【拾ノ伍】

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 さすがに七百年近く生きた新月の始祖は手強かった。祭りまで時間がまだあるとはいえ、日本まで追い込むのに五年かかった。  ウラジオストクで足跡が途絶えた。だが最後に襲撃した際に赤ん坊のにおいがした。妊娠しているようだ。ならば捕獲は近い。港湾関係者をしらみつぶしに当たり、貨物船に密航していることを聞き出した。 (小樽……北海道か)  急いで飛行機に乗り込み、港で待ち構えた。運ばれるのは荷物満載のコンテナばかり。 (私のベルベッチカ。逃がさないよ。満月の目、起動……索敵……発見)  港湾に隣接する貨車に乗り込んだようだ。愛しいベルベッチカは、大きなお腹を抱え、苦悶の表情で足を進めていた。歩くのもやっとに見える。特急電車に乗り込み、新青森発の東北新幹線に先回りした。パートナーのオレンジのダウンは目立った。貨車で出産したのか、裸の赤ん坊も抱えている。追跡は容易だった。そして、盛岡に着くころを見計らって行動を開始した。  相手も新月の目を持っている。満月の目で索敵すれば気付かれるだろう。「」満月の目で三人を捕捉した。  慌てて盛岡で降りる親子。けれども可哀想に。ベルベッチカは満身創痍だ。必死に気配を消してローカル線に乗り込んだが、見え見えだ。少しづつ自分の大祇村に近づいていることに、興奮を抑えられない。  そして、雪の降る山道。大祇村まで五キロの所で確保した。  付き添いの新月のモノは、一撃で葬った。始祖ベルベッチカも戦闘不能だ。後はこの新月のモノを捕獲するだけ。その時。 「おぎゃあ。おぎゃあ」  赤ん坊の鳴き声が聞こえた。遠い、遠い昔。狼の母様達と過ごした記憶が唐突によみがえる。姉は、その赤ん坊を抱いた。なぜだかはわからない。 「この子は今日から私たちの子供よ」 「おぎゃあ。おぎゃあ」 「……エレオノーラを、返せ……」 「何言ってるの。絶対、絶対嫌よ。この子は、この子はもう私の。絶対に手放すもんですか」 「エレオノーラぁぁ!」  背中で愛しいベルベッチカの声を聞きながら、姉は愛しい愛しい赤ん坊を抱いて村へ戻った。  ちょうどその頃、流産で赤ん坊を失ったヒトの父親が居たのを、知っていた。 「誰か? そこに誰かいるのか?」  素顔は出さなかった。夕闇に溶け込み、男の心を、誘う。 「欲しい? 子供が欲しい?」  あくまで淡々と、心を殺して心の隙を突く。 「明日、大祇神社の本殿に、礼拝なさいな。子供を授けてあげる……その代わり、対価をもらうわ」  村の男はすべて姉妹のしもべ。与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。  ……  翌日。大祇神社仮本殿。二人のヒトが礼拝している。 「おぎゃあ。おぎゃあ」  姉が置いた赤ん坊に、男の妻はさっそく反応を示した。 「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」  男は赤ん坊を拾うことに躊躇している。 「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」  しまいには警察に届けるなどと言う。この村には警察なんて在りはしないのに。 「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」 「でも、対価が……」  そして赤ん坊を抱く女の方のヒトに、神社の階段を上りきるタイミングで、やぶの中から石つぶてを知覚できない速度でくるぶしに当てた。女は百段近くある階段から七十七段目まで落ちた。狙った通り、赤ん坊を必死で守って、最後に後頭部を打ち付けてくれた。 「静、しっかりしろ、静!」 「あなた……この子を……」  ああ、可哀そうに。女の方は脳挫傷で助からない。でも、大丈夫。 「取り戻したい? 対価を? それなら」  姉は、相原静の姿に成って、相原毅の前に現れた。そしてやさしく微笑んだ。 「今日からその子の母親は、私ね」  与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。  ……  全ては計画通りに進んだ。手中に収めた赤ん坊はすくすくと育った。  捕らえたベルベッチカは十一年後に切り刻んで、みんなに分け与える。  村は、このまま繁栄することだろう。  姉は気づかないうちに、二人の家族に情が移るようになっていた。娘は、自己認識に若干の不具合があるようだったが、周囲からの理解も得られた。幼稚園でも学校でも、居場所を見つけられたようだ。娘から息子に変わったが、それでも良いと思えた。  夫の弾くピアノも、大好きだった。夫の引く伴奏に合わせて、翼をくださいという息子から教えてもらった曲を歌った。自由に焦がれ続けていた姉にはぴったりの歌だった。結婚記念日に三人でそれを歌った。歌うことがこんなに楽しくて幸せだとは思わなかった。  息子とも、夫とも、幸せいっぱいの日々が続いた。  夫との間に新しく赤ん坊まで授かった。姉は、ようやく妹と同じ、陽の光を得られる幸せを手に入れた。  全ては。全ては計画通りに進んでいた。そのはずだった。  ……だがある時、唐突に。 「姉」は恐れた。



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 さすがに七百年近く生きた新月の始祖は手強かった。祭りまで時間がまだあるとはいえ、日本まで追い込むのに五年かかった。  ウラジオストクで足跡が途絶えた。だが最後に襲撃した際に赤ん坊のにおいがした。妊娠しているようだ。ならば捕獲は近い。港湾関係者をしらみつぶしに当たり、貨物船に密航していることを聞き出した。 (小樽……北海道か)  急いで飛行機に乗り込み、港で待ち構えた。運ばれるのは荷物満載のコンテナばかり。 (私のベルベッチカ。逃がさないよ。満月の目、起動……索敵……発見)  港湾に隣接する貨車に乗り込んだようだ。愛しいベルベッチカは、大きなお腹を抱え、苦悶の表情で足を進めていた。歩くのもやっとに見える。特急電車に乗り込み、新青森発の東北新幹線に先回りした。パートナーのオレンジのダウンは目立った。貨車で出産したのか、裸の赤ん坊も抱えている。追跡は容易だった。そして、盛岡に着くころを見計らって行動を開始した。  相手も新月の目を持っている。満月の目で索敵すれば気付かれるだろう。「」満月の目で三人を捕捉した。  慌てて盛岡で降りる親子。けれども可哀想に。ベルベッチカは満身創痍だ。必死に気配を消してローカル線に乗り込んだが、見え見えだ。少しづつ自分の大祇村に近づいていることに、興奮を抑えられない。  そして、雪の降る山道。大祇村まで五キロの所で確保した。  付き添いの新月のモノは、一撃で葬った。始祖ベルベッチカも戦闘不能だ。後はこの新月のモノを捕獲するだけ。その時。 「おぎゃあ。おぎゃあ」  赤ん坊の鳴き声が聞こえた。遠い、遠い昔。狼の母様達と過ごした記憶が唐突によみがえる。姉は、その赤ん坊を抱いた。なぜだかはわからない。 「この子は今日から私たちの子供よ」 「おぎゃあ。おぎゃあ」 「……エレオノーラを、返せ……」 「何言ってるの。絶対、絶対嫌よ。この子は、この子はもう私の。絶対に手放すもんですか」 「エレオノーラぁぁ!」  背中で愛しいベルベッチカの声を聞きながら、姉は愛しい愛しい赤ん坊を抱いて村へ戻った。  ちょうどその頃、流産で赤ん坊を失ったヒトの父親が居たのを、知っていた。 「誰か? そこに誰かいるのか?」  素顔は出さなかった。夕闇に溶け込み、男の心を、誘う。 「欲しい? 子供が欲しい?」  あくまで淡々と、心を殺して心の隙を突く。 「明日、大祇神社の本殿に、礼拝なさいな。子供を授けてあげる……その代わり、対価をもらうわ」  村の男はすべて姉妹のしもべ。与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。  ……  翌日。大祇神社仮本殿。二人のヒトが礼拝している。 「おぎゃあ。おぎゃあ」  姉が置いた赤ん坊に、男の妻はさっそく反応を示した。 「あなた、見て、ほら、赤ちゃん……神様が下さったんだわ……おおかみの神様が」  男は赤ん坊を拾うことに躊躇している。 「そんなことありません! この子は今日から私たちの子供よ!」  しまいには警察に届けるなどと言う。この村には警察なんて在りはしないのに。 「何言ってるのっ! 絶対、絶対嫌よ! この子は、この子はもう私の! 絶対に手放すもんですか」 「でも、対価が……」  そして赤ん坊を抱く女の方のヒトに、神社の階段を上りきるタイミングで、やぶの中から石つぶてを知覚できない速度でくるぶしに当てた。女は百段近くある階段から七十七段目まで落ちた。狙った通り、赤ん坊を必死で守って、最後に後頭部を打ち付けてくれた。 「静、しっかりしろ、静!」 「あなた……この子を……」  ああ、可哀そうに。女の方は脳挫傷で助からない。でも、大丈夫。 「取り戻したい? 対価を? それなら」  姉は、相原静の姿に成って、相原毅の前に現れた。そしてやさしく微笑んだ。 「今日からその子の母親は、私ね」  与えるも奪うも、すべては彼女の一存であるのだから。  ……  全ては計画通りに進んだ。手中に収めた赤ん坊はすくすくと育った。  捕らえたベルベッチカは十一年後に切り刻んで、みんなに分け与える。  村は、このまま繁栄することだろう。  姉は気づかないうちに、二人の家族に情が移るようになっていた。娘は、自己認識に若干の不具合があるようだったが、周囲からの理解も得られた。幼稚園でも学校でも、居場所を見つけられたようだ。娘から息子に変わったが、それでも良いと思えた。  夫の弾くピアノも、大好きだった。夫の引く伴奏に合わせて、翼をくださいという息子から教えてもらった曲を歌った。自由に焦がれ続けていた姉にはぴったりの歌だった。結婚記念日に三人でそれを歌った。歌うことがこんなに楽しくて幸せだとは思わなかった。  息子とも、夫とも、幸せいっぱいの日々が続いた。  夫との間に新しく赤ん坊まで授かった。姉は、ようやく妹と同じ、陽の光を得られる幸せを手に入れた。  全ては。全ては計画通りに進んでいた。そのはずだった。  ……だがある時、唐突に。 「姉」は恐れた。



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