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三話 ここに決めちゃったのね?

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 可もなく不可もなく。というか、なんの手応えも感じられなかった説明会を終えて講堂を後にした逸郎とシンスケは、文化系サークルに与えられた会議室の一角にある戯れ会のテーブルの席に着いた。あのあとの講堂は、後ろの方で大勢で待ち構えている体育会系各部の猛者が、出口を失い右往左往するいたいけな新入生たちを壁際に張り付いた彼らの長テーブルまで強制連行して、入部やら仮入部やらの受付をさせるという人権無視の狩場と化しているはず。少なくとも去年はそうだった、らしい。  というのも、寮生だった逸郎とシンスケは、前夜に開かれていた寮大会という名の大宴会で丼酒を散々飲まされて酷い宿酔ふつかよいとなり、他の新入寮生らとともにサークルオリを欠席していた。だいたいにして寮の新入生のめぼしい者は、すでに各部の先輩寮生たちよってに囲い込まれており、出枯らしの逸郎やシンスケなどはもはや対象外とされていたのだ。  逸郎たちが席について三十分ほどしたころから、執拗な追撃から何とか逃げ切ってきた者や、そもそも相手にされなかったひょろひょろの連中がちらほらとやってきた。一時間もすると、いくつかのサークルの前でも塊ができ、あちこちから大きな拍手や歓声、万歳三唱などが鳴り響いてきた。そんな中、戯れ会の前は閑古鳥が鳴きっぱなしで、この一時間余でフライヤーを手に取った者さえ片手で余るという体たらくだった。 「やっぱアレだよ。ナイル先輩には悪いけど、ファイン抜きの俺たちじゃ荷が重すぎるってことだな」  敗北宣言をするシンスケに、逸郎も反論できない。早々に後片付けを始め、開封されなかった紙包みを抱えて部室に向かっていったシンスケを横目で見ながら、目の前のフライヤーの束の角をちまちまと揃えていた逸郎の手元に人影が落ちた。顔を上げた逸郎に向かって、白いダッフルコートの少女が絞り出すように口を開いてきた。 「あの……、さきほどは、ありがとうございました。それと、朝も親切にしていただいて……」  伏目勝ちな少女のピンク色の頬を目の当たりにして、逸郎の記憶は蘇った。  「弥生さん、だっけ」  少女は目を見開いた。明らかに驚き、動揺している。その瞳に浮かんだ疑惑と恐れを打ち消すために、逸郎は大きな身振りで応える。 「ほら、に、入学式のとき、人社棟の前の杉の木の下で記念写真撮っただろ、ご両親と一緒に。風が吹いてきて、上から雪が落ちてきた。あのとき頼まれて撮ってたの、俺。お父さんが呼びかけてた名前を、いま憶い出して」 「あのときの、素敵な写真を撮ってくださった……?」  少女の顔が鈍い逸郎でもわかるくらい明るく華やいでいた。 「あの写真、私も、母も父も大好きなんです。今までたくさん、子どもの頃からずっと撮って貰ってきたどの写真よりも一番」  うっとりと笑顔を浮かべた少女の瞳には、さほど間を置かず決意の光が灯った。  ここに書けば、いいですか? そう言った少女は、机の上に転がしてあったボールペンを手に取り、まっさらな芳名リストの一番上に学部と名前を書き始めた。  人文社会科学部 一年 中嶋弥生 「なかしまやよい……さん」  筆圧の弱い、でも形の良い文字でそう書き終えた弥生は、はいと答え、逸郎にボールペンを差し出した。 「お名前を、お聞きしてもよろしいですか」  尋ねられたことへの理解に手間取った逸郎は、間抜けなくらい遅れたタイミングで自分の名を告げた。 「俺は、田中逸郎。普通の田中に、機会チャンスいっしたの逸郎。人社の二年、……です」 「田中、イツロー……先輩」  口の中で何度か反芻するように、声を出さずにその名前を繰り返した弥生はひとつ頷いて笑顔になった。その顔を見て、逸郎もなんだか嬉しくなってきた。 「これからも、よろしくお願いします、イツロー先輩」  そう言って、弥生は真っすぐ右手を差し出してきた。  釣られるように逸郎も手を差し伸べる。  手と手が触れ合ったその瞬間、またしても奴の声が飛んできた。 「ちょっ! なにやってるの、まーや! え? さっきの男?! てか何、このサークル。戯れ合いって? やらしいことするとこ?」 「いや、戯れ合いじゃなくて『戯れ会』。みんなでだらだらトランプとかボードゲームとかTVゲームとかやってるだけのゆるーいサークルだから」  例のゆかりんの機関銃のような非難に気圧されながらも、逸郎は弁明する。  うちは、少なくとも自分の知る限りのこの一年間、会長と事務局長が付き合ってることを除けば、やらしいことなど一切無い健全そのもののサークルだから!  握手しそびれたことを不満に思っているのか、少し膨れ顔になっている弥生を無視して、ゆかりんは芳名リストに文句を言っている。 「なにこれまーや、こいつになんか弱みでも握られたの? これって何? 本入会?! どーゆーことよ。意味わかんない。これって明らかに陰謀ですよね。もしかして催眠とか? 非合法の薬嗅がされたとか?」  無い無い、と大きく手を振る逸郎。暴言の数々が過ぎて、こいつ呼ばわりされたことなどどこかに行ってしまっている。 「まーや、ここに決めちゃったのね?」  振り返るゆかりんに、弥生は笑顔で首を縦に振る。  呆れ顔で固まったゆかりんだったが、再起動も素早い。わかったわよ、と言ったゆかりんは、逸郎の手からボールペンを奪い取り、弥生の下に自分の名前を書き込んだ。  人文社会科学部 一年 原町田由香里  ポイっとボールペンを投げた由香里が、口惜しそうに言い捨てた。 「何をどうされたのかはわかんないけど、まーやが本入会しちゃったんじゃあしょうがない。お目付け役のあたしも入んないわけにはいかないでしょ」



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 可もなく不可もなく。というか、なんの手応えも感じられなかった説明会を終えて講堂を後にした逸郎とシンスケは、文化系サークルに与えられた会議室の一角にある戯れ会のテーブルの席に着いた。あのあとの講堂は、後ろの方で大勢で待ち構えている体育会系各部の猛者が、出口を失い右往左往するいたいけな新入生たちを壁際に張り付いた彼らの長テーブルまで強制連行して、入部やら仮入部やらの受付をさせるという人権無視の狩場と化しているはず。少なくとも去年はそうだった、らしい。  というのも、寮生だった逸郎とシンスケは、前夜に開かれていた寮大会という名の大宴会で丼酒を散々飲まされて酷い宿酔ふつかよいとなり、他の新入寮生らとともにサークルオリを欠席していた。だいたいにして寮の新入生のめぼしい者は、すでに各部の先輩寮生たちよってに囲い込まれており、出枯らしの逸郎やシンスケなどはもはや対象外とされていたのだ。  逸郎たちが席について三十分ほどしたころから、執拗な追撃から何とか逃げ切ってきた者や、そもそも相手にされなかったひょろひょろの連中がちらほらとやってきた。一時間もすると、いくつかのサークルの前でも塊ができ、あちこちから大きな拍手や歓声、万歳三唱などが鳴り響いてきた。そんな中、戯れ会の前は閑古鳥が鳴きっぱなしで、この一時間余でフライヤーを手に取った者さえ片手で余るという体たらくだった。 「やっぱアレだよ。ナイル先輩には悪いけど、ファイン抜きの俺たちじゃ荷が重すぎるってことだな」  敗北宣言をするシンスケに、逸郎も反論できない。早々に後片付けを始め、開封されなかった紙包みを抱えて部室に向かっていったシンスケを横目で見ながら、目の前のフライヤーの束の角をちまちまと揃えていた逸郎の手元に人影が落ちた。顔を上げた逸郎に向かって、白いダッフルコートの少女が絞り出すように口を開いてきた。 「あの……、さきほどは、ありがとうございました。それと、朝も親切にしていただいて……」  伏目勝ちな少女のピンク色の頬を目の当たりにして、逸郎の記憶は蘇った。  「弥生さん、だっけ」  少女は目を見開いた。明らかに驚き、動揺している。その瞳に浮かんだ疑惑と恐れを打ち消すために、逸郎は大きな身振りで応える。 「ほら、に、入学式のとき、人社棟の前の杉の木の下で記念写真撮っただろ、ご両親と一緒に。風が吹いてきて、上から雪が落ちてきた。あのとき頼まれて撮ってたの、俺。お父さんが呼びかけてた名前を、いま憶い出して」 「あのときの、素敵な写真を撮ってくださった……?」  少女の顔が鈍い逸郎でもわかるくらい明るく華やいでいた。 「あの写真、私も、母も父も大好きなんです。今までたくさん、子どもの頃からずっと撮って貰ってきたどの写真よりも一番」  うっとりと笑顔を浮かべた少女の瞳には、さほど間を置かず決意の光が灯った。  ここに書けば、いいですか? そう言った少女は、机の上に転がしてあったボールペンを手に取り、まっさらな芳名リストの一番上に学部と名前を書き始めた。  人文社会科学部 一年 中嶋弥生 「なかしまやよい……さん」  筆圧の弱い、でも形の良い文字でそう書き終えた弥生は、はいと答え、逸郎にボールペンを差し出した。 「お名前を、お聞きしてもよろしいですか」  尋ねられたことへの理解に手間取った逸郎は、間抜けなくらい遅れたタイミングで自分の名を告げた。 「俺は、田中逸郎。普通の田中に、機会チャンスいっしたの逸郎。人社の二年、……です」 「田中、イツロー……先輩」  口の中で何度か反芻するように、声を出さずにその名前を繰り返した弥生はひとつ頷いて笑顔になった。その顔を見て、逸郎もなんだか嬉しくなってきた。 「これからも、よろしくお願いします、イツロー先輩」  そう言って、弥生は真っすぐ右手を差し出してきた。  釣られるように逸郎も手を差し伸べる。  手と手が触れ合ったその瞬間、またしても奴の声が飛んできた。 「ちょっ! なにやってるの、まーや! え? さっきの男?! てか何、このサークル。戯れ合いって? やらしいことするとこ?」 「いや、戯れ合いじゃなくて『戯れ会』。みんなでだらだらトランプとかボードゲームとかTVゲームとかやってるだけのゆるーいサークルだから」  例のゆかりんの機関銃のような非難に気圧されながらも、逸郎は弁明する。  うちは、少なくとも自分の知る限りのこの一年間、会長と事務局長が付き合ってることを除けば、やらしいことなど一切無い健全そのもののサークルだから!  握手しそびれたことを不満に思っているのか、少し膨れ顔になっている弥生を無視して、ゆかりんは芳名リストに文句を言っている。 「なにこれまーや、こいつになんか弱みでも握られたの? これって何? 本入会?! どーゆーことよ。意味わかんない。これって明らかに陰謀ですよね。もしかして催眠とか? 非合法の薬嗅がされたとか?」  無い無い、と大きく手を振る逸郎。暴言の数々が過ぎて、こいつ呼ばわりされたことなどどこかに行ってしまっている。 「まーや、ここに決めちゃったのね?」  振り返るゆかりんに、弥生は笑顔で首を縦に振る。  呆れ顔で固まったゆかりんだったが、再起動も素早い。わかったわよ、と言ったゆかりんは、逸郎の手からボールペンを奪い取り、弥生の下に自分の名前を書き込んだ。  人文社会科学部 一年 原町田由香里  ポイっとボールペンを投げた由香里が、口惜しそうに言い捨てた。 「何をどうされたのかはわかんないけど、まーやが本入会しちゃったんじゃあしょうがない。お目付け役のあたしも入んないわけにはいかないでしょ」



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