【参ノ壱】
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あゆみ先生が、血まみれの洞窟の中で両手を広げてにっこりと笑う。 「はいはーい。みなさん、大祇祭は楽しかったかなー?」 「はーい!」 翔も、航も、茜も……美玲も。みんな笑顔で返事する。……沙羅がいない。 あっ、ベルだ、みんなの後ろにベルがいる。ゆうは必死に愛するその子の名を叫ぶ。 「ベルベッチカさんには、こっちに来てもらいましょう」 けれどあゆみ先生は笑顔のままそう言って、ベルの背中に手を当てて、みんなといっしょに奥の本殿へ歩いていく。 「待って、先生! ベルを返して!」 「ゆう、ここにいろよ」 叫ぶゆうを、翔が止める。 「ここにいなよ、ゆーくん」 死んだはずの美玲が笑顔で言う。 「ここにいなよ」 「ここにいなよ」 「ここにいなよ」 みんなの手がゆうにまとわりついてきた。 「やめろ、はなせ!」 「ここにいなよ」 「はなせ、ベルをっ!」 「ここにいなよ」 「ベルを返せ──っ!」 ゆうの叫びは……洞窟中に響くほどの大きさだった。 …… じりりりり。 目覚まし時計が七時半を知らせて鳴りひびく。ここは……知っている、自分の部屋だ。そう理解するのに、何秒かかかった。 かちゃ、とりあえずうるさい目覚まし時計を止める。 令和六年、七月二十二日。破いた記憶のない日めくりカレンダーが進んでいる。 二十二日ということは、祭りは……終わったんだろうか。あの時起きたことを記憶の中を探る。 美味しい肉を食べてベルの声が聞こえてみんながおおかみになって。……美玲が死んで……沙羅と逃げて……それから……それから? どんなに頭を抱えても、その後が思い出せない。 一階から家族の気配がした。ゆうは自室のふすまを開けた。 「……おはよ」 「おはよ、ゆうちゃん」 「おはよう」 じゅわあ、いい匂いがする。お母さんはコンロで目玉焼きを焼いている。 ぽろろん、ぽろん。お父さんはテーブル横のヤマハのアップライトピアノの鍵盤をいくつか叩いて、調律の確認をしている。 「席に着こうか」 お父さんはピアノのふたを静かに閉じると短くそううながした。日常だ……あまりに日常だ。何も変わらない。昨日の「あれ」は何だったのかと思う。 「はい、あなた」 お父さんの席にご飯と納豆、目玉焼きが置かれる。お父さんは目玉焼きにソースをかけた。 「はい、ゆうちゃん」 テーブルに置かれたのはトマトジュースだ。空と雲が描かれた来客用のマグカップに入っている。 「何にも食べないより、少しはいいわ」 お母さんも笑って席に着いた。お父さんは口に目玉焼きを運びながら、ゆうを呼んだ。 「なに?」 「話がある。夜、必ず家に居なさい」 まるでもう帰らないかのような言い方が気になったけれど。とりあえずはいと答えた。ゆうは、マグカップの中を飲み干した。ただのトマトジュースなのに、なんだかすごくお腹が満たされた気がする。 「昼間、ちょっと出かけたいんだけど」 「どこに行くんだ」 お父さんが間髪入れずに聞いてくる。 「……ちょっと、確かめたいんだよ」 またお父さんがメガネをくいっとした。やっぱり、こわい。 「だ、大丈夫、すぐそこに行くだけだから」 「あなた、ゆうは新月の始祖ですから」 「それでも、危険なんだ」 ゆうはもう聞かずにはいられない。 「新月って、なに? 始祖って、なに?」 お父さんもお母さんも、黙ってしまった。 「……それを、夜話す。今日は家にいろ」 そうとだけ言うと、仕事だ、と言ってスーツに着替えに行った。 …… ゆうはとりあえず自分の部屋に戻って、なつやすみの宿題のプリントをやった。 今日の分を終わらせてから、リビングにもどった。丸付けをしてもらわないといけない。 「ええ、いいわよ、ちょっとまって」 よっと……洗濯物を干していたお母さんが、敷布団のシーツを物干し竿にかけた。 お母さんはリビングに戻って、席について赤えんぴつを握った。 まる……まる。赤えんぴつで丸を付ける心地よい音がリビングにひびく。 「やっぱり、今日、どうしても行きたい」 まる……ばつ。 「どこへ行くの?」 「沙羅のとこ。あと……美玲の」 まる。丸つけをする手が止まった。 「……だめ?」 お母さんはプリントを見つめたまま、何か考えている。 「十分あれば行ける」 そしてひとつ、ため息をついて言った。 「確かめないと、気が済まないのね。……誰に似たのかしら」 目を上げて、ゆうを見た。 「わかった。行ってきなさい」 「ありがとう!」 「ただし。なつやすみが終わるまで、しばらくは家にいて。あなたは、新月なんだから」 またゆうの理解できないことを言われた。いい加減うんざりしてきた。 「だからそれなんなんだよ」 「夜話すわ。行っていいわ。……まちがい、直してからね」 そう言って、プリントを返した。九十五点。 …… 沙羅の家は、ゆうの家の前の細い山道を翔の家の向こう側へ──学校とは反対側──にちょっと行った先にある。美玲の家はさらにそこからしばらく行った所だ。 沙羅も気になるけど、とりあえず美玲の家に向かった。右手に苔むしたコンクリートブロックの壁を横目に見ながら五分ほど坂を上った。見えてきた。 白い壁、白い出窓、黒い屋根。白いバラが玄関から庭まで植えられている。あのお屋敷ほどじゃないけど、村の中ではモダンでオシャレな家。玄関には透明でセンスのある表札が付けられていて、ここにもバラの絵があしらわれている。 ……橋立 亨、愛子、美玲。 美玲のお父さんとお母さんは、デザイナーをやっていたはず。東京にあるオフィスとも在宅でやりとりしているみたいだ。美玲は、たしか幼稚園の年中さんの頃に引っ越して来たんじゃなかったっけ。 意を決して、インターホンを押す。ぴんぽーん。 「はい」 (……え?) なんで。ゆうはわからない。自分の知っている、妙に高いあの声がするのか。 「ゆーくん? 今行くー」 (だって……だってお前は……) ウルフカットの頭に寝癖をつけて、橋立美玲がドアを開けた。
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