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5.夢幻泡影の序曲-3

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 リュイセンが部屋を出ていき、ルイフォンはひとり、ソファーに体を投げ出した。 「メイシアに、なんて言えばいいんだよ……」  両手で顔を覆い、視界を閉ざす。  彼の論理的解析と、兄貴分の野生の直感が、同じ答えを出したならば間違いないだろう。  ――メイシアの父、コウレンは〈影〉に体を奪われた。  そして、どういった経緯かは知らぬが、ハオリュウがいち早く気づき、他の者から真実を隠そうとしている。  彼の目的は分からない。けれど、異母姉メイシアのためなのだろう。  ともかく、ハオリュウと話をしたい。――ルイフォンは頭の中を整理する。  ハオリュウは父親を見舞っていて、だからコウレンの部屋に行けば会うことはできる。しかし、メイシアもそこにいるはずだ。ふたりきりで話をするためには、ハオリュウが割り当てられた客間に戻るまで待たねばなるまい。夕方くらいまで無理だろうか。  それより気になるのが、同じ話を聞いたメイシアが、父が〈影〉であると気づいてしまわないか、ということだ。ハオリュウが偽者の父をフォローして、ボロが出ないようにしているようだが、彼女は聡明だ。果たして……。  そんなことを考えながら、ルイフォンは前髪を掻き上げる。  ――緋扇シュアンは、知人であった先輩を〈影〉にされ、殺したという。先輩の体をいいように弄ばれるくらいならば、と。  なら、コウレンは?  メイシアの父親でありながら、別人である彼のことは、どうすればいい……? 『お前らは、いい奴だな……』  不意に、夜闇の別荘で聞いた、斑目タオロンの言葉を思い出した。 『だから……、俺が悪役になるほうがいい』  タオロンはそう言って、コウレンを撃った。結果としては、外してしまったが――。 「…………」  ルイフォンの手が頭から滑り落ち、ソファーから、だらんと垂れた。    遠くから、けれど確かに、銃声が聞こえたのは、それから少しあとのことである。  ルイフォンは飛び起きた。 〈影〉が何かしたのだと、迷うことなく悟った。――と、同時に彼は走り出した。  ルイフォンは、コウレンの部屋の扉を開け放った。  視界に映るのは、明るい陽射しの注がれる窓。――逆光に照らし出されるシルエット……。 「メイシア!」  ルイフォンが叫ぶ。  半分重なったような、ふたつの影が、同時に動いた。 「ルイ……!」  彼の名を呼ぶメイシアの口を、コウレンがふさぐ。そして、彼女の体をぐっと引き寄せた。 「動くな!」  そう言いながらも、ルイフォンを恐れるかのように、コウレンは後ずさる。  コウレンの顔に、斜めに陽が射し込んだ。片目が黒く沈み、反対の頬が不気味に白く浮き上がる。その顔は、追い詰められた狂人の形相――。  ……コウレンは、メイシアに向かって銃を突きつけていた。 「くっ……」  ルイフォンは小さく息を漏らした。  乱闘があったのだろう。コウレンの足元には、花瓶の破片が散っている。  そして、硝子の鋭く光る床に、ハオリュウがいた。その姿を――ルイフォンは、にわかに信じることができなかった。 「ハオリュウ……?」  下半身が血にまみれていた。  床に赤い水たまりが広がっている。規模は決して小さくない。そのことを示すように、彼の顔色は透き通るように白かった。額が割られ、流れ出た血の筋だけが赤い。  それでもハオリュウは、両手で上半身を支え、コウレンを睨みつけていた。  血の臭いが鼻を突く。  ハオリュウを凝視していたルイフォンは、勢いよく顔を上げた。彼の背で、一本に編まれた髪が跳ね、金色の鈴が光る。 「許さねぇぞ……」  ルイフォンとは思えないくらいに低く、唸るような声。眼光だけで斬れそうな、鋭い目を向ける。 「どうせ、お前も、わしが〈影〉だと知っているのだろう?」  しゃがれたコウレンの声が響く。 「ならば、分かるな? ――この娘を殺されたくなければ、わしの言う通りにしろ」  口をふさがれたメイシアが、力なくうなだれた。陰りの中の彼女の顔は鮮明には見えないが、やり場のない思いは伝わってくる。 「何を要求する気だ?」  ルイフォンは尋ねた。 「そうだな。金を用意してもらおうか。わしは新しい人生を生きねばならぬ。金がなければ始まらない」 「如何にも、悪党の言いそうなことだな」  吐き出すように、ルイフォンは言い捨てた。コウレンの顔の影が濃くなり、むっと鼻に皺を寄せる。 「口のきき方に気をつけろ。この娘がどうなるか、知らんぞ」 「……っ」  ルイフォンは唇を噛んで、押し黙る。 「ああ、そうだ。わしをこんな目に遭わせた斑目一族の総帥と、厳月の当主と、それから〈ムスカ〉という男を暗殺しろ」 「なっ……!?」 「凶賊ダリジィンなら、暗殺など、お手の物だろう?」 「ふざけんな……」  ルイフォンの悪態を、コウレンは鼻で笑う。 「奴らの死が確認できるまで、わしはこの部屋で娘と待つ。食事は、お前たちの総帥と同じものを持ってくるように。娘に毒味をさせるから、下手なことは考えないほうがいいぞ」  初めは脅えの見えたコウレン――〈影〉も、要求を重ねていくうちに調子づき、口が滑らかになっていった。ルイフォンはぎりぎりと奥歯を噛み締める。 「言いたい放題だな……」 「逆らう気か? なら、わしの言うことをききたくなるように、そこの死に損ないの小僧を撃とう。そいつはわしを殺そうとしたから、ちょうどいい。人質は娘がいれば充分だ」  勝ち誇ったように言い放ち、正気が弾け飛んだかのように嗤う。  コウレンは愉悦の顔でハオリュウに銃口を向けると、ねっとりとした声で「さあ、どうする?」とルイフォンに問いかけた。  ルイフォンは、ややうつむき加減になって、ぐっと拳を握りしめた。  腹の底から怒りが噴き出す。胸の中をやり切れなさが渦巻く。それらをすべて押し出すように、細くゆっくりと、彼は息を吐いた。  肺の空気を完全に出し切ったあと、背を起こしながら息を吸う。再び前を向いた彼は、表情の消えた無機質な顔をしていた。冷ややかな瞳がコウレンを映す。  そして――。  ルイフォンは、握りしめたままの両手を緩やかに上げた。 「良い心がけだ」  コウレンの顔が卑劣に歪む。  そのとき、ルイフォンの左手が、窓の陽を反射して、きらりと光った。 「眩し……」  鋭い光がコウレンの目に刺さる。  次の瞬間、ルイフォンの右手が振り下ろされた。輝く尾を伸ばす、彗星のような刃が、一直線にコウレンに向かっていく――。  鈍い音がした。  コウレンの眉間に、菱形の刃が突き刺さっていた。  そのまま、体が後ろに倒れる。――続く、地響き……。  衝撃に、額から刃が抜け落ちた。床に散らばる硝子の欠片とぶつかり、悲しいくらいに澄んだ高い音を立てる。窓からの陽射しを跳ね返し、コウレンの目をくらませたのと同じ光を放った。 「…………!」  メイシアの、声にならない悲鳴が響いた。髪を振り乱し、コウレンに駆け寄る。  力なく横たわったコウレンの手には、もはや拳銃はなかった。 「お父様……!」  メイシアは父の手を握りしめ、頬を寄せる。黒曜石の瞳は大きく見開かれ、涙があふれ出てきても瞬きひとつしなかった。  声を殺し、耐えるように、むせび泣く。  静かな、静かすぎるメイシアの慟哭……。  ――すべて、承知の上だった。  ルイフォンは、迷わなかった。  銃声が聞こえたときに、覚悟していた。だから部屋を出る前に、両袖に刃を仕込んだ。  けれど今、彼はメイシアのそばに行って、肩を抱くことはできなかった……。 「ルイ、フォン……」  ハオリュウが彼を呼んだ。  ルイフォンは黙って頭を下げた。 「あなた、は、僕たちを、助けた……。ありがとう……」  それだけ言うと、ハオリュウは力尽きたように、起こしていた上半身を床に伏した。 「ハオリュウ!? おい、ハオリュウ!」  ルイフォンは叫ぶ。走り寄る足の下で、硝子の砕ける音がした。  抱き起こしたハオリュウは、血の気の引いた顔で荒い息をしていた。 「大丈、夫、ですよ、と、……言いたいところ、です、が、ちょっと、きつい……ですね」 「今、ミンウェイを呼ぶ」  ルイフォンが携帯端末を手にしようとしたとき、メイシアの「お父様!?」という甲高い声が聞こえた。 「お父様!? 本当に、お父様なの? ――ハ、ハオリュウ!」  この場には不似合いな、歓喜の混じった驚愕の声。何があったのかと、ルイフォンが問いかけるよりも先に、メイシアが叫んだ。 「ハオリュウ、お父様が!」  彼女は長い髪を翻し、こちらに半身を向けた。輝かせた目が、異母弟を呼んでいる。 「ハオ、リュウ! ハオリュウ、いる……だ、ね! 誘拐……、解放された、ん……」  青白い顔のコウレンが、たどだとしくも嬉しそうに叫んだ。  その眉間には生々しい刃の傷があり、毒に侵され変色していた。もはや、口の聞ける状態ではないはずだった。  何が起きているのか――そんなことを考えている場合ではなかった。ルイフォンは、ただ反射的にハオリュウを抱きかかえ、コウレンのもとに連れて行く。  コウレンは、ハオリュウの姿を求めるように、弱々しく指先を動かしていた。ルイフォンは膝をつき、ハオリュウを下ろす。 「お父様、ハオリュウは、そこにいます!」 「どこ……かな? なんか……目が、霞んで……、ね。歳、かな、はは……」  コウレンが照れたように笑う。体が自由に動くのなら、恥ずかしそうに頭を掻いているのだろう。そんな姿がありありと浮かんできた。  メイシアの語った、優しい父親。当主としては頼りないけれど、暖かくて穏やかな、素朴な人物。初めて会う人だけれど、ルイフォンにも分かった。そこにいるのは、確かに藤咲コウレン、その人だと。 「父……様……!」  血相を変えたハオリュウが、腕にしがみつくように父に触れた。 「ああ、ハオリュウ……! 無事……ったんだね……。無事で、無事で……! 君が、無事……よかった……。本当に、よかった……」  コウレンの目から、涙がこぼれ落ちた。  透明な雫は、あとからあとから流れ落ち、とどまることを知らない。  大の大人の男が、子供たちの父親が――。  なんのてらいもなく、それが当然のことであるかのように――。 「ごめん……ね。頼りない、父で……。君……たく、さん……怖い、思い……辛い……させた、ね」 「違うっ! 父様はっ……!」  ハオリュウのかすれた声が裏返る。  彼のためにこぼされた涙が、熱くて痛くて――伝えたい思いが陳腐な言葉になって、ハオリュウの口から飛び出した。 「父様! 僕は、父様が、好きです!」  ハオリュウはずっと、父のことをどこか物足りない目で見ていた。嫌いではなかった。けれど、好きだと思ったことはなかった。そのはずだった――。 「そう……か。嬉しい、なぁ……」  子供のように無邪気に、コウレンが笑う。 「メイシア……も、心配、かけた……ね。君の、泣き声……聞こえ……よ」 「お父様……!」 「ああ……、君たちの……顔、見たい、な……」  コウレンがそう呟き、苦しげに息を吐いた。 「お父様!」 「父様!」  メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に叫ぶ。 「ああ……、見えて……きた……、君たちの顔……」  そう言って、コウレンは嬉しそうに笑った。  心から幸せそうに笑った。 「……私の、大切な……宝物……」  わずかな腕の動きが、ふたりを抱き寄せようとしているコウレンの心を示していた。  それが、最期だった。  メイシアが泣き崩れた。動かぬ父の手を握りしめ、声を詰まらせながら、必死に何かを語りかけていた。彼女がしゃくりあげるたびに、長い黒髪が揺れる。  そんな異母姉の背に、ハオリュウが手を添える。今にも気を失いそうなほどの重傷のはずなのに、彼はしっかりと異母姉を支えていた。  ――これは、覚悟していた光景だ。  激しい苦しみを伴いつつも、メイシアを、ハオリュウを、コウレン本人を救う手段である……はず――だった。  ルイフォンは、よろけるように一歩、後ずさる。  目の前が真っ暗だった。心臓が勢いよく収縮と膨張を繰り返し、今にも飛び出しそうになる。  ――〈影〉となった者は、決して元に戻らないのではなかったのか?  疑問が、頭の中を渦巻く。  ――今、ここで死んだ者は、間違いなくメイシアの父、藤咲コウレンだった……。  この状況を冷静に分析し、導き出される事実……。  ――〈影〉の記憶が戻るのなら、――〈影〉が本人に戻るのなら、自分のしたことは……。  ただの殺人だ――。



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――この娘を殺されたくなければ、わしの言う通りにしろ」  口をふさがれたメイシアが、力なくうなだれた。陰りの中の彼女の顔は鮮明には見えないが、やり場のない思いは伝わってくる。 「何を要求する気だ?」  ルイフォンは尋ねた。 「そうだな。金を用意してもらおうか。わしは新しい人生を生きねばならぬ。金がなければ始まらない」 「如何にも、悪党の言いそうなことだな」  吐き出すように、ルイフォンは言い捨てた。コウレンの顔の影が濃くなり、むっと鼻に皺を寄せる。 「口のきき方に気をつけろ。この娘がどうなるか、知らんぞ」 「……っ」  ルイフォンは唇を噛んで、押し黙る。 「ああ、そうだ。わしをこんな目に遭わせた斑目一族の総帥と、厳月の当主と、それから〈ムスカ〉という男を暗殺しろ」 「なっ……!?」 「凶賊ダリジィンなら、暗殺など、お手の物だろう?」 「ふざけんな……」  ルイフォンの悪態を、コウレンは鼻で笑う。 「奴らの死が確認できるまで、わしはこの部屋で娘と待つ。食事は、お前たちの総帥と同じものを持ってくるように。娘に毒味をさせるから、下手なことは考えないほうがいいぞ」  初めは脅えの見えたコウレン――〈影〉も、要求を重ねていくうちに調子づき、口が滑らかになっていった。ルイフォンはぎりぎりと奥歯を噛み締める。 「言いたい放題だな……」 「逆らう気か? なら、わしの言うことをききたくなるように、そこの死に損ないの小僧を撃とう。そいつはわしを殺そうとしたから、ちょうどいい。人質は娘がいれば充分だ」  勝ち誇ったように言い放ち、正気が弾け飛んだかのように嗤う。  コウレンは愉悦の顔でハオリュウに銃口を向けると、ねっとりとした声で「さあ、どうする?」とルイフォンに問いかけた。  ルイフォンは、ややうつむき加減になって、ぐっと拳を握りしめた。  腹の底から怒りが噴き出す。胸の中をやり切れなさが渦巻く。それらをすべて押し出すように、細くゆっくりと、彼は息を吐いた。  肺の空気を完全に出し切ったあと、背を起こしながら息を吸う。再び前を向いた彼は、表情の消えた無機質な顔をしていた。冷ややかな瞳がコウレンを映す。  そして――。  ルイフォンは、握りしめたままの両手を緩やかに上げた。 「良い心がけだ」  コウレンの顔が卑劣に歪む。  そのとき、ルイフォンの左手が、窓の陽を反射して、きらりと光った。 「眩し……」  鋭い光がコウレンの目に刺さる。  次の瞬間、ルイフォンの右手が振り下ろされた。輝く尾を伸ばす、彗星のような刃が、一直線にコウレンに向かっていく――。  鈍い音がした。  コウレンの眉間に、菱形の刃が突き刺さっていた。  そのまま、体が後ろに倒れる。――続く、地響き……。  衝撃に、額から刃が抜け落ちた。床に散らばる硝子の欠片とぶつかり、悲しいくらいに澄んだ高い音を立てる。窓からの陽射しを跳ね返し、コウレンの目をくらませたのと同じ光を放った。 「…………!」  メイシアの、声にならない悲鳴が響いた。髪を振り乱し、コウレンに駆け寄る。  力なく横たわったコウレンの手には、もはや拳銃はなかった。 「お父様……!」  メイシアは父の手を握りしめ、頬を寄せる。黒曜石の瞳は大きく見開かれ、涙があふれ出てきても瞬きひとつしなかった。  声を殺し、耐えるように、むせび泣く。  静かな、静かすぎるメイシアの慟哭……。  ――すべて、承知の上だった。  ルイフォンは、迷わなかった。  銃声が聞こえたときに、覚悟していた。だから部屋を出る前に、両袖に刃を仕込んだ。  けれど今、彼はメイシアのそばに行って、肩を抱くことはできなかった……。 「ルイ、フォン……」  ハオリュウが彼を呼んだ。  ルイフォンは黙って頭を下げた。 「あなた、は、僕たちを、助けた……。ありがとう……」  それだけ言うと、ハオリュウは力尽きたように、起こしていた上半身を床に伏した。 「ハオリュウ!? おい、ハオリュウ!」  ルイフォンは叫ぶ。走り寄る足の下で、硝子の砕ける音がした。  抱き起こしたハオリュウは、血の気の引いた顔で荒い息をしていた。 「大丈、夫、ですよ、と、……言いたいところ、です、が、ちょっと、きつい……ですね」 「今、ミンウェイを呼ぶ」  ルイフォンが携帯端末を手にしようとしたとき、メイシアの「お父様!?」という甲高い声が聞こえた。 「お父様!? 本当に、お父様なの? ――ハ、ハオリュウ!」  この場には不似合いな、歓喜の混じった驚愕の声。何があったのかと、ルイフォンが問いかけるよりも先に、メイシアが叫んだ。 「ハオリュウ、お父様が!」  彼女は長い髪を翻し、こちらに半身を向けた。輝かせた目が、異母弟を呼んでいる。 「ハオ、リュウ! ハオリュウ、いる……だ、ね! 誘拐……、解放された、ん……」  青白い顔のコウレンが、たどだとしくも嬉しそうに叫んだ。  その眉間には生々しい刃の傷があり、毒に侵され変色していた。もはや、口の聞ける状態ではないはずだった。  何が起きているのか――そんなことを考えている場合ではなかった。ルイフォンは、ただ反射的にハオリュウを抱きかかえ、コウレンのもとに連れて行く。  コウレンは、ハオリュウの姿を求めるように、弱々しく指先を動かしていた。ルイフォンは膝をつき、ハオリュウを下ろす。 「お父様、ハオリュウは、そこにいます!」 「どこ……かな? なんか……目が、霞んで……、ね。歳、かな、はは……」  コウレンが照れたように笑う。体が自由に動くのなら、恥ずかしそうに頭を掻いているのだろう。そんな姿がありありと浮かんできた。  メイシアの語った、優しい父親。当主としては頼りないけれど、暖かくて穏やかな、素朴な人物。初めて会う人だけれど、ルイフォンにも分かった。そこにいるのは、確かに藤咲コウレン、その人だと。 「父……様……!」  血相を変えたハオリュウが、腕にしがみつくように父に触れた。 「ああ、ハオリュウ……! 無事……ったんだね……。無事で、無事で……! 君が、無事……よかった……。本当に、よかった……」  コウレンの目から、涙がこぼれ落ちた。  透明な雫は、あとからあとから流れ落ち、とどまることを知らない。  大の大人の男が、子供たちの父親が――。  なんのてらいもなく、それが当然のことであるかのように――。 「ごめん……ね。頼りない、父で……。君……たく、さん……怖い、思い……辛い……させた、ね」 「違うっ! 父様はっ……!」  ハオリュウのかすれた声が裏返る。  彼のためにこぼされた涙が、熱くて痛くて――伝えたい思いが陳腐な言葉になって、ハオリュウの口から飛び出した。 「父様! 僕は、父様が、好きです!」  ハオリュウはずっと、父のことをどこか物足りない目で見ていた。嫌いではなかった。けれど、好きだと思ったことはなかった。そのはずだった――。 「そう……か。嬉しい、なぁ……」  子供のように無邪気に、コウレンが笑う。 「メイシア……も、心配、かけた……ね。君の、泣き声……聞こえ……よ」 「お父様……!」 「ああ……、君たちの……顔、見たい、な……」  コウレンがそう呟き、苦しげに息を吐いた。 「お父様!」 「父様!」  メイシアとハオリュウの姉弟が、同時に叫ぶ。 「ああ……、見えて……きた……、君たちの顔……」  そう言って、コウレンは嬉しそうに笑った。  心から幸せそうに笑った。 「……私の、大切な……宝物……」  わずかな腕の動きが、ふたりを抱き寄せようとしているコウレンの心を示していた。  それが、最期だった。  メイシアが泣き崩れた。動かぬ父の手を握りしめ、声を詰まらせながら、必死に何かを語りかけていた。彼女がしゃくりあげるたびに、長い黒髪が揺れる。  そんな異母姉の背に、ハオリュウが手を添える。今にも気を失いそうなほどの重傷のはずなのに、彼はしっかりと異母姉を支えていた。  ――これは、覚悟していた光景だ。  激しい苦しみを伴いつつも、メイシアを、ハオリュウを、コウレン本人を救う手段である……はず――だった。  ルイフォンは、よろけるように一歩、後ずさる。  目の前が真っ暗だった。心臓が勢いよく収縮と膨張を繰り返し、今にも飛び出しそうになる。  ――〈影〉となった者は、決して元に戻らないのではなかったのか?  疑問が、頭の中を渦巻く。  ――今、ここで死んだ者は、間違いなくメイシアの父、藤咲コウレンだった……。  この状況を冷静に分析し、導き出される事実……。  ――〈影〉の記憶が戻るのなら、――〈影〉が本人に戻るのなら、自分のしたことは……。  ただの殺人だ――。



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