【肆ノ肆】

26/72





 新しい家の可愛いドアを開けるなり、アレクが駆け寄り、聞いてきた。 「お医者さん、なんだって?」 「ふふふ。聞きたいかい? 私、今日そらを飛べるかもしれない」 「新月でもないのに?」 「ふふふ。、だって」  アレクは、しばらく何も言わずにぼうっとしている。そんな彼に、ベルベッチカは耳打ちする。 「赤ちゃんだよ。ふたりの」 「……ええっ!」  間の抜けた声を出す新しく父親になる彼に、少女ははにかんで、言った。 「ねえ、キスしておくれよ」  ふたりは唇を重ねた。  新しいお家に、暖かい暖炉。優しい恋人に、お腹に新しく宿った命。六百九十七年生きてきて、初めて感じる心の底からの、安堵。  それから、約半年の間。  赤ちゃんの靴下を編んだ。手袋を編んだ。ベビーベッドを、彼が作った。  お腹が大きくても、彼は変わらず愛してくれた。綺麗だよと髪を撫でてくれた。  幸せに……時間は過ぎていった。  六百九十七年の中で、いちばん長い──そしていちばん一瞬の──半年だった。  ……  令和六年九月六日、金曜日。日本、岩手県、大祇村。 「こうさか亭にいこうか」  今日はお父さんが早く帰ってきた。お母さんも、晩ごはんは何も作っていない。今日は大切な日だから。……二人の、けっこん記念日。毎年九月六日はこうさか亭にディナーを食べに行く。ゆうの家は決して裕福な家では無い。そしてこうさか亭は、比較的高めのお店だ。だから、けっこん記念日やゆうのお誕生日に行くのだ。 「ゆう、行くぞ」  姿見を見ながら、ゆうは髪を帽子に入れて、目深に被った。 「うん。……よし。今行くー」  ゆうはとんとんと、階段を降りていった。  ……  こうさか亭は下町にあるから、少し歩く。学校までは、山道を下って田んぼに出て、角田屋を通った先。ふだん遊ぶ神社にはそのまま真っ直ぐだけど、下町は学校前の丁字路を左に曲がって、田んぼと小川に沿って十五分ほど下った先にある。上町と下町の境界付近に立つ数少ない信号を過ぎると、下町だ。こうさか亭のようなレストラン、郵便局、銭湯、そして村役場。下町の方が人口が多く、航や結花は、ここから大祇小学校に通っている。  こうさか亭は、一階部分が茶色いレンガ、二階は白い壁、屋根はオレンジの瓦でできた、山小屋風のおしゃれな一軒家だ。香坂結花。おしゃまでおませさんな子で、沙羅の次くらいに美人な子だ。我が家の結婚記念日は毎年こうさか亭が恒例なので……  からんからん。 「いらっしゃいませ、相原くん」  ……でた。メイド服姿の結花が出てきた。メイド服といっても、コスプレみたいな安っぽいものじゃない。二年生の時亡くなった結花のお母さんが若いころ着ていた、シックなデザインのものだ。でいちばん大人っぽく、背も高い結花だ。シックな黒と白のツートンのメイド服がとても良く似合う。  ゆうは目を上手く合わせられなかった。目を合わせたら、真っ赤な顔を見られてしまう。どぎまぎしていると…… 「あらー、お久しぶりー! 相変わらず美人ねえ!」  お母さんナイス! おかげで赤い顔を見られずに済んだ。 「ありがとうございます!」 「お待ちしてました。ささ、ご案内します」  結花のお父さんに案内されて、店の奥の個室に案内された。山奥の村にあるとは思えないほど、きれいな個室だった。ステンドグラスみたいな窓から、テーブルの上の小物まで、結花のお父さんのこだわりが透けて見える。 「まあ、きれいなマリーゴールド」  んー。んー。お母さんは鼻歌交じりに上機嫌だ。……いつもの記念日より、機嫌がいいように見える。 「お待たせいたしました」  あらかじめお母さんが注文していた料理が運ばれてきた。毎年、同じものを注文している。  お父さんはサーロインステーキ。ゆうは、ビーフシチュー。お母さんは、白身魚のムニエル。  ……のはずなのだが、今日はサーロインステーキだ。 「お腹減っちゃって」  そう言ってペロリと食べてしまった。  食べれないでいると、お母さんが紙パックのトマトジュースを出してきた。 (はあ。ビーフシチュー、食べたかったな……)  そう思いながらちゅうちゅうとトマトジュースを吸った。と、お母さんを見ると、サーロインステーキを食べたのに、一人前のビーフシチューまで食べてしまった。もともと食が細くて痩せているひとだ。だからゆうはびっくりした。  こんこん。  結花がピッチャーを持って入ってきた。慌ててトマトジュースを隠す。 「あれ。相原くん、食べてくれた?」 「あ、ああ、美味しかったよ、ありがとう!」  ゆうは取り繕うが、バレずに済んだ。 「今日のビーフシチューね、わたしが仕込んだんだよ! 相原くん大好きでしょ」  そう言いながら、減ったグラスに水を注いだ。 「美味しかったのなら、良かった! また週明け月曜日ね!」  結花は、にっこり笑って、おじぎをして、個室から出た。 「……食べたかったなあ……ビーフシチュー」 「まあ、暗い顔しないで。今日はいいニュースがあるのよ」 「静、なんだ、ニュースって」 「ふふ」  お母さんはすうっと息を吸って、そして言った。 「赤ちゃんがね、出来たの」



write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!


前のエピソード 【肆ノ参】

【肆ノ肆】

26/72

 新しい家の可愛いドアを開けるなり、アレクが駆け寄り、聞いてきた。 「お医者さん、なんだって?」 「ふふふ。聞きたいかい? 私、今日そらを飛べるかもしれない」 「新月でもないのに?」 「ふふふ。、だって」  アレクは、しばらく何も言わずにぼうっとしている。そんな彼に、ベルベッチカは耳打ちする。 「赤ちゃんだよ。ふたりの」 「……ええっ!」  間の抜けた声を出す新しく父親になる彼に、少女ははにかんで、言った。 「ねえ、キスしておくれよ」  ふたりは唇を重ねた。  新しいお家に、暖かい暖炉。優しい恋人に、お腹に新しく宿った命。六百九十七年生きてきて、初めて感じる心の底からの、安堵。  それから、約半年の間。  赤ちゃんの靴下を編んだ。手袋を編んだ。ベビーベッドを、彼が作った。  お腹が大きくても、彼は変わらず愛してくれた。綺麗だよと髪を撫でてくれた。  幸せに……時間は過ぎていった。  六百九十七年の中で、いちばん長い──そしていちばん一瞬の──半年だった。  ……  令和六年九月六日、金曜日。日本、岩手県、大祇村。 「こうさか亭にいこうか」  今日はお父さんが早く帰ってきた。お母さんも、晩ごはんは何も作っていない。今日は大切な日だから。……二人の、けっこん記念日。毎年九月六日はこうさか亭にディナーを食べに行く。ゆうの家は決して裕福な家では無い。そしてこうさか亭は、比較的高めのお店だ。だから、けっこん記念日やゆうのお誕生日に行くのだ。 「ゆう、行くぞ」  姿見を見ながら、ゆうは髪を帽子に入れて、目深に被った。 「うん。……よし。今行くー」  ゆうはとんとんと、階段を降りていった。  ……  こうさか亭は下町にあるから、少し歩く。学校までは、山道を下って田んぼに出て、角田屋を通った先。ふだん遊ぶ神社にはそのまま真っ直ぐだけど、下町は学校前の丁字路を左に曲がって、田んぼと小川に沿って十五分ほど下った先にある。上町と下町の境界付近に立つ数少ない信号を過ぎると、下町だ。こうさか亭のようなレストラン、郵便局、銭湯、そして村役場。下町の方が人口が多く、航や結花は、ここから大祇小学校に通っている。  こうさか亭は、一階部分が茶色いレンガ、二階は白い壁、屋根はオレンジの瓦でできた、山小屋風のおしゃれな一軒家だ。香坂結花。おしゃまでおませさんな子で、沙羅の次くらいに美人な子だ。我が家の結婚記念日は毎年こうさか亭が恒例なので……  からんからん。 「いらっしゃいませ、相原くん」  ……でた。メイド服姿の結花が出てきた。メイド服といっても、コスプレみたいな安っぽいものじゃない。二年生の時亡くなった結花のお母さんが若いころ着ていた、シックなデザインのものだ。でいちばん大人っぽく、背も高い結花だ。シックな黒と白のツートンのメイド服がとても良く似合う。  ゆうは目を上手く合わせられなかった。目を合わせたら、真っ赤な顔を見られてしまう。どぎまぎしていると…… 「あらー、お久しぶりー! 相変わらず美人ねえ!」  お母さんナイス! おかげで赤い顔を見られずに済んだ。 「ありがとうございます!」 「お待ちしてました。ささ、ご案内します」  結花のお父さんに案内されて、店の奥の個室に案内された。山奥の村にあるとは思えないほど、きれいな個室だった。ステンドグラスみたいな窓から、テーブルの上の小物まで、結花のお父さんのこだわりが透けて見える。 「まあ、きれいなマリーゴールド」  んー。んー。お母さんは鼻歌交じりに上機嫌だ。……いつもの記念日より、機嫌がいいように見える。 「お待たせいたしました」  あらかじめお母さんが注文していた料理が運ばれてきた。毎年、同じものを注文している。  お父さんはサーロインステーキ。ゆうは、ビーフシチュー。お母さんは、白身魚のムニエル。  ……のはずなのだが、今日はサーロインステーキだ。 「お腹減っちゃって」  そう言ってペロリと食べてしまった。  食べれないでいると、お母さんが紙パックのトマトジュースを出してきた。 (はあ。ビーフシチュー、食べたかったな……)  そう思いながらちゅうちゅうとトマトジュースを吸った。と、お母さんを見ると、サーロインステーキを食べたのに、一人前のビーフシチューまで食べてしまった。もともと食が細くて痩せているひとだ。だからゆうはびっくりした。  こんこん。  結花がピッチャーを持って入ってきた。慌ててトマトジュースを隠す。 「あれ。相原くん、食べてくれた?」 「あ、ああ、美味しかったよ、ありがとう!」  ゆうは取り繕うが、バレずに済んだ。 「今日のビーフシチューね、わたしが仕込んだんだよ! 相原くん大好きでしょ」  そう言いながら、減ったグラスに水を注いだ。 「美味しかったのなら、良かった! また週明け月曜日ね!」  結花は、にっこり笑って、おじぎをして、個室から出た。 「……食べたかったなあ……ビーフシチュー」 「まあ、暗い顔しないで。今日はいいニュースがあるのよ」 「静、なんだ、ニュースって」 「ふふ」  お母さんはすうっと息を吸って、そして言った。 「赤ちゃんがね、出来たの」



write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!