5.夢幻泡影の序曲-1
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ミンウェイが自白を任された捕虜たちは、〈七つの大罪〉の技術によって記憶を別人に書き替えられた〈影〉という存在だった。また、中にいた人格は〈蝿〉であり、それは死んだはずのミンウェイの父親、ヘイシャオであることも会話から確認できたという。 そして捕虜たちのうち、巨漢は〈蝿〉の細工によって自爆させられ、警察隊員のほうは同席した緋扇シュアンによって射殺された。 ――そんな凄惨な話が報告された。 淡々と事実を告げるミンウェイが、声を揺らすことはなかった。 すらりと綺麗に背筋を伸ばし、胸を張る姿はいつもと変わらず、それだけに、かえって誰の目にも痛ましく映った。だからイーレオは、今日のところは早々にお開きとし、懸案事項などは後日とした。 イーレオの解散の号令で、執務室から皆がぱらぱらと退室する。 廊下の角で他の者と別れると、ルイフォンはそっとメイシアの頭に手を載せた。彼女は瞳を真っ赤にしていた。ずっと涙をこらえていたのだ。 「メイシア……」 彼が髪をくしゃりと撫でると、彼女の頬をひと筋の光が伝う。 「ご、ごめんなさい……。私なんかが泣くなんて、ミンウェイさんたちに失礼だわ」 辛いのはミンウェイであり、この場にはいない警察隊員の緋扇シュアンである。メイシアは慌ててハンカチを取り出し、目元を抑えた。 「失礼ってことはないだろ。お前に思いやられて、ミンウェイが不快に思うわけがない」 メイシアの睫毛で光る透明な涙は、彼女の綺麗な心そのもの。ルイフォンは愛しげに微笑む。 「あとで料理長に甘い菓子でも貰って、ミンウェイに差し入れてやろうぜ」 明るくそう言って、彼はメイシアの頭をぽんぽんと撫でた。 ――ミンウェイのことは確かに心配だった。けれどルイフォンには、それよりもずっと引っかかっていることがあった。 心臓に突き刺すような痛みが走り、胸の中を不安の影が広がっていく。 メイシアのそばにずっとついていてやりたいという気持ちはある。けれど、ひとりになって、この案件を冷静に吟味すべきなのではないかという焦燥がもたげてくる。 「ルイフォン?」 不意に、声を掛けられた。すぐそばで、メイシアが彼の顔を覗き込んでいた。ほんの一瞬のつもりだったが、結構な時間、頭が異次元に飛んでいたらしい。 「どうしたの?」 「うん? ああ……」 ルイフォンは口籠る。 メイシアは不思議そうに瞳を瞬かせ、そして柔らかに微笑んだ。 「ルイフォンが何を気にしているのか、気にならないと言ったら嘘になる。でも、考えごとの邪魔はしたくないの。きっと、とても大事なことなんでしょう?」 「……あ、ああ。……すまん」 申し訳なさそうに答えるルイフォンに、メイシアが更に一歩近づいた。 彼女は爪先立ちになって手を伸ばし、彼の髪にふわりと触れる。心配するな、大丈夫だ――そんな思いを彼が伝えるときによくやるように、彼女の指先が彼の癖毛をくしゃりと撫でた。 「え……?」 いつもは一方的に撫でるばかりだったルイフォンは、目を丸くする。 はっと、我に返ったようなメイシアの顔が、急速に赤く染め上げられていく。 「わ、私っ! お父様とハオリュウのところに行ってくる」 叫ぶようにそう言って、彼女は走り出した。 あとに残されたルイフォンは、メイシアの感触の残る前髪に触れ、じんわり胸と頬が熱くなるのを感じていた。 メイシアの背を見送り、自室に戻るべく階段を登りきったところで、ぬっと黒い影が現れた。細身のルイフォンに比べ、肩幅も上背もある立派な体躯。癖のない黒髪を肩まで伸ばした、神の御業を疑う黄金比の美貌――。 「リュイセン?」 先ほど執務室で別れたばかりの年上の甥が、腕を組んで立っていた。 「どうした?」 「お前を待っていた。途中で、あの女と別れたのが見えたからな」 リュイセンはそう言うと、お前の部屋に行くぞ、と身振りで示し、踵を返す。 「『あの女』って、メイシアのことかよ?」 「それ以外に誰がいる?」 小走りになりながら、あとを追うルイフォンに、くだらないことを聞くなとばかりにリュイセンが答える。 「おい、お前、まだあいつのことが気に入らないのか?」 「そんなことはない。初めはともかく、今は、あの女と異母弟のハオリュウは認めている」 「なら、なんで?」 「あの女は、お前のものだ。だから、俺が気安く名前を呼ぶわけにはいかんだろう?」 何を当たり前のことを、と言わんばかりのリュイセンである。 ルイフォンは絶句した。リュイセンとは長い付き合いだが、こんなのは初めてである。どうやら彼なりの気遣いであるらしい――たぶん。 「いや、それは普通に名前を呼ばないと不便だろ」 「そんなものか?」 この兄貴分は変なところで義理堅く、堅苦しい。苦笑しながら「そんなものだ」と、ルイフォンが答えたところで、ちょうど部屋に着いた。 ルイフォンの部屋は、機械や本にまみれた仕事部屋とは別に、起居に使う私室がちゃんとある。彼が扉を開けると、勝手知ったるとばかりにリュイセンが入っていった。しかし、普段は我が物顔でソファーでくつろぐリュイセンが、今日はテーブルについた。 ルイフォンは促されるように向かいに座る。正面から見たリュイセンは眉間に皺を寄せており、どことなく険しい顔をしていた。 「ルイフォン」 ややためらいながらも、リュイセンが口火を切る。 「……さっきの〈影〉というやつの話だが……」 言葉を選び、彼は迷う。 首を横に振り、「遠慮しても仕方ないな……」と小さく漏らした。余計な感情を切り捨てた、彫像のような美貌が現れ、まっすぐにルイフォンを捕らえる。 「これは、俺の直感だ。理屈じゃない。けど、間違いないと思う」 意を決したように、リュイセンは切り出す。 「――俺たちが救出した、あの貴族は、〈影〉だ」 「……っ!」 ルイフォンは、言葉を出せなかった。 リュイセンは、野生の獣の勘を持っている。 その鋭敏な感覚は、時として論理に目隠しされたルイフォンを一足飛びに追い抜いて、真理へとたどり着く。 「すまん……。こんなこと、考えたくないよな……」 喉を詰まらせる弟分を、リュイセンは気遣う。しかし、意見を翻すことはなく、はっきりとした口調で続けた。 「別荘であの貴族に会ったとき、違和感があった。あの女――メイシアや、ハオリュウとは明らかに異質な感じがした。あいつらの父親なのに」 「……」 ルイフォンも、メイシアの父親だというのに良い感情を持てなかった。 「さっきの報告で〈影〉というのを聞いて、納得した。姿があいつらの父親でも、中身が違うなら、異質なのは当然だろう」 リュイセンが深い溜め息をつく。肩の上で、黒髪がさらりと揺れた。 ルイフォンの鼓動が早まる。 「……俺も、同じことを考えていた」 かすれる声を絞り出すようにして、彼は言った。 〈影〉という技術を聞いてから、ルイフォンはずっと考えていた。メイシアと別行動をとって、ひとりで冷静になろうとしていた。――リュイセンが直感で信じたことを、理論で説明しようとしていた。 「リュイセン、親父さんを救出するとき、斑目タオロンが銃を使ったこと、覚えているか?」 「無論」 打ち解けたと思った次の瞬間、タオロンは凶賊の誇りをかなぐり捨て、銃を使ってメイシアの父コウレンを殺害しようとした。 「あれ、さ。タオロンは親父さんが〈影〉だと知っていて、俺たちが連れ帰るのを阻止しようとしたんじゃないか……?」 「ああ……! あの男、何かわけがあると思っていたが……。そうか……」 得心するリュイセンの声に、ルイフォンは浮かない顔をする。 「でもな、リュイセン。ハオリュウが、あの親父さんを本物だと認めているんだ。息子なら、俺たちよりもはっきり違和感に気づきそうなものだろう?」 リュイセンは、コウレンとは別荘で会ったきりだ。屋敷に帰ってから見舞っていない。コウレンに対するハオリュウの言動を知らないのだ。 ルイフォンは、ハオリュウの様子を語った。 話しながらルイフォンは、自分があのコウレンを本物だと信じたがっていることに気づいた。胸が締め付けられるような、すがるような思いすら湧き上がる。 「……お前の話は分かった」 リュイセンの低い声は、逡巡を含みながらも、後ろに引くことはなかった。 「まず、間違いなく、ハオリュウは気づいている。気づいていて、本物扱いしているんだ」 「なんだって?」 ルイフォンの語尾が、きつく跳ね上がる。 「なんで、ハオリュウは黙っているんだよ!?」 「今、お前が必死になって、俺の言葉を否定しているのと同じ理由だろう」 「どういうことだよ!?」 「――メイシアのためだ」 やりきれない、とばかりにリュイセンが吐き出す。 「彼女が悲しまないように、お前は父親が〈影〉であってほしくないと願い――そして、異母姉が傷つかないように、ハオリュウは父親が〈影〉であることを隠している」 諭すような低音が、すとんと胸に落ちてきて、ルイフォンの逃げ場を奪う。 認めざるを得ない真実が、目の前に立ちふさがった。 「ルイフォン。知らなかったとはいえ、俺たちが災いを呼び込んだんだ」 リュイセンの声が響く。 「俺たちが、なんとかすべきだろう」 いろいろあったけれど、すべて丸く収まったと思っていた。メイシアとの仲も認められ、これから幸せが始まるのだと思っていた。 けれどそれは、ハオリュウが作った、優しい嘘の世界に過ぎなかった。 「……ああ。そうだな」 肩を落としたルイフォンが、力なく笑う。 彼は癖のある前髪を掻き上げた。瞳を閉じ、ゆっくりと息を吐く。次に目を開いたときには、いつもの鋭さを取り戻していた。 「――ハオリュウと話をしてくる」 ルイフォンの言葉にリュイセンが頷く。 「俺は祖父上のお耳に入れておこう」 そう言って、リュイセンは部屋を出ていった。 〈影〉のことを教えてくれた緋扇シュアンに、ハオリュウは拳銃を貸してくれるよう、頼み込んだ。 まともな警察隊員なら、応じてくれるはずもない。だが、シュアンは狂犬とあだ名されるような人物だ。しかも、大切な先輩を〈影〉にされている。ハオリュウと同じ境遇だった。 「まだ、あんたの父親が〈影〉だと決まったわけじゃないだろう?」 「そうですね。決まったわけではありません。――でも……分かりますよ」 本物の父なら、目を覚ました瞬間に言ったはずなのだ。誘拐されていたハオリュウの顔を見て、『君が無事でよかった』――と。 「あなただって、すぐに、あなたの先輩が別人だと気づいたのでしょう?」 「……そうだな」 シュアンは押し黙った。視線が落とされると、三白眼も鋭さを失う。 「勿論、ちゃんと確認してから行動に移しますよ」 にっこりと、無邪気ともいえる顔をハオリュウは向ける。しばらくして、シュアンがためらいがちに口を開いた。 「あんたみたいな餓鬼が……本気か?」 「ええ」 ハオリュウは頷き、薄く嗤った。 「あなたが自らの手を汚したように、これは僕がやるべきことなんですよ」 「……まぁ、やってみろ」 シュアンは拳銃を取り出し、ハオリュウの手に載せた。使い込まれた銃は手垢で光り、ところどころ傷が刻まれていた。 銃の取り扱いを説明するシュアンの声は予想外に優しく、親切だった……。 ――そして今、ハオリュウは、父コウレンの体を奪った〈影〉に銃を向けている。 「守るためなら、僕はなんでもできますよ?」 声の震えは完璧に隠せても、指先の震えは止められなかった。 メイドに淹れてもらったコーヒーに毒を仕込むことができたくせに、おかしなことだ。思わず嗤いが漏れる。 だが、置いたカップに手がつけられるのを待っているのと、明確に狙いをつけて引き金を引くのとでは、やはり違うようだ。 一瞬先の未来の中で、父の体に穴があく。 警察隊が鷹刀一族の屋敷を蹂躙したとき、ハオリュウは幾つもの射殺体を見ている。それでも、その死体に父の顔がつくのは想像したくなかった。 「……」 ハオリュウはまっすぐに構え、引き金に力を込める。硬く、重い引き金を、か弱い子どもの力で振り切って……。 そのときだった。 がちゃり、と扉が開く音がした。 「ハオリュウ!?」 高く、澄んだ声が響いた。 ――一番、知られたくない相手、異母姉メイシアの驚愕が聞こえた。 「姉様……!」 その隙を、コウレンは見逃さなかった。彼は勢いよく立ち上がり、テーブルに手を伸ばす。 何が起きたのか、ハオリュウは一瞬では理解できなかった。 気づいたら、テーブルの中央にあった硝子の花瓶がコウレンの手の中にあり、それがハオリュウの顔をめがけて投げつけられていた。 「……っ!」 花瓶が飛んでくる――! ハオリュウは、慌てて両手で顔を覆った。 しかし……。 ――刹那、遅かった。 額が、激しい痛みと衝撃に襲われる。その勢いのまま、彼の体は椅子ごと倒され、床に投げ出された。 ほぼ同時に、花瓶も床で砕け散り、水と花と、そして光の欠片となった硝子が宙を舞う。 蒼白になったメイシアの絹の悲鳴が、部屋を切り裂く。――しかし、ハオリュウとコウレンの耳には何も聞こえない。 鋭利な破片をもろともせずに、コウレンが駆けてくる。床に倒れたハオリュウに馬乗りになり、銃を奪おうとする。 奪われてなるものか――! ハオリュウは咄嗟に腕を振るい、銃の台尻でコウレンを殴った。 コウレンの呻きと硬い感触が、掌に伝わってくる。頬骨に当たったようだが、しかしハオリュウの力程度で、相手の動きを止められるわけがない。 ハオリュウはなおも、もがき、暴れ続けた。 花瓶を打ちつけられた額が、床に叩きつけられた後頭部が、激しい痛みを訴える。撒き散らされた花瓶の水で、顔も服もぐしゃぐしゃに濡れそぼり、飛び散った硝子の破片で頬を切る。 活けられていた花が踏み潰され、ハオリュウとそっくりな無残な姿を晒した。 無茶苦茶でありながら、それでも何度目かに、ハオリュウの持つ銃がコウレンのこめかみをしたたか打ちつけた。 「こいつめ!」 激しい怒りに、目の前が真っ赤になったコウレンが、ハオリュウの首筋に手を掛けた。 そして、一気に絞め上げた。
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