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五話 それじゃ、お言葉に甘えて。

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 ひとり映画館から出てきた逸郎は、難しい顔で腕を組んでいた。  バイトの翌日の土曜日はなるべく新作映画を観る。マイルールというほどではないが、せっかく寮から出てがちゃがちゃしたわずらわしさから逃れたのだから、気持ちの余裕をインプットにも向けたいと思っているのだ。  四月半ばの今日、朝から大通りまで出張って観てきたのは、先週封切りになった中国映画『芳華 Youth』だった。文化大革命の波で混乱の極みを迎えていた中国の中で、唯一といってもいい「文化」を認められた団体「文芸工作団」を舞台にした大作である。言ってみれば軍属の歌劇団の話だ。映像も奇麗だし、舞台でのダンスシーンも絢爛だった。が、なにか深みが足りない。主人公の掘り下げが中途半端な気がする。逸郎はそう感じていた。  やっぱお国柄かなぁ。日本人がつくったら、メロドラマにせよ群像劇にせよ、もっとフォーカスを絞って物語っぽくするんじゃないかな。なんかこう、個人を軽視した感じがしちゃうんだよ。  偏見も入ってるとは思うけどね、と独り言を言いながら、逸郎は映画館通りの坂を下りる。交差点の先にあるたわわ書店がとりあえずの目標だ。  どうも消化不良だ。なんかもう一本口直しに観るかな。そう言えばナイル先輩が昨夜、サークルLINEでべた褒めしてたアレなんかいいかも。  書店の前で立ち止まり、スマートフォンでタイムテーブルを調べてみると、次の上映時間は一時間後だった。これは好都合、そう思った逸郎は、映画館サイトの予約画面を開き席を選び始めた。  と、目の前のたわわ書店のガラス扉が内側から開いてきた。スマートフォンから目を離さず身体だけ避けた逸郎に聞き慣れた声がかかった。 「あ、イツロー先輩」  書店カバーのかかった文庫本を手に、中から出てきたのは弥生だった。 「お、おお。や……、中嶋さん。お買い物?」 「本買いに、です。引っ越しとかで忙しくて、買いそびれちゃってたのがあって……。そういう先輩は、お店の前でなにされてるんですか?」 「ちょっと映画の席の予約なんぞを」  咄嗟でしどろもどろになる逸郎の袖を引っ張って、弥生は通行人の邪魔にならない歩道の端に誘導する。   「え? 今からですか? 何をご覧になるんですか?」 「いや、ご覧になるってほどのものじゃないんだけどね。ほら、昨日公開でナイル先輩がLINEで絶賛してた奴」  弥生はきょとんとした顔をしている。  サークルLINE、見てないのかな。そういや、SNSは得意じゃないとか言ってたような。てか、なんか恥ずかしいんだよね。このタイトル。  期待のこもった眼で見つめられている逸郎は、覚悟を決めて、予約しようとしている映画のタイトルを答えた。 「劇場版 響け!ユーフォニアム」  弥生の表情が広がった。 「誓いのフィナーレですね! 私、ユーフォ大好きなんです。TVシリーズは1も2も全部観ました。リズと青い鳥もDVDで観てます。今から行くんですか? いいなあ。私も観たいなって思ってたんです。でも……、映画館とかひとりで行くの、ちょっと怖くって」  語尾が下がり、俯いてしまった弥生を前にして、逸郎は声を掛ける。 「まだ席決めたわけでもないし、もし時間あるようなら、一緒に行く?」  行きます! 顔をあげて即答した弥生の瞳がキラキラと光っていた。  こんな顔見せられたら、もう連れていくしかないよな。  夕方と呼ぶにはまだ早い大通のドーナツショップで、逸郎と弥生は向かい合ってラーメンを食べていた。弥生の前には透明なスープの汁そば、逸郎の前には赤い担々麺。 「すいません。付き合わせちゃって。私、ドーナッツ屋さんにラーメンがあるなんて知らなくって、つい」 「興味あることに積極的なのはいいことだと思うよ。で、どう? 食べてみた感想は」 「そんなこと、ないです。私、初めてのひとり暮らしでちょっとはしゃいじゃってるかも……。あ、お味ですね。美味しいです。具とか何にも入ってないのも新鮮で」  微妙に噛み合わないのは、なにか彼女の琴線に触れてしまった所為なのかな。そう感じているのを誤魔化すように、逸郎は普通に応じる。 「こっちも美味しいよ。ちょいピリ辛だけど。辛いの苦手じゃなかったら、少し試してみる? スープしか残ってないけど」  心持ち押し出された丼を見て一瞬躊躇した弥生は、顔をあげて手を伸ばしてきた。 「それじゃ、お言葉に甘えて」  自分の蓮華をナプキンで拭い、弥生は担々麺のスープを掬った。その滑らかな所作を見ながら、逸郎は初めて見たときの可憐さを改めて思い起こしていた。 「あ、美味しい。担々麺なのにけっこうさらっとしてる。私、これ好きかも……です」  私のもどうですか、と自分の汁そばを押し出してくるので、逸郎も弥生に倣って蓮華を拭いた。 「気にされなくてもいいのに」 「や……、中嶋さんがやってるの見て、なんかスマートだなって思ってさ」 「私のは……、癖みたいなもんです」  そう答えた弥生の表情には、うっすらと陰りが落ちている。その陰りを振り払うように笑顔をつくり、弥生は真っ直ぐ逸郎に承認を送った。 「それと先輩。私のこと、弥生、でいいですよ」



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五話 それじゃ、お言葉に甘えて。

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 ひとり映画館から出てきた逸郎は、難しい顔で腕を組んでいた。  バイトの翌日の土曜日はなるべく新作映画を観る。マイルールというほどではないが、せっかく寮から出てがちゃがちゃしたわずらわしさから逃れたのだから、気持ちの余裕をインプットにも向けたいと思っているのだ。  四月半ばの今日、朝から大通りまで出張って観てきたのは、先週封切りになった中国映画『芳華 Youth』だった。文化大革命の波で混乱の極みを迎えていた中国の中で、唯一といってもいい「文化」を認められた団体「文芸工作団」を舞台にした大作である。言ってみれば軍属の歌劇団の話だ。映像も奇麗だし、舞台でのダンスシーンも絢爛だった。が、なにか深みが足りない。主人公の掘り下げが中途半端な気がする。逸郎はそう感じていた。  やっぱお国柄かなぁ。日本人がつくったら、メロドラマにせよ群像劇にせよ、もっとフォーカスを絞って物語っぽくするんじゃないかな。なんかこう、個人を軽視した感じがしちゃうんだよ。  偏見も入ってるとは思うけどね、と独り言を言いながら、逸郎は映画館通りの坂を下りる。交差点の先にあるたわわ書店がとりあえずの目標だ。  どうも消化不良だ。なんかもう一本口直しに観るかな。そう言えばナイル先輩が昨夜、サークルLINEでべた褒めしてたアレなんかいいかも。  書店の前で立ち止まり、スマートフォンでタイムテーブルを調べてみると、次の上映時間は一時間後だった。これは好都合、そう思った逸郎は、映画館サイトの予約画面を開き席を選び始めた。  と、目の前のたわわ書店のガラス扉が内側から開いてきた。スマートフォンから目を離さず身体だけ避けた逸郎に聞き慣れた声がかかった。 「あ、イツロー先輩」  書店カバーのかかった文庫本を手に、中から出てきたのは弥生だった。 「お、おお。や……、中嶋さん。お買い物?」 「本買いに、です。引っ越しとかで忙しくて、買いそびれちゃってたのがあって……。そういう先輩は、お店の前でなにされてるんですか?」 「ちょっと映画の席の予約なんぞを」  咄嗟でしどろもどろになる逸郎の袖を引っ張って、弥生は通行人の邪魔にならない歩道の端に誘導する。   「え? 今からですか? 何をご覧になるんですか?」 「いや、ご覧になるってほどのものじゃないんだけどね。ほら、昨日公開でナイル先輩がLINEで絶賛してた奴」  弥生はきょとんとした顔をしている。  サークルLINE、見てないのかな。そういや、SNSは得意じゃないとか言ってたような。てか、なんか恥ずかしいんだよね。このタイトル。  期待のこもった眼で見つめられている逸郎は、覚悟を決めて、予約しようとしている映画のタイトルを答えた。 「劇場版 響け!ユーフォニアム」  弥生の表情が広がった。 「誓いのフィナーレですね! 私、ユーフォ大好きなんです。TVシリーズは1も2も全部観ました。リズと青い鳥もDVDで観てます。今から行くんですか? いいなあ。私も観たいなって思ってたんです。でも……、映画館とかひとりで行くの、ちょっと怖くって」  語尾が下がり、俯いてしまった弥生を前にして、逸郎は声を掛ける。 「まだ席決めたわけでもないし、もし時間あるようなら、一緒に行く?」  行きます! 顔をあげて即答した弥生の瞳がキラキラと光っていた。  こんな顔見せられたら、もう連れていくしかないよな。  夕方と呼ぶにはまだ早い大通のドーナツショップで、逸郎と弥生は向かい合ってラーメンを食べていた。弥生の前には透明なスープの汁そば、逸郎の前には赤い担々麺。 「すいません。付き合わせちゃって。私、ドーナッツ屋さんにラーメンがあるなんて知らなくって、つい」 「興味あることに積極的なのはいいことだと思うよ。で、どう? 食べてみた感想は」 「そんなこと、ないです。私、初めてのひとり暮らしでちょっとはしゃいじゃってるかも……。あ、お味ですね。美味しいです。具とか何にも入ってないのも新鮮で」  微妙に噛み合わないのは、なにか彼女の琴線に触れてしまった所為なのかな。そう感じているのを誤魔化すように、逸郎は普通に応じる。 「こっちも美味しいよ。ちょいピリ辛だけど。辛いの苦手じゃなかったら、少し試してみる? スープしか残ってないけど」  心持ち押し出された丼を見て一瞬躊躇した弥生は、顔をあげて手を伸ばしてきた。 「それじゃ、お言葉に甘えて」  自分の蓮華をナプキンで拭い、弥生は担々麺のスープを掬った。その滑らかな所作を見ながら、逸郎は初めて見たときの可憐さを改めて思い起こしていた。 「あ、美味しい。担々麺なのにけっこうさらっとしてる。私、これ好きかも……です」  私のもどうですか、と自分の汁そばを押し出してくるので、逸郎も弥生に倣って蓮華を拭いた。 「気にされなくてもいいのに」 「や……、中嶋さんがやってるの見て、なんかスマートだなって思ってさ」 「私のは……、癖みたいなもんです」  そう答えた弥生の表情には、うっすらと陰りが落ちている。その陰りを振り払うように笑顔をつくり、弥生は真っ直ぐ逸郎に承認を送った。 「それと先輩。私のこと、弥生、でいいですよ」



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