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十話 誕生日おめでとう。

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 逸郎は、すみれのはじめてを受け取った工藤善全よしまさという男に対し、猛烈に嫉妬していた。なぜそのとき俺がそこにいなかったのか、と。それが十二年も前の話で、その頃の逸郎は、まだ八歳の子どもだということにまで考えが至らないくらいに。  しかしそのよこしまな気持ちを表に出すわけにはいかない。第一、話はたぶん、まだ終わってない。逸郎はありったけの克己心を振り絞って、可能な限り優しい声で言った。 「ありがとう。すみれの大事な話を俺に共有してくれて。でもこの話は、まだ終わってないんだよね」  逸郎の胸の上ですみれは頷く。が、十四歳最後の記憶の残滓がまだその小柄な頭の中を去来しているようで、視線が定まらない。逸郎は水を一口含んでから、そのペットボトルを紅潮するすみれの頬に当ててやった。  ありがと、とボトルを受け取るすみれ。キャップを開けずに、ボトルだけを額に当てる。目に光が戻ってきた。ボトルを逸郎に託すと、すみれは再び告解をはじめる。 「彼が故郷に去った後も、私たちはメッセンジャーで繋がっていたの。便利な時代よね。寂しい夜なんか、もうチャット状態。文字だけならいくらでも大胆になれるしね。私たちはおままごとのように、夜ごと文字で愛の交歓をしてたの。でもそれがあったおかげで、私は健全な高校生活を送ることができた。言い寄ってくる男子はけっこういたけど、拠り所があったからきちんと全部断ることができたし」 「二年目の春くらいから返事が遅くなってきたの。でも、私も学校に自分の居場所ができて彼への依存も減ってきてたから、それほど気にはしなかった。それにそのころから、私は留学申請について悩み始めてたのよ。大学でやりたいことが朧げに見えてきて、そっちのことを勉強するうちに、やっぱり留学したいという気持ちが湧いてきたの。でも一方で、早く卒業して彼のもとに行きたい、っていう女としての希望もあった」  胸の上で身じろぎするすみれの背中に、逸郎は次の波を予感した。 「申請提出の期限が高校三年の四月だったこともあったから、春休みにそっちにいくので相談に乗って欲しいとメッセージしたのよ。そしたらすぐに、ホテルを予約するから宿泊の手配はいらない、そこで逢おう、っていう返信が来たの。すごく嬉しかった。彼が提案してきた待ち合わせの場所は予約するホテルのロビー。そして逢える日は、私の誕生日」  つばを飲み込んだ振動おとはすみれに悟られただろうか。  改めて座椅子に徹しようと心に決めた逸郎をよそに、すみれは物語を続ける。 「まだ寒い三月の終盤、学校を無断でサボった私は、生まれて初めて杜陸もりおかの街に降り立った。どっちつかずの曇った日。駅前には雪が残ってて、革靴で歩くのは滑りそうで恐かった。制服にコートだけという関東仕様のスタイルはさすがに寒かったけど、高揚してた私にはそんなの関係ない。駅前の案内板で彼が予約してくれたホテルを探し、とにかく急いで向かったわ。二年ぶりに逢えることが嬉し過ぎて、傍目からはスキップしてるように見えたかもしれないくらい」 「待ち合わせ時間の五分前に着いたけど、ロビーにはまだ彼の姿が無かった。私は全体が見渡せるソファに座って持ってきた文庫本を読みながら、でも一分に一度くらいの割合で携帯電話に目をやって、彼が来るのを待ち続けたの」  やがてくる時間への期待に胸を膨らませてロビーの隅に佇む少女の姿を思い描く。逸郎は狂おしさでおかしくなりそうだった。全身に預けられた現実の重みを忘れてしまいそうになるくらい。 「一時間待ったけど、彼は現れなかった。だからといって、そこを動く選択肢は私には無かった。待ち合わせ場所を指定したのは彼の方。だから、遅れても必ず来てくれる。私はそう信じて微塵も疑ってなかった。そのとき、私に近づいてくる人がいたの。会ったことの無い女の人。別の誰かがいるのかと振り返ってみたけれど、私の後ろに人影は無かった。その人は、間違いなく私に向かってきて……」  言い淀むすみれ。託宣を携えた使者の登場には不吉な影しかない。  全てを経過して今のすみれがここにいる。身体はそう理解していても、十七歳になろうとする少女の心情にどうすれば寄り添うことができるかしか、逸郎の頭にはなかった。 「目の前に立ちはだかった女の人は、私に、あなた、すみれさん? って尋ねてきた。いぶかしく感じはしたけど、彼のメッセンジャーかもしれない。そう思って私は頷いた。そしたら、その人は真上からの口調でこういったの。工藤なら来ないわよ、と」  そのときの無念を反芻するように、すみれは顔をゆがめた。逸郎はもう耳を塞ぎたかった。だが、決して逃げてはいけない時間だということもわかっていた。 「遠くからわざわざ来てくれて申し訳ないんだけど、工藤はもう二度とあなたとは会わないし、あんな破廉恥なメッセージのやりとりももうしない。彼の携帯はさっき解約させたわ。あなたの連絡先ともども。だからもう二度と私たちの前には現れないで。これは工藤からの餞別。それだけ言ってその人は私の膝に封筒を置いて立ち去ろうとした。今日十七歳になったばかりの小娘だけど、わからないものをそのままにはしたくない。私はその人を呼び止めて、尋ねたの。あなたは何者なの」  逸郎という座椅子の上には、今よりもひと回り小ぶりの胸の十七歳の女子高生が、身を打ち震わせながら横たわっていた。 「ゆっくりと振り返ったその人は、勝ち誇った表情でこう言ったの。私は工藤の婚約者。もう一年も前からつき合ってるし、今は一緒に住んでる。そして私たちは、この夏に結婚するの」 「それだけ言い残すと、その人は去っていってしまった。もう二度と振り返ることなく。取残された私は、足元に落ちてしまっていた封筒を拾い、それを開くしかなかった。中からは、一万円札が五枚と、折り畳んだ手紙が一通。震えが止まらない指で三つ折りを開くと、そこには懐かしい彼の文字が並んでた。とても冷たい四行の文で」  ┌────────────────┐    もう二度と会わないし会えない。    だから返信も無用。    きみはきみで、お幸せに。    それと、誕生日おめでとう。  └────────────────┘  この手紙の文面だけは、忘れることができないのよ、とすみれは静かに言った。指が震えていた。逸郎はそれを包む。すみれの指が逸郎のそれに弱々しく絡んできた。 「ありがと、イツロー、ごめんね。あとちょっとで終わるから、最後まで聞いて」  返事の代わりに逸郎は繋いだ指に力を加えた。すみれの指が痛くならないよう気をつけながら。



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十話 誕生日おめでとう。

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 逸郎は、すみれのはじめてを受け取った工藤善全よしまさという男に対し、猛烈に嫉妬していた。なぜそのとき俺がそこにいなかったのか、と。それが十二年も前の話で、その頃の逸郎は、まだ八歳の子どもだということにまで考えが至らないくらいに。  しかしそのよこしまな気持ちを表に出すわけにはいかない。第一、話はたぶん、まだ終わってない。逸郎はありったけの克己心を振り絞って、可能な限り優しい声で言った。 「ありがとう。すみれの大事な話を俺に共有してくれて。でもこの話は、まだ終わってないんだよね」  逸郎の胸の上ですみれは頷く。が、十四歳最後の記憶の残滓がまだその小柄な頭の中を去来しているようで、視線が定まらない。逸郎は水を一口含んでから、そのペットボトルを紅潮するすみれの頬に当ててやった。  ありがと、とボトルを受け取るすみれ。キャップを開けずに、ボトルだけを額に当てる。目に光が戻ってきた。ボトルを逸郎に託すと、すみれは再び告解をはじめる。 「彼が故郷に去った後も、私たちはメッセンジャーで繋がっていたの。便利な時代よね。寂しい夜なんか、もうチャット状態。文字だけならいくらでも大胆になれるしね。私たちはおままごとのように、夜ごと文字で愛の交歓をしてたの。でもそれがあったおかげで、私は健全な高校生活を送ることができた。言い寄ってくる男子はけっこういたけど、拠り所があったからきちんと全部断ることができたし」 「二年目の春くらいから返事が遅くなってきたの。でも、私も学校に自分の居場所ができて彼への依存も減ってきてたから、それほど気にはしなかった。それにそのころから、私は留学申請について悩み始めてたのよ。大学でやりたいことが朧げに見えてきて、そっちのことを勉強するうちに、やっぱり留学したいという気持ちが湧いてきたの。でも一方で、早く卒業して彼のもとに行きたい、っていう女としての希望もあった」  胸の上で身じろぎするすみれの背中に、逸郎は次の波を予感した。 「申請提出の期限が高校三年の四月だったこともあったから、春休みにそっちにいくので相談に乗って欲しいとメッセージしたのよ。そしたらすぐに、ホテルを予約するから宿泊の手配はいらない、そこで逢おう、っていう返信が来たの。すごく嬉しかった。彼が提案してきた待ち合わせの場所は予約するホテルのロビー。そして逢える日は、私の誕生日」  つばを飲み込んだ振動おとはすみれに悟られただろうか。  改めて座椅子に徹しようと心に決めた逸郎をよそに、すみれは物語を続ける。 「まだ寒い三月の終盤、学校を無断でサボった私は、生まれて初めて杜陸もりおかの街に降り立った。どっちつかずの曇った日。駅前には雪が残ってて、革靴で歩くのは滑りそうで恐かった。制服にコートだけという関東仕様のスタイルはさすがに寒かったけど、高揚してた私にはそんなの関係ない。駅前の案内板で彼が予約してくれたホテルを探し、とにかく急いで向かったわ。二年ぶりに逢えることが嬉し過ぎて、傍目からはスキップしてるように見えたかもしれないくらい」 「待ち合わせ時間の五分前に着いたけど、ロビーにはまだ彼の姿が無かった。私は全体が見渡せるソファに座って持ってきた文庫本を読みながら、でも一分に一度くらいの割合で携帯電話に目をやって、彼が来るのを待ち続けたの」  やがてくる時間への期待に胸を膨らませてロビーの隅に佇む少女の姿を思い描く。逸郎は狂おしさでおかしくなりそうだった。全身に預けられた現実の重みを忘れてしまいそうになるくらい。 「一時間待ったけど、彼は現れなかった。だからといって、そこを動く選択肢は私には無かった。待ち合わせ場所を指定したのは彼の方。だから、遅れても必ず来てくれる。私はそう信じて微塵も疑ってなかった。そのとき、私に近づいてくる人がいたの。会ったことの無い女の人。別の誰かがいるのかと振り返ってみたけれど、私の後ろに人影は無かった。その人は、間違いなく私に向かってきて……」  言い淀むすみれ。託宣を携えた使者の登場には不吉な影しかない。  全てを経過して今のすみれがここにいる。身体はそう理解していても、十七歳になろうとする少女の心情にどうすれば寄り添うことができるかしか、逸郎の頭にはなかった。 「目の前に立ちはだかった女の人は、私に、あなた、すみれさん? って尋ねてきた。いぶかしく感じはしたけど、彼のメッセンジャーかもしれない。そう思って私は頷いた。そしたら、その人は真上からの口調でこういったの。工藤なら来ないわよ、と」  そのときの無念を反芻するように、すみれは顔をゆがめた。逸郎はもう耳を塞ぎたかった。だが、決して逃げてはいけない時間だということもわかっていた。 「遠くからわざわざ来てくれて申し訳ないんだけど、工藤はもう二度とあなたとは会わないし、あんな破廉恥なメッセージのやりとりももうしない。彼の携帯はさっき解約させたわ。あなたの連絡先ともども。だからもう二度と私たちの前には現れないで。これは工藤からの餞別。それだけ言ってその人は私の膝に封筒を置いて立ち去ろうとした。今日十七歳になったばかりの小娘だけど、わからないものをそのままにはしたくない。私はその人を呼び止めて、尋ねたの。あなたは何者なの」  逸郎という座椅子の上には、今よりもひと回り小ぶりの胸の十七歳の女子高生が、身を打ち震わせながら横たわっていた。 「ゆっくりと振り返ったその人は、勝ち誇った表情でこう言ったの。私は工藤の婚約者。もう一年も前からつき合ってるし、今は一緒に住んでる。そして私たちは、この夏に結婚するの」 「それだけ言い残すと、その人は去っていってしまった。もう二度と振り返ることなく。取残された私は、足元に落ちてしまっていた封筒を拾い、それを開くしかなかった。中からは、一万円札が五枚と、折り畳んだ手紙が一通。震えが止まらない指で三つ折りを開くと、そこには懐かしい彼の文字が並んでた。とても冷たい四行の文で」  ┌────────────────┐    もう二度と会わないし会えない。    だから返信も無用。    きみはきみで、お幸せに。    それと、誕生日おめでとう。  └────────────────┘  この手紙の文面だけは、忘れることができないのよ、とすみれは静かに言った。指が震えていた。逸郎はそれを包む。すみれの指が逸郎のそれに弱々しく絡んできた。 「ありがと、イツロー、ごめんね。あとちょっとで終わるから、最後まで聞いて」  返事の代わりに逸郎は繋いだ指に力を加えた。すみれの指が痛くならないよう気をつけながら。



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