【弐ノ弐】

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「ゆうちゃん!」  令和六年七月十日、水曜日、七時五十五分。  もうこの時間から太陽は高くて、セミもみんみん鳴いている。真夏のお日さまは、スギ林をぬける道をかんかんと照らした。可哀想に、ミミズが何匹も干からびて死んでしまっている。  そんな暑い朝の通学路、二番目に家の近い沙羅が後ろから声をかけてきた。  樫田沙羅。ツインテールに、いつも赤いリボンのゴムをつけている。八重歯の目立つ歯。背は低くて、百三十あるかないか。ベルに会うまでは、ゆうが会った中でいちばん可愛い女の子だった。 「いこ!」 「うん、いいよ」 「あれ、翔は?」 「ああなんか今日は休むって」  ゆうは帽子を直してはみ出た髪をしまったあと、少し歩くペースを落とした。水色の可愛い靴をはいた隣の女の子に合わせる。 「大祇祭、もうすぐだね! あたし『お膳立て』やるんだよ。緊張するー」  大祇神社の宮司さんなのは彼女の母方のおじいちゃんだ。だから、大祇祭でも重要な役割を任せられているみたいだ。  ……大祇祭。この村で十二年に一度行われるお祭り。村中の人たちを集めて、子供の成長と村人の健康を祈願する……とこの間のプリントで習った。たしか、何かを食べさせられるらしくて、翔はやたら楽しみにしていた。  ゆうは聞きたいことがあったのを思い出した。 「祭で食べるのって、結局なんなの?」  ああ、あのね、そう言ってから説明をはじめた。 「神様がくれる、祝福された食べ物なんだって」 「祝福……?」 「うん、あたしもよく知らないんだけど、神様が狩りで捕ってきたお肉なんだって」 「神様が捕ってきた……なんのお肉なんだろ?」 「さあ。でも今は滅多にとれないって。狩りにももう出ないって言ってたから、普通のお肉とか?」 「そっか。美味しいといいな」 「それが……秘密ね? ……超不味いんだって」 「ええっ、やだなそれ」  ふと自分が今、「飲み込めない」ことに気がついた。今朝も、遅刻するふりをして、朝ごはんをぬいてきた。当日も飲み込めないだろうと思うと、気が滅入った。 「でね、でね。『お膳立て』であたしみんなに配るんだー」  そんなゆうの心を知らない沙羅は、下を向いて嬉しそう……少し、顔が赤い……? 「ゆうちゃんにはなるべく美味しそうなやつあげるからさ……だから」  えへへ、ゆうの方を見たけれと、やっぱりほっぺたを朱に染めている。 「いちばん最初に並んでよ。おねがい」 「うん、わかった。いいよ!」 「やったあ! 約束だかんね!」  ゆうがにっこり笑うと、ぱあっと顔色が明るくなった。んー、んー……ご機嫌になって鼻歌を歌いはじめた。 『気をつけて。くるよ』 「ん? なに?」 「へ? 何が?」  ゆうは彼女を見たが、何も聞こえないのかきょとんとしている。  がさっ……がさがさっ……  突然、右手側の杉林の下り斜面からナニカの音がした。ゆうは足を止めた。 「沙羅」 「ん?」  ゆうの呼びかけに、きょとんとしたまま答える。 「」  がさっ……がさっ……がさっ……  気がつくとあれだけ鳴いていたセミの声がしない。 「……なんかする?」 「しっ」  ……視線を、感じる。 「ぐるるるるるる……」  足音の方を見るが、ちょうど下生えが高くなっていて直接は見えない。でも、うなり声がすぐそばから聞こえはじめた。 「沙羅、お守りお願い」 「わ、わかった……」  彼女はゆっくり赤いランドセルを下ろし、視線をそらさないようにしながら、中を探る。  がさっ……がさっ……  足音は確実に大きくなっている。もう二メートルも離れてないかもしれない。 「はい!」  沙羅がお守りをわたしてきた。十字架の形をした白木で出来たシンプルな形のお守り。二枚の板を貼り合わせて作ってあって、その間に紙がはさまっている。おおかみと出会ったら、難しい筆の字で「子大祇之守護」と書いてある方を向ける……そして三回、となえる。 「おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ」  小さいころから、お母さんから教えてもらっていたように口にした。ぴたりと音がやんだ。 「おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ。おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ」  がさっがさっがさっがさっ……気配が小さくなってゆく。  一分……二分……三分……四分。 「……行った……?」  ふるえる女の子が声をかける。  ……もう、大丈夫だろう。 「……うん」 「はあ、よかったあ……あたしまたもらすとこだった」  沙羅が心底、ほっとして息をはく。 「あ、遅刻しちゃう、急ご!」  そう言うと、走り出した。  ゆうはまだ森の方を見て足を止めたまま、さっき聞こえた声に想いをはせた。 「……ベル……君なの?」  返事は、なかった。  …… 「はいはーい、みなさん、おはようございます。じゃあ、こくごの四十ページを開いてください」  翔に航に茜が今日は休みだった。でもあゆみ先生は、三人が見えてないみたいに授業をはじめた。



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「ゆうちゃん!」  令和六年七月十日、水曜日、七時五十五分。  もうこの時間から太陽は高くて、セミもみんみん鳴いている。真夏のお日さまは、スギ林をぬける道をかんかんと照らした。可哀想に、ミミズが何匹も干からびて死んでしまっている。  そんな暑い朝の通学路、二番目に家の近い沙羅が後ろから声をかけてきた。  樫田沙羅。ツインテールに、いつも赤いリボンのゴムをつけている。八重歯の目立つ歯。背は低くて、百三十あるかないか。ベルに会うまでは、ゆうが会った中でいちばん可愛い女の子だった。 「いこ!」 「うん、いいよ」 「あれ、翔は?」 「ああなんか今日は休むって」  ゆうは帽子を直してはみ出た髪をしまったあと、少し歩くペースを落とした。水色の可愛い靴をはいた隣の女の子に合わせる。 「大祇祭、もうすぐだね! あたし『お膳立て』やるんだよ。緊張するー」  大祇神社の宮司さんなのは彼女の母方のおじいちゃんだ。だから、大祇祭でも重要な役割を任せられているみたいだ。  ……大祇祭。この村で十二年に一度行われるお祭り。村中の人たちを集めて、子供の成長と村人の健康を祈願する……とこの間のプリントで習った。たしか、何かを食べさせられるらしくて、翔はやたら楽しみにしていた。  ゆうは聞きたいことがあったのを思い出した。 「祭で食べるのって、結局なんなの?」  ああ、あのね、そう言ってから説明をはじめた。 「神様がくれる、祝福された食べ物なんだって」 「祝福……?」 「うん、あたしもよく知らないんだけど、神様が狩りで捕ってきたお肉なんだって」 「神様が捕ってきた……なんのお肉なんだろ?」 「さあ。でも今は滅多にとれないって。狩りにももう出ないって言ってたから、普通のお肉とか?」 「そっか。美味しいといいな」 「それが……秘密ね? ……超不味いんだって」 「ええっ、やだなそれ」  ふと自分が今、「飲み込めない」ことに気がついた。今朝も、遅刻するふりをして、朝ごはんをぬいてきた。当日も飲み込めないだろうと思うと、気が滅入った。 「でね、でね。『お膳立て』であたしみんなに配るんだー」  そんなゆうの心を知らない沙羅は、下を向いて嬉しそう……少し、顔が赤い……? 「ゆうちゃんにはなるべく美味しそうなやつあげるからさ……だから」  えへへ、ゆうの方を見たけれと、やっぱりほっぺたを朱に染めている。 「いちばん最初に並んでよ。おねがい」 「うん、わかった。いいよ!」 「やったあ! 約束だかんね!」  ゆうがにっこり笑うと、ぱあっと顔色が明るくなった。んー、んー……ご機嫌になって鼻歌を歌いはじめた。 『気をつけて。くるよ』 「ん? なに?」 「へ? 何が?」  ゆうは彼女を見たが、何も聞こえないのかきょとんとしている。  がさっ……がさがさっ……  突然、右手側の杉林の下り斜面からナニカの音がした。ゆうは足を止めた。 「沙羅」 「ん?」  ゆうの呼びかけに、きょとんとしたまま答える。 「」  がさっ……がさっ……がさっ……  気がつくとあれだけ鳴いていたセミの声がしない。 「……なんかする?」 「しっ」  ……視線を、感じる。 「ぐるるるるるる……」  足音の方を見るが、ちょうど下生えが高くなっていて直接は見えない。でも、うなり声がすぐそばから聞こえはじめた。 「沙羅、お守りお願い」 「わ、わかった……」  彼女はゆっくり赤いランドセルを下ろし、視線をそらさないようにしながら、中を探る。  がさっ……がさっ……  足音は確実に大きくなっている。もう二メートルも離れてないかもしれない。 「はい!」  沙羅がお守りをわたしてきた。十字架の形をした白木で出来たシンプルな形のお守り。二枚の板を貼り合わせて作ってあって、その間に紙がはさまっている。おおかみと出会ったら、難しい筆の字で「子大祇之守護」と書いてある方を向ける……そして三回、となえる。 「おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ」  小さいころから、お母さんから教えてもらっていたように口にした。ぴたりと音がやんだ。 「おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ。おおかみよ ちいさきおおかみのみたまを ゆるしたまえ」  がさっがさっがさっがさっ……気配が小さくなってゆく。  一分……二分……三分……四分。 「……行った……?」  ふるえる女の子が声をかける。  ……もう、大丈夫だろう。 「……うん」 「はあ、よかったあ……あたしまたもらすとこだった」  沙羅が心底、ほっとして息をはく。 「あ、遅刻しちゃう、急ご!」  そう言うと、走り出した。  ゆうはまだ森の方を見て足を止めたまま、さっき聞こえた声に想いをはせた。 「……ベル……君なの?」  返事は、なかった。  …… 「はいはーい、みなさん、おはようございます。じゃあ、こくごの四十ページを開いてください」  翔に航に茜が今日は休みだった。でもあゆみ先生は、三人が見えてないみたいに授業をはじめた。



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