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3.怨恨の幽鬼-3

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 風が、荒廃した街中を吹き抜ける。  乾いた青さの空に向かい、砂塵が舞う。  倒れかけの電柱から垂れ下がった電線が、悲しげな呻きを上げた。 〈ムスカ〉の無情な刀身は、ルイフォンを冷酷に見下ろしていた。それは、サングラスに隠された主の視線に代わり、鋭く狙いをつけているかのようだった。 「遠くで人の気配がしますね。面倒が起こらないうちに終わらせましょう」  事務的にすら聞こえる声で〈ムスカ〉が言う。事実、この男にとって、ルイフォンの首をはねることなど、作業のひとつに過ぎないのだろう。  ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。  メイシアは、どのくらい遠くまで逃げられただろうか。賢いあの少女のことだから、あるいは、どこかに身を隠しているかもしれない。迎えが来るまで、どうか無事でいてほしい――。  彼女を逃がすため、そして自分自身のため、ルイフォンはこのまま潔くやられるつもりなど、毛頭なかった。  師匠のチャオラウは、ルイフォンに戦うことよりも守ること、逃げることを教えこんだ。身の軽さなら、兄弟子で年上の甥のリュイセンにも引けは取らない。体が思い通りに動く状態なら、〈ムスカ〉の一刀を避ける自信はある。だが……。  ――ルイフォンの目が、すぅっと細まり、獲物を狙う猫のように、静かにじっと〈ムスカ〉の様子を窺う。 「ほぅ、悪巧みをしている目ですね。その有様で、なお……。面白い」 〈ムスカ〉の頬が、ふっと歪んだ。そして、何を思ったのか、掲げていた刀をくるりと円を描くようにして下ろす。小花をあしらった鍔飾りが、鞘口にかちりと抱きとめられた。 「〈ムスカ〉……!?」 「提案があります」 〈ムスカ〉は意味ありげに、腰に手をやった。地に伏したルイフォンへの威圧感を計算し、胸を張り、軽く顎を上げる。  ルイフォンは、〈ムスカ〉のサングラスの下の表情を読み取るべく、目を眇めた。  情報の収集と分析――それが彼がもっとも得意とする武器であり、〈ムスカ〉が直接的な攻撃を仕掛けてこないのなら、こちらにも動きようがある。息を殺すようにして、次の言葉を待った。 「私と手を組みませんか?」 「な……!?」  先程、食らった一撃以上に、息が止まる思いがした。一体、どういうつもりで〈ムスカ〉がそう言うのか、ルイフォンには皆目見当もつかない。 「何を驚いているんですか。私たちの対立の原因はあの小娘。けれど、小娘はあなたを見捨て、助ける気もない。ならば、あなたが義理立てする理由はないでしょう」  あまりの提案に、思考が停止しそうになるのをこらえ、ルイフォンは冷静に〈ムスカ〉を見やる。この男は斑目一族の食客で……。 「お前は鷹刀に恨みがあるはずだ」 「ええ、憎いですよ」 〈ムスカ〉の声が一段、低くなる。幽鬼の闇が濃くなり、気配を感じさせない彼が存在感をあらわにする。 「鷹刀の俺と、鷹刀を憎むお前が、仲良く手を組むなんてあり得ないと思うんだが……?」 「何をおっしゃるんですか。あなたに拒否権があるとでも?」 〈ムスカ〉が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。彼の腰で細身の刀が揺れた。 「なるほど……」 『手を組む』というのは口先だけで、命が惜しければ従えということだ。  活路を見いだせるかと期待しただけに、落胆しかけたルイフォンだったが、ふと気づいた。  殺さずに活かすというのなら、つまり〈ムスカ〉は、憎き鷹刀の名を持つルイフォンに、なんらかの価値を見出しているということになる。それは、相当に酔狂なことのはずだ。  ルイフォンの情報屋としての本能が、そこに探るべき何かがあると訴える。 「あなたを捨て駒にした小娘のために無駄死にするよりは、私について私の寝首を掻く機会でも窺ったほうが、よほど建設的だと思いますよ?」 〈ムスカ〉が、悪魔の囁きで甘く誘う。  その手を取ることなど、まっぴらごめんであるが、今はまだ振り払うべき時ではない。圧倒的な優位に立つ〈ムスカ〉が気を変えれば、即座にルイフォンの頭と体は泣き別れするのだ。  ルイフォンは、慎重に言葉を選んだ。 「……一応、筋は通っているな。俺にとっても悪い話じゃない」 「物分かりのよい敗者は清々しいですね」  さげすみきった、挑発的な物言いだったが、反応すれば〈ムスカ〉を喜ばせるだけなのは分かっていた。それに、本来、前線に立つのが仕事ではないルイフォンが、戦闘での負けを悔しがる必要もない。大切なのは、守りたいものを守り抜けること。そう考えられるだけの余裕が、彼には戻ってきていた。 「で? 俺は何をすればいい? 内通者にでもなればいいのか?」 〈ムスカ〉は肩をすくめ、白髪頭を左右に振った。 「まさか。あなたのような悪戯な子猫を手元から放したら、帰ってこないに決まっているじゃありませんか」  嫌らしい笑みを漏らす〈ムスカ〉に、ルイフォンは息を呑んだ。  まただ――。 〈ムスカ〉がこの路地に現れたときも、彼はルイフォンのことを『子猫』と呼んだ。確かにルイフォンは、〈フェレース〉の名を持つクラッカーだ。だが、〈フェレース〉の正体は一般には知られていない。鷹刀一族の中でも、ごく一部の者のみが知る極秘事項なのだ。  これは偶然か…………否。 「……そうか。お前の『ムスカ』という名は、ラテン語の……確か、『蝿』」 〈フェレース〉と同じ規則の暗号名。つまり――。 「〈七つの大罪〉の関係者だな」 〈ムスカ〉は、ただ口の端を上げた。是とも非とも言わずとも、それだけで充分な答えだった。  ルイフォンの脳裏に、かつて〈フェレース〉を名乗っていた母の姿が浮かび上がる。 「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」 「〈フェレース〉の血を引くあなたを、刀の錆にするのは惜しいんですよ」 〈ムスカ〉は懐から小瓶を出した。透明な瓶の中で、透明な液体が揺れている。陽光を浴びて〈ムスカ〉の掌に透明な影を作るそれは、蓋を開けなくても危険な香りがした。 「少しの間、眠るだけです」  ――ここで拒否をすれば、それまでだろう。  ルイフォンは視線を下げた。うつむきがちの頭から癖のある前髪が流れ、目元の表情を隠す。  この流れのままで時間を稼ぐのも、そろそろ限界のようだ。猫のような目が、すぅっと細まる。〈ムスカ〉の言う『悪巧み』の目だ。 「分かった。今の俺の立場からすれば、そのくらい仕方ないだろう」  そこでルイフォンは一度言葉を切り、顔を上げた。 「ひとつ、教えてほしい」 「おや? あなたは質問できるような身分でしたっけ?」  そういう〈ムスカ〉の揶揄も無視して、ルイフォンは続ける。 「お前たちは、藤咲メイシアに何をさせたかったんだ? お前の仲間のホンシュアが彼女を鷹刀に送り込んだくせに、今は彼女の死体を欲しがっている。訳が分からない」 〈ムスカ〉は、無言でサングラスの目をルイフォンに向けた。切り出し方を誤ったかと、ルイフォンの背を汗が流れる。  彼は慌てて、負けん気の強そうな十六歳の少年の瞳を作り、〈ムスカ〉を睨むように見上げた。 「……それとも、これはすべて演技なのか? 彼女は俺たちを掻き回す役割を持った、斑目の手の者だったのか? 彼女が俺に向けた顔はすべて嘘だったのか?」 「ほう、なるほど。憐れな思慕の念を昇華するためには、小娘を悪者にしたいわけですね」  唇を噛んで押し黙るルイフォンに、〈ムスカ〉は優越感に満ちた愉快げな声を上げた。 「愚かなる道化師に免じて、教えてさしあげましょう」  まるで悪魔のような、美しく優しく残忍な微笑みを見せ、〈ムスカ〉がゆらりとルイフォンの顔を覗き込んだ。 「あの娘は何も知りませんよ。ただ踊らされているだけです。流石に貴族シャトーアですから、当初の筋書きでは、殺害などという面倒ごとにはせずに、無事に実家に戻されるはずでした。その約束で、藤咲家を納得させましたしね。――それを、他ならぬ、あなたが計画を崩してくれたんですよ」 「な……!?」 「あの駒は、鷹刀の屋敷に置いておく必要がありました。けれど、そこから動かされてしまったのなら、無理にでも運ぶしかないでしょう?」 〈ムスカ〉が声を立てて嗤う。  それが呪いの言葉でもあるかのように、ルイフォンの耳から入って脳を侵食し、彼の神経を揺さぶった。ルイフォンの顔から、血の気が引いていく。 「……さて、お喋りもこのくらいにしてください」 〈ムスカ〉が、音もなく一歩近寄った。砂地に座り込んだままのルイフォンに、黒い影が落ちる。  彼は、透明な小瓶を手に、ゆっくりとしゃがみ込むと、すっとルイフォンに差し出した。促されるままに受け取ったルイフォンの掌の中で、陽光を乱反射させる硝子の輝きが、ルイフォンの思考を拡散させる。  この事態は、俺が招いたのか――? 「少し、時間を取り過ぎましたね。いくら小娘といえど、それなりの距離を行っているはず……応援を呼びましょう」 「応援?」   サングラスの奥で、〈ムスカ〉の眼球が人知れず動いた。混乱するルイフォンの様子を、冷徹に観察する。 「斑目の若い衆ですよ。色欲に眩んだ彼らなら、きっと鼻が利くでしょう」 〈ムスカ〉は、充分に含みをもたせ、口の端を上げた。  タオロンの部下たち――メイシアを前に涎を滴らせていた、あの獣のような男たちのぎらつく眼光が、ルイフォンの記憶に蘇る。 「メイ、シア……」  ルイフォンの喉から、普段のテノールより遥かに低い音階が漏れる。 〈ムスカ〉が懐から携帯端末を取り出す。  そのバックライトが光った瞬間、ルイフォンは、自身の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。  気づけば、小瓶を投げ捨て、地を蹴っていた。 〈ムスカ〉を止める!  何者も、メイシアを追わせはしない――!  追い込まれた獣の、無謀としか言いようのない、鳩尾みぞおちを狙った一撃。  自分を守ることを完全に放棄した、他人を守るための衝動。  向かってくるルイフォンに対し、〈ムスカ〉は涼しい顔で、ひらりと身をかわした。渾身の力を込めた拳は、虚しく相手の胸元をかすめ、上着の繊維にわずかに触れたのみ。 〈ムスカ〉は、まるで児戯だと鼻先で笑い、そのまま流れるような一連の動作の中で抜刀し、細い刃を宙に滑らせた。 「……っ!」  凶刃の煌めきに、ルイフォンの防衛本能が警鐘を鳴らす。彼は反射的に、思い切り猫背になって飛びすさった。刹那の差で、〈ムスカ〉の刀が、わずかに空いた虚空を薙ぐ。 「……ほぉ? 思いのほか、器用ですね。本物の猫のようですよ」  肩で息をするルイフォンに、〈ムスカ〉が嘲りまみれの賞賛を贈る。  しかし彼は、ルイフォンに安堵の暇など与えはしなかった。 「ぐはっ……!?」  胃への強い打撃の感触。〈ムスカ〉の足先が腹にめり込み、ルイフォンの細身の体躯が空を舞った。  ……そして、それを危険と認識する余裕すらなく、背中から地面へと叩きつけられる。衝撃の反動に、彼の体は数度、砂地を跳ね返った。  ルイフォンは脳髄が揺さぶられるような、強烈な目眩を覚えた。 「交渉決裂ですね。あんな小娘に目の色を変えて……。愚かなことです」  地を転げ、もがき苦しむ彼に、〈ムスカ〉の嘲笑が落ちる。揺れる肩に合わせ、悦に入る白髪頭もまた、小刻みに揺れる。  ――その動きが、途中で止まった。  一転して、〈ムスカ〉の様相が変わる。 「……一体なんの真似ですか……?」 〈ムスカ〉の疑問は、ルイフォンに投げかけられているわけではなかった。まだ姿を現していない人物に向けられていて――勿論、小さな呟きは遠くにいる相手に聞こえるわけもなく、だから、それはただの独り言に過ぎなかった。  転がっているルイフォンには目もくれず、〈ムスカ〉は、その人物を迎えるべくきびすを返す。彼らがこの路地に入ってきた方向――ルイフォンがタオロンから身を隠すために曲がってきた、その角に、〈ムスカ〉は不気味な薄ら笑いを向けた。  やがて、苦痛にあえぐルイフォンにも、その気配を感じることができた。  はあはあと、荒い呼吸。  同時に聞こえてきた足音は、途切れそうなほどに、おぼつかない。  もしや、と思った瞬間に、その影が路地の口に現れ、ルイフォンは目を見開いた。激痛に声を出せない彼の、心が叫ぶ。  メイシア――!  今にも倒れそうな――否、既に途中で転んでいたのか、膝は擦り剥き、肘には血が滲んでいる。  長い黒髪は風を受けて乱れ舞い、前髪は汗で額に張り付いている。彼女が全力で駆けてきたことは、遠目にも明らかであった。  彼女が逃げたのは、ルイフォンから見て後方の道。だが、今、彼女がいるのはルイフォンの前方――逃げたと見せかけて、一本隣の通りから回りこんだのだ。  メイシア、来るな――!!  ルイフォンの思いを裏切るように、彼女の姿が近づいてくる。一刻を争うように、一心に走る。  そして、彼女は速度を落とさずに体を屈め、地面に落ちていた『それ』に、飛びつかんばかりに手を伸ばした。白魚のような手にまったく不釣り合いな、無骨な『それ』を、しっかりと握りしめる。 〈ムスカ〉が、「ほぅ?」と、眉を上げた。 「あなたが、それで戦うおつもりですか?」  ――『それ』は、タオロンの大刀だった。筋弛緩剤でタオロンを倒したあと、彼の刀は、そのへんに放置したのだ。小型ナイフならともかく、大刀では、ルイフォンが奪って自分の武器として扱うには無理があったためだ。  メイシアは、大刀の柄をしっかりと握りしめ、そのまま走り続けようとし……よろめいた。彼女が手にするには重すぎるのだ。  それでも、メイシアは前に進んだ。  大刀の切っ先は地面から浮くことはなく、彼女に引きずられるたびに地を削り、小石を弾いた。  もし〈ムスカ〉がその気になれば、一瞬とは言わないまでも、数瞬のうちにメイシアの首をはねることが可能だったろう。だが、鬼気迫る彼女の様子に興を覚えたのか、〈ムスカ〉は動かなかった。ただ、嗤いながら揶揄する。 「その細腕で、何ができると言うのですか?」  そんな問いかけにも、メイシアは耳を傾けない。  彼女が向かう先――。  そこに、後ろ手に縛られ、転がされているタオロンがいた。  ルイフォンは息を呑んだ。彼は彼女の意図を察したのであるが、それでも、まさかとの思いが拭い切れない。  ついに、メイシアはタオロンの元へと辿り着いた。彼女の美しい顔は汗にまみれ、肩で息をしていた。  メイシアは、足元に横たわるタオロンを見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。そして、次に思い切り大きく息を吸うと、両手で大刀の柄を握りしめ、信じられぬことにそれを持ち上げた。  ルイフォンと〈ムスカ〉が目を疑う。  メイシアが、力強く〈ムスカ〉を睨みつけた。そして、叫ぶ――。 「〈ムスカ〉! ルイフォンの傍から離れてください! さもなくば、斑目タオロンの命は保証しません!」  メイシアの凛とした声が、荒涼とした通りに響いた。



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 風が、荒廃した街中を吹き抜ける。  乾いた青さの空に向かい、砂塵が舞う。  倒れかけの電柱から垂れ下がった電線が、悲しげな呻きを上げた。 〈ムスカ〉の無情な刀身は、ルイフォンを冷酷に見下ろしていた。それは、サングラスに隠された主の視線に代わり、鋭く狙いをつけているかのようだった。 「遠くで人の気配がしますね。面倒が起こらないうちに終わらせましょう」  事務的にすら聞こえる声で〈ムスカ〉が言う。事実、この男にとって、ルイフォンの首をはねることなど、作業のひとつに過ぎないのだろう。  ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。  メイシアは、どのくらい遠くまで逃げられただろうか。賢いあの少女のことだから、あるいは、どこかに身を隠しているかもしれない。迎えが来るまで、どうか無事でいてほしい――。  彼女を逃がすため、そして自分自身のため、ルイフォンはこのまま潔くやられるつもりなど、毛頭なかった。  師匠のチャオラウは、ルイフォンに戦うことよりも守ること、逃げることを教えこんだ。身の軽さなら、兄弟子で年上の甥のリュイセンにも引けは取らない。体が思い通りに動く状態なら、〈ムスカ〉の一刀を避ける自信はある。だが……。  ――ルイフォンの目が、すぅっと細まり、獲物を狙う猫のように、静かにじっと〈ムスカ〉の様子を窺う。 「ほぅ、悪巧みをしている目ですね。その有様で、なお……。面白い」 〈ムスカ〉の頬が、ふっと歪んだ。そして、何を思ったのか、掲げていた刀をくるりと円を描くようにして下ろす。小花をあしらった鍔飾りが、鞘口にかちりと抱きとめられた。 「〈ムスカ〉……!?」 「提案があります」 〈ムスカ〉は意味ありげに、腰に手をやった。地に伏したルイフォンへの威圧感を計算し、胸を張り、軽く顎を上げる。  ルイフォンは、〈ムスカ〉のサングラスの下の表情を読み取るべく、目を眇めた。  情報の収集と分析――それが彼がもっとも得意とする武器であり、〈ムスカ〉が直接的な攻撃を仕掛けてこないのなら、こちらにも動きようがある。息を殺すようにして、次の言葉を待った。 「私と手を組みませんか?」 「な……!?」  先程、食らった一撃以上に、息が止まる思いがした。一体、どういうつもりで〈ムスカ〉がそう言うのか、ルイフォンには皆目見当もつかない。 「何を驚いているんですか。私たちの対立の原因はあの小娘。けれど、小娘はあなたを見捨て、助ける気もない。ならば、あなたが義理立てする理由はないでしょう」  あまりの提案に、思考が停止しそうになるのをこらえ、ルイフォンは冷静に〈ムスカ〉を見やる。この男は斑目一族の食客で……。 「お前は鷹刀に恨みがあるはずだ」 「ええ、憎いですよ」 〈ムスカ〉の声が一段、低くなる。幽鬼の闇が濃くなり、気配を感じさせない彼が存在感をあらわにする。 「鷹刀の俺と、鷹刀を憎むお前が、仲良く手を組むなんてあり得ないと思うんだが……?」 「何をおっしゃるんですか。あなたに拒否権があるとでも?」 〈ムスカ〉が小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。彼の腰で細身の刀が揺れた。 「なるほど……」 『手を組む』というのは口先だけで、命が惜しければ従えということだ。  活路を見いだせるかと期待しただけに、落胆しかけたルイフォンだったが、ふと気づいた。  殺さずに活かすというのなら、つまり〈ムスカ〉は、憎き鷹刀の名を持つルイフォンに、なんらかの価値を見出しているということになる。それは、相当に酔狂なことのはずだ。  ルイフォンの情報屋としての本能が、そこに探るべき何かがあると訴える。 「あなたを捨て駒にした小娘のために無駄死にするよりは、私について私の寝首を掻く機会でも窺ったほうが、よほど建設的だと思いますよ?」 〈ムスカ〉が、悪魔の囁きで甘く誘う。  その手を取ることなど、まっぴらごめんであるが、今はまだ振り払うべき時ではない。圧倒的な優位に立つ〈ムスカ〉が気を変えれば、即座にルイフォンの頭と体は泣き別れするのだ。  ルイフォンは、慎重に言葉を選んだ。 「……一応、筋は通っているな。俺にとっても悪い話じゃない」 「物分かりのよい敗者は清々しいですね」  さげすみきった、挑発的な物言いだったが、反応すれば〈ムスカ〉を喜ばせるだけなのは分かっていた。それに、本来、前線に立つのが仕事ではないルイフォンが、戦闘での負けを悔しがる必要もない。大切なのは、守りたいものを守り抜けること。そう考えられるだけの余裕が、彼には戻ってきていた。 「で? 俺は何をすればいい? 内通者にでもなればいいのか?」 〈ムスカ〉は肩をすくめ、白髪頭を左右に振った。 「まさか。あなたのような悪戯な子猫を手元から放したら、帰ってこないに決まっているじゃありませんか」  嫌らしい笑みを漏らす〈ムスカ〉に、ルイフォンは息を呑んだ。  まただ――。 〈ムスカ〉がこの路地に現れたときも、彼はルイフォンのことを『子猫』と呼んだ。確かにルイフォンは、〈フェレース〉の名を持つクラッカーだ。だが、〈フェレース〉の正体は一般には知られていない。鷹刀一族の中でも、ごく一部の者のみが知る極秘事項なのだ。  これは偶然か…………否。 「……そうか。お前の『ムスカ』という名は、ラテン語の……確か、『蝿』」 〈フェレース〉と同じ規則の暗号名。つまり――。 「〈七つの大罪〉の関係者だな」 〈ムスカ〉は、ただ口の端を上げた。是とも非とも言わずとも、それだけで充分な答えだった。  ルイフォンの脳裏に、かつて〈フェレース〉を名乗っていた母の姿が浮かび上がる。 「〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が、あんたの前に現れることがあったら……逃げなさい」 「〈フェレース〉の血を引くあなたを、刀の錆にするのは惜しいんですよ」 〈ムスカ〉は懐から小瓶を出した。透明な瓶の中で、透明な液体が揺れている。陽光を浴びて〈ムスカ〉の掌に透明な影を作るそれは、蓋を開けなくても危険な香りがした。 「少しの間、眠るだけです」  ――ここで拒否をすれば、それまでだろう。  ルイフォンは視線を下げた。うつむきがちの頭から癖のある前髪が流れ、目元の表情を隠す。  この流れのままで時間を稼ぐのも、そろそろ限界のようだ。猫のような目が、すぅっと細まる。〈ムスカ〉の言う『悪巧み』の目だ。 「分かった。今の俺の立場からすれば、そのくらい仕方ないだろう」  そこでルイフォンは一度言葉を切り、顔を上げた。 「ひとつ、教えてほしい」 「おや? あなたは質問できるような身分でしたっけ?」  そういう〈ムスカ〉の揶揄も無視して、ルイフォンは続ける。 「お前たちは、藤咲メイシアに何をさせたかったんだ? お前の仲間のホンシュアが彼女を鷹刀に送り込んだくせに、今は彼女の死体を欲しがっている。訳が分からない」 〈ムスカ〉は、無言でサングラスの目をルイフォンに向けた。切り出し方を誤ったかと、ルイフォンの背を汗が流れる。  彼は慌てて、負けん気の強そうな十六歳の少年の瞳を作り、〈ムスカ〉を睨むように見上げた。 「……それとも、これはすべて演技なのか? 彼女は俺たちを掻き回す役割を持った、斑目の手の者だったのか? 彼女が俺に向けた顔はすべて嘘だったのか?」 「ほう、なるほど。憐れな思慕の念を昇華するためには、小娘を悪者にしたいわけですね」  唇を噛んで押し黙るルイフォンに、〈ムスカ〉は優越感に満ちた愉快げな声を上げた。 「愚かなる道化師に免じて、教えてさしあげましょう」  まるで悪魔のような、美しく優しく残忍な微笑みを見せ、〈ムスカ〉がゆらりとルイフォンの顔を覗き込んだ。 「あの娘は何も知りませんよ。ただ踊らされているだけです。流石に貴族シャトーアですから、当初の筋書きでは、殺害などという面倒ごとにはせずに、無事に実家に戻されるはずでした。その約束で、藤咲家を納得させましたしね。――それを、他ならぬ、あなたが計画を崩してくれたんですよ」 「な……!?」 「あの駒は、鷹刀の屋敷に置いておく必要がありました。けれど、そこから動かされてしまったのなら、無理にでも運ぶしかないでしょう?」 〈ムスカ〉が声を立てて嗤う。  それが呪いの言葉でもあるかのように、ルイフォンの耳から入って脳を侵食し、彼の神経を揺さぶった。ルイフォンの顔から、血の気が引いていく。 「……さて、お喋りもこのくらいにしてください」 〈ムスカ〉が、音もなく一歩近寄った。砂地に座り込んだままのルイフォンに、黒い影が落ちる。  彼は、透明な小瓶を手に、ゆっくりとしゃがみ込むと、すっとルイフォンに差し出した。促されるままに受け取ったルイフォンの掌の中で、陽光を乱反射させる硝子の輝きが、ルイフォンの思考を拡散させる。  この事態は、俺が招いたのか――? 「少し、時間を取り過ぎましたね。いくら小娘といえど、それなりの距離を行っているはず……応援を呼びましょう」 「応援?」   サングラスの奥で、〈ムスカ〉の眼球が人知れず動いた。混乱するルイフォンの様子を、冷徹に観察する。 「斑目の若い衆ですよ。色欲に眩んだ彼らなら、きっと鼻が利くでしょう」 〈ムスカ〉は、充分に含みをもたせ、口の端を上げた。  タオロンの部下たち――メイシアを前に涎を滴らせていた、あの獣のような男たちのぎらつく眼光が、ルイフォンの記憶に蘇る。 「メイ、シア……」  ルイフォンの喉から、普段のテノールより遥かに低い音階が漏れる。 〈ムスカ〉が懐から携帯端末を取り出す。  そのバックライトが光った瞬間、ルイフォンは、自身の血液が沸騰するような錯覚を覚えた。  気づけば、小瓶を投げ捨て、地を蹴っていた。 〈ムスカ〉を止める!  何者も、メイシアを追わせはしない――!  追い込まれた獣の、無謀としか言いようのない、鳩尾みぞおちを狙った一撃。  自分を守ることを完全に放棄した、他人を守るための衝動。  向かってくるルイフォンに対し、〈ムスカ〉は涼しい顔で、ひらりと身をかわした。渾身の力を込めた拳は、虚しく相手の胸元をかすめ、上着の繊維にわずかに触れたのみ。 〈ムスカ〉は、まるで児戯だと鼻先で笑い、そのまま流れるような一連の動作の中で抜刀し、細い刃を宙に滑らせた。 「……っ!」  凶刃の煌めきに、ルイフォンの防衛本能が警鐘を鳴らす。彼は反射的に、思い切り猫背になって飛びすさった。刹那の差で、〈ムスカ〉の刀が、わずかに空いた虚空を薙ぐ。 「……ほぉ? 思いのほか、器用ですね。本物の猫のようですよ」  肩で息をするルイフォンに、〈ムスカ〉が嘲りまみれの賞賛を贈る。  しかし彼は、ルイフォンに安堵の暇など与えはしなかった。 「ぐはっ……!?」  胃への強い打撃の感触。〈ムスカ〉の足先が腹にめり込み、ルイフォンの細身の体躯が空を舞った。  ……そして、それを危険と認識する余裕すらなく、背中から地面へと叩きつけられる。衝撃の反動に、彼の体は数度、砂地を跳ね返った。  ルイフォンは脳髄が揺さぶられるような、強烈な目眩を覚えた。 「交渉決裂ですね。あんな小娘に目の色を変えて……。愚かなことです」  地を転げ、もがき苦しむ彼に、〈ムスカ〉の嘲笑が落ちる。揺れる肩に合わせ、悦に入る白髪頭もまた、小刻みに揺れる。  ――その動きが、途中で止まった。  一転して、〈ムスカ〉の様相が変わる。 「……一体なんの真似ですか……?」 〈ムスカ〉の疑問は、ルイフォンに投げかけられているわけではなかった。まだ姿を現していない人物に向けられていて――勿論、小さな呟きは遠くにいる相手に聞こえるわけもなく、だから、それはただの独り言に過ぎなかった。  転がっているルイフォンには目もくれず、〈ムスカ〉は、その人物を迎えるべくきびすを返す。彼らがこの路地に入ってきた方向――ルイフォンがタオロンから身を隠すために曲がってきた、その角に、〈ムスカ〉は不気味な薄ら笑いを向けた。  やがて、苦痛にあえぐルイフォンにも、その気配を感じることができた。  はあはあと、荒い呼吸。  同時に聞こえてきた足音は、途切れそうなほどに、おぼつかない。  もしや、と思った瞬間に、その影が路地の口に現れ、ルイフォンは目を見開いた。激痛に声を出せない彼の、心が叫ぶ。  メイシア――!  今にも倒れそうな――否、既に途中で転んでいたのか、膝は擦り剥き、肘には血が滲んでいる。  長い黒髪は風を受けて乱れ舞い、前髪は汗で額に張り付いている。彼女が全力で駆けてきたことは、遠目にも明らかであった。  彼女が逃げたのは、ルイフォンから見て後方の道。だが、今、彼女がいるのはルイフォンの前方――逃げたと見せかけて、一本隣の通りから回りこんだのだ。  メイシア、来るな――!!  ルイフォンの思いを裏切るように、彼女の姿が近づいてくる。一刻を争うように、一心に走る。  そして、彼女は速度を落とさずに体を屈め、地面に落ちていた『それ』に、飛びつかんばかりに手を伸ばした。白魚のような手にまったく不釣り合いな、無骨な『それ』を、しっかりと握りしめる。 〈ムスカ〉が、「ほぅ?」と、眉を上げた。 「あなたが、それで戦うおつもりですか?」  ――『それ』は、タオロンの大刀だった。筋弛緩剤でタオロンを倒したあと、彼の刀は、そのへんに放置したのだ。小型ナイフならともかく、大刀では、ルイフォンが奪って自分の武器として扱うには無理があったためだ。  メイシアは、大刀の柄をしっかりと握りしめ、そのまま走り続けようとし……よろめいた。彼女が手にするには重すぎるのだ。  それでも、メイシアは前に進んだ。  大刀の切っ先は地面から浮くことはなく、彼女に引きずられるたびに地を削り、小石を弾いた。  もし〈ムスカ〉がその気になれば、一瞬とは言わないまでも、数瞬のうちにメイシアの首をはねることが可能だったろう。だが、鬼気迫る彼女の様子に興を覚えたのか、〈ムスカ〉は動かなかった。ただ、嗤いながら揶揄する。 「その細腕で、何ができると言うのですか?」  そんな問いかけにも、メイシアは耳を傾けない。  彼女が向かう先――。  そこに、後ろ手に縛られ、転がされているタオロンがいた。  ルイフォンは息を呑んだ。彼は彼女の意図を察したのであるが、それでも、まさかとの思いが拭い切れない。  ついに、メイシアはタオロンの元へと辿り着いた。彼女の美しい顔は汗にまみれ、肩で息をしていた。  メイシアは、足元に横たわるタオロンを見下ろし、ゆっくりと息を吐いた。そして、次に思い切り大きく息を吸うと、両手で大刀の柄を握りしめ、信じられぬことにそれを持ち上げた。  ルイフォンと〈ムスカ〉が目を疑う。  メイシアが、力強く〈ムスカ〉を睨みつけた。そして、叫ぶ――。 「〈ムスカ〉! ルイフォンの傍から離れてください! さもなくば、斑目タオロンの命は保証しません!」  メイシアの凛とした声が、荒涼とした通りに響いた。



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