【肆ノ弐】
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「ここなら大丈夫そうだ」 五十六時間後。アレクセイとベルベッチカは雪山の中に手入れのされた山小屋を見つけた。荒れ果ててはいない……つまり誰か他のヒトがここに来ている、ということだ。油断は出来ないが、ここ三年血を吸っていないベルベッチカの体力は限界だった。 「休んでいて。シカでも捕ってくる」 彼はそう言うと、吹雪の中へ山小屋から出ていった。 「はあ……」 (疲れた。……とても) 少女は疲弊しきっていた。ヒトから身を隠すのも、おおかみと戦うのも、満月のオリジンから逃げるのも。 ふう、と真っ白い息を吐く。ヒトなら数分で凍死しているだろう。けれど新月のオリジン、ベルベッチカなら平気だ。……それが、油断を招いた。 「おや、誰もいないと思ったら」 彼じゃない……ヒトだった。ランタンを持った四十過ぎくらいの男だ。彼女はいま、黒の薄いチュニック一枚だ。 (しまった、うとうとしていたら……) 「こんな中そんな格好ってことは、おめえ……ヒトじゃねえな?」 そう言うと、男は手を伸ばしてきた。 アレクが悲鳴を聞いた時、二キロは離れていた。だから、ベルベッチカからもらった新月の力で全力でかけつけたが、深い雪に足を取られた。思いっきりドアを蹴破ると、半裸にされた愛しい少女が犯されそうになっていた。男の首を二秒で落とすと、彼女が叫んだ。 「なんで殺したんだ! どうして!」 「え? だって、殺さなかったら、君は……」 「なんで……なんで!」 「君に酷いことをしようとしたんだぞ」 「殺すのはいやだ! もう、殺すのはいやなんだよぉ!」 そう言うと、パニックを起こしている彼女は彼の腕の中で、じたばたと暴れた。 「もういやだ、もういやだーっ!」 男にはもう、抱きしめる事しか出来なかった。 夜遅く、目が覚めたアレクセイの前で、ベルベッチカは服を脱いだ。 赤い洋服のぬいぐるみが、抱き合う二人を静かに見守っていた。 …… 令和六年九月四日、水曜日。日本、岩手県、大祇村。 「ゆう?」 翔が覗きこんでくる。机でつっぷしていたから。 「どっか痛いの?」 「あ、いや、ちょっとお腹が。……大丈夫」 「帰るべ?」 「あ、ちょっと待って、ちょっとトイレ」 ゆうは男子トイレにかけこんだ。便座に座り、考える。 (始祖……始祖は誰だ?) 男か女かもわからない、顔もわからない。ということは、歳もわからないのだろうか。 『そうだよ』 「ベル!」 聞こえてきた愛しい声に、トイレの個室でひとり声を上げた。 『私たちも、きみが始祖と呼ぶモノに追われていた』 「ベルは見たの?」 『……うん、見たよ』 「見たのっ? 誰、誰だった?」 ゆうは食い気味に聞くが、愛しい少女の声は暗い。 『それが……見たはずなんだけれど……わからないんだ。必死に逃げる旅の途中、捕まったんだ。そして、私のこの世でいちばん大切なものも取り上げられた。そして、この村に連れてこられた』 「それが、この前の……転校生?」 今日は、新しいお友達が、このクラスに入ることになりました。あの日のあゆみ先生の言葉が浮かぶ。 『そう。愛しいきみの転校生になった。きみと会った最後の日。胸に十字架の杭を打たれた……でも……それが誰だったのか、その記憶だけがすっぽりと無いんだ』 「そんなことが……」 『出来得る。私たち新月のモノは、かんだ相手を洗脳できる』 「僕のことも?」 『したろ? たましいのとりこに』 ……そうだった。ゆうは、嬉しくてほっぺたが赤くなった。 『同じことが、オリジン……始祖にも出来ると思われる。つまり、見たことを忘れさせるんだ』 あのさ、とゆうは記憶をたどりながら言葉を紡いだ。 「あの部屋のかんおけの前で、ベルの記憶を聞いたんだよね……胸に杭を打たれる瞬間の」 『……うん。覚えているよ。きみの記憶は私の記憶だから』 「あの時の声、男の人だったけど」 『あれも、改ざんされていると思ってくれて間違いない。女だったかもしれないし、本当に男の声だったのかもしれない』 途方に暮れる。見たものや記憶すら書き換えられる存在と闘わなければならないなんて。 「……早く君をとりもどさなきゃ」 『私はこのままでもいいよ。愛するきみといっしょにいられる。思っているより心地よくてね』 「僕は、ベルに会いたいんだ。一刻も早く」 『……好きにするといいよ。きみにあげた新月の始祖の力があれば可能だ』 「ゆう? 誰と話してんの」 「あ……ああ、なんでもない」 「てか、うんこ長すぎない?」 ゆうはかあっと顔が赤くなった。 「いいから! あっちで待っとけよ!」 「……ベル、必ず君を取り戻すよ。……例えクラスのみんなを殺すことになっても」 『……誰かを殺すのは、本当にもういやなんだけどな……』 ベルが頭の中で小さく呟いた。
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