【壱ノ肆】

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「おおかみだっ」  クラスで一番頭のいい航が叫んだ。  ぐるるるる……それは地を這うようなうなり声をあげる。真っ黒な体に、血のように真っ赤に光る眼。二メートルくらいあるだろうか、目の位置も自分の目の高さにある。百四十五しかないゆうには、ものすごく大きく見えた。一本が消しゴムくらいある牙を剥く口そのから、ヨダレがしたたる。 「お、おい、じっちゃんのお守りはっ?」  金髪の蒼太が真っ青になって、皆に聞く。大祇神社の孫娘の沙羅が「まって!」とランドセルを開ける。 「みんな、そっぽ向かないでっ」  航が泣きそうに叫ぶ。沙羅がランドセルをそーっと下ろして、おおかみを見ながら中を探る。  ぐるるるるる……うなり声をあげるおおかみは今にも飛びかかってきそうだ。けれど、おおかみに遭ったらぜったいに目をはなしてはならない……この村で育ったこどもは、みんな、物心つくころからそう言い聞かせられている。でも、いちばん前にいるたんけん隊長は平静を失ってしまった。 「うわあ──!」  翔はそう叫ぶと、全速力でみんなをおいて逃げ出した。ぐああっ、おおかみがヨダレをたらしてこどもたち目掛けて飛びかかる。ランドセルをおいてしまっていた沙羅が取り残されて腰を抜かし「……ぁ、あ……」と恐怖で身体が動かず、引きつった声しか出せない。彼女を見て、ゆうはとっさに、「やめろ!」と叫び割り込む。  ゆうの頭がひとつ、丸ごと入りそうな口が大きく開いた。 (やられる──!)  ……  きーん……耳鳴りがする……目の前は真っ白だ。  ぐああっ! どがっ。ぎゃひん!  何か、音がする……犬の鳴き声みたいな……ゆうは目をゆっくり、ゆっくり開いた。  金色の風が、おおかみに襲いかかっている。聞いたことのある女の子の声がする。 「やぁっ!」  ぎゃひいんっ! 逸瑠辺へるべさんの一蹴が、おおかみのお腹を直撃した。ぎゃいん、ぎゃいん……ものすごく痛いのか──骨でも折れたのかもしれない──、泡を吹いて転げ回ったあと、屋敷の裏の森へ逃げていった。 「ふう。……だいじょうぶかい? ゆうくん」  逸瑠辺さんは、息をひとつも切らさずに、ゆうと沙羅を見た。  うえーん。沙羅は後ろで尻もちをついたままおしっこをもらしていた。  はっ、はっ。危機を脱したゆうは心臓が爆発しそうなほどどきどきしていて、肩で息をしている。 「う、うん……なんとか……でも、君……どしてそんな……その……」 「ベルって呼んでよ。……気にしないでいい。……さ、たてる?」  聞きたいことが言葉にならないゆうに、逸瑠辺さんはまるで、かんたんな宿題を代わりにやってくれたかのようなすました顔で、苦もなく質問を流した。 「ひっぐ。ひぃっぐっ」 「よいしょっ……と」  しゃくりあげる沙羅を軽々とおんぶすると、ゆうに背を向けた。  そういえば。こんな時にも、彼女はマスクだ。返り血がべっとり付いてしまっているのに。……ふと、気になった。 「ねえ、なんでいつも、それしてるの」  彼女はぴたりと、沙羅をおんぶしたまま立ち止まった。 「マスクのこと?」 「……うん」  触れちゃいけないことのような気がして。でも、知りたくて。 「見たい?」  水色のきれいな目が、くるりと振り返る。 「ゆうくんになら、見せてもいいかな。私の、マスクの下」  だれもいないお屋敷の庭の、湿った落ち葉のじゅうたんの上で。沙羅をおんぶした逸瑠辺へるべさんはゆうにそうとだけ言うと、背を向けた。 「待って、なんで僕にだけ……」  でも逸瑠辺へるべさんは後ろを向いたまま、答えてはくれない。 「ねえ、なんで」  信じられないことにマスクのその子は、鎖で繋がれた、二メートルはある高さの門を、ぴょんと飛び越えた。あっ。声を上げた時には、もういない。  追いかけようと一歩踏み出すと。何かをふんだ。きらきらしてて、見たことがある。大祇村のマークのバッジだ。たしか……社会の時間に習ったけれど、議員のえらい人がつけてるんじゃなかったっけ。  身近な議員の人といえば……航だ。お父さんが市議会議員だった……はず……ポスターで見たことある。茶化して遊んだから、間違いない。けれどなぜそれがここにあるのか。さっきの百円玉も、このバッヂも。なにもかもがちぐはぐで、違和感だけがふくれあがる。  がさっ……がさがさっ……  また、お屋敷の庭の奥から音がする。まだ何かを隠しているかのように。  びくんと、ゆうは身体を強ばらせた。  何かに見られてるような、そんないやな気配がべったりとまとわりついてはなれない。  がさっ……  音が近づいてくる。気味が悪くなったゆうは、制服のハーフパンツのポケットに議員バッジをしまって、駆け足で山道を神社の方へ逃げ帰った。  ……  翌日、令和六年六月五日、水曜日。 「あれ、休み?」 「わかんねえし。おれ、しらねえもん」  航が学校をやすんだ。昨日のことで肝を冷やした翔も顔色が悪い。 「はいはーい。おしゃべりはおしまい。移動しますよー」  一時間目は理科だ。あゆみ先生が、残りの九人に教室移動を呼びかけた。逸瑠辺へるべさんは、校庭を見たままそっぽを向いている。 「……いこ?」  沙羅が声をかけた。けれども彼女は気にもかけない。「行こうよ」ゆうの言葉に、ようやく顔を向けた。 「うん、行こっか」 「……なによ、それ」  無視された沙羅はぼそっと言葉を吐くと、つんとして廊下に出て行った。  二階の渡り廊下。午前中の眩しい光がきらきらと窓から差し込む。前を行く七人はがやがや喋っていて、古くて広い廊下によく響く。後ろを歩く二人──ゆうと不思議な転校生──は、ひそひそと話した。 「ねえ、なんで仲良くしないの?」 「むだだから」 「むだって……友達じゃんか」 「ううん」 「え?」  聞き返すゆうに、彼女はぐいと腰をかがめて覗きこむ。 「友達なのは私達だけ」  ふふ……二人だけの秘密だよ。水色の目は優しくそう笑うと、先を歩いていった。  一時間目、気だるい水曜日の午前中が始まった。 「なあ、なんであいつ、いつもマスクなんだろな」 「なんでって……そういえば、なんでだろ」 「な、なぞだべ?」  翔が理科室の窓際に座る転校生を見ながら不思議そうにひそひそ聞いてきた。翔も昨日のことからは、だいぶ落ち着いてきたみたいだ。当の本人は、授業に興味が無いのか相変わらず校庭を見ている。  何を見てるんだろうと気になった。  ……もしかしたら何も見てないのかもしれない。なぜだか、そう思った。  ……  それから、何日も、ゆうは逸瑠辺へるべさんを観察した。授業中はもちろん、体育の時間もマスクをしている。プールは見学、やっぱりマスクをしている。  そして給食の時間でも。 「いっただっきまーす!」  翔がバカみたいに大きな声でそういうと、カレーを夢中で口に運んだ。ゆうも好きだし、みんなで席をくっつけて食べるのはかくべつなのだ。  沙羅が、後ろの席の逸瑠辺へるべさんに言った。 「くっつけなさいよ」 「いいよ、私は」 「給食の時間はくっつけるの!」  はあ、とため息をつくと、ぐいっと席をくっつけた。みんなも大好きなカレーだ、お腹も減ってるはず……けれど、マスクのその女の子は一口も食べないし、外すこともない。カレーを前に、じいっと静止したまま、スプーンすらにぎらない。おなかが減らないのか、不思議に思った。 「うん」 「……食べたくないの?」 「食べられないんだ」 「……じゃあ何なら食べれる?」  すると少食な少女は、ちゅうするみたいに顔を近づけてほっぺたをさわって、おでこの匂いをかいだ。 「……きみ。大好き。とってもあまいから」  ゆうは耳まで真っ赤になった。  忘れ物クイーンのメガネのみかと、クラスでいちばんおしゃれな三つ編みの結花が、目と目を合わせて恥ずかしそうに、きゃーとさけんだ。



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「おおかみだっ」  クラスで一番頭のいい航が叫んだ。  ぐるるるる……それは地を這うようなうなり声をあげる。真っ黒な体に、血のように真っ赤に光る眼。二メートルくらいあるだろうか、目の位置も自分の目の高さにある。百四十五しかないゆうには、ものすごく大きく見えた。一本が消しゴムくらいある牙を剥く口そのから、ヨダレがしたたる。 「お、おい、じっちゃんのお守りはっ?」  金髪の蒼太が真っ青になって、皆に聞く。大祇神社の孫娘の沙羅が「まって!」とランドセルを開ける。 「みんな、そっぽ向かないでっ」  航が泣きそうに叫ぶ。沙羅がランドセルをそーっと下ろして、おおかみを見ながら中を探る。  ぐるるるるる……うなり声をあげるおおかみは今にも飛びかかってきそうだ。けれど、おおかみに遭ったらぜったいに目をはなしてはならない……この村で育ったこどもは、みんな、物心つくころからそう言い聞かせられている。でも、いちばん前にいるたんけん隊長は平静を失ってしまった。 「うわあ──!」  翔はそう叫ぶと、全速力でみんなをおいて逃げ出した。ぐああっ、おおかみがヨダレをたらしてこどもたち目掛けて飛びかかる。ランドセルをおいてしまっていた沙羅が取り残されて腰を抜かし「……ぁ、あ……」と恐怖で身体が動かず、引きつった声しか出せない。彼女を見て、ゆうはとっさに、「やめろ!」と叫び割り込む。  ゆうの頭がひとつ、丸ごと入りそうな口が大きく開いた。 (やられる──!)  ……  きーん……耳鳴りがする……目の前は真っ白だ。  ぐああっ! どがっ。ぎゃひん!  何か、音がする……犬の鳴き声みたいな……ゆうは目をゆっくり、ゆっくり開いた。  金色の風が、おおかみに襲いかかっている。聞いたことのある女の子の声がする。 「やぁっ!」  ぎゃひいんっ! 逸瑠辺へるべさんの一蹴が、おおかみのお腹を直撃した。ぎゃいん、ぎゃいん……ものすごく痛いのか──骨でも折れたのかもしれない──、泡を吹いて転げ回ったあと、屋敷の裏の森へ逃げていった。 「ふう。……だいじょうぶかい? ゆうくん」  逸瑠辺さんは、息をひとつも切らさずに、ゆうと沙羅を見た。  うえーん。沙羅は後ろで尻もちをついたままおしっこをもらしていた。  はっ、はっ。危機を脱したゆうは心臓が爆発しそうなほどどきどきしていて、肩で息をしている。 「う、うん……なんとか……でも、君……どしてそんな……その……」 「ベルって呼んでよ。……気にしないでいい。……さ、たてる?」  聞きたいことが言葉にならないゆうに、逸瑠辺さんはまるで、かんたんな宿題を代わりにやってくれたかのようなすました顔で、苦もなく質問を流した。 「ひっぐ。ひぃっぐっ」 「よいしょっ……と」  しゃくりあげる沙羅を軽々とおんぶすると、ゆうに背を向けた。  そういえば。こんな時にも、彼女はマスクだ。返り血がべっとり付いてしまっているのに。……ふと、気になった。 「ねえ、なんでいつも、それしてるの」  彼女はぴたりと、沙羅をおんぶしたまま立ち止まった。 「マスクのこと?」 「……うん」  触れちゃいけないことのような気がして。でも、知りたくて。 「見たい?」  水色のきれいな目が、くるりと振り返る。 「ゆうくんになら、見せてもいいかな。私の、マスクの下」  だれもいないお屋敷の庭の、湿った落ち葉のじゅうたんの上で。沙羅をおんぶした逸瑠辺へるべさんはゆうにそうとだけ言うと、背を向けた。 「待って、なんで僕にだけ……」  でも逸瑠辺へるべさんは後ろを向いたまま、答えてはくれない。 「ねえ、なんで」  信じられないことにマスクのその子は、鎖で繋がれた、二メートルはある高さの門を、ぴょんと飛び越えた。あっ。声を上げた時には、もういない。  追いかけようと一歩踏み出すと。何かをふんだ。きらきらしてて、見たことがある。大祇村のマークのバッジだ。たしか……社会の時間に習ったけれど、議員のえらい人がつけてるんじゃなかったっけ。  身近な議員の人といえば……航だ。お父さんが市議会議員だった……はず……ポスターで見たことある。茶化して遊んだから、間違いない。けれどなぜそれがここにあるのか。さっきの百円玉も、このバッヂも。なにもかもがちぐはぐで、違和感だけがふくれあがる。  がさっ……がさがさっ……  また、お屋敷の庭の奥から音がする。まだ何かを隠しているかのように。  びくんと、ゆうは身体を強ばらせた。  何かに見られてるような、そんないやな気配がべったりとまとわりついてはなれない。  がさっ……  音が近づいてくる。気味が悪くなったゆうは、制服のハーフパンツのポケットに議員バッジをしまって、駆け足で山道を神社の方へ逃げ帰った。  ……  翌日、令和六年六月五日、水曜日。 「あれ、休み?」 「わかんねえし。おれ、しらねえもん」  航が学校をやすんだ。昨日のことで肝を冷やした翔も顔色が悪い。 「はいはーい。おしゃべりはおしまい。移動しますよー」  一時間目は理科だ。あゆみ先生が、残りの九人に教室移動を呼びかけた。逸瑠辺へるべさんは、校庭を見たままそっぽを向いている。 「……いこ?」  沙羅が声をかけた。けれども彼女は気にもかけない。「行こうよ」ゆうの言葉に、ようやく顔を向けた。 「うん、行こっか」 「……なによ、それ」  無視された沙羅はぼそっと言葉を吐くと、つんとして廊下に出て行った。  二階の渡り廊下。午前中の眩しい光がきらきらと窓から差し込む。前を行く七人はがやがや喋っていて、古くて広い廊下によく響く。後ろを歩く二人──ゆうと不思議な転校生──は、ひそひそと話した。 「ねえ、なんで仲良くしないの?」 「むだだから」 「むだって……友達じゃんか」 「ううん」 「え?」  聞き返すゆうに、彼女はぐいと腰をかがめて覗きこむ。 「友達なのは私達だけ」  ふふ……二人だけの秘密だよ。水色の目は優しくそう笑うと、先を歩いていった。  一時間目、気だるい水曜日の午前中が始まった。 「なあ、なんであいつ、いつもマスクなんだろな」 「なんでって……そういえば、なんでだろ」 「な、なぞだべ?」  翔が理科室の窓際に座る転校生を見ながら不思議そうにひそひそ聞いてきた。翔も昨日のことからは、だいぶ落ち着いてきたみたいだ。当の本人は、授業に興味が無いのか相変わらず校庭を見ている。  何を見てるんだろうと気になった。  ……もしかしたら何も見てないのかもしれない。なぜだか、そう思った。  ……  それから、何日も、ゆうは逸瑠辺へるべさんを観察した。授業中はもちろん、体育の時間もマスクをしている。プールは見学、やっぱりマスクをしている。  そして給食の時間でも。 「いっただっきまーす!」  翔がバカみたいに大きな声でそういうと、カレーを夢中で口に運んだ。ゆうも好きだし、みんなで席をくっつけて食べるのはかくべつなのだ。  沙羅が、後ろの席の逸瑠辺へるべさんに言った。 「くっつけなさいよ」 「いいよ、私は」 「給食の時間はくっつけるの!」  はあ、とため息をつくと、ぐいっと席をくっつけた。みんなも大好きなカレーだ、お腹も減ってるはず……けれど、マスクのその女の子は一口も食べないし、外すこともない。カレーを前に、じいっと静止したまま、スプーンすらにぎらない。おなかが減らないのか、不思議に思った。 「うん」 「……食べたくないの?」 「食べられないんだ」 「……じゃあ何なら食べれる?」  すると少食な少女は、ちゅうするみたいに顔を近づけてほっぺたをさわって、おでこの匂いをかいだ。 「……きみ。大好き。とってもあまいから」  ゆうは耳まで真っ赤になった。  忘れ物クイーンのメガネのみかと、クラスでいちばんおしゃれな三つ編みの結花が、目と目を合わせて恥ずかしそうに、きゃーとさけんだ。



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