【壱ノ伍】

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 令和六年六月二十一日、金曜日。一時間目、社会の授業。  おおかみに遭ってから二週間以上が経った。あれからずっと、航は学校を休んでいるけど、あゆみ先生に聞いても言葉を濁すだけ。航なんて子は初めからいなかったかのように。 「ひと月後は何がありますかー?」 「大祇祭ー!」 「そうですね。みなさんは初めてですねえ」  逸瑠辺へるべさん以外、みんながおおきな声で答える。あゆみ先生はにっこり笑った。翔が目をきらきらさせて聞く。 「ごちそうが食べれるってほんと?」 「ふふ……ほんとです、みなさんがこの村の一員として認められる、だいじなだいじなお祭りです」  航のことで小首を傾げていたゆうも、これには顔色を変えてわくわくした。なんたって、十二年に一度っきり。生まれて初めてのイベントにごちそうだ、期待しない方が無理に決まってる。  と、その時、がたんと唐突な音を響かせて、不機嫌な転校生はおもむろに席を立ってしまった。 「ですから、今日はその大祇祭の歴史を勉強しましょう」  はい、うしろに回してね。プリントを配るあゆみ先生は、教室を去るその生徒のことが見えてないかのように授業を続けた。  ……  放課後。 「あいつんち、行くべ」  翔が控えめの声で切り出した。 「さんせー!」  蒼太が手を挙げた。友達思いの沙羅が口を開く。 「あたしも行く!」  ゆうも、僕も、とうなずいた。  そんなゆうの足を止めるかのように、窓際の逸瑠辺へるべさんが、ゆうの袖を引いた。 「いっしょに、帰ろう」 「え? ……でも航が……」 「おいでよ」  小さい子がひっぱるかのように不器用に手をぐいと掴むと、そのまま廊下までゆうをさらった。 「おい、ゆう!」 「ゆうちゃん!」  翔や沙羅が呼んでいるのを背中で聞いた。 「逸瑠辺へるべさん? 逸瑠辺へるべさんったら」 「なんだい?」 「どこ行くの?」 「私んち、だよ」  予想外の返事に、鼓動が早くなる。ロシアからきた、女の子……あの「お屋敷」に住んでいるという、不思議な子。お父さんとお母さんはどんなひとなのかな、とゆうは想像しては頬を赤らめた。  ……  クルマも滅多に通らない、田んぼに囲まれた見慣れたふつうの道。校門前の丁字路を右に曲がった。……「お屋敷」の方向だ。げろっげろっ、カエルが可愛く鳴いている。そんな道を逸瑠辺へるべさんが歩いていて、少し後ろをどきどきしながらゆうがつれ立つ。女の子なのに、黒のランドセル。おんなじだ、と思った。かっこいい、と思った。学校の制服もよく似合う。グレーのジャンバースカートから伸びる白いあしを見て、もっとどきどきした。腰まである髪が、ランドセルで別れて左右にゆるく広がって、風が吹くとふわり、といい匂いがした。 『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』  二週間前の逸瑠辺さんの言葉がよみがえる。彼女こそいい匂いだと思った。  ふたりは急坂道を上って森に入ってまだまだ歩いた。左側は山に続く斜面。右側は谷底まで崖になっていて、谷底からする渓流の音が心地よい。  神社を過ぎた。 (あれえ、いつもの道とちがうのかな) 「神社を抜けるのは遠回りだよ」 (……え。考えがわかるの……?) 「うん。読める」  黒いランドセルの不思議な転校生は、金髪をふわりとたなびかせた。話しかけづらいと思っていたけど、ちがう。ゆうは、すっと背筋を伸ばして歩く後ろ姿がきれいで、ずっと見とれてしまっているのだった。  神社を過ぎて二十分以上、上り坂を歩いただろうか。学校を出てゆうに三十分以上は過ぎている。こんなとこまで大祇小学校の学区なのかなと、不思議に思っていると、山の頂上、峠付近で道が左に大きく曲がっている。そこを曲がると……右手の谷側に向かって伸びる小道の先に、大きな建物が姿を現す。「お屋敷」だ。昨日見た通りに埃とツタまみれで、人の気配はない。門も鎖で施錠されたまま。ゆうは門をがちゃがちゃとゆすった。 「よじ登ろっか?」 「よじ登る? ふふ。はずれ」  そう言うと、逸瑠辺へるべさんはひょいっとゆうをすくい上げてお姫様抱っこした。 「ちょっと、僕は女の子じゃない!」 「はは。そうだね、そうだったね」  次のしゅんかん。ゆうは宙に浮いていた。彼女はゆうを抱いたまま、ジャンプした。 「ええ……っ?」  目をつぶるひますらなかったが、確かに今、門の前からバルコニーまでのだ。そして、子猫でも置くかのように、ゆうを優しくそこに立たせた。  今起きたことを呑み込めず戸惑っていると、おもむろに逸瑠辺さんがバルコニーに面したほこりまみれガラス窓を開けた。中の部屋は同じようにほこりとカビの臭いでいっぱいだった。天井のすみにも、吊り下げられたランプにも、クモの巣がドレスみたいに垂れ下がっている。見たことの無い草模様の壁紙は、所々めくれて壁材が見えてしまっている。何も無い、二十畳くらいの部屋だ。  ……いや、ちがう。かんおけだ……細長くて六角形の。よく映画で見る、ふたをずらした真っ黒いかんおけが、部屋の真ん中で沈黙を守っている。そしてその子は窓に手をかけたまま、ゆうの方を見てマスクの下で笑った。 「着いたよ。上がって」



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【壱ノ伍】

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 令和六年六月二十一日、金曜日。一時間目、社会の授業。  おおかみに遭ってから二週間以上が経った。あれからずっと、航は学校を休んでいるけど、あゆみ先生に聞いても言葉を濁すだけ。航なんて子は初めからいなかったかのように。 「ひと月後は何がありますかー?」 「大祇祭ー!」 「そうですね。みなさんは初めてですねえ」  逸瑠辺へるべさん以外、みんながおおきな声で答える。あゆみ先生はにっこり笑った。翔が目をきらきらさせて聞く。 「ごちそうが食べれるってほんと?」 「ふふ……ほんとです、みなさんがこの村の一員として認められる、だいじなだいじなお祭りです」  航のことで小首を傾げていたゆうも、これには顔色を変えてわくわくした。なんたって、十二年に一度っきり。生まれて初めてのイベントにごちそうだ、期待しない方が無理に決まってる。  と、その時、がたんと唐突な音を響かせて、不機嫌な転校生はおもむろに席を立ってしまった。 「ですから、今日はその大祇祭の歴史を勉強しましょう」  はい、うしろに回してね。プリントを配るあゆみ先生は、教室を去るその生徒のことが見えてないかのように授業を続けた。  ……  放課後。 「あいつんち、行くべ」  翔が控えめの声で切り出した。 「さんせー!」  蒼太が手を挙げた。友達思いの沙羅が口を開く。 「あたしも行く!」  ゆうも、僕も、とうなずいた。  そんなゆうの足を止めるかのように、窓際の逸瑠辺へるべさんが、ゆうの袖を引いた。 「いっしょに、帰ろう」 「え? ……でも航が……」 「おいでよ」  小さい子がひっぱるかのように不器用に手をぐいと掴むと、そのまま廊下までゆうをさらった。 「おい、ゆう!」 「ゆうちゃん!」  翔や沙羅が呼んでいるのを背中で聞いた。 「逸瑠辺へるべさん? 逸瑠辺へるべさんったら」 「なんだい?」 「どこ行くの?」 「私んち、だよ」  予想外の返事に、鼓動が早くなる。ロシアからきた、女の子……あの「お屋敷」に住んでいるという、不思議な子。お父さんとお母さんはどんなひとなのかな、とゆうは想像しては頬を赤らめた。  ……  クルマも滅多に通らない、田んぼに囲まれた見慣れたふつうの道。校門前の丁字路を右に曲がった。……「お屋敷」の方向だ。げろっげろっ、カエルが可愛く鳴いている。そんな道を逸瑠辺へるべさんが歩いていて、少し後ろをどきどきしながらゆうがつれ立つ。女の子なのに、黒のランドセル。おんなじだ、と思った。かっこいい、と思った。学校の制服もよく似合う。グレーのジャンバースカートから伸びる白いあしを見て、もっとどきどきした。腰まである髪が、ランドセルで別れて左右にゆるく広がって、風が吹くとふわり、といい匂いがした。 『とても……甘い……いい匂い。美味しそう』  二週間前の逸瑠辺さんの言葉がよみがえる。彼女こそいい匂いだと思った。  ふたりは急坂道を上って森に入ってまだまだ歩いた。左側は山に続く斜面。右側は谷底まで崖になっていて、谷底からする渓流の音が心地よい。  神社を過ぎた。 (あれえ、いつもの道とちがうのかな) 「神社を抜けるのは遠回りだよ」 (……え。考えがわかるの……?) 「うん。読める」  黒いランドセルの不思議な転校生は、金髪をふわりとたなびかせた。話しかけづらいと思っていたけど、ちがう。ゆうは、すっと背筋を伸ばして歩く後ろ姿がきれいで、ずっと見とれてしまっているのだった。  神社を過ぎて二十分以上、上り坂を歩いただろうか。学校を出てゆうに三十分以上は過ぎている。こんなとこまで大祇小学校の学区なのかなと、不思議に思っていると、山の頂上、峠付近で道が左に大きく曲がっている。そこを曲がると……右手の谷側に向かって伸びる小道の先に、大きな建物が姿を現す。「お屋敷」だ。昨日見た通りに埃とツタまみれで、人の気配はない。門も鎖で施錠されたまま。ゆうは門をがちゃがちゃとゆすった。 「よじ登ろっか?」 「よじ登る? ふふ。はずれ」  そう言うと、逸瑠辺へるべさんはひょいっとゆうをすくい上げてお姫様抱っこした。 「ちょっと、僕は女の子じゃない!」 「はは。そうだね、そうだったね」  次のしゅんかん。ゆうは宙に浮いていた。彼女はゆうを抱いたまま、ジャンプした。 「ええ……っ?」  目をつぶるひますらなかったが、確かに今、門の前からバルコニーまでのだ。そして、子猫でも置くかのように、ゆうを優しくそこに立たせた。  今起きたことを呑み込めず戸惑っていると、おもむろに逸瑠辺さんがバルコニーに面したほこりまみれガラス窓を開けた。中の部屋は同じようにほこりとカビの臭いでいっぱいだった。天井のすみにも、吊り下げられたランプにも、クモの巣がドレスみたいに垂れ下がっている。見たことの無い草模様の壁紙は、所々めくれて壁材が見えてしまっている。何も無い、二十畳くらいの部屋だ。  ……いや、ちがう。かんおけだ……細長くて六角形の。よく映画で見る、ふたをずらした真っ黒いかんおけが、部屋の真ん中で沈黙を守っている。そしてその子は窓に手をかけたまま、ゆうの方を見てマスクの下で笑った。 「着いたよ。上がって」



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