【壱ノ漆】

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 谷底の大祇神社の境内。深夜十一時十分、新月の晩。逸瑠辺へるべさんはマスクの右耳のゴムひもをゆっくり外した。そして、口を大きく開いてみせた。 「はじめまして、ゆうくん」  あっ、ゆうは思わず叫んだ。そこにはニンゲンのそれの三倍は長い犬歯が二対、上下に生えていた。 「新月の始祖。吸血鬼ベルベッチカ・リリヰです……ふふふ、ねえお願い。ベルって、呼んでよ」 「ベル……」 「ふふふ、私、きれい? ふふふ」 「……ベル、ベル……きれいだよ。すごくきれいだ」 「ふふふ、あはははは」  光る眼が、水色から赤に変わった。そして両手を頬にあて身体をよじって、うっとりと笑った。 「ごめんねえ、ゆうくん! 私もう、我慢できないっ」 「我慢?」 「うん、もう、いい?」 「……なにが、もういいの?」 「いい匂いなんだよ。……きみがっ! とってもっ!」  三メートル先で笑っていたはずのベルが、とんっと瞬間移動してゆうのほっぺたを両手でつかんで、そして……ちゅっ、とキスをしてきた。しかも舌をからませて。甘い味が、口中に広がった。  ベルベッチカ・リリヰの舌の味は。  今までの人生で味わった、全てのものより甘くて、とろけて、美味しかった。一生味わっていたい、その為ならなんでも出来る。時間が遅くなる。永遠に続いているかのような快楽。頭の中に、ベルの愛を直接流しこまれた。  愛してる、ゆうくん……愛してる、ゆうくん……きみのたましいは、私のもの。愛してる……愛してる……  ゆうのたましいは……今このしゅんかんから永遠にとりこになった。  時間が戻り、舌の二か所にずきんとするどい痛みが走った。 (血を……吸われてる……?)  痛いからはなそうとベルを押すけれど、はなしてくれない。ものすごい力で、ほっぺたをつかまれているみたいだった。でも……だんだん……いい気持ちになってきて……あたまがふわりと浮いた。ベルが口をはなす。 「ああ、美味しかった。これで私はもう、大丈夫。……きみの中で生きることにした」  目の前が白んで、ものすごく眠くなって。 「ゆうくん。私、幸せだったよ。ゆうくん。大好きだった。ゆうくん……」  意識が切れる直前。ベルが最後に、そう言ったような気がした。  …… 「ベルっ」  みーんみんみんみん、みーんみんみんみん。ゆうは、冷房の効いた部屋で飛び起きた。ここが自分の部屋だと理解するまで、何秒かかかった。  ……ベルがいない。  ここはゆうの部屋、めったに女の子を連れてきたことは無い。あたりまえなのに、それなのになぜか今ベルが居ないことに心が騒いだ。机の上のランドセルをしょった。モビルスーツをまた持って行ってあげたかった。ばたばたと階段を降りると、起こしに来たお母さんと鉢合わせた。 「ゆうちゃん、おはよー……って、今日日曜日だけど?」  最後まで聞かずに、家を飛び出した。学校まで一キロ。山道を下って、角田屋の前を駆け抜けて、日曜日で校門の閉じた学校を通り過ぎた。そのまま大祇神社の方へ走り、坂をのぼり神社の階段の前を過ぎ、どんどん上って、そして……お屋敷までたどり着いた。上り坂を三キロ位走っただろうか。でも、どんそくのくせに息ひとつ上がっていない。 「ベル!」  叫んでみたけど、声はがらんどうのお屋敷にこだまするだけ。閉じられた門をよじ登り、ツタを掴んで壁を少しづつ登って、十分くらいかけてようやくバルコニーのベルの部屋の前にたどり着いた。……窓は半分開いている。勢いよく開けたけど、そこにあるのはかび臭い空気だけ。なにもだれも、いなかった。  と、ふわりと匂いがした。  四メートル位先のかんおけまで、進んだ。間違いなくあの子の匂いだ……どこから……ふと、かんおけのふたに隠れた赤い何かが目に留まる。思わず手に取った。あの子のぬいぐるみだ。 「それ、あげるよ」 「ベルっ?」 「お友達になってくれた、あかしね」 「ベル、どこっ? どこにいるの?」 「ここだよ」 「どこ? ねえ、どこ?」  ぐらり、めまいがした。ばいばい。そう言って声は聞こえなくなって、ゆうも後ろに倒れた。倒れた時、かんおけに右手が当たった。その瞬間。が流れ込んできた。  …… 「ベルベッチカ。約束の日だ」 「そうだね。祭りの前の最後の新月だからね……航のお父さんは大丈夫?」 「意識がない。また別に今日おおかみが出た。もうみな抑えられなくなってきてる」 「だから、今日、か」 「大祇祭にお前が必要だ」 「そのために、ロシアからずっと、ずうっと私達を追いかけてきたんだもんね」 「そうだ、私の大切な村の存続のためだ」 「あ、さいごに。あのね。相原のところのあの子にね」 「なんだ?」 「……なんでもない」 「では、服を脱げ」 「……うん」  どすっ。 「──きぃぁぁあああ!」  ……  翌日。令和六年七月八日、月曜日。  あゆみ先生がおっとりと教室に入ってきた。 「はいはーい、みなさん、おはようございます。出席取りますよー。出席取りますよー。相沢ゆうくん」 「……はい」  先生は普段と変わらない様子でクラスメイトの出席を確認していく。たった一人だけ、ゆうの記憶にいるベルだけが、最後まで呼ばれなかった。 「はーい、揃いましたね。ではさんすうの二十五ページを開きましょう」  、日常がまた始まった。 『これで私はもう、大丈夫。……きみの中で生きることにした』  最後にあの子が伝えた言葉が、ずっとずっとゆうの耳からはなれない。



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 谷底の大祇神社の境内。深夜十一時十分、新月の晩。逸瑠辺へるべさんはマスクの右耳のゴムひもをゆっくり外した。そして、口を大きく開いてみせた。 「はじめまして、ゆうくん」  あっ、ゆうは思わず叫んだ。そこにはニンゲンのそれの三倍は長い犬歯が二対、上下に生えていた。 「新月の始祖。吸血鬼ベルベッチカ・リリヰです……ふふふ、ねえお願い。ベルって、呼んでよ」 「ベル……」 「ふふふ、私、きれい? ふふふ」 「……ベル、ベル……きれいだよ。すごくきれいだ」 「ふふふ、あはははは」  光る眼が、水色から赤に変わった。そして両手を頬にあて身体をよじって、うっとりと笑った。 「ごめんねえ、ゆうくん! 私もう、我慢できないっ」 「我慢?」 「うん、もう、いい?」 「……なにが、もういいの?」 「いい匂いなんだよ。……きみがっ! とってもっ!」  三メートル先で笑っていたはずのベルが、とんっと瞬間移動してゆうのほっぺたを両手でつかんで、そして……ちゅっ、とキスをしてきた。しかも舌をからませて。甘い味が、口中に広がった。  ベルベッチカ・リリヰの舌の味は。  今までの人生で味わった、全てのものより甘くて、とろけて、美味しかった。一生味わっていたい、その為ならなんでも出来る。時間が遅くなる。永遠に続いているかのような快楽。頭の中に、ベルの愛を直接流しこまれた。  愛してる、ゆうくん……愛してる、ゆうくん……きみのたましいは、私のもの。愛してる……愛してる……  ゆうのたましいは……今このしゅんかんから永遠にとりこになった。  時間が戻り、舌の二か所にずきんとするどい痛みが走った。 (血を……吸われてる……?)  痛いからはなそうとベルを押すけれど、はなしてくれない。ものすごい力で、ほっぺたをつかまれているみたいだった。でも……だんだん……いい気持ちになってきて……あたまがふわりと浮いた。ベルが口をはなす。 「ああ、美味しかった。これで私はもう、大丈夫。……きみの中で生きることにした」  目の前が白んで、ものすごく眠くなって。 「ゆうくん。私、幸せだったよ。ゆうくん。大好きだった。ゆうくん……」  意識が切れる直前。ベルが最後に、そう言ったような気がした。  …… 「ベルっ」  みーんみんみんみん、みーんみんみんみん。ゆうは、冷房の効いた部屋で飛び起きた。ここが自分の部屋だと理解するまで、何秒かかかった。  ……ベルがいない。  ここはゆうの部屋、めったに女の子を連れてきたことは無い。あたりまえなのに、それなのになぜか今ベルが居ないことに心が騒いだ。机の上のランドセルをしょった。モビルスーツをまた持って行ってあげたかった。ばたばたと階段を降りると、起こしに来たお母さんと鉢合わせた。 「ゆうちゃん、おはよー……って、今日日曜日だけど?」  最後まで聞かずに、家を飛び出した。学校まで一キロ。山道を下って、角田屋の前を駆け抜けて、日曜日で校門の閉じた学校を通り過ぎた。そのまま大祇神社の方へ走り、坂をのぼり神社の階段の前を過ぎ、どんどん上って、そして……お屋敷までたどり着いた。上り坂を三キロ位走っただろうか。でも、どんそくのくせに息ひとつ上がっていない。 「ベル!」  叫んでみたけど、声はがらんどうのお屋敷にこだまするだけ。閉じられた門をよじ登り、ツタを掴んで壁を少しづつ登って、十分くらいかけてようやくバルコニーのベルの部屋の前にたどり着いた。……窓は半分開いている。勢いよく開けたけど、そこにあるのはかび臭い空気だけ。なにもだれも、いなかった。  と、ふわりと匂いがした。  四メートル位先のかんおけまで、進んだ。間違いなくあの子の匂いだ……どこから……ふと、かんおけのふたに隠れた赤い何かが目に留まる。思わず手に取った。あの子のぬいぐるみだ。 「それ、あげるよ」 「ベルっ?」 「お友達になってくれた、あかしね」 「ベル、どこっ? どこにいるの?」 「ここだよ」 「どこ? ねえ、どこ?」  ぐらり、めまいがした。ばいばい。そう言って声は聞こえなくなって、ゆうも後ろに倒れた。倒れた時、かんおけに右手が当たった。その瞬間。が流れ込んできた。  …… 「ベルベッチカ。約束の日だ」 「そうだね。祭りの前の最後の新月だからね……航のお父さんは大丈夫?」 「意識がない。また別に今日おおかみが出た。もうみな抑えられなくなってきてる」 「だから、今日、か」 「大祇祭にお前が必要だ」 「そのために、ロシアからずっと、ずうっと私達を追いかけてきたんだもんね」 「そうだ、私の大切な村の存続のためだ」 「あ、さいごに。あのね。相原のところのあの子にね」 「なんだ?」 「……なんでもない」 「では、服を脱げ」 「……うん」  どすっ。 「──きぃぁぁあああ!」  ……  翌日。令和六年七月八日、月曜日。  あゆみ先生がおっとりと教室に入ってきた。 「はいはーい、みなさん、おはようございます。出席取りますよー。出席取りますよー。相沢ゆうくん」 「……はい」  先生は普段と変わらない様子でクラスメイトの出席を確認していく。たった一人だけ、ゆうの記憶にいるベルだけが、最後まで呼ばれなかった。 「はーい、揃いましたね。ではさんすうの二十五ページを開きましょう」  、日常がまた始まった。 『これで私はもう、大丈夫。……きみの中で生きることにした』  最後にあの子が伝えた言葉が、ずっとずっとゆうの耳からはなれない。



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