【序】
1/72
「ゆうくんになら、見せてもいいかな。私の、マスクの下」 だれもいないお屋敷の庭の、湿った落ち葉のじゅうたんの上で。友達をおんぶした逸瑠辺さんはゆうにそうとだけ言うと、背を向けた。 「待って、なんで僕にだけ……」 でも逸瑠辺さんは後ろを向いたまま、答えてはくれない。 「ねえ、なんで」 …… 相原ゆうは小学五年生。身長百四十五センチ。いつも青いキャップを目深に被っているのは、コンプレックスを隠すためだ。岩手県の山奥のとある小さな村、大祇村に住んでいる。山に囲まれた、ゆうの小さな世界。大祇村上町の細い山道の途中に、彼の小さな家はある。 井戸水から引いた水は、とても冷たくておいしい。産まれた時から知っている植林されたスギ林の匂いは、林業の盛んなこの地ならではだ。神社のとなりを流れる渓流で、夏になるとイワナやヤマメを釣り上げては、よくお母さんに渡して晩ごはんのおかずにしてもらったものだ。 お父さんはゆうの通う小学校の音楽の先生だ。家にあるヤマハのアップライトピアノで、お母さんも入れて三人でいつも歌った。みんなのお気に入りは、翼をください。家族みんなで歌うと、お母さんはすごく幸せそうに笑う。 友達はみんな小さな頃から仲良しで、毎日たんけんに明け暮れた。なぜか階段の下に鳥居があって、洞窟に続くふしぎな神社。山の上に場違いに建つ、だれもいないなぞの古い洋館。上町と下町をショートカットできるだれも知らないけもの道。村の中は知らないところはないくらいたんけんした。そんな友達と行く学校は一学年に一クラスしかなくて、クラスメイトはみんな幼稚園からずっといっしょの変わらぬ顔ぶれ。 入ってくる人もいなければ、出ていく人もいない。変わらない毎日、ずっと続く学校からの帰り道、村のたんけんとケイドロと家族と歌う日々。閉鎖的、という言葉をまだ知らないゆうには当たり前の日常だった。 …… 「はいはーい、みんな、静かに。……静かにー」 令和六年六月三日、月曜日。大祇小学校、五年一組。朝の会。 担任の小林あゆみ先生は、にぎやかにおしゃべりをする九人に向かって呼びかける。二十七歳、まだけっこんしてない。五年生になって、それまで六年生の担任だったあゆみ先生がゆうのクラスの担任になったと知って、ゆうは心の中でガッツポーズをした。百四十五センチのゆうと対して変わらないくらい小柄なのに、胸はおっきくて、肩まである髪をゆるめにひとつに結んだ、子供みたいな顔の優しい笑顔のみんなのアイドル。おっとりしていて優しくて、男女問わずみんな、彼女が大好きなのだ。 「けっこんしてください!」 野球少年みたいな、ぼうず頭でゆうより背の高いとなりの家の翔が、五年生の初めの日にでかい声でそうこくはくして、クラス中の笑いものになった。くそう、ライバルがいたかと、ゆうは心の中で悔しがった。 そんなあゆみ先生が、みんなの前に立って注目を集める。 「今日は、新しいお友達が、このクラスに入ることになりました」 九人のクラスが一瞬だけザワついた。転校生なんて、少年マンガの中だけの出来事だと思っていたから、翔もゆうを見て「まじで」とちっちゃな声で漏らした。 「へるべさん」 かたかたかたかた、と教室の白い金属製のドアがやけにゆっくり開いた。 「大丈夫ですよ。入ってらっしゃい」 見ると、女の子が立っている。……一歩……二歩。その子が教室に入り、歩くたび、クラスのざわめきが大きくなった。ゆうも、息を呑んだ。その子は先生の横に、ふわり、と浮きそうに立った。いや、本当に浮いているのかもしれない。 (ホントにいたんだ……) かっかっかっ、小林先生が黒板にとてもていねいな字で名前を書いた。 逸瑠辺 千夏。 「へるべちかさんです。みんな、なかよく……」 くるりと後ろを向いて、その子は黒板にあったもうひとつのチョークで、名前の下に文字を書き加えた。 逸瑠辺 千夏 リリヰ。 「……ベルベッチカ・リリヰです」 腰まであるくせの強い金髪。空の色みたいなキラキラした水色の瞳。限りなく薄い色の肌。ちょっとだけあるそばかす。百六十はありそうな身長。バレリーナみたいな手足。かぜだろうか、マスクをしている。学校の制服がまだなのか、青いリボンの付いた、レースのえりの白いひざまでのワンピースを着ている。 先生が紹介したその女の子は、村のきれいなあの渓流みたいな信じられないくらい透き通った高い声で静かに、そう名乗った。ザワついていた教室がしん、と静かになった。 「……はい、みなさん。千夏さんは、ロシアからはるばるいらっしゃったんですよ。なかよくしてくださいね」 「……よろしく、お願いします」 マスクのその子は、小さな声で不器用そうにはにかんだ。 (天使じゃん──!) 相原ゆうはその日、心臓をもっていかれた。