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九話 印を付けてください。

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 寝返りのように身体をよじったすみれが、下から逸郎を覗き見た。  ん? と尋ねる逸郎。 「イツロー、嫌じゃない? こんな話。続けてもいいの?」  小動物のように怯えた色の瞳が顔色を窺っている。逸郎はなにも答えず、すみれの頭を撫でた。風呂上がりの髪がまだしっとりとしている。その手に自分の手を重ねたすみれは、安心したようにもう一度重心を委ねた。  じゃ、続けるね。そう言ってすみれは息を整えた。 「自分の気持ちに気づいたからと言って、私は別に何もしない。だって受験生だから。ただいつものように淡々とプリントや問題集をこなして、解説してもらう。それでも、以前よりも熱が入っていることは自分でもわかってた。合格したら、ちゃんと告白しようって」 「クリスマスの日の授業前にプレゼント交換したの。私から提案して。私が用意したのはペイズリー柄のバンダナ。中学生のお小遣いで買えるものなんてそんなもんだよね。でもその年頃らしく、包装には思いっきり手を掛けてね。そのとき先生がくれたお返しは何だったと思う?」 「髪飾りかなにか?」  いきなり振られた逸郎は、咄嗟に出てきた乏しいイメージの中から無難なものを答える。 「普通そうよね。私もそんな感じのものを貰えるのかなぁって期待してたんだ。でも違ったの。重い箱の包み紙を開けて中から出てきたのは……、辞典だったの」  すみれの笑いながらの言葉に釣られ、逸郎も少し笑う。 「ね、笑っちゃうでしょ。そのときの私はかなりがっかりしたのよ、ホントに。結局、私はただの教え子に過ぎないのね、って。だけどその辞典、開いてみたら普通のじゃなかった。ランダムハウス英英辞典。『留学を目指すなら、日本語に変換してては力にならない。これを使って頑張って』ってカードが添えられて」 「ちゃんと私のことを考えて選んでくれたんだ、って嬉しくなった。もちろん使ったよ。毎日持ち歩いて、ボロボロになるまで。高校時代の友だちには意識高過ぎって引かれたけどね」  すみれは目を細め、うふふ、と笑った。 「イツローも横浜だから知ってるよね。怒涛の冬休みと最後の追い込みの一月、調整の二月上旬。そのすぐあとに訪れた最後の峠を乗り越えて、私は無事、地元で一番の高校に合格することができた。先生もめでたく卒業なので、三月初旬に私の家で母主催の合格&卒業おめでとうパーティーを開いたの。たくさんのご馳走を並べて」  佳境が迫っていることが逸郎にもわかった。急ぐ気持ちを抑え、ただただ背もたれに徹する。 「私が先生のことを好きなのがわかってる母は、私たちを並んで座らせた。お節介って思ったけど、お似合いじゃない、とか言われると、やっぱり嬉しくなって。でね、その席ではじめて、私は先生のいろんなことを聞いたのよ。好きな音楽とか映画とか食べ物とか、こだわってることとか。あと、下の名前も。先生はオートバイの良さを私たちに熱弁してくれたの。それまでの一年間で知ったことの百倍。ううん。それよりももっとたくさん、先生のことを知ることができた晩餐パーティーだった」  ひとの百倍好奇心の強い十四歳のすみれが九か月かけて溜め込んで来た質問を矢継ぎ早に繰り出す姿を、逸郎は想像してみた。見たことのない少女のすみれは、ご馳走を食べるのも忘れ、頬を紅く染めた顔を乗り出すようにして調査票の空欄を埋める作業に没頭していた。  そして最後に先生は卒業後のことを話してくれたの。現実リアルのすみれが静かにそう繋いだ。 「工藤善全よしまささんの故郷ふるさとは東北だった。そして就職先は、ご実家の建設業。たしかに、就職先の決まるのが早いんだな、って私も思ってた。でも、先生は優秀だから東京の大手企業とかにスカウトされちゃってるんだ、と勝手に決めつけてたの」  彼方を見つめ輝いていたすみれの瞳が閉じられ、声の抑揚がなくなった。 「大学の卒業式は三月末だけど、向こうでの研修もあるから、来週にはアパートを引き払って実家に戻る。その席でそう教えられた」  パーティーの終わりを暗示するように押し黙るすみれ。逸郎には、部屋の明かりが急に暗くなった気さえ感じられた。 「私にはもう時間が無かった。母が取り交わしていた書類を探し出して先生のアパートの住所を手に入れた私は、お友だちの家でのお泊り会に参加すると偽って、引越し直前の先生の部屋を探したの。見つけるのに手間取って暗くなってしまったけど、パーティーのときにスマートフォンの画像で見せてくれたオートバイが停めてあるのを見つけて、私はアパートの階段を上った」  弱い常夜灯の下で階段を上っていく少女。その先に横たわっている、すでに行われてしまった情景を想像して逸郎の動悸は止まらなかった。薄っぺらい浴衣ゆかた越しに伝わってしまう自分の動揺ノイズを、なんとかして遮断しなければ。 「先生は部屋に居ました。ひとりで荷造りをしてたの。荷物はもうほとんどまとめられ、すっきりときれいになっている部屋の真ん中に布団がひと組敷かれてた。明日の朝にこれを包んでしまえば、あとは午前中に到着する引っ越し便のトラックに積み込むだけ。そう、先生は説明してくれた」 「でも私はそんな話を聞きに来たんじゃない。中学生と高校生の狭間にいた私には、そんな手続きのスケジュールなんて関係なかった。ただ先生に『好き』って言いたかった。聞いて欲しかった。そして、応えて欲しかった」  迸るような叫びの後、しばし呼吸を整えようとするすみれの胸が大きく上下していた。ふたりの動悸はシンクロしている。逸郎は胸の中で唱えた。クールダウン、クールダウン。 「先生が毎日のように通っていたという定食屋さんにふたりで行き、肉野菜定食をご馳走してもらった。そのあと、作業の汗を流したがった先生に連れられて、近くの銭湯に行った」 「お風呂から上がった私は、大きな鏡に映る自分の裸を入念に確かめた。十五歳まであと数日の少女の体付きは、浴室にいた他の女性、例えば今の私みたいなオトナの女の人に比べるとずっと貧相で痩せっぽち。でもこれだって、たぶんきっと悪くない、って自分に言い聞かせたの。覚悟して持ってきてた手持ちで一番可愛い下着を身に着けて、服装を整え外に出たら先生が待っててくれてた。私たちは手を繋いで先生の部屋に帰った。星空を見上げて星座や宇宙の大きな話をしながらね。私は、この夜道がいつまでも続けばいいのにって思ってた」  俯瞰するしかできない逸郎は、知らぬ間に拳を握りしめていた。  この焦燥を、すみれに気づかれたくない。  そう足掻く逸郎は、しかし、そのやり方を見つけられない。 「部屋に戻ってペットボトルのお茶を飲みながら、いろんな話をしたの。私は、どれだけ先生を好きなのか、特別に想ってるかを、言葉を尽くして伝えた。どれだけ伝わったのかわからないけど、先生も私のことを好きだって言ってくれた」 「終電が近くなり、先生は私を送っていこうとしたけれど、私はがんとして動かなかった。諦めた先生は寝袋を広げ、自分はこれで寝るから、すみれちゃんは布団を使って、と言ってきたの。でも、私は納得なんてしない。だって、私にはもう、その夜しか無いのだから」  来てしまう。  逸郎がそう予感した通りの情景が、胸の上に預けられた小さなこうべの口許から紡ぎ出された。 「印しるしを付けてください。私はそうお願いして、先生の前で服を脱いだの。その夜、先生は、私を抱いてくれた」



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前のエピソード 八話 私、恋してるんだ、って。

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 寝返りのように身体をよじったすみれが、下から逸郎を覗き見た。  ん? と尋ねる逸郎。 「イツロー、嫌じゃない? こんな話。続けてもいいの?」  小動物のように怯えた色の瞳が顔色を窺っている。逸郎はなにも答えず、すみれの頭を撫でた。風呂上がりの髪がまだしっとりとしている。その手に自分の手を重ねたすみれは、安心したようにもう一度重心を委ねた。  じゃ、続けるね。そう言ってすみれは息を整えた。 「自分の気持ちに気づいたからと言って、私は別に何もしない。だって受験生だから。ただいつものように淡々とプリントや問題集をこなして、解説してもらう。それでも、以前よりも熱が入っていることは自分でもわかってた。合格したら、ちゃんと告白しようって」 「クリスマスの日の授業前にプレゼント交換したの。私から提案して。私が用意したのはペイズリー柄のバンダナ。中学生のお小遣いで買えるものなんてそんなもんだよね。でもその年頃らしく、包装には思いっきり手を掛けてね。そのとき先生がくれたお返しは何だったと思う?」 「髪飾りかなにか?」  いきなり振られた逸郎は、咄嗟に出てきた乏しいイメージの中から無難なものを答える。 「普通そうよね。私もそんな感じのものを貰えるのかなぁって期待してたんだ。でも違ったの。重い箱の包み紙を開けて中から出てきたのは……、辞典だったの」  すみれの笑いながらの言葉に釣られ、逸郎も少し笑う。 「ね、笑っちゃうでしょ。そのときの私はかなりがっかりしたのよ、ホントに。結局、私はただの教え子に過ぎないのね、って。だけどその辞典、開いてみたら普通のじゃなかった。ランダムハウス英英辞典。『留学を目指すなら、日本語に変換してては力にならない。これを使って頑張って』ってカードが添えられて」 「ちゃんと私のことを考えて選んでくれたんだ、って嬉しくなった。もちろん使ったよ。毎日持ち歩いて、ボロボロになるまで。高校時代の友だちには意識高過ぎって引かれたけどね」  すみれは目を細め、うふふ、と笑った。 「イツローも横浜だから知ってるよね。怒涛の冬休みと最後の追い込みの一月、調整の二月上旬。そのすぐあとに訪れた最後の峠を乗り越えて、私は無事、地元で一番の高校に合格することができた。先生もめでたく卒業なので、三月初旬に私の家で母主催の合格&卒業おめでとうパーティーを開いたの。たくさんのご馳走を並べて」  佳境が迫っていることが逸郎にもわかった。急ぐ気持ちを抑え、ただただ背もたれに徹する。 「私が先生のことを好きなのがわかってる母は、私たちを並んで座らせた。お節介って思ったけど、お似合いじゃない、とか言われると、やっぱり嬉しくなって。でね、その席ではじめて、私は先生のいろんなことを聞いたのよ。好きな音楽とか映画とか食べ物とか、こだわってることとか。あと、下の名前も。先生はオートバイの良さを私たちに熱弁してくれたの。それまでの一年間で知ったことの百倍。ううん。それよりももっとたくさん、先生のことを知ることができた晩餐パーティーだった」  ひとの百倍好奇心の強い十四歳のすみれが九か月かけて溜め込んで来た質問を矢継ぎ早に繰り出す姿を、逸郎は想像してみた。見たことのない少女のすみれは、ご馳走を食べるのも忘れ、頬を紅く染めた顔を乗り出すようにして調査票の空欄を埋める作業に没頭していた。  そして最後に先生は卒業後のことを話してくれたの。現実リアルのすみれが静かにそう繋いだ。 「工藤善全よしまささんの故郷ふるさとは東北だった。そして就職先は、ご実家の建設業。たしかに、就職先の決まるのが早いんだな、って私も思ってた。でも、先生は優秀だから東京の大手企業とかにスカウトされちゃってるんだ、と勝手に決めつけてたの」  彼方を見つめ輝いていたすみれの瞳が閉じられ、声の抑揚がなくなった。 「大学の卒業式は三月末だけど、向こうでの研修もあるから、来週にはアパートを引き払って実家に戻る。その席でそう教えられた」  パーティーの終わりを暗示するように押し黙るすみれ。逸郎には、部屋の明かりが急に暗くなった気さえ感じられた。 「私にはもう時間が無かった。母が取り交わしていた書類を探し出して先生のアパートの住所を手に入れた私は、お友だちの家でのお泊り会に参加すると偽って、引越し直前の先生の部屋を探したの。見つけるのに手間取って暗くなってしまったけど、パーティーのときにスマートフォンの画像で見せてくれたオートバイが停めてあるのを見つけて、私はアパートの階段を上った」  弱い常夜灯の下で階段を上っていく少女。その先に横たわっている、すでに行われてしまった情景を想像して逸郎の動悸は止まらなかった。薄っぺらい浴衣ゆかた越しに伝わってしまう自分の動揺ノイズを、なんとかして遮断しなければ。 「先生は部屋に居ました。ひとりで荷造りをしてたの。荷物はもうほとんどまとめられ、すっきりときれいになっている部屋の真ん中に布団がひと組敷かれてた。明日の朝にこれを包んでしまえば、あとは午前中に到着する引っ越し便のトラックに積み込むだけ。そう、先生は説明してくれた」 「でも私はそんな話を聞きに来たんじゃない。中学生と高校生の狭間にいた私には、そんな手続きのスケジュールなんて関係なかった。ただ先生に『好き』って言いたかった。聞いて欲しかった。そして、応えて欲しかった」  迸るような叫びの後、しばし呼吸を整えようとするすみれの胸が大きく上下していた。ふたりの動悸はシンクロしている。逸郎は胸の中で唱えた。クールダウン、クールダウン。 「先生が毎日のように通っていたという定食屋さんにふたりで行き、肉野菜定食をご馳走してもらった。そのあと、作業の汗を流したがった先生に連れられて、近くの銭湯に行った」 「お風呂から上がった私は、大きな鏡に映る自分の裸を入念に確かめた。十五歳まであと数日の少女の体付きは、浴室にいた他の女性、例えば今の私みたいなオトナの女の人に比べるとずっと貧相で痩せっぽち。でもこれだって、たぶんきっと悪くない、って自分に言い聞かせたの。覚悟して持ってきてた手持ちで一番可愛い下着を身に着けて、服装を整え外に出たら先生が待っててくれてた。私たちは手を繋いで先生の部屋に帰った。星空を見上げて星座や宇宙の大きな話をしながらね。私は、この夜道がいつまでも続けばいいのにって思ってた」  俯瞰するしかできない逸郎は、知らぬ間に拳を握りしめていた。  この焦燥を、すみれに気づかれたくない。  そう足掻く逸郎は、しかし、そのやり方を見つけられない。 「部屋に戻ってペットボトルのお茶を飲みながら、いろんな話をしたの。私は、どれだけ先生を好きなのか、特別に想ってるかを、言葉を尽くして伝えた。どれだけ伝わったのかわからないけど、先生も私のことを好きだって言ってくれた」 「終電が近くなり、先生は私を送っていこうとしたけれど、私はがんとして動かなかった。諦めた先生は寝袋を広げ、自分はこれで寝るから、すみれちゃんは布団を使って、と言ってきたの。でも、私は納得なんてしない。だって、私にはもう、その夜しか無いのだから」  来てしまう。  逸郎がそう予感した通りの情景が、胸の上に預けられた小さなこうべの口許から紡ぎ出された。 「印しるしを付けてください。私はそうお願いして、先生の前で服を脱いだの。その夜、先生は、私を抱いてくれた」



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