、鷹刀の協力者であって、厳密には一族じゃない」  彼は視線でイーレオを斬りつけた。 「平行線だな」  低い声でイーレオが呟く。  ルイフォンはくっと顎を上げ、不敵に笑った。それから、腕の中のメイシアの顔を覗き込み、心配するなと目だけで囁いた。 「構わねぇよ。だったら奪い取るまでだ」  ルイフォンはメイシアを抱いたまま、きびすを返す。背中で金色の鈴が揺れた。 「鷹刀イーレオ、〈フェレース〉は斑目を壊滅状態に陥らせた。同じことを鷹刀にもできる」  背中越しに、ルイフォンは静かに言った。大華王国一の凶賊ダリジィンの総帥に、対等な立場で言葉を発していた。  ――イーレオは、声に出さないよう、喉の奥で低く笑う。  この息子は、簡単には掌で踊ってくれないらしい。昔からひと筋縄でいかない餓鬼だったが、実に面白い男に育った……。  人を魅了する人間。予想外の言動で興奮させてくれる人間が、イーレオは愛しくてたまらない。 「脅迫か?」  努めて低く冷酷な声で、イーレオは尋ねた。 「交渉だ」  ルイフォンが短く切り返す。 「条件は?」 「あの『取り引き』を反故にしろ。その代わり、俺もメイシアも鷹刀に何かあれば協力する。これで譲歩できないのなら、俺はこのままメイシアをさらい、結果として鷹刀は俺もメイシアも失う」  これでイーレオは応じざるをえないはずだが、ルイフォンは駄目押しのひとことを加えた。 「一時間後に〈ベロ〉の電源が自動的に落ちるようにセットしてある」  高度な人工知能が入っていようと、電力供給が止まればコンピュータなどただのはこだ。〈ベロ〉を使っているのは主にルイフォンだと思われがちだが、風呂場の湯の温度だって〈ベロ〉の管理下にある。止まれば被害は甚大だ。 「……それは脅迫だろう」  イーレオが苦笑した。そして頼もしく育った息子の背中に目を細めながら、続ける。 「分かった。ただし、こちらからも条件がある」 「なんだ?」 「鷹刀に何かがあったとき、メイシアが協力するというのは、彼女が自由な身であって初めて可能なことだ。だが、『取り引き』が反故になれば、メイシアは貴族シャトーアの令嬢に戻る。果たして藤咲家は、お前たちの仲を認め、彼女に自由を与えてくれるかな?」  その質問に、ルイフォンの腕の中のメイシアが、彼の胸を軽く叩いた。彼は頷き、そっと彼女を床に下ろす。 「ハオリュウは認めてくれました。両親にはまだ話していませんが、きっと分かってくれると思います」  メイシアの凛とした声が響く。 「では、こうしよう。藤咲家がお前たちの仲を認めたら、あの『取り引き』は反故だ」  椅子に背を預け、イーレオは腕を組む。 「分かった。……親父、ありがとう」  ルイフォンは頭を下げた。メイシアを手に入れるのは当然の権利と思っていたが、それでも自然に頭が下がった。  彼の隣でメイシアも頭を下げる。窓から差し込む白い光が、彼女の黒髪に祝福のベールを投げかけていた。  そのとき、執務室の内線が鳴り、ミンウェイからコウレンが目覚めたとの連絡が入った――。



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