【伍ノ参】

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「あらどうも、お越しいただきありがとうございます。すいません、お電話してしまい」  からから、とききょう先生が校庭側の窓を開ける。 「いえいえ、こちらこそ申し訳ございませんでした……ゆうちゃん。大丈夫?」  お母さんがゆうの名を呼びながら入ってきた。ゆうは泣きはらして真っ赤な目でお母さんを見た。お母さんはベッドから体を起こしたゆうを抱きしめた。 「生理……来ちゃったか……」 「いちばん……なって欲しくなかったのが来ちゃった」 「そうね……そうだよね。ゆうちゃんは……男の子だもんね」  お母さんの声が震えている。  涙してくれている人がいる……ゆうは、冷えきった心が少し温まった。 「帰ろっか……ありがとうございました」 「いえいえ。お気をつけて。保健室ではゆうくんの心の悩みも受け付けておりますので」  お母さんはききょう先生におじぎをして、ゆうの手を取った。校門入ってすぐのところに、お母さんのクルマが停めてある。スズキのクロスオーバーSUVの軽自動車。お母さんの好きな緑色だ。丸いヘッドライトがくりくりした目みたいで可愛くて、ゆうも好きだった。はい、とお母さんが助手席のドアを開けた。 「……シート、汚れちゃう」 「気にしないわ。いいのよ」 「僕、いやだ」  そう言うと、お母さんは後部ハッチを開けて、世界的に有名なネズミのキャラクターのタオルケットを持ってきた。そして、助手席にしいた。 「はい、どうぞ、ゆうちゃん」  ゆうが乗ったのをしっかり確認して、ドアを閉めた。ゆうは、ドアにもたれて、目をつぶった。 「そうしてるといいわ」  お母さんはエンジンをかけると、そう言った。  …… 「アレク、アレク!」  ジャパンのトーホク地方の、どこか。シンカンセンの中で見つかって、モリオカで降りて、それから何日も、何日も逃げ回った、どこかの山奥。雪が降っている。  目の前では、大好きなアレクがお腹に大穴を空けて、口から滝のように血を流している。真白な道路に、真っ赤な血が広がる。ベルベッチカは、泣き叫んでいる。腕の中にエレオノーラを抱きながら。 「おぎゃあ。おぎゃあ」 「ベル……ベッチカ……にげ……ろ」 「いやだ! きみを置いて逃げるなんてっ」 「……ベルベッチカ……」  きっ。二十メートル先にいる満月のオリジンをにらみつけた。  けれどどんなににらんでも、真っ黒な輪郭以外その姿をうかがい知ることは出来ない。 「にげろ……君では……勝てない……エレオノーラを……守るんだ……」  ごほっ……  そう言うと、アレクは動かなくなった。 「よくも……よくもアレクをっ!」  ベルベッチカの目が赤く光らせ、目に角を立ててオリジンをにらむ。  アレクのオレンジのダウンにくるまれたエレオノーラを、アレクの隣に置いた。 「おぎゃあ。おぎゃあ」  ばきん、と右手の新月の爪を思いっきり立てた。肉食動物の爪だ。  ……とん。  そして二十メートルの距離を目にも留まらぬ早さで縮めると、オリジンの首目掛けて振るった。  ざんっ。  手応えがあった。 (やったかっ?)  けれど、ベルベッチカは信じられないくらいの力でなぎ払われた。  ゆうに三十メートルは飛ばされて、道の脇の木に背中を強打した。 「がはっ」  たったの一撃。何年も逃げ続けて来た逃亡生活は、たったの一撃で終了した。オリジンが息も上手くできないベルベッチカの髪をつかんで、言った。心を凍りつかせる程の、低く抑揚のない声で。 「会エテ嬉シイヨ。私ノベルベッチカ」  …… 「わあっ!」  ゆうは飛び起きた。 「着いたわよ」 「あ……寝てた、僕?」 「ええ、ぐっすり」  そういって、お母さんは笑う。ゆうは体を起こして、お母さんを見る。 「僕のこと、なんとも思わないの? こんな、男でも女でもない、僕のこと……」 「なーに言ってんの。あんたが子供でよかったわよ、ゆうちゃん」  お化粧をしてなくて左目の火傷のあとが目立つお母さんは、笑って言った。  涙が、また溢れた。運転席のお母さんの左腕にすがって、泣いた。 「あらあら、今日は泣き虫さんね」 「……いいじゃんか……」 「会えて嬉しいよ。私のエレオノーラ」  びくっ。 「どした?」  夢に見たオリジンの声が、聞こえた気がした。



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「あらどうも、お越しいただきありがとうございます。すいません、お電話してしまい」  からから、とききょう先生が校庭側の窓を開ける。 「いえいえ、こちらこそ申し訳ございませんでした……ゆうちゃん。大丈夫?」  お母さんがゆうの名を呼びながら入ってきた。ゆうは泣きはらして真っ赤な目でお母さんを見た。お母さんはベッドから体を起こしたゆうを抱きしめた。 「生理……来ちゃったか……」 「いちばん……なって欲しくなかったのが来ちゃった」 「そうね……そうだよね。ゆうちゃんは……男の子だもんね」  お母さんの声が震えている。  涙してくれている人がいる……ゆうは、冷えきった心が少し温まった。 「帰ろっか……ありがとうございました」 「いえいえ。お気をつけて。保健室ではゆうくんの心の悩みも受け付けておりますので」  お母さんはききょう先生におじぎをして、ゆうの手を取った。校門入ってすぐのところに、お母さんのクルマが停めてある。スズキのクロスオーバーSUVの軽自動車。お母さんの好きな緑色だ。丸いヘッドライトがくりくりした目みたいで可愛くて、ゆうも好きだった。はい、とお母さんが助手席のドアを開けた。 「……シート、汚れちゃう」 「気にしないわ。いいのよ」 「僕、いやだ」  そう言うと、お母さんは後部ハッチを開けて、世界的に有名なネズミのキャラクターのタオルケットを持ってきた。そして、助手席にしいた。 「はい、どうぞ、ゆうちゃん」  ゆうが乗ったのをしっかり確認して、ドアを閉めた。ゆうは、ドアにもたれて、目をつぶった。 「そうしてるといいわ」  お母さんはエンジンをかけると、そう言った。  …… 「アレク、アレク!」  ジャパンのトーホク地方の、どこか。シンカンセンの中で見つかって、モリオカで降りて、それから何日も、何日も逃げ回った、どこかの山奥。雪が降っている。  目の前では、大好きなアレクがお腹に大穴を空けて、口から滝のように血を流している。真白な道路に、真っ赤な血が広がる。ベルベッチカは、泣き叫んでいる。腕の中にエレオノーラを抱きながら。 「おぎゃあ。おぎゃあ」 「ベル……ベッチカ……にげ……ろ」 「いやだ! きみを置いて逃げるなんてっ」 「……ベルベッチカ……」  きっ。二十メートル先にいる満月のオリジンをにらみつけた。  けれどどんなににらんでも、真っ黒な輪郭以外その姿をうかがい知ることは出来ない。 「にげろ……君では……勝てない……エレオノーラを……守るんだ……」  ごほっ……  そう言うと、アレクは動かなくなった。 「よくも……よくもアレクをっ!」  ベルベッチカの目が赤く光らせ、目に角を立ててオリジンをにらむ。  アレクのオレンジのダウンにくるまれたエレオノーラを、アレクの隣に置いた。 「おぎゃあ。おぎゃあ」  ばきん、と右手の新月の爪を思いっきり立てた。肉食動物の爪だ。  ……とん。  そして二十メートルの距離を目にも留まらぬ早さで縮めると、オリジンの首目掛けて振るった。  ざんっ。  手応えがあった。 (やったかっ?)  けれど、ベルベッチカは信じられないくらいの力でなぎ払われた。  ゆうに三十メートルは飛ばされて、道の脇の木に背中を強打した。 「がはっ」  たったの一撃。何年も逃げ続けて来た逃亡生活は、たったの一撃で終了した。オリジンが息も上手くできないベルベッチカの髪をつかんで、言った。心を凍りつかせる程の、低く抑揚のない声で。 「会エテ嬉シイヨ。私ノベルベッチカ」  …… 「わあっ!」  ゆうは飛び起きた。 「着いたわよ」 「あ……寝てた、僕?」 「ええ、ぐっすり」  そういって、お母さんは笑う。ゆうは体を起こして、お母さんを見る。 「僕のこと、なんとも思わないの? こんな、男でも女でもない、僕のこと……」 「なーに言ってんの。あんたが子供でよかったわよ、ゆうちゃん」  お化粧をしてなくて左目の火傷のあとが目立つお母さんは、笑って言った。  涙が、また溢れた。運転席のお母さんの左腕にすがって、泣いた。 「あらあら、今日は泣き虫さんね」 「……いいじゃんか……」 「会えて嬉しいよ。私のエレオノーラ」  びくっ。 「どした?」  夢に見たオリジンの声が、聞こえた気がした。



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