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5.封じられた甘き香に-1

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「イーレオ様、つまみのご用意ができましたよ」  夜の食堂に料理長の朗らかな声が響いた。見た目通りの、大振りな彼の気配に、イーレオは現実に引き戻される。  そうであった。エルファンと飲むために、厨房まで酒を貰いに来ていたのだった。だが、既にエルファンが酒を所望したと聞き、つまみのみを頼んだのである。  エルファンが気がかりであったため、夕方の会議は、早々に終わらせるつもりだった。それが、リュイセンの思わぬ追求に遭い、流れが変わってしまった。今ひとつ、後継者として不甲斐のなかった彼が、意外な成長を遂げていたのは喜ばしい。しかし、〈ケル〉に関する報告のあとは、すぐに解散としたかった。  イーレオは眉間に皺を寄せる。知らずのうちに、再び思考の海に沈み込みそうになっていた。だから、何気ない料理長のひとことに不意をかれた。 「キリファ様の思い出を肴に、エルファン様と語られるのですか?」 「!?」  心臓が、どきりと跳ね上がった。 「何故、それを……?」 「私には、皆様のお心が読めますから」  料理長が、にこやかに答える。嬉しそうな様子からして、確証はなかったのだろう。それでも言い当てる彼の観察眼には、本当に舌を巻く。  一瞬とはいえ、凶賊ダリジィンの総帥ともあろう者が本気で驚かされてしまった。だが、邪気のない料理長の福相にイーレオは相好を崩す。 「お前、さっきは『人の心など読めるわけがない』と、言っただろう? この二枚舌め」 「ええ、私は料理人ですから。会話用と味見用の、二枚の舌を持っているんですよ」 「な……」  予想外の返しに、イーレオは絶句する。 「冗談ですよ。――エルファン様が、果実酒をご所望されたんです」 「そんなの、ジュースだろう。エルファンが、なんでまた? ――ああ……。キリファが、好きだったな」 「ええ、そういうことです」  キリファはめっぽう酒に強く、いくらでも飲めた。しかし、好んで飲むのはアルコール濃度の低い果実酒ばかりだった。  もと貧民街の娼婦だった彼女は、酒といえば不味い安酒しか知らなかった。だから、鷹刀一族の屋敷に来て初めて飲んだ甘い酒に、すっかり魅了されたのだ。当時の彼女は、まだ十代の少女だったから当然というべきか、飲酒にはまだ、やや歳が足りなかったはずと言うべきか……。 「イーレオ様には、別のお酒をご用意いたしましょうか?」 「いや、よい。キリファをしのんで飲む酒だからな」  そしてイーレオは、つまみの礼を言い、厨房をあとにした。  軽いノックで、すぐに扉は開かれた。  そもそも、戸を叩く必要はなかったのかもしれない。反応の速さから考えて、エルファンはイーレオが近づいてくる気配を察していたと思われる。  迎え入れられた室内は、照明がかなり絞られていた。ほのかな明るさは、淡い橙色というよりも、セピアに近い。  良くいえば整然とした、悪くいえば殺風景なだけの部屋の中央に、ローテーブル。上に載せられた果実酒の瓶だけが、わずかに赤みを帯びた影を落とす。  寄り添うように置かれたグラスはからだった。酔えるはずもない弱い酒を、幾杯も重ねたのだろう。部屋の主には不似合いな、甘い香りが漂っている。 「父上が私を訪ねてくるとは、珍しいですね」  ごく自然に笑みながらエルファンはそう言い、イーレオにソファーを勧めた。  エルファン自身が戸棚に向かったのは、グラスを追加するためだ。硝子戸の前でわずかな逡巡を見せた彼は、やがてグラスと共に酒瓶をひとつ取り出す。果実酒以外なら、部屋に在庫があるのだ。 「ああ、エルファン。俺も、ここにあるのでいい」  イーレオは果実酒を指し、「つまみも貰ってきたから、気遣い無用だ」と、付け足す。  エルファンは穏やかに「そうですか」と応じた。だが内心では、かなりの苛立ちを覚えているはずだ。ひとり、静かに飲みたかったところを邪魔しにきたのだ。機嫌を損ねて当然だろう。 「先ほどは、リュイセンが失礼いたしました」  イーレオの訪問を、夕方の会議の件だと解釈したのか。酒をつぐなり、エルファンは頭を下げた。 「何をお前が謝る? 奴が言ったことは至極まっとうだった。頼もしい限りじゃないか」 「ですが、父上をあまりにも蔑ろにした物言いは、看過できるものではありません。それに泥臭い方法で〈ムスカ〉を探す手を増やしても、さして効果はないでしょう」 「いや、この先の鷹刀は、あれでいい。リュイセンに任せておけば、緩やかな解散も実現できるだろう」  からん、と。  グラスの中で、氷が崩れた。 「リュイセンは……まだ未熟です」 「そこがいいんじゃないか? それに、ルイフォンもいる」  ルイフォンの名前に、エルファンの表情がかすかに揺れた。しかし、イーレオは気づかなかったふりをした。 「ルイフォンの奴、一族を抜けたことに、えらいこだわりがあるみたいだな。『越権行為』だの、『意見を許してほしい』だの……。あそこまでかしこまらくてもなぁ」  イーレオは可愛くて仕方ない、というように、目を細める。 「そこはやはり、けじめです。線引きは必要でしょう」 「まぁ、その通りなんだが。でも俺たちとルイフォンは、いい加減な口約束のもとに、馴れ合っている。それでなんとかなるくらいが、ちょどいい。――それが、『絆』ってもんだろう? 契約で縛れるような関係に、価値はないと、俺は思うよ」  エルファンは、じっとイーレオを見つめていたが、ふと視線をそらした。 「なんとも、父上らしいお言葉ですね」  口調だけは柔らかに、けれど無表情な瞳で、エルファンは言う。そして、飲み干したグラスの空虚さを埋めるかのように、こぽこぽと注ぎ足す。  酒と瓶とが奏でる音に、イーレオは眉を曇らせた。 「俗に、さ――」  イーレオが吐き出した言葉は、半分以上、溜め息に覆われていた。我ながら、ずいぶんと精彩を欠いた声が出てきたものだと、彼は自嘲する。 「『飲む・打つ・買う』と言うだろう?」  酒瓶を持つエルファンの手が、一瞬止まった。この父はまた、なんと突拍子もないことを言い出すのだ――そう思っているのが、ありありと伝わってくる。それを承知しながら、イーレオは続ける。 「お前は、博打も女遊びもしないが、酒だけはやるんだな」 「……父上の意図は分かりかねますが、おっしゃる通りですね」  平静を装いながらも、不快感が見え隠れしていた。  エルファンにしてみれば、父の来訪自体が予定外の番狂わせだ。その上、一方的にわけの分からないことを言われれば、声がとがるのも仕方ないだろう。 「博打と女遊びは、同じなんだよ」  エルファンの苛立ちもお構いなしに、イーレオはマイペースに口の端を上げる。どういう意味だか分かるか? と、暗に問うていた。  それに対し、エルファンの横顔が、くだらない話題に付き合うつもりはないと返事する。あまりに予想通りの態度に思わず苦笑して、イーレオは正解を告げた。 「賭けごとにしても、女にしても、どちらも『相手』が必要。ひとりじゃ無理だ。だが――」  言いながらイーレオは、手にしていたグラスをあおる。 「酒は、ひとりでも飲めるな」  からになったグラスが、テーブルにことん、と載せられた。  決して乱暴にぶつけたわけではないのに、その音は妙に響いた。そうなるように、イーレオが狙ったのだ。 「……」  エルファンは、わずかに眉を寄せた。  しかし、テーブルに置いたグラスを握ったままの、低い姿勢から見上げてくる父の視線に気づいたとき、はっと息を呑む。  凪いだ海のように静かでありながら、圧倒的な力強さを感じる眼光――。 「父、上……?」 「俺が、お前を――、そういう人間にしてしまったんだな」  溜め息と共に、うつむき加減に顔が動かされると、眼鏡のレンズがイーレオの美貌にセピアの影を落とした。 「……また、その話ですか?」  エルファンは、もはや、うんざりした様子を隠さなかった。 「父上が総帥になったき、鷹刀は規律を重んじる組織に生まれ変わった。厳しくすれば、どうしても不満が生じる。その矛先が総帥である父上に向かないよう、私が憎まれ役になる。そう決めた。――ただの役割分担だ」  今まで静かにたたえられてきた苛立ちの湧き水が、ついに堰を切ったかのように、エルファンは一気に言い返す。 「それで私が多少、孤立したところで、全体の利益に比べれば些細な問題だ。いまだに何故、そんなことを言う?」  鋭い口調は、常とは違っていた。けれど三十年前には、いつもそばで聞いていた、耳に馴染んだ響きだった。  ああ、やはり似ている、とイーレオは思う。 「俺は、そんな古い話を持ち出したいわけじゃない。……お前だって、分かっていて、わざと――……」  そう言ってしまってから、イーレオは強く首を振った。 「すまん。逃げているのは俺のほうだ。……どう切り出せばいいのか、分からないんだよ。悩んでいて、横道にそれた」  イーレオは弱りきった顔で、力なく笑う。  彼は目線をテーブルに落とし、果実酒の瓶を見つめた。華奢で可愛らしいフォルムは、彼女を彷彿させる――。 「俺が、お前からキリファを奪ったから、お前は孤独を好むようになった……だろう?」 「……っ!」  エルファンは、鋭く息を吸い込んだ。  表情は凍りついたように変化のないまま。しかし、浅い呼吸が繰り返される。 「父上が、奪ったわけではありません……」  激しく高鳴る鼓動を隠して、エルファンは冷静を装った声を出す。 「些細な行き違いから、私はキリファに愛想を尽かされました。そして、鷹刀を出ていこうとした彼女を、父上が『総帥の愛人』の地位を提示して引き止めた――それだけのことです」  鷹刀一族は、キリファのクラッカー〈フェレース〉の能力を高く買っていた。  一方、キリファは、クラッカーとしての能力を発揮できる環境が整っていなければ、もと娼婦で〈七つの大罪〉の実験体の、搾取される生活しか知らない、か弱い女でしかなかった。  外の世界で暮らすには、彼女は非力な存在だった。経歴があやふやである上に、右足首から下が義足の彼女は、奇異な目で見られただろう。しかも、娘のセレイエはまだ小さく、将来を考えれば不安しかない。 〈天使〉の能力を使えば、あるいは人並み以上の生活を送れたのかもしれない。しかし、道理に合わない力は、いずれどこかでろくでもない災厄を招く。  イーレオの申し出は、事実上、キリファのためを思った、婉曲的な庇護であった。それが分かっているから、彼女は応じた。  そして、エルファンもまた、父の温情を理解していた。だからこそ、最愛の女を取られても一族を離反したりせず、むしろ感謝をもって受け入れたのだ。 「そうだな。そういうことになっているな」 「父上?」  言葉の上では肯定かもしれないが、イーレオの返事は決して肯定などではなかった。エルファンは訝しげにイーレオを見つめ、その真意を問う。 「今日のルイフォンの報告にあった〈ケル〉の話……。キリファの最期に呼ばれたのは、俺ではなくて、エルファン――お前だった。このことを、お前はどう解釈する?」  それはまさに、エルファンがひとりで杯を重ねていた理由だった。彼は、不快げに鼻に皺を寄せる。 「〈ケル〉は、私とキリファの和解を求めていたのでしょう。……それとも父上は、キリファが私のことをずっと想っていた、とでもおっしゃりたいのですか?」  軽薄な嗤いと、低い声で抑え込んでいても、エルファンの言葉尻からは激昂が漏れ出ていた。  それは、本心の裏返しだ。  そうであればよいのに、と強く願う気持ちが反発し、荒ぶっている。  イーレオは、やり切れない思いで、エルファンを見つめた。  キリファの死後も、彼女との約束を守って口を閉ざしてきた。しかし、〈ケル〉がキリファの気持ちを代弁したも同然の状況で、黙し続けていることが正しいとは思えなかった。 「……エルファン。キリファはずっと、お前を愛していたよ」  その瞬間、エルファンの氷の眼差しが、イーレオを鋭く貫いた。 「気休めは無用。彼女は私と別れ、父上を選んだ。彼女は名目上の愛人ではなく、あなたとの間にルイフォンまでもうけた。そのあなたに慰められるなど、さすがに私が惨めです。……すみません。出ていってください」  冷酷なまでに無に徹した表情は、完全なる拒絶だった。 「――そうだったな。お前にとって、ルイフォンの存在が決定打になったんだったな……」  明らかに一触即発のエルファンを前に、イーレオが溜め息混じりにそう言う。  エルファンは、怒りに体を震わせた。自らの矜持を捨ててでも、実力行使に移るべきかと、にわかに検討を始める。  その気配を感じ取り、イーレオは冷静に先手を打った。 「――けどな。俺は、キリファには手を出していない」 「!?」  エルファンは、自分の耳を疑った。イーレオの言葉は、確かに聞こえているのに、理解が追いつかない。 「ルイフォンは、俺の子じゃない――」  イーレオの呼気に混じり、果実酒の香がふわりと漂う。 「――お前の子だ」  キリファを思い起こす甘さを撒き散らしながら、低い声がエルファンの胸に届いた。



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「イーレオ様、つまみのご用意ができましたよ」  夜の食堂に料理長の朗らかな声が響いた。見た目通りの、大振りな彼の気配に、イーレオは現実に引き戻される。  そうであった。エルファンと飲むために、厨房まで酒を貰いに来ていたのだった。だが、既にエルファンが酒を所望したと聞き、つまみのみを頼んだのである。  エルファンが気がかりであったため、夕方の会議は、早々に終わらせるつもりだった。それが、リュイセンの思わぬ追求に遭い、流れが変わってしまった。今ひとつ、後継者として不甲斐のなかった彼が、意外な成長を遂げていたのは喜ばしい。しかし、〈ケル〉に関する報告のあとは、すぐに解散としたかった。  イーレオは眉間に皺を寄せる。知らずのうちに、再び思考の海に沈み込みそうになっていた。だから、何気ない料理長のひとことに不意をかれた。 「キリファ様の思い出を肴に、エルファン様と語られるのですか?」 「!?」  心臓が、どきりと跳ね上がった。 「何故、それを……?」 「私には、皆様のお心が読めますから」  料理長が、にこやかに答える。嬉しそうな様子からして、確証はなかったのだろう。それでも言い当てる彼の観察眼には、本当に舌を巻く。  一瞬とはいえ、凶賊ダリジィンの総帥ともあろう者が本気で驚かされてしまった。だが、邪気のない料理長の福相にイーレオは相好を崩す。 「お前、さっきは『人の心など読めるわけがない』と、言っただろう? この二枚舌め」 「ええ、私は料理人ですから。会話用と味見用の、二枚の舌を持っているんですよ」 「な……」  予想外の返しに、イーレオは絶句する。 「冗談ですよ。――エルファン様が、果実酒をご所望されたんです」 「そんなの、ジュースだろう。エルファンが、なんでまた? ――ああ……。キリファが、好きだったな」 「ええ、そういうことです」  キリファはめっぽう酒に強く、いくらでも飲めた。しかし、好んで飲むのはアルコール濃度の低い果実酒ばかりだった。  もと貧民街の娼婦だった彼女は、酒といえば不味い安酒しか知らなかった。だから、鷹刀一族の屋敷に来て初めて飲んだ甘い酒に、すっかり魅了されたのだ。当時の彼女は、まだ十代の少女だったから当然というべきか、飲酒にはまだ、やや歳が足りなかったはずと言うべきか……。 「イーレオ様には、別のお酒をご用意いたしましょうか?」 「いや、よい。キリファをしのんで飲む酒だからな」  そしてイーレオは、つまみの礼を言い、厨房をあとにした。  軽いノックで、すぐに扉は開かれた。  そもそも、戸を叩く必要はなかったのかもしれない。反応の速さから考えて、エルファンはイーレオが近づいてくる気配を察していたと思われる。  迎え入れられた室内は、照明がかなり絞られていた。ほのかな明るさは、淡い橙色というよりも、セピアに近い。  良くいえば整然とした、悪くいえば殺風景なだけの部屋の中央に、ローテーブル。上に載せられた果実酒の瓶だけが、わずかに赤みを帯びた影を落とす。  寄り添うように置かれたグラスはからだった。酔えるはずもない弱い酒を、幾杯も重ねたのだろう。部屋の主には不似合いな、甘い香りが漂っている。 「父上が私を訪ねてくるとは、珍しいですね」  ごく自然に笑みながらエルファンはそう言い、イーレオにソファーを勧めた。  エルファン自身が戸棚に向かったのは、グラスを追加するためだ。硝子戸の前でわずかな逡巡を見せた彼は、やがてグラスと共に酒瓶をひとつ取り出す。果実酒以外なら、部屋に在庫があるのだ。 「ああ、エルファン。俺も、ここにあるのでいい」  イーレオは果実酒を指し、「つまみも貰ってきたから、気遣い無用だ」と、付け足す。  エルファンは穏やかに「そうですか」と応じた。だが内心では、かなりの苛立ちを覚えているはずだ。ひとり、静かに飲みたかったところを邪魔しにきたのだ。機嫌を損ねて当然だろう。 「先ほどは、リュイセンが失礼いたしました」  イーレオの訪問を、夕方の会議の件だと解釈したのか。酒をつぐなり、エルファンは頭を下げた。 「何をお前が謝る? 奴が言ったことは至極まっとうだった。頼もしい限りじゃないか」 「ですが、父上をあまりにも蔑ろにした物言いは、看過できるものではありません。それに泥臭い方法で〈ムスカ〉を探す手を増やしても、さして効果はないでしょう」 「いや、この先の鷹刀は、あれでいい。リュイセンに任せておけば、緩やかな解散も実現できるだろう」  からん、と。  グラスの中で、氷が崩れた。 「リュイセンは……まだ未熟です」 「そこがいいんじゃないか? それに、ルイフォンもいる」  ルイフォンの名前に、エルファンの表情がかすかに揺れた。しかし、イーレオは気づかなかったふりをした。 「ルイフォンの奴、一族を抜けたことに、えらいこだわりがあるみたいだな。『越権行為』だの、『意見を許してほしい』だの……。あそこまでかしこまらくてもなぁ」  イーレオは可愛くて仕方ない、というように、目を細める。 「そこはやはり、けじめです。線引きは必要でしょう」 「まぁ、その通りなんだが。でも俺たちとルイフォンは、いい加減な口約束のもとに、馴れ合っている。それでなんとかなるくらいが、ちょどいい。――それが、『絆』ってもんだろう? 契約で縛れるような関係に、価値はないと、俺は思うよ」  エルファンは、じっとイーレオを見つめていたが、ふと視線をそらした。 「なんとも、父上らしいお言葉ですね」  口調だけは柔らかに、けれど無表情な瞳で、エルファンは言う。そして、飲み干したグラスの空虚さを埋めるかのように、こぽこぽと注ぎ足す。  酒と瓶とが奏でる音に、イーレオは眉を曇らせた。 「俗に、さ――」  イーレオが吐き出した言葉は、半分以上、溜め息に覆われていた。我ながら、ずいぶんと精彩を欠いた声が出てきたものだと、彼は自嘲する。 「『飲む・打つ・買う』と言うだろう?」  酒瓶を持つエルファンの手が、一瞬止まった。この父はまた、なんと突拍子もないことを言い出すのだ――そう思っているのが、ありありと伝わってくる。それを承知しながら、イーレオは続ける。 「お前は、博打も女遊びもしないが、酒だけはやるんだな」 「……父上の意図は分かりかねますが、おっしゃる通りですね」  平静を装いながらも、不快感が見え隠れしていた。  エルファンにしてみれば、父の来訪自体が予定外の番狂わせだ。その上、一方的にわけの分からないことを言われれば、声がとがるのも仕方ないだろう。 「博打と女遊びは、同じなんだよ」  エルファンの苛立ちもお構いなしに、イーレオはマイペースに口の端を上げる。どういう意味だか分かるか? と、暗に問うていた。  それに対し、エルファンの横顔が、くだらない話題に付き合うつもりはないと返事する。あまりに予想通りの態度に思わず苦笑して、イーレオは正解を告げた。 「賭けごとにしても、女にしても、どちらも『相手』が必要。ひとりじゃ無理だ。だが――」  言いながらイーレオは、手にしていたグラスをあおる。 「酒は、ひとりでも飲めるな」  からになったグラスが、テーブルにことん、と載せられた。  決して乱暴にぶつけたわけではないのに、その音は妙に響いた。そうなるように、イーレオが狙ったのだ。 「……」  エルファンは、わずかに眉を寄せた。  しかし、テーブルに置いたグラスを握ったままの、低い姿勢から見上げてくる父の視線に気づいたとき、はっと息を呑む。  凪いだ海のように静かでありながら、圧倒的な力強さを感じる眼光――。 「父、上……?」 「俺が、お前を――、そういう人間にしてしまったんだな」  溜め息と共に、うつむき加減に顔が動かされると、眼鏡のレンズがイーレオの美貌にセピアの影を落とした。 「……また、その話ですか?」  エルファンは、もはや、うんざりした様子を隠さなかった。 「父上が総帥になったき、鷹刀は規律を重んじる組織に生まれ変わった。厳しくすれば、どうしても不満が生じる。その矛先が総帥である父上に向かないよう、私が憎まれ役になる。そう決めた。――ただの役割分担だ」  今まで静かにたたえられてきた苛立ちの湧き水が、ついに堰を切ったかのように、エルファンは一気に言い返す。 「それで私が多少、孤立したところで、全体の利益に比べれば些細な問題だ。いまだに何故、そんなことを言う?」  鋭い口調は、常とは違っていた。けれど三十年前には、いつもそばで聞いていた、耳に馴染んだ響きだった。  ああ、やはり似ている、とイーレオは思う。 「俺は、そんな古い話を持ち出したいわけじゃない。……お前だって、分かっていて、わざと――……」  そう言ってしまってから、イーレオは強く首を振った。 「すまん。逃げているのは俺のほうだ。……どう切り出せばいいのか、分からないんだよ。悩んでいて、横道にそれた」  イーレオは弱りきった顔で、力なく笑う。  彼は目線をテーブルに落とし、果実酒の瓶を見つめた。華奢で可愛らしいフォルムは、彼女を彷彿させる――。 「俺が、お前からキリファを奪ったから、お前は孤独を好むようになった……だろう?」 「……っ!」  エルファンは、鋭く息を吸い込んだ。  表情は凍りついたように変化のないまま。しかし、浅い呼吸が繰り返される。 「父上が、奪ったわけではありません……」  激しく高鳴る鼓動を隠して、エルファンは冷静を装った声を出す。 「些細な行き違いから、私はキリファに愛想を尽かされました。そして、鷹刀を出ていこうとした彼女を、父上が『総帥の愛人』の地位を提示して引き止めた――それだけのことです」  鷹刀一族は、キリファのクラッカー〈フェレース〉の能力を高く買っていた。  一方、キリファは、クラッカーとしての能力を発揮できる環境が整っていなければ、もと娼婦で〈七つの大罪〉の実験体の、搾取される生活しか知らない、か弱い女でしかなかった。  外の世界で暮らすには、彼女は非力な存在だった。経歴があやふやである上に、右足首から下が義足の彼女は、奇異な目で見られただろう。しかも、娘のセレイエはまだ小さく、将来を考えれば不安しかない。 〈天使〉の能力を使えば、あるいは人並み以上の生活を送れたのかもしれない。しかし、道理に合わない力は、いずれどこかでろくでもない災厄を招く。  イーレオの申し出は、事実上、キリファのためを思った、婉曲的な庇護であった。それが分かっているから、彼女は応じた。  そして、エルファンもまた、父の温情を理解していた。だからこそ、最愛の女を取られても一族を離反したりせず、むしろ感謝をもって受け入れたのだ。 「そうだな。そういうことになっているな」 「父上?」  言葉の上では肯定かもしれないが、イーレオの返事は決して肯定などではなかった。エルファンは訝しげにイーレオを見つめ、その真意を問う。 「今日のルイフォンの報告にあった〈ケル〉の話……。キリファの最期に呼ばれたのは、俺ではなくて、エルファン――お前だった。このことを、お前はどう解釈する?」  それはまさに、エルファンがひとりで杯を重ねていた理由だった。彼は、不快げに鼻に皺を寄せる。 「〈ケル〉は、私とキリファの和解を求めていたのでしょう。……それとも父上は、キリファが私のことをずっと想っていた、とでもおっしゃりたいのですか?」  軽薄な嗤いと、低い声で抑え込んでいても、エルファンの言葉尻からは激昂が漏れ出ていた。  それは、本心の裏返しだ。  そうであればよいのに、と強く願う気持ちが反発し、荒ぶっている。  イーレオは、やり切れない思いで、エルファンを見つめた。  キリファの死後も、彼女との約束を守って口を閉ざしてきた。しかし、〈ケル〉がキリファの気持ちを代弁したも同然の状況で、黙し続けていることが正しいとは思えなかった。 「……エルファン。キリファはずっと、お前を愛していたよ」  その瞬間、エルファンの氷の眼差しが、イーレオを鋭く貫いた。 「気休めは無用。彼女は私と別れ、父上を選んだ。彼女は名目上の愛人ではなく、あなたとの間にルイフォンまでもうけた。そのあなたに慰められるなど、さすがに私が惨めです。……すみません。出ていってください」  冷酷なまでに無に徹した表情は、完全なる拒絶だった。 「――そうだったな。お前にとって、ルイフォンの存在が決定打になったんだったな……」  明らかに一触即発のエルファンを前に、イーレオが溜め息混じりにそう言う。  エルファンは、怒りに体を震わせた。自らの矜持を捨ててでも、実力行使に移るべきかと、にわかに検討を始める。  その気配を感じ取り、イーレオは冷静に先手を打った。 「――けどな。俺は、キリファには手を出していない」 「!?」  エルファンは、自分の耳を疑った。イーレオの言葉は、確かに聞こえているのに、理解が追いつかない。 「ルイフォンは、俺の子じゃない――」  イーレオの呼気に混じり、果実酒の香がふわりと漂う。 「――お前の子だ」  キリファを思い起こす甘さを撒き散らしながら、低い声がエルファンの胸に届いた。



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