【肆ノ伍】

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「ベルベッチカ!」  呼ばれた少女は振り返る。 「この村はもうダメだ、逃げよう!」 「でもアレク……どこへ? もう逃げきれないよ……それに」  ベルベッチカは目を伏せた。 「おおかみなら、私でも相手できるよ」 「だめだ、君は身重なんだぞ。それに、『オリジン』がいる。僕らでは勝てないっ!」  もうすぐ母になる少女は大きくなったお腹をさする。 「大丈夫だよ。私が必ず、守ってあげる」 「あおおおぉぉぉん──!」 「くそ、居場所がバレた! こっちだ!」 「あ、まってくれ」  赤い服のぼろぼろのぬいぐるみをベッドの枕元から手に取った。 「……うん、大丈夫。ベルは、大丈夫……」 「……ベルベッチカ……」 「オリジンだ! すぐ近くまで来てるっ。早くっ! こっちだ! 裏口から逃げよう!」  地を這うような低い声を聞いて、彼は焦る。 「今度は……どこまで逃げるの?」 「トーキョーだ! ジャパンの。ウラジオストクからホッカイドー行きの船が出てるはずだ。とにかく、裏に止めてあるクルマまで走れ!」  アレクに手を引かれ、雪道を走る。ベルベッチカは自分の居た場所を振り返る。雪の積もった、白い家。ようやく手にしたはずだった、暖炉のある暖かい我が家。  ぱりん、ぱりんぱりん。  おおかみの手に落ちた我が家の、ガラスが割れる音がする。 (ああ……今度こそ大丈夫だと思ったのに……)  彼女の目に涙が浮かぶ。パートナーが開けてくれた黒のSUVのドアに滑り込んだ。 「ほら、乗って!」 「駅まで百キロある。……無理だよ」 「ガソリンはある。大丈夫だ!」  がんっ、SUVが大きく揺れる。 「きゃあっ」 「くそ、おおかみだっ!」  彼は必死にキーを回す。が、寒さで中々エンジンに点火しない。  がんっ、がんがんっ。 「……ベルベッチカ……見ツケタゾ……」 「ええい、かかれ、かかれ!」  きゅるきゅるきゅる。  きゅるきゅるきゅるきゅる。──ぶろろん! 「かかったっ!」  アレクはアクセルを全力で踏み込んだ。どがっ、どがっ。フロントガラスに血がはねる。おおかみを二体はねた。  もう一度、ベルベッチカは二人の……いや三人のものになるはずだった家を振り返る。一階から火が出ている。またたく間に広がって、彼女の家を焼いていく。  その赤い光で網膜を焼き焦がしながら、吸血鬼の少女は涙に咽んだ。  ……  令和六年九月九日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。 「なあ、なんでいつも帽子なの?」  翔が、一時間目の社会の時間、後ろに座るゆうを見ながらひそひそ聞いてきた。 「なんでって……別にいいじゃん」 「なぞだよな。教室の中でも被ってるべ」 「はーい、そこ、おしゃべりしないですよー。ゆうくん。教科書六十五ページ読んでください」 「え、あ、はい! ……室町時代の後は戦国時代といい、各地の大名が……」  …… 「やめろって!」  ゆうは、帽子をそっと取ろうと手を伸ばしていた翔の手を払った。そのせいで、翔が手に持っていたアイスが、角田屋の玄関先の床に落ちた。 「あー! おれのなけなしのアイスがー!」 「ふん。翔の行動はお見通しなんだよっ」 「でも、ゆうちゃん、どしていっつもそれ被ってるの?」 「あー、それボクも気になるー!」  ギャラリー達がわいわいお店の前で騒ぐ。 「いいの。僕には必要なんだ。……翔、次取ろうとしたら殴るからな」  そんなあ、と翔が情けない声を出す。 「いこ!」  ゆうは翔を置いて、女子二人を連れて角田屋を出た。 「でもあたし、ゆうちゃんの髪、好きだけどな」 「ボクも! 綺麗だよね」  ゆうは大きなため息をついて、女子らを睨んだ。 「お前たちまで、なんだよ。いやだと言ったらいやなんだ。こんど言ったら、二度とおごってやんない」  えー、沙羅と美玲が残念そうに嘆く。 「じゃあね」  ……  がらがらっ。ゆうは、家の扉を開けた。 「おかえり。あら、翔くんは?」 「来ない」  そう言って、とんとんと階段を登って自分の部屋に入った。帽子を取って、机の上に置く。  細身の姿見がある。前に立つがゆうの姿が映ることはない。 『そしたら、聞こえたの。泣き声が』 『本殿の脇、洞窟の入り口の赤い柵の下に、オレンジのダウンの上着に包まれた、まだへその緒も付いている小さな赤ちゃんが、冷たい石畳の上に置かれていたんだ』 『まさか……それって……』 『ああ、そうだ。ゆう、お前だ』  はあ。今日はため息ばかりだ。  何も映らない鏡の前でほっぺたを触る……とても柔らかい。沙羅のみたいだ。嫌だった、翔みたいになりたかった。やんちゃで、元気いっぱいで。男の子らしくて。 「……はあ」  もう深く一度ため息をつきながら、



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「ベルベッチカ!」  呼ばれた少女は振り返る。 「この村はもうダメだ、逃げよう!」 「でもアレク……どこへ? もう逃げきれないよ……それに」  ベルベッチカは目を伏せた。 「おおかみなら、私でも相手できるよ」 「だめだ、君は身重なんだぞ。それに、『オリジン』がいる。僕らでは勝てないっ!」  もうすぐ母になる少女は大きくなったお腹をさする。 「大丈夫だよ。私が必ず、守ってあげる」 「あおおおぉぉぉん──!」 「くそ、居場所がバレた! こっちだ!」 「あ、まってくれ」  赤い服のぼろぼろのぬいぐるみをベッドの枕元から手に取った。 「……うん、大丈夫。ベルは、大丈夫……」 「……ベルベッチカ……」 「オリジンだ! すぐ近くまで来てるっ。早くっ! こっちだ! 裏口から逃げよう!」  地を這うような低い声を聞いて、彼は焦る。 「今度は……どこまで逃げるの?」 「トーキョーだ! ジャパンの。ウラジオストクからホッカイドー行きの船が出てるはずだ。とにかく、裏に止めてあるクルマまで走れ!」  アレクに手を引かれ、雪道を走る。ベルベッチカは自分の居た場所を振り返る。雪の積もった、白い家。ようやく手にしたはずだった、暖炉のある暖かい我が家。  ぱりん、ぱりんぱりん。  おおかみの手に落ちた我が家の、ガラスが割れる音がする。 (ああ……今度こそ大丈夫だと思ったのに……)  彼女の目に涙が浮かぶ。パートナーが開けてくれた黒のSUVのドアに滑り込んだ。 「ほら、乗って!」 「駅まで百キロある。……無理だよ」 「ガソリンはある。大丈夫だ!」  がんっ、SUVが大きく揺れる。 「きゃあっ」 「くそ、おおかみだっ!」  彼は必死にキーを回す。が、寒さで中々エンジンに点火しない。  がんっ、がんがんっ。 「……ベルベッチカ……見ツケタゾ……」 「ええい、かかれ、かかれ!」  きゅるきゅるきゅる。  きゅるきゅるきゅるきゅる。──ぶろろん! 「かかったっ!」  アレクはアクセルを全力で踏み込んだ。どがっ、どがっ。フロントガラスに血がはねる。おおかみを二体はねた。  もう一度、ベルベッチカは二人の……いや三人のものになるはずだった家を振り返る。一階から火が出ている。またたく間に広がって、彼女の家を焼いていく。  その赤い光で網膜を焼き焦がしながら、吸血鬼の少女は涙に咽んだ。  ……  令和六年九月九日、月曜日。日本、岩手県、大祇村。 「なあ、なんでいつも帽子なの?」  翔が、一時間目の社会の時間、後ろに座るゆうを見ながらひそひそ聞いてきた。 「なんでって……別にいいじゃん」 「なぞだよな。教室の中でも被ってるべ」 「はーい、そこ、おしゃべりしないですよー。ゆうくん。教科書六十五ページ読んでください」 「え、あ、はい! ……室町時代の後は戦国時代といい、各地の大名が……」  …… 「やめろって!」  ゆうは、帽子をそっと取ろうと手を伸ばしていた翔の手を払った。そのせいで、翔が手に持っていたアイスが、角田屋の玄関先の床に落ちた。 「あー! おれのなけなしのアイスがー!」 「ふん。翔の行動はお見通しなんだよっ」 「でも、ゆうちゃん、どしていっつもそれ被ってるの?」 「あー、それボクも気になるー!」  ギャラリー達がわいわいお店の前で騒ぐ。 「いいの。僕には必要なんだ。……翔、次取ろうとしたら殴るからな」  そんなあ、と翔が情けない声を出す。 「いこ!」  ゆうは翔を置いて、女子二人を連れて角田屋を出た。 「でもあたし、ゆうちゃんの髪、好きだけどな」 「ボクも! 綺麗だよね」  ゆうは大きなため息をついて、女子らを睨んだ。 「お前たちまで、なんだよ。いやだと言ったらいやなんだ。こんど言ったら、二度とおごってやんない」  えー、沙羅と美玲が残念そうに嘆く。 「じゃあね」  ……  がらがらっ。ゆうは、家の扉を開けた。 「おかえり。あら、翔くんは?」 「来ない」  そう言って、とんとんと階段を登って自分の部屋に入った。帽子を取って、机の上に置く。  細身の姿見がある。前に立つがゆうの姿が映ることはない。 『そしたら、聞こえたの。泣き声が』 『本殿の脇、洞窟の入り口の赤い柵の下に、オレンジのダウンの上着に包まれた、まだへその緒も付いている小さな赤ちゃんが、冷たい石畳の上に置かれていたんだ』 『まさか……それって……』 『ああ、そうだ。ゆう、お前だ』  はあ。今日はため息ばかりだ。  何も映らない鏡の前でほっぺたを触る……とても柔らかい。沙羅のみたいだ。嫌だった、翔みたいになりたかった。やんちゃで、元気いっぱいで。男の子らしくて。 「……はあ」  もう深く一度ため息をつきながら、



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