3.怨恨の幽鬼-1
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お前は逃げろ――その言葉に、メイシアの心臓は氷の矢に貫かれたような痛みを感じた。 彼女はポケットに手を入れる。そこにはルイフォンの携帯端末があった。 心臓から全身が凍りついていく恐怖を前に、先刻のルイフォンとの遣り取りが彼女の脳裏を走り抜けた――。 「ここに隠れてやり過ごすぞ」 ルイフォンが、扉の壊れた建物の前で立ち止まった。 街灯の硝子でタオロンを足止めし、メイシアを抱きかかえて路地裏へ逃げたのちに、再び歩き出したときのことである。 割れた窓から差し込む光を頼りに、ルイフォンは建物――廃屋と言ったほうがしっくり来るような家の中を進んだ。 遅れないように、と慌てながらメイシアも続くと、途中、足元に転がる何かにつまずく。とっさに、壁に手を付けば、ざらりとした砂のような埃の感触。窓も扉も用をなしていないにも関わらず、奥に進めば閉めきった空間特有の、むっとするような空気に満ちていた。 ルイフォンは階段の安全を確かめると、メイシアを手招きした。そうして二階のひと部屋に腰を落ち着けると、彼は尻ポケットから、通話状態になったままの携帯端末を取り出した。何も言わずに通話を切り、メッセージを送る。 『斑目タオロンに襲われたが、取り敢えず逃げた。隠れているから通話は切る。GPSの地点まで迎えに来てくれ』 それだけ書き込むと、ルイフォンは「これを預かってくれ」と言って、携帯端末をメイシアに手渡した。 反射的に受け取った端末を、メイシアはじっと見つめた。 「どうした? 珍しいものではないだろう?」 黙ったままのメイシアに、ルイフォンが不審な顔になる。 「それとも、貴族のお嬢さん育ちじゃ、こういうものは持たせてもらえなかったのか? ……いや、没収したお前の荷物に入っていたな……?」 「……ルイフォンが、私にこれを渡す意味を考えていました」 メイシアは真っ直ぐにルイフォンを見上げた。その瞳には、非難めいた色合いがあった。 「これは『味方に位置を知らせる端末』ですよね。何故、ルイフォンが持たないのですか?」 詰め寄る彼女に、ルイフォンは一歩たじろぐ。 「え……?」 「……私と別行動をするつもりなんですね」 「まぁ、場合によれば……」 「そのとき、ルイフォンは、私のために危険な目にあっているはずです」 「……可能性は否定しない」 「それでは、お預かりするわけにはいきません」 メイシアは、携帯端末の上下を、きちんとルイフォンのほうへ向け直し、両手で丁寧に差し出した。 「いいから、持っていろ」 「駄目です!」 凛とした声に、ルイフォンは一瞬、気圧された。 だがすぐに、すっと目を細める。 今まで一緒に行動してきて、彼女の並ならぬ芯の強さには驚嘆してきた。しかしいざ、乱闘となったら、お荷物にしかならない。そんなこと、少し考えれば、すぐに分かることだ。 メイシアの聡明さを認めていただけに、失望も大きい。ルイフォンは腹立たしげに顎をしゃくりあげた。 「強情な奴め……!」 感情でものを言っていたら、凶賊は務まらない。所詮、世間知らずのお嬢さんというところか。 苛立ちもあらわにルイフォンが舌打ちをしたとき、メイシアの唇が震えていることに彼は気づいた。 「……正直に言えば、とても怖いです。でも、そういう『世界』なんだ、と思いました」 メイシアが屋敷を訪れた直後、ミンウェイは『世界が違う』と言った。そのときのメイシアは、貴族と凶賊で違うのは当たり前ではないか、とその程度にしか思っていなかった。けれど、彼女は身をもって知ったのだ。 「危険なことをしないでください、と、言いたいですが、言ってはいけないのも分かっています。もとより、私自身が鷹刀に武力を求めたのですから……」 メイシアは唇を噛み、彼に携帯端末を押し付け続けた。手は震え、怯えた顔をしつつも、潤んだ瞳は譲るつもりはないと訴えていた。一心に前だけを見つめて――。 「……でも、私は鷹刀で暮らすことを選んだんです。だから、自分ひとりだけ、安全なところに守られているなんて、嫌です!」 ――その目を、ルイフォンは知っていた。 それは、彼と彼の父を魅了した目だった。 「……ああ……、そうだったな」 彼は、癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、口元を綻ばせる。 「昨日、初めて会ったときと同じだ。今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、お前は一歩も引かない。――お前は、そういう奴だ」 ルイフォンはメイシアから携帯端末を受け取ると、手際よく画面を操作していった。鼻歌でも歌いそうなほどに、ご機嫌な様子で画面に指を走らせる。 「虹彩写真を撮らせてくれ」 そう言って、メイシアに携帯端末を向けた。彼女がきょとんと彼を見たときには、もう撮影は終了していた。 「それじゃ、改めて。これを持っていてくれ」 ルイフォンが再び手渡そうとするので、メイシアは押し戻す。 「だから、私は……!」 「違うって」 彼は猫のような目をすっと細めた。 「この端末はな、俺以外の人間が操作しようとしたら、自動的にすべてのデータを消去するように仕掛けてある。けど、お前にも使用権限を与えておいた」 「どういうことでしょうか……?」 「いいか? 『俺とお前が別行動をしなきゃいけない事態』になったときには、俺にとってお前は足手まといにしかならない。想像できるよな?」 「それは……その通り、です……」 「だから、そのときは逃げろ。逃げて、この端末を使って屋敷に連絡してくれ。親父に状況を説明して、指示を仰いで欲しい」 「……」 「俺は情報屋だ。情報を制する者が勝つと信じている。つまり、だ。その場にいたら邪魔なだけのお前を、戦力に変える」 メイシアは、納得したわけではなかった。けれどルイフォンが言うことはもっともだった。 こうして、彼女は携帯端末を預かったのだった。 ルイフォンの足手まといになってはいけない。だから、ここは彼の指示通りに逃げるべきなのだ。 けれど――ルイフォンもまた逃げるべきなのだ。自分たちの目的は、相手を倒すことではないのだから。 メイシアは痛む心臓を押さえるように、ポケットから出した手を胸に当てた。 ルイフォンは彼女を守るために、自分の身を危険に晒す。今だってこうして、彼女の前に立っている。 彼の背中で一本に編まれていた髪は、飾り紐を失い緩やかにほどけつつあった。癖のある猫っ毛が広がり、まるで〈蝿〉から彼女を隠そうとしているかのようだった。 メイシアは、ぎりりと奥歯を噛みしめた。 いったい何度、この後ろ姿を見ただろう――? 「……」 彼女は地面に張り付く足を引き剥がす。じわじわと汗ばむ体に力を込めると、ルイフォンの影から決然と抜け出した。そして、〈蝿〉の前へと歩を進める。 「メイシア!?」 ルイフォンの狼狽の声にも構わず、彼女はまっすぐに〈蝿〉を見上げた。長い黒髪が、ふわりとなびく。 「あなたは、イーレオ様に恨み骨髄とのご様子とお見受けいたしました」 予期せぬことに、わずかな動揺を見せた〈蝿〉だが、すぐに口元に嘲笑を浮かべる。 「おや? 腰を抜かしていた小娘が、いきなり何を言い出すかと思えば……」 「つまりあなたは、イーレオ様と直接、相見えずに、か弱き私たちを傷めつけることで、卑屈な自尊心を満足させようとしていらっしゃるわけですね?」 メイシアは微笑んだ。聖女のような顔が、挑発的に妖しく歪んでいく。 〈蝿〉の顔色が変わった。 「あなたは過去に、イーレオ様に負けたのでしょう?」 婉然とした笑みは、娼館の女主人シャオリエから学んだものだった。 「……黙れ、小娘ぇ! 貴様にっ、何が分かるっ!!」 地底から響いてくるような低い声に怒りを煮えたぎらせ、〈蝿〉が吠える。 「ルイフォン!」 メイシアは叫ぶと同時に踵を返し、思い切り地を蹴り出した。華奢な彼女なりの、精一杯の脚力――否、全身全霊の力をもって走りだす。 そのとき、〈蝿〉は我を忘れた。むき出しの殺意をメイシアに向け、翻る黒髪もろとも、彼女を袈裟懸けにせんと、白刃を煌めかせる。 「メイシア!?」 自分が囮になるから逃げてと、彼女は言っているのだろうか? そんな馬鹿な、とルイフォンの心臓が縮み上がった。 そんな危険を冒したところで、か細い彼女の足では、あっという間に、凶刃に捕らえられてしまうだろう。彼が逃げる暇もなく――。 そのとき、ルイフォンは、はっとした。 彼の目の前に、〈蝿〉の無防備な背中があった。 〈蝿〉の瞳は、メイシアしか映していない。――そこに生まれる隙を勝機に変えるよう、彼女は彼を信じて託したのだ。 頭で理解するよりも先に、体が動いた。 ルイフォンは猛進した。野生の獣のようにしなやかに疾る。 袖口に入れていた右手はブラフ。毒の釘は一本しか作っていない。 護身用のナイフは、タオロンを足止めするために街灯に投げて、そのままだ。 だから、ルイフォンは跳んだ。強く踏み出した片足をばねに、まるで重力を無視したかのように、ふわりと。 軽やかに浮かび上がった体から、踵が勢いよく伸び、〈蝿〉の頚椎を狙う――! 「……っ!」 直前で、気づかれた。 〈蝿〉が刀を旋回させる。ルイフォンを斬り捨てようと、鋭い銀色の円弧が迫る。 「くっ――!」 ルイフォンは空中で体をひねった。蹴りの軌道が、わずかに上方にずれる。そのすぐ下を〈蝿〉の凶刃が駆け抜けた。 神業ともいえる体術で刃を逃れたルイフォンは、落下の流れに乗りながら〈蝿〉の横面に蹴りを入れる。 「……っ」 低い呻き声。〈蝿〉の口元から、ひと筋の血が垂れた。 からん、と。刀を取り落とす音が響いた。 ……しかし、〈蝿〉が倒れることはなかった。 「甘かったか……!」 ルイフォンは舌を鳴らした。 間髪おかずに、彼は着地の低い姿勢から、肘で〈蝿〉の鳩尾を突き上げた。 手応えはあった。 だが軽い。明らかに浅い。脳震盪を起こしていても不思議ない状況下で、〈蝿〉は体を引いて直撃を避けたのだ。 ルイフォンは、足元に転がる〈蝿〉の刀を、咄嗟に遠くへと蹴り飛ばした。刀は、くるくると円を描いて地面を滑り、薄汚れた壁にぶつかって止まる。 今なら逃げられるか……!? しかし、ルイフォンの直感が告げた。不用意に背を向けることは危険であると――。 「あなた方を少々侮りすぎていたようですね」 〈蝿〉の声が低く響き、体が一瞬、緩やかに浮く。軽く跳躍しただけであるが、その次の刹那、電光石火の早業でルイフォンの腹を打ち抜いた。 「ぐはぁ……」 ルイフォンは、自分の内臓が飛び出たかと思った。呼吸が止まる。 地獄の苦しみに足元がおぼつかず、膝から崩れ落ちる。意識はあるが、強い吐き気に思考が奪われる。体を、動かせない。 〈蝿〉が嗤う 彼は音もなく歩き、ルイフォンに蹴り飛ばされた刀を拾ってきた。そして、蔑むようにルイフォンを見下ろした。 ルイフォンは唇を噛んだ。 多少の武術を学んだところで、その道で生きている人間の足元にも及ばないことは分かりきっていた。彼は凶賊に関わる者とはいえ後方部隊であり、巻き込まれた際に降りかかる火の粉を払う程度の力しか持ってない。 それでも無抵抗にやられるつもりなどなかった。できるだけ長く〈蝿〉を引き止めれば、その分メイシアは遠くまで逃げられるのだ。 ルイフォンは、好戦的な目で〈蝿〉を見上げた。 しかし、〈蝿〉が遠くに向かって「小娘!」と、声を放った。 「そのへんに隠れているのは分かっていますよ? この小僧の命が惜しければ、出てきてもらいましょう」 ルイフォンは顔色を変えた。メイシアの性格を考えれば、すぐそこの角あたりで様子を窺っていて当然だった。 吐き気を抑え、ルイフォンは叫ぶ。 「来るな、メイシ……!」 だが、それも〈蝿〉の強烈な蹴りによって遮られた。ルイフォンは地面に叩きつけられ、勢いのままに砂地を滑る。ちょうど先程〈蝿〉によって切り飛ばされた上着のボタンのように、無様に地を転がった。 〈蝿〉はメイシアの気配を探った。必ず近くにいるはずだった。あの小娘は、お上品なタイプの貴族の娘に見えた。身分の低い者を虫けらのように扱う『捕食者』ではない。愚かなほどにどこまでも善人で、彼のような者にとって非常に好都合な『被捕食者』であると。 メイシアは――姿を見せなかった。 寂れた廃墟の道には、残飯を荒らす鴉すらいない。 ただ乾いた砂塵だけが漂っていた。 〈蝿〉は哄笑した。 「可哀想に、あなたは単なる捨て駒だったんですね。貴族の小娘にしたら当然、ということでしょうか?」 〈蝿〉としても予想外であったが、これはこれで愉快であった。 「残念でしたね。あなたは、あの小娘相手に随分、鼻の下を伸ばしていたようですが……。女は怖い、ということですか」 「あいつは賢い奴だ。お前の挑発に乗るような、愚かな真似をするわけないだろう」 ルイフォンは〈蝿〉に向かって唾を吐く。……だが、〈蝿〉にやられた腹とは別に、胸の奥がちくり痛んだ。 「ともかく、仕方がありませんね。あなたはさっさと片付けて、小娘を追うことにしましょう」 〈蝿〉は、銀色の刀身を頭上、高くに掲げた。激しい痛みの中でそれを見上げたルイフォンの目に、小さな花をあしらった鍔飾りが映る。この男の持ち物にしては妙に綺麗だ、そんな的外れな感想を、彼は抱いた――。
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