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3.冥府の警護者-2

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 部屋の外にある照明のスイッチを入れ、ルイフォンは分厚く頑丈な扉を、体重をかけるようにして押し開けた。  メイシアの手を引き中に入り、また閉じる。  すると、今まで感じていた振動がぴたりと収まった。すぐ隣で――続き部屋であるので、本当に壁一枚を隔てた向こうがわで、〈ケル〉がうなりを上げているにも関わらず、まったく音も揺れも感じない。 「凄い防音壁だな……」  母のキリファが、休息を取るのに使っていた小部屋――。  仮眠をとるのが主な目的の部屋であるから、壁が厚いのは当然、といえば当然かもしれない。  実はルイフォンは子供のころ、ここは入ってはいけない場所だと思っていた。理由は簡単で、扉が重すぎた。入りたくても入れなかったのである。  大きくなってからは、そんなことはなかったのだが、無意識の遠慮があった。それは、ただのすり込みで、けれどそのために、この部屋は盲点だった。まさに、真の〈ケル〉の隠し場所にふさわしい。 「……母さん、狙っていたな」  厳重に隠すのではなく、見える状態にしておきながら、気づかないルイフォンを鼻で笑う。なんとも、あの母らしい気がする。  そんな感慨にふけっていると、メイシアの視線を感じた。 「ああ、すまん。ちょっと思い出してな」 「ルイフォン、嬉しそう。……よかった」  何を思い出していたのか説明しなくても、彼女は分かっている。そして、先ほど母への苛立ちを爆発させた彼に『よかった』と言ってくれる。 「俺、嬉しそうか?」 「うん」 「そうか……」  彼女の小さなひとことが、心を落ち着かせる。  だから、大丈夫だと思える。だから、真の〈ケル〉が何を告げても構わない。  ルイフォンは、ゆっくりと部屋を見渡した。  飾り気のない殺風景な部屋に、仮眠用のベッド。軽食でも摂るのに使っていたであろうテーブルと椅子。  奥に据えられた操作卓コンソール。 「……!?」  ルイフォンは顔色を変えた。  モニタのそばに、白金の光を放つたまが飾られていた。  大きさは握りこぶし大、といったところか。ゆらりゆらりと緩やかに明るさを変えながら、彼を誘っている。 「……」  一見したところ洒落た置物のようであるが、母にそんなものを飾る趣味があったとは思えない。引き寄せられるように近づいて見れば、たまだと思ったそれは、複雑に絡み合った光る糸の塊だった。  一本一本の糸が、細くなったり太くなったりを繰り返し、時折り糸の内部をひときわ強い光が駆け抜ける。そのさまは、生命が脈打っているかのよう。  ――そう。これは、まるで……。 「……間違いない。これが、真の〈ケル〉だ」 「これが……?」  メイシアが、驚きに瞳を瞬かせた。  彼女は当然、無機質な筐体を思い描いていただろう。ルイフォンだって、このたまを見るまではそうだった。 「ああ。これは、〈天使〉の羽にそっくりなんだ」 「!」  メイシアが息を呑んだ。  侵入した斑目一族の別荘で、ルイフォンは〈天使〉のホンシュアと出会った。  薄暗い月明かりの中、彼女の背から、まばゆい白金の光の糸が噴き出した。無数の糸は互いに繋がり合い、網の目のように広がり、羽となった。  ――このたまは、羽の一部を取り分け、丸めて球状にしたような感じだ……。  たまの光は淡く、手をかざせばほんのり温かい程度だった。冷却剤で落ち着いたあとのホンシュアの羽と似ている。幻想的に揺らめくさまからは、神性すら感じられた。  ルイフォンは静かに操作卓コンソールの椅子に座り、キーボードに指を滑らせた。  キーボードが奏でる、カタカタという調べ。  ルイフォンの指先がキーの上で軽やかに踊り、モニタ上の表示が目まぐるしく変わる。  リズミカルな音を打ち鳴らし、チカチカと光るバックライトを浴びながら、〈フェレース〉がおのれの技を魅せる。機械的でありながら、不思議と優美な滑らかさを感じる音と光の共演に、メイシアは目を奪われていた。  壁の向こうにある巨大な〈ケル〉と対峙していた、先ほどのルイフォンとは違った。  彼は今、とても穏やかな顔をしている。〈フェレース〉であるときの彼は、ほとんど無表情なのだが、それでも順調なのか否か、メイシアにも、なんとなく分かるようになってきた。  不意に、〈フェレース〉の動きが止まった。  どうしたのだろうと、メイシアがルイフォンの横顔を見やれば、彼の呼吸が荒くなっている。忙しなく明滅するモニタの光と、息を合わせているかのように速い。  画面の中で、カーソルが点滅していた。  初め、メイシアは入力を促されているのかと思った。しかし、それは既に終わっているらしい。彼女には分からない、難しい文字の羅列が打ち込まれている。  ――けれど彼の指先は、ひとつのキーの上に載せられたまま、ぴくりとも動かない。 「ルイフォン」  メイシアは、すっと彼に寄り添った。止まったままの彼の手に、そっと自分の掌を載せる。 「一緒に……押していい?」  機械類に詳しくない彼女にも分かった。このキーを押せば、〈ケル〉への強制アクセスが可能になるのだ。 「……メイシア」  ふっ、と。  彼が破顔した。嬉しそうに、愛しそうに目を細める。 「ああ、頼む」  力強く、彼は頷く。  その声を合図に、ふたりはキーの上に力を加えた。――刹那、部屋の照明が消えた。 「……!」  ルイフォンは、即座に椅子から立ち上がった。メイシアを抱き寄せ、守るように後ずさる。  ふつり、と。照明に続き、モニタがブラックアウトした。  そして……。  唯一の光源となったたまから、まばゆい光が噴き上がった――! 「っ!」  鋭い息を発したのは自分なのか。それとも、そばにいる最愛の相手なのか。  ルイフォンにも、メイシアにも分からなかった。ぴたりと触れ合った体では、早鐘のような心音が共鳴し合っている。  たまは、くるくると回転しながら巻き上げられた糸がほどけるように広がっていき、互いに絡まり合っては網目状に結びついていく。 「〈天使〉の羽、だ……」  ルイフォンが呟いた。  それは、光の波紋。急流のような勢いで駆け巡り、部屋を覆っていく。  あるいは、光の渦。壁にぶつかっては跳ね返り、すれ違う光を巻き込みながら、部屋を包んでいく。  瞬く間に、光の繭が出来上がった。そして、ルイフォンとメイシアは今、その内側にいる。  闇に浮かぶ幻想的な光は、妖しくも神々しく、人の目には禁忌なのか、あるいは畏敬なのか……。  張りぼての〈ケル〉の後ろに、真の〈ケル〉が封じられていた理由を――封じられなくてはならなかった理由を、言葉ではなく本能で感じ取れた。  ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。  考えようによっては得体の知れないものに『閉じ込められた』。だが、それを口にしても、メイシアを不安がらせるだけだ。  彼は口角を上げ、余裕の笑みを作る。ハッタリは得意だ。 「よぅ、〈ケル〉。やっと会えたな」  何に話し掛ければよいのか分からなかったので、とりあえずたまがあったあたりに彼は顔を向けた。すると、そこら中の光がさらさらと動き、部屋全体が揺れた。 〔ルイフォン……〕  何処からともなく、声が響く。 〔ごめんなさい〕  高くもなく、低くもない、落ち着いた少女の声。清らかな川の流れのように澄んでいるのに、物悲しいうれいを帯びている。  ルイフォンは拍子抜けした。  なんとなく、女の声で出てくるであろうとは予測していたが、『ごめんなさい』は予想外だった。〈ベロ〉があの通りなので、もっと高圧的にくると思っていたのだ。 「何故、謝るんだ?」  彼の質問に、近くを流れていた光が、さぁっと陰りをはらむ。人でいうのなら、あたかも顔を曇らせたかのようだ。 〔あなたが来ることは〈ベロ〉様から聞いておりました。けれど私は、あなたがここまでたどり着けないことを祈っていました〕  丁寧ではあるものの、きっぱりとした拒絶の姿勢。  母キリファに作られた『もの』であるはずの〈ケル〉にも、しっかりとした人格が感じられる。〈ベロ〉にシャオリエというモデルがいるように、〈ケル〉にもおそらくモデルがいるのだろう。  それは誰なのか。心当たりはないが、キリファが〈ケル〉を作ったのは、ルイフォンが生まれる前だ。そもそも彼の知らない人物である可能性のほうが高い。  そんなふうに〈ケル〉について推測しつつ、ルイフォンは尋ねる。 「なんで、俺に会いたくなかったんだ?」 〔あなたが知りたがっていることを、私はお答えできないからです。――申し訳ございません〕  声だけなのに、きちんと正座をした『彼女』が、三つ指をついて頭を下げる姿が目に浮かぶ。しとやかな淑女。けれど、ややもすると素っ気ない印象も受ける。 「母さんと先王が、何を話していたのか――『教えるわけにはいかない』と、いうことだな?」  ルイフォンは、慎重に言葉を言い換えた。 『知らないから、答えられない』のではなくて、『知っているけれども、答えられない』のだということの確認だ。 〔はい〕 「理由は?」  ルイフォンはぐっと顎を上げ、姿なき〈ケル〉を威圧的に睨んだ。  そこら中を漂うこの光の糸が、もし本当に〈天使〉の羽と同じものなら、〈ケル〉と人間を繋ぐ接続装置インターフェースだ。触れれば、脳内に侵入される。機嫌を損ねたら、何をされるか分からない。  けれど〈ケル〉は、彼がたどり着けないことを祈りながらも、彼の呼びかけに応えた。直感に過ぎないが、〈ケル〉は敵ではない。非現実的な光景には気圧されたが、恐れることはないのだ。 〔理由は……。言えば、あなたは怒ります〕 「とりあえず、言ってみてくれ。どう感じるかは、俺が決めることだ」 〔そうですね。あなたは昔から、そういう子でした〕 「……?」  ルイフォンは眉を寄せ、それから気づく。少女の声に惑わされてしまいそうだが、〈ケル〉は彼が生まれる前からこの家にいる。彼のことは、なんでも知っているのだ。 〈ケル〉の糸の一部が、淡く光った。その光は揺らぎを見せながら、緩やかに伝搬していく。  それは、水面みなもに投じられた一石が波紋を広げるさまと似ていて、苦笑いと共に落とされた〈ケル〉の溜め息のように見えた。 〔……私は、キリファの支配下にあるのです。だから、キリファの望まないことは、私にはできません〕 「なっ!? また、母さんかよ! おい、今の俺には『強制アクセス権』があるんじゃないのか? それでも、俺より母さんに従うのか?」 〔ごめんなさい。『強制アクセス』とは、『隠れている私を強制的に引っ張り出し、接触アクセスする』という意味です。私があなたの支配下に入ったわけではありません〕 〈ケル〉の言葉の裏に、ルイフォンは、自分とそっくりな猫の目で、にやりと笑う母を見た。  癖のある前髪を、彼は乱暴に掻き上げる。その髪もまた、癪なことに母親譲りであった。  ――ふと、ルイフォンの腕の中で、メイシアが動いた。黒曜石の瞳が、頼むように彼を見上げている。〈ケル〉に何か言いたいことがあるらしい。  どうやら危険はなさそうだ。彼はそっと力を緩めると、彼女は「ありがとう」と囁き、隣に立った。 「はじめまして〈ケル〉、私はメイシアと申します。誰よりも、ルイフォンを愛する者です」  高く透明な声が、凛と告げた。  少し前には考えられなかったような強い言葉に、ルイフォンはどきりとする。 〔ええ。知っています。いつも、ルイフォンをありがとう〕  ふわりと微笑むように光が流れた。と、同時にメイシアが、はっと顔色を変える。 「あっ……、そうでしたね。この家で起きたことは全部、ご存知なのですよね……」  尻つぼみになる声と共に、頬がさぁっと熱を持ち、彼女はうつむく。  メイシアが何を考えたかを察し、ルイフォンは苦笑した。〈ケル〉は『なんでも』知っているのだ。些細な失敗から、ふたりの睦言まで。  第一声で、彼をどきりとさせたくせに、こんなことで耳まで赤く染めるとは、相変わらずだ。 「メイシア」  ルイフォンは、彼女の髪をくしゃりとした。 「〈ケル〉が何を見ていようと、俺は気にならない。俺はいつだって、俺として恥ずかしくないように、俺らしく正々堂々と生きているからだ。――お前だって、そうだろ?」 「え……!? あ……、う……」  ルイフォンが腰に手を当て、胸を張る。過剰なまでに、自信に満ちあふれた彼の顔に、メイシアは視線をさまよわせて狼狽する。  しかし有無を言わせぬ彼の笑顔に、やがて彼女も「はい」と微笑んだ。――顔は赤いままだが、それは仕方ない。  メイシアは改めて、姿なき〈ケル〉と向き合った。  照明の消えた室内。太く細く、ゆっくりと明暗を繰り返す〈ケル〉の光がメイシアを照らす。薄闇に浮かび上がる横顔は……緊張に彩られていた。 「〈ケル〉……。四年前、キリファさんがお亡くなりになったときの『ルイフォンについて』、お話をさせてください」 「俺について……?」  唐突な、思いもよらぬ発言だった。  メイシアがいったい何を言うつもりなのか、ルイフォンには見当もつかない。けれど聡明な彼女は、何かに気づいたのだ。それだけは理解した。  だから彼は、そっと彼女の手を取った。冷静な口調とは裏腹に、固く握りしめられた彼女の拳が、小刻みに震えていたからだ。 〔……何のお話ですか?〕  光が揺らいだ。〈ケル〉の声もまた、不安定に揺らいでいた。メイシアは返事があったことに少しだけ安堵して、口を開く。 「あの日。この場所にルイフォンが来たのは、キリファさんにとっては予定外のことだったと思います。だから記憶を改竄して、ルイフォンを守ろうとしたのだと思います」 〔そうですね……〕  抑揚を失った〈ケル〉の声が、静かに相槌を打つ。 「なら、何故、ルイフォンはこの場に来たのですか? ……偶然ですか?」  本人を目の前にしながら、メイシアは〈ケル〉に尋ねた。ルイフォンは首をかしげつつ、口を挟む。 「メイシア、俺は警報音で起きたんだ。部屋を飛び出すと警護の者が殺されていて、胸騒ぎがして地下に……」 「待って、ルイフォン。あなたの記憶ではそうかもしれないけれど、本当は警護の者たちは休みを出されていたのでしょう?」 「……!」  キリファは警護の者たちに暇を出していた。それは、キリファと先王の密会が、秘密裏に行われるべきものだったからだ。  誰にも知られずに、密やかに……。息子のルイフォンにも、悟られないように……。彼が眠っているうちに……。  ――なら、あの警報音は……? 「おかしいと思うのです。何故、夜中にルイフォンが目を覚ましたのか。……都合よく目覚めるなんてあり得ないと思うのです」  そしてメイシアは、まっすぐに前を見つめた。 「〈ケル〉、あなたがルイフォンを起こしたのではないですか?」



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 部屋の外にある照明のスイッチを入れ、ルイフォンは分厚く頑丈な扉を、体重をかけるようにして押し開けた。  メイシアの手を引き中に入り、また閉じる。  すると、今まで感じていた振動がぴたりと収まった。すぐ隣で――続き部屋であるので、本当に壁一枚を隔てた向こうがわで、〈ケル〉がうなりを上げているにも関わらず、まったく音も揺れも感じない。 「凄い防音壁だな……」  母のキリファが、休息を取るのに使っていた小部屋――。  仮眠をとるのが主な目的の部屋であるから、壁が厚いのは当然、といえば当然かもしれない。  実はルイフォンは子供のころ、ここは入ってはいけない場所だと思っていた。理由は簡単で、扉が重すぎた。入りたくても入れなかったのである。  大きくなってからは、そんなことはなかったのだが、無意識の遠慮があった。それは、ただのすり込みで、けれどそのために、この部屋は盲点だった。まさに、真の〈ケル〉の隠し場所にふさわしい。 「……母さん、狙っていたな」  厳重に隠すのではなく、見える状態にしておきながら、気づかないルイフォンを鼻で笑う。なんとも、あの母らしい気がする。  そんな感慨にふけっていると、メイシアの視線を感じた。 「ああ、すまん。ちょっと思い出してな」 「ルイフォン、嬉しそう。……よかった」  何を思い出していたのか説明しなくても、彼女は分かっている。そして、先ほど母への苛立ちを爆発させた彼に『よかった』と言ってくれる。 「俺、嬉しそうか?」 「うん」 「そうか……」  彼女の小さなひとことが、心を落ち着かせる。  だから、大丈夫だと思える。だから、真の〈ケル〉が何を告げても構わない。  ルイフォンは、ゆっくりと部屋を見渡した。  飾り気のない殺風景な部屋に、仮眠用のベッド。軽食でも摂るのに使っていたであろうテーブルと椅子。  奥に据えられた操作卓コンソール。 「……!?」  ルイフォンは顔色を変えた。  モニタのそばに、白金の光を放つたまが飾られていた。  大きさは握りこぶし大、といったところか。ゆらりゆらりと緩やかに明るさを変えながら、彼を誘っている。 「……」  一見したところ洒落た置物のようであるが、母にそんなものを飾る趣味があったとは思えない。引き寄せられるように近づいて見れば、たまだと思ったそれは、複雑に絡み合った光る糸の塊だった。  一本一本の糸が、細くなったり太くなったりを繰り返し、時折り糸の内部をひときわ強い光が駆け抜ける。そのさまは、生命が脈打っているかのよう。  ――そう。これは、まるで……。 「……間違いない。これが、真の〈ケル〉だ」 「これが……?」  メイシアが、驚きに瞳を瞬かせた。  彼女は当然、無機質な筐体を思い描いていただろう。ルイフォンだって、このたまを見るまではそうだった。 「ああ。これは、〈天使〉の羽にそっくりなんだ」 「!」  メイシアが息を呑んだ。  侵入した斑目一族の別荘で、ルイフォンは〈天使〉のホンシュアと出会った。  薄暗い月明かりの中、彼女の背から、まばゆい白金の光の糸が噴き出した。無数の糸は互いに繋がり合い、網の目のように広がり、羽となった。  ――このたまは、羽の一部を取り分け、丸めて球状にしたような感じだ……。  たまの光は淡く、手をかざせばほんのり温かい程度だった。冷却剤で落ち着いたあとのホンシュアの羽と似ている。幻想的に揺らめくさまからは、神性すら感じられた。  ルイフォンは静かに操作卓コンソールの椅子に座り、キーボードに指を滑らせた。  キーボードが奏でる、カタカタという調べ。  ルイフォンの指先がキーの上で軽やかに踊り、モニタ上の表示が目まぐるしく変わる。  リズミカルな音を打ち鳴らし、チカチカと光るバックライトを浴びながら、〈フェレース〉がおのれの技を魅せる。機械的でありながら、不思議と優美な滑らかさを感じる音と光の共演に、メイシアは目を奪われていた。  壁の向こうにある巨大な〈ケル〉と対峙していた、先ほどのルイフォンとは違った。  彼は今、とても穏やかな顔をしている。〈フェレース〉であるときの彼は、ほとんど無表情なのだが、それでも順調なのか否か、メイシアにも、なんとなく分かるようになってきた。  不意に、〈フェレース〉の動きが止まった。  どうしたのだろうと、メイシアがルイフォンの横顔を見やれば、彼の呼吸が荒くなっている。忙しなく明滅するモニタの光と、息を合わせているかのように速い。  画面の中で、カーソルが点滅していた。  初め、メイシアは入力を促されているのかと思った。しかし、それは既に終わっているらしい。彼女には分からない、難しい文字の羅列が打ち込まれている。  ――けれど彼の指先は、ひとつのキーの上に載せられたまま、ぴくりとも動かない。 「ルイフォン」  メイシアは、すっと彼に寄り添った。止まったままの彼の手に、そっと自分の掌を載せる。 「一緒に……押していい?」  機械類に詳しくない彼女にも分かった。このキーを押せば、〈ケル〉への強制アクセスが可能になるのだ。 「……メイシア」  ふっ、と。  彼が破顔した。嬉しそうに、愛しそうに目を細める。 「ああ、頼む」  力強く、彼は頷く。  その声を合図に、ふたりはキーの上に力を加えた。――刹那、部屋の照明が消えた。 「……!」  ルイフォンは、即座に椅子から立ち上がった。メイシアを抱き寄せ、守るように後ずさる。  ふつり、と。照明に続き、モニタがブラックアウトした。  そして……。  唯一の光源となったたまから、まばゆい光が噴き上がった――! 「っ!」  鋭い息を発したのは自分なのか。それとも、そばにいる最愛の相手なのか。  ルイフォンにも、メイシアにも分からなかった。ぴたりと触れ合った体では、早鐘のような心音が共鳴し合っている。  たまは、くるくると回転しながら巻き上げられた糸がほどけるように広がっていき、互いに絡まり合っては網目状に結びついていく。 「〈天使〉の羽、だ……」  ルイフォンが呟いた。  それは、光の波紋。急流のような勢いで駆け巡り、部屋を覆っていく。  あるいは、光の渦。壁にぶつかっては跳ね返り、すれ違う光を巻き込みながら、部屋を包んでいく。  瞬く間に、光の繭が出来上がった。そして、ルイフォンとメイシアは今、その内側にいる。  闇に浮かぶ幻想的な光は、妖しくも神々しく、人の目には禁忌なのか、あるいは畏敬なのか……。  張りぼての〈ケル〉の後ろに、真の〈ケル〉が封じられていた理由を――封じられなくてはならなかった理由を、言葉ではなく本能で感じ取れた。  ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。  考えようによっては得体の知れないものに『閉じ込められた』。だが、それを口にしても、メイシアを不安がらせるだけだ。  彼は口角を上げ、余裕の笑みを作る。ハッタリは得意だ。 「よぅ、〈ケル〉。やっと会えたな」  何に話し掛ければよいのか分からなかったので、とりあえずたまがあったあたりに彼は顔を向けた。すると、そこら中の光がさらさらと動き、部屋全体が揺れた。 〔ルイフォン……〕  何処からともなく、声が響く。 〔ごめんなさい〕  高くもなく、低くもない、落ち着いた少女の声。清らかな川の流れのように澄んでいるのに、物悲しいうれいを帯びている。  ルイフォンは拍子抜けした。  なんとなく、女の声で出てくるであろうとは予測していたが、『ごめんなさい』は予想外だった。〈ベロ〉があの通りなので、もっと高圧的にくると思っていたのだ。 「何故、謝るんだ?」  彼の質問に、近くを流れていた光が、さぁっと陰りをはらむ。人でいうのなら、あたかも顔を曇らせたかのようだ。 〔あなたが来ることは〈ベロ〉様から聞いておりました。けれど私は、あなたがここまでたどり着けないことを祈っていました〕  丁寧ではあるものの、きっぱりとした拒絶の姿勢。  母キリファに作られた『もの』であるはずの〈ケル〉にも、しっかりとした人格が感じられる。〈ベロ〉にシャオリエというモデルがいるように、〈ケル〉にもおそらくモデルがいるのだろう。  それは誰なのか。心当たりはないが、キリファが〈ケル〉を作ったのは、ルイフォンが生まれる前だ。そもそも彼の知らない人物である可能性のほうが高い。  そんなふうに〈ケル〉について推測しつつ、ルイフォンは尋ねる。 「なんで、俺に会いたくなかったんだ?」 〔あなたが知りたがっていることを、私はお答えできないからです。――申し訳ございません〕  声だけなのに、きちんと正座をした『彼女』が、三つ指をついて頭を下げる姿が目に浮かぶ。しとやかな淑女。けれど、ややもすると素っ気ない印象も受ける。 「母さんと先王が、何を話していたのか――『教えるわけにはいかない』と、いうことだな?」  ルイフォンは、慎重に言葉を言い換えた。 『知らないから、答えられない』のではなくて、『知っているけれども、答えられない』のだということの確認だ。 〔はい〕 「理由は?」  ルイフォンはぐっと顎を上げ、姿なき〈ケル〉を威圧的に睨んだ。  そこら中を漂うこの光の糸が、もし本当に〈天使〉の羽と同じものなら、〈ケル〉と人間を繋ぐ接続装置インターフェースだ。触れれば、脳内に侵入される。機嫌を損ねたら、何をされるか分からない。  けれど〈ケル〉は、彼がたどり着けないことを祈りながらも、彼の呼びかけに応えた。直感に過ぎないが、〈ケル〉は敵ではない。非現実的な光景には気圧されたが、恐れることはないのだ。 〔理由は……。言えば、あなたは怒ります〕 「とりあえず、言ってみてくれ。どう感じるかは、俺が決めることだ」 〔そうですね。あなたは昔から、そういう子でした〕 「……?」  ルイフォンは眉を寄せ、それから気づく。少女の声に惑わされてしまいそうだが、〈ケル〉は彼が生まれる前からこの家にいる。彼のことは、なんでも知っているのだ。 〈ケル〉の糸の一部が、淡く光った。その光は揺らぎを見せながら、緩やかに伝搬していく。  それは、水面みなもに投じられた一石が波紋を広げるさまと似ていて、苦笑いと共に落とされた〈ケル〉の溜め息のように見えた。 〔……私は、キリファの支配下にあるのです。だから、キリファの望まないことは、私にはできません〕 「なっ!? また、母さんかよ! おい、今の俺には『強制アクセス権』があるんじゃないのか? それでも、俺より母さんに従うのか?」 〔ごめんなさい。『強制アクセス』とは、『隠れている私を強制的に引っ張り出し、接触アクセスする』という意味です。私があなたの支配下に入ったわけではありません〕 〈ケル〉の言葉の裏に、ルイフォンは、自分とそっくりな猫の目で、にやりと笑う母を見た。  癖のある前髪を、彼は乱暴に掻き上げる。その髪もまた、癪なことに母親譲りであった。  ――ふと、ルイフォンの腕の中で、メイシアが動いた。黒曜石の瞳が、頼むように彼を見上げている。〈ケル〉に何か言いたいことがあるらしい。  どうやら危険はなさそうだ。彼はそっと力を緩めると、彼女は「ありがとう」と囁き、隣に立った。 「はじめまして〈ケル〉、私はメイシアと申します。誰よりも、ルイフォンを愛する者です」  高く透明な声が、凛と告げた。  少し前には考えられなかったような強い言葉に、ルイフォンはどきりとする。 〔ええ。知っています。いつも、ルイフォンをありがとう〕  ふわりと微笑むように光が流れた。と、同時にメイシアが、はっと顔色を変える。 「あっ……、そうでしたね。この家で起きたことは全部、ご存知なのですよね……」  尻つぼみになる声と共に、頬がさぁっと熱を持ち、彼女はうつむく。  メイシアが何を考えたかを察し、ルイフォンは苦笑した。〈ケル〉は『なんでも』知っているのだ。些細な失敗から、ふたりの睦言まで。  第一声で、彼をどきりとさせたくせに、こんなことで耳まで赤く染めるとは、相変わらずだ。 「メイシア」  ルイフォンは、彼女の髪をくしゃりとした。 「〈ケル〉が何を見ていようと、俺は気にならない。俺はいつだって、俺として恥ずかしくないように、俺らしく正々堂々と生きているからだ。――お前だって、そうだろ?」 「え……!? あ……、う……」  ルイフォンが腰に手を当て、胸を張る。過剰なまでに、自信に満ちあふれた彼の顔に、メイシアは視線をさまよわせて狼狽する。  しかし有無を言わせぬ彼の笑顔に、やがて彼女も「はい」と微笑んだ。――顔は赤いままだが、それは仕方ない。  メイシアは改めて、姿なき〈ケル〉と向き合った。  照明の消えた室内。太く細く、ゆっくりと明暗を繰り返す〈ケル〉の光がメイシアを照らす。薄闇に浮かび上がる横顔は……緊張に彩られていた。 「〈ケル〉……。四年前、キリファさんがお亡くなりになったときの『ルイフォンについて』、お話をさせてください」 「俺について……?」  唐突な、思いもよらぬ発言だった。  メイシアがいったい何を言うつもりなのか、ルイフォンには見当もつかない。けれど聡明な彼女は、何かに気づいたのだ。それだけは理解した。  だから彼は、そっと彼女の手を取った。冷静な口調とは裏腹に、固く握りしめられた彼女の拳が、小刻みに震えていたからだ。 〔……何のお話ですか?〕  光が揺らいだ。〈ケル〉の声もまた、不安定に揺らいでいた。メイシアは返事があったことに少しだけ安堵して、口を開く。 「あの日。この場所にルイフォンが来たのは、キリファさんにとっては予定外のことだったと思います。だから記憶を改竄して、ルイフォンを守ろうとしたのだと思います」 〔そうですね……〕  抑揚を失った〈ケル〉の声が、静かに相槌を打つ。 「なら、何故、ルイフォンはこの場に来たのですか? ……偶然ですか?」  本人を目の前にしながら、メイシアは〈ケル〉に尋ねた。ルイフォンは首をかしげつつ、口を挟む。 「メイシア、俺は警報音で起きたんだ。部屋を飛び出すと警護の者が殺されていて、胸騒ぎがして地下に……」 「待って、ルイフォン。あなたの記憶ではそうかもしれないけれど、本当は警護の者たちは休みを出されていたのでしょう?」 「……!」  キリファは警護の者たちに暇を出していた。それは、キリファと先王の密会が、秘密裏に行われるべきものだったからだ。  誰にも知られずに、密やかに……。息子のルイフォンにも、悟られないように……。彼が眠っているうちに……。  ――なら、あの警報音は……? 「おかしいと思うのです。何故、夜中にルイフォンが目を覚ましたのか。……都合よく目覚めるなんてあり得ないと思うのです」  そしてメイシアは、まっすぐに前を見つめた。 「〈ケル〉、あなたがルイフォンを起こしたのではないですか?」



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