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七話 この前のポニーテールさん?

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 オレンジの常夜灯が灯る薄暗い部屋で、逸郎は目を覚ました。DVDプレイヤーのデジタルが 08:26 と表示している。肩に掛かっていたブルゾンを跳ね除け、急いで体を起こした逸郎は、弥生が寝ていた辺りを見回した。が、姿は無かった。  まさか、ひとりでどこかに行っちゃったのか? 自分の部屋に? それともまさか、槍須のところに……。  逸郎は恐慌パニックを起こした。いや、起こすところだった。  そのとき、台所と繋ぐ引き戸が開いて、逆光のシルエットが明るく声をかけてきた。 「目、覚めたんですか。ちょうどよかった。パスタ、今できたところです。勝手とは思ったんだけど、材料、使わせてもらいました」  電灯の吊り紐をカチカチと引いた弥生は、一旦台所に戻ると、パスタを盛り付けた皿をふたつ手にして明るくなった居間に戻ってきた。  安堵の溜息をついた逸郎は、寝込んでいたことを謝った。弥生は首を振る。 「ひと晩中オートバイに乗って横浜から帰ってきたんだから、疲れてたに決まってます。それに、私だって少し前に起きたばっかりだし」  見ると居間のテーブルはきちんと整理され、どこから見つけたのかランチョンマットまで敷いてあった。逸郎が勧められた上座には座椅子が置いてある。弥生はテキパキとよく動き、すぐに準備が整った。  逸郎もスマートフォンとBluetoothスピーカーを繋ぎ、お気に入りからチル系のプレイリストを選んで掛けた。こんな快適なダイニング空間、引っ越してきて初めてだ。逸郎は感慨深かった。  よいしょ、と言いながら弥生はテーブルの角をL字に挟んだ席に腰を下ろした。 「「いただきます」」  玉ねぎとピーマンとツナ缶だけのシンプルなパスタだったが、美味しかった。逸郎はその感想を、ちゃんと言葉にして伝えた。 「嬉しい。お口に合うか心配だったんだけど、お世辞でもそう言ってもらえてよかった」 「お世辞なんかじゃない。ホントに美味しいんだ」 「ありがと。明日は少し食材、買いに行きませんか。もうちょっときちんとしたのをつくりますから」  弥生は本当に嬉しそうだった。 「私、イツローさんにこうやってご飯作ってあげるの、夢だったんです」  食事を終え、逸郎を制した弥生が皿を下げて後片付けをはじめたとき、逸郎はすみれの連絡を思い出した。  スマートフォンが着信の点滅をしている。慌てて開くと、三通もメッセージが届いていた。  最初のはいつもの日常報告で、タイムスタンプは十九時半。三十分後の二通目は、返信が遅いという抗議。数分前に届いていた三通目は、心配げな内容になっていた。  洗い物をしている弥生の背中を気にしながら、逸郎は急いで返信を打った。 ********************************************  すまない!  寝過ごしてた。  昼間ちょっとバイクで走ってたんだけど、暑さにあたって疲れてたっぽい。  ちょい昼寝と思ったら、こんな時間になってたよ。  すみれは一日お仕事だったのに。  心配させてごめんね。 ********************************************  送る前に神奈川の今日の天気だけは調べた。概ね晴れだったことを確認して、送信ボタンを押す。返信はすぐに返ってきた。 ********************************************  一日遊んできたのね。いいなぁ学生さんは。  どの辺走ったのかな。やっぱり湘南?  来年は私もバイクで帰るから、一緒に走ろうね。  明日はご親戚の集まりだっけ。  月曜日には長距離乗るんだから、飲みすぎたりしないようにね。  あー、明後日の夜が楽しみ過ぎて眠れないヾ(*´∀`*)ノ  でもゆっくりでいいから、安全運転で帰ってきてね。  愛してるよ♡(ノ´∀`*)ノシ♡すみれ♡ ********************************************  後ろめたい気持ち一杯で返信を読んでいると、横に弥生が立っていた。  あわてて画面を閉じる逸郎。 「この前のポニーテールさん?」  抑揚のない静かな問いが降ってきた。今の弥生に嘘をついてはいけない。そう腹を括った逸郎は、頷きで返事に代えた。  そう、と応じ、弥生は逸郎のすぐ横に腰を下ろした。 「遠目にしか見てないけど、とても綺麗なひとね。ふたり並んでるところがすごく自然で、幸せそうだった。私もあんな風に、イツローさんと並んで立ちたかった」  膝と膝が触れ合う距離感。1m以内に近づくな。そう書いてあった由香里のメールが頭をよぎった。  片手を逸郎の腰の横に付いて、その腕に体重をかける弥生。何も言わず、ただ上目遣いに逸郎の顔を覗き見ている。  緊張に耐えきれなくなった逸郎は、風呂をつくってくる、と言いながら立ち上がった。今日は一杯汗掻いたしね、などと、言い訳のようなセリフも合わせて。  静かな夜は、まだ始まったばかりだった。



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前のエピソード 六話 わかってますって。

七話 この前のポニーテールさん?

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 オレンジの常夜灯が灯る薄暗い部屋で、逸郎は目を覚ました。DVDプレイヤーのデジタルが 08:26 と表示している。肩に掛かっていたブルゾンを跳ね除け、急いで体を起こした逸郎は、弥生が寝ていた辺りを見回した。が、姿は無かった。  まさか、ひとりでどこかに行っちゃったのか? 自分の部屋に? それともまさか、槍須のところに……。  逸郎は恐慌パニックを起こした。いや、起こすところだった。  そのとき、台所と繋ぐ引き戸が開いて、逆光のシルエットが明るく声をかけてきた。 「目、覚めたんですか。ちょうどよかった。パスタ、今できたところです。勝手とは思ったんだけど、材料、使わせてもらいました」  電灯の吊り紐をカチカチと引いた弥生は、一旦台所に戻ると、パスタを盛り付けた皿をふたつ手にして明るくなった居間に戻ってきた。  安堵の溜息をついた逸郎は、寝込んでいたことを謝った。弥生は首を振る。 「ひと晩中オートバイに乗って横浜から帰ってきたんだから、疲れてたに決まってます。それに、私だって少し前に起きたばっかりだし」  見ると居間のテーブルはきちんと整理され、どこから見つけたのかランチョンマットまで敷いてあった。逸郎が勧められた上座には座椅子が置いてある。弥生はテキパキとよく動き、すぐに準備が整った。  逸郎もスマートフォンとBluetoothスピーカーを繋ぎ、お気に入りからチル系のプレイリストを選んで掛けた。こんな快適なダイニング空間、引っ越してきて初めてだ。逸郎は感慨深かった。  よいしょ、と言いながら弥生はテーブルの角をL字に挟んだ席に腰を下ろした。 「「いただきます」」  玉ねぎとピーマンとツナ缶だけのシンプルなパスタだったが、美味しかった。逸郎はその感想を、ちゃんと言葉にして伝えた。 「嬉しい。お口に合うか心配だったんだけど、お世辞でもそう言ってもらえてよかった」 「お世辞なんかじゃない。ホントに美味しいんだ」 「ありがと。明日は少し食材、買いに行きませんか。もうちょっときちんとしたのをつくりますから」  弥生は本当に嬉しそうだった。 「私、イツローさんにこうやってご飯作ってあげるの、夢だったんです」  食事を終え、逸郎を制した弥生が皿を下げて後片付けをはじめたとき、逸郎はすみれの連絡を思い出した。  スマートフォンが着信の点滅をしている。慌てて開くと、三通もメッセージが届いていた。  最初のはいつもの日常報告で、タイムスタンプは十九時半。三十分後の二通目は、返信が遅いという抗議。数分前に届いていた三通目は、心配げな内容になっていた。  洗い物をしている弥生の背中を気にしながら、逸郎は急いで返信を打った。 ********************************************  すまない!  寝過ごしてた。  昼間ちょっとバイクで走ってたんだけど、暑さにあたって疲れてたっぽい。  ちょい昼寝と思ったら、こんな時間になってたよ。  すみれは一日お仕事だったのに。  心配させてごめんね。 ********************************************  送る前に神奈川の今日の天気だけは調べた。概ね晴れだったことを確認して、送信ボタンを押す。返信はすぐに返ってきた。 ********************************************  一日遊んできたのね。いいなぁ学生さんは。  どの辺走ったのかな。やっぱり湘南?  来年は私もバイクで帰るから、一緒に走ろうね。  明日はご親戚の集まりだっけ。  月曜日には長距離乗るんだから、飲みすぎたりしないようにね。  あー、明後日の夜が楽しみ過ぎて眠れないヾ(*´∀`*)ノ  でもゆっくりでいいから、安全運転で帰ってきてね。  愛してるよ♡(ノ´∀`*)ノシ♡すみれ♡ ********************************************  後ろめたい気持ち一杯で返信を読んでいると、横に弥生が立っていた。  あわてて画面を閉じる逸郎。 「この前のポニーテールさん?」  抑揚のない静かな問いが降ってきた。今の弥生に嘘をついてはいけない。そう腹を括った逸郎は、頷きで返事に代えた。  そう、と応じ、弥生は逸郎のすぐ横に腰を下ろした。 「遠目にしか見てないけど、とても綺麗なひとね。ふたり並んでるところがすごく自然で、幸せそうだった。私もあんな風に、イツローさんと並んで立ちたかった」  膝と膝が触れ合う距離感。1m以内に近づくな。そう書いてあった由香里のメールが頭をよぎった。  片手を逸郎の腰の横に付いて、その腕に体重をかける弥生。何も言わず、ただ上目遣いに逸郎の顔を覗き見ている。  緊張に耐えきれなくなった逸郎は、風呂をつくってくる、と言いながら立ち上がった。今日は一杯汗掻いたしね、などと、言い訳のようなセリフも合わせて。  静かな夜は、まだ始まったばかりだった。



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