【肆ノ壱】
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「ベルベッチカ、こっちだ!」 「アレク、お願い、手を離さないでっ」 雪原をひたすら走るふたつの影。両者はヒトの形をしているが、ヒトではない。「新月のモノ」と呼ばれる存在だ。この社会主義の超大国では、吸血鬼と呼ばれていた。 数時間前、住んでいた村が満月のモノ、おおかみの襲撃を受け壊滅した。おおかみ達を率いているモノを、ふたりは「オリジン」と呼んでいた。 ……ベルベッチカも、新月のオリジンだ。今までただのおおかみなら引けを取ることもなかった。しかしここ数年、オリジンがおおかみを統率するようになった。格段に、手強くなった。それまで勝てていたおおかみに、苦戦するようになった。倒しても倒しても湧くように現れるおおかみに、押された。 そして……今回現れた満月のオリジン。 凄まじい強さだ。奴には、絶対に勝てない。 顔がわかる位まで接近もした。だが、どうやってもその姿を認識できないのだ。男か女かもわからない、顔もわからない。ヒトにも新月にも敵対し、数多の新月を葬ったその存在は、脅威以外の何者でもなかった。 そしていつの間にか包囲網は築かれていた。今まで隣人だった住人たちは、おおかみにすり替えられた。仲が良かった友達、隣人、知人はみな、二人に襲いかかった。 特に、六百九十七年生きてきたベルベッチカという名前の新月のオリジンに、満月のオリジンは固執した。 ……もう五年。追い続けられ、追い詰められる日々が続いている。 アレクセイという百八十五センチの高身長、金髪に緑の瞳の青年は、ベルベッチカの恋人である。十一歳くらいにしか見えない彼女と違い、二十歳前後に見えるが彼の方が遥かに若い。つい三十五年ほど前に少女が新月のオリジンの力を与えたばかりの青年だ。まだ目覚めていない幼体だが、けんめいに彼女を守ってくれる。 ……おおかみたちの気配が消えた。 「はあ、はあ……振り切ったか」 彼がそう言い、少女が振り返る。遠く……二十キロくらい先で、煙が大きくあがっている。村全体が燃えているのだろうか。あのおおかみの群れだ。修羅の巷で生き残りはないだろう。 「ああ」 ベルベッチカは雪の上で、ひざから崩れ落ちた。 「ああああ……」 声も涙も、枯れ果てたと思ったのに、まだ溢れてくる。 「ああああ……」 (……地獄じゃないか……この世界は……生きるということは) ポケットにしまっていた、古い……本当に古い赤い服のぬいぐるみが、ぽすっと落ちた。 「……行こう」 アレクはそれを拾って、彼女の肩をささえてくれた。 「アレク、アレク。死んだよ、みんな死んでしまった」 そう言って、吸血鬼の少女は慟哭の声を上げた。 …… 令和六年九月二日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。 一ヶ月ぶりにランドセルをしょって家を出ると翔が声をかける。 「久しぶり! 行こうぜ!」 「……ああ、いいよ」 ゆうは穏やかに笑った。 …… 「いいか、ゆうくん」 沙羅のおじいちゃんは、真剣な顔でゆうを見た。 「今は日常を、いつも通りに送るんだ。コピーのおおかみたちは、ヒトの姿ではおおかみの記憶はないし、鼻も効かない。祭りも、なつやすみも終わった。学校にいる限り、安心なんだよ」 「あたしもいる! 任せて!」 そう言って、沙羅はリュックからあの十字架のお守りを取り出して、見せた。そして八重歯を見せてにっこり、笑った。 「だいじょぶだかんね!」 …… 「やほー、翔!」 「あっ、来たな、ガサツ女!」 翔はいつものようにランドセルを前にしょって構えた。 「もー、やめろってー」 身構えていた顔の前の手をどける。 「……あれ。いつものおーふくビンタは?」 「ああ。今日は……ふふ、やって欲しい?」 にい、と沙羅が笑った。 「ひー、やめてー!」 「まてこら、翔ーっ!」 真夏が過ぎた、木漏れ日がきらきらした山の中の道路。幼なじみたちは坂を駆け降りていった。 「沙羅……ありがとう」 ゆうは感謝をつぶやくと、帽子を直して、二人を追った。 …… 大神小学校、五年一組。 あゆみ先生が、一学期と同じようにおっとりと教室に入ってきた。 「はいはーい。なつやすみ、楽しく過ごしましたかぁ?」 「はーい!」 「みなさん、元気いっぱいで何よりです! 特に!」 みんなのお返事を聞いて、あゆみ先生は満足そうに笑顔を浮かべる。 「大祇祭! みなさん、たくさんお肉食べられましたかー?」 はーい。おいしかったです。うまかったー。これでもう大人ー? みな、楽しかった異口同音の感想を口々にする。 「それはよかった! 先生もとっても嬉しいです。ね、ゆうくん」 ぎくり、ゆうの額に汗がつたう。 「とっても美味しそうに、食べてましたもんね?」 「は、はい……」 (あれ。あの洞窟の中に……あゆみ先生。居たっけ) 「はい、じゃあ、今日はまずなつやすみの宿題を集めますよー」 あゆみ先生はいつものにこにこした顔を貼り付けて、いつもどおりに授業を始めた。 『始祖は誰か、わかっているんですか』 『毅さん、それもわからんのだ。男か女か、見た目も歳もわからない。だが確実に存在し人々の中に溶け込んで、着実にこの村のヒトをおおかみに変えている』 あの日、沙羅のおじいちゃんは苦い顔で確かに、そう言った。
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