表示設定
表示設定
目次 目次




三話 てか、完全に釈迦の掌の上。

71/77





 使わなくなって久しい姉のヘルメットを譲り受けるのに散々からかわれはしたが、日曜の親戚の集まりに欠席する了承をなんとか取り付けることができた逸郎は、日付が土曜に変わって小一時間ほどで愛車サベージに跨ることができた。  青森からの帰りと横浜往路の経験で、巡行走行じゅんこうなら深夜の方が走りやすいことは知っている。今回は初の高速道利用となるが、出入口さえ気をつければあとは信号が無い分さらに快適に違いない。  到着時間を朝八時と想定した逸郎は、出発前に由香里に伝言を頼んだ。朝九時丁度にが迎えに行くから、帰り支度を済ませてフロントまで来るように、と。  逸郎自身ではなく由香里にしたのは、無用な警戒心を抱かせないため。会いさえすれば、あとはきっとなんとかなる。そこから先のことは、あとからふたりで考えればいい。由香里からは、決して目を離すな、と言われた。 「あたしが帰国するのは日曜の夜になります。月曜からは引き継ぎますから、それまではずっとまーやに付き添っててください。これはもう絶対。あと、その際は可能な限り手を出したりしないように」  ま、イツロー先輩ならいっか。最後にそう呟いて、由香里は通話を切った。  深夜の東北道は想像していた以上に順調だった。東名から首都高を経て東北道への接続は分岐路の選択ジャンクションにかなり神経を使ったが、一旦東北道に乗ってしまえば、あとはスロットルを維持するだけ。あまりの快適さに時折り襲ってくる睡気だけを気をつけて、逸郎の駆るサベージは深夜の高速を北に向かって突き進んだ。  途中、那須塩原での給油休憩を一度だけ挟んだ逸郎が出口至近の前沢SAに着いたのは、すっかり明るくなった朝七時前だった。  前沢と言えば牛肉だろ。経費は後で報告して欲しいと言った由香里の言葉を頼りに、逸郎は一番人気メニューの『前沢牛すき焼き丼小麺セット』千二百二十円を注文した。  滋味深い牛肉が、夜通し走って固くなった身体に染みてくる。真夏とは言え深夜の山間の風はそれなりに冷たかった。セットで付いてきたかけ蕎麦の温かさが有難い。後輩の財布を当てにするのは少し情けないなどと思いながらも、逸郎はプチ贅沢な朝食を楽しんだ。  サービスエリアで時間調整した逸郎は、八時半に水沢駅前でバイクを降りて周囲の看板を見回した。由香里から教えられたネットカフェはすぐに見つかった。  スマートフォンを見ると、すみれからのおはようメッセージが届いていた。 ********************************************  おはよー♡  休みだからっていつまでも寝てるなー!  愛しのすみれちゃんは今日も朝からお仕事なんだからね!  藤井先生の実験結果がまとまんない。  あれ絶対、調査票の設計が間違ってるよ。  言わないけど( ̄b ̄)  あー、イツローに逢えるまで、あと二日!!  それまでガンバルゾー♡すみれ ********************************************  タイムスタンプは 07:55。奥州スマートICを降りたあたりか。心の痛みを感じながら、逸郎は昨日までの朝と同じようなメッセージを返した。  九時になった。奥から弥生が歩いてくるのが見えた。考えてみれば、姿を見るのは二ヶ月近く前のあの講義教室以来だ。話をするのはさらに前の、GW明けのあのコンパの席が最後。それ以降は一切のやりとりを封じている。逸郎は胸が痛くなった。弥生も俺も随分と遠くの、思っても見なかったところに来てしまった。たった三ヶ月しか経っていないと言うのに。  近づいてきた弥生が逸郎の姿を認め、驚きと混乱の入り混じった顔になった。持てる全力を投じての慈しみを込めた笑顔を弥生だけに向ける逸郎。弥生はいったん踵を返しそうになるが、なにかに気づいてポケットのスマートフォンを開いている。メッセージが届いたらしい。  たぶん由香里からのサポートメールだろう。キエフは午前三時。タイマー送信だろうか。いずれにしても抜かりない。てか、完全に釈迦の掌の上。さすがだな。そう逸郎は感心した。  メッセージを読み終えた弥生がおずおずとこちらに歩いてくる。イツローは五千円札を差し出して弥生に言った。 「おはよう。とりあえず、これで清算しておいで」



write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!


表示設定 表示設定
ツール 目次
ツール ツール
前のエピソード 二話 さすが先輩、待機時間を無駄にしませんね。

三話 てか、完全に釈迦の掌の上。

71/77

 使わなくなって久しい姉のヘルメットを譲り受けるのに散々からかわれはしたが、日曜の親戚の集まりに欠席する了承をなんとか取り付けることができた逸郎は、日付が土曜に変わって小一時間ほどで愛車サベージに跨ることができた。  青森からの帰りと横浜往路の経験で、巡行走行じゅんこうなら深夜の方が走りやすいことは知っている。今回は初の高速道利用となるが、出入口さえ気をつければあとは信号が無い分さらに快適に違いない。  到着時間を朝八時と想定した逸郎は、出発前に由香里に伝言を頼んだ。朝九時丁度にが迎えに行くから、帰り支度を済ませてフロントまで来るように、と。  逸郎自身ではなく由香里にしたのは、無用な警戒心を抱かせないため。会いさえすれば、あとはきっとなんとかなる。そこから先のことは、あとからふたりで考えればいい。由香里からは、決して目を離すな、と言われた。 「あたしが帰国するのは日曜の夜になります。月曜からは引き継ぎますから、それまではずっとまーやに付き添っててください。これはもう絶対。あと、その際は可能な限り手を出したりしないように」  ま、イツロー先輩ならいっか。最後にそう呟いて、由香里は通話を切った。  深夜の東北道は想像していた以上に順調だった。東名から首都高を経て東北道への接続は分岐路の選択ジャンクションにかなり神経を使ったが、一旦東北道に乗ってしまえば、あとはスロットルを維持するだけ。あまりの快適さに時折り襲ってくる睡気だけを気をつけて、逸郎の駆るサベージは深夜の高速を北に向かって突き進んだ。  途中、那須塩原での給油休憩を一度だけ挟んだ逸郎が出口至近の前沢SAに着いたのは、すっかり明るくなった朝七時前だった。  前沢と言えば牛肉だろ。経費は後で報告して欲しいと言った由香里の言葉を頼りに、逸郎は一番人気メニューの『前沢牛すき焼き丼小麺セット』千二百二十円を注文した。  滋味深い牛肉が、夜通し走って固くなった身体に染みてくる。真夏とは言え深夜の山間の風はそれなりに冷たかった。セットで付いてきたかけ蕎麦の温かさが有難い。後輩の財布を当てにするのは少し情けないなどと思いながらも、逸郎はプチ贅沢な朝食を楽しんだ。  サービスエリアで時間調整した逸郎は、八時半に水沢駅前でバイクを降りて周囲の看板を見回した。由香里から教えられたネットカフェはすぐに見つかった。  スマートフォンを見ると、すみれからのおはようメッセージが届いていた。 ********************************************  おはよー♡  休みだからっていつまでも寝てるなー!  愛しのすみれちゃんは今日も朝からお仕事なんだからね!  藤井先生の実験結果がまとまんない。  あれ絶対、調査票の設計が間違ってるよ。  言わないけど( ̄b ̄)  あー、イツローに逢えるまで、あと二日!!  それまでガンバルゾー♡すみれ ********************************************  タイムスタンプは 07:55。奥州スマートICを降りたあたりか。心の痛みを感じながら、逸郎は昨日までの朝と同じようなメッセージを返した。  九時になった。奥から弥生が歩いてくるのが見えた。考えてみれば、姿を見るのは二ヶ月近く前のあの講義教室以来だ。話をするのはさらに前の、GW明けのあのコンパの席が最後。それ以降は一切のやりとりを封じている。逸郎は胸が痛くなった。弥生も俺も随分と遠くの、思っても見なかったところに来てしまった。たった三ヶ月しか経っていないと言うのに。  近づいてきた弥生が逸郎の姿を認め、驚きと混乱の入り混じった顔になった。持てる全力を投じての慈しみを込めた笑顔を弥生だけに向ける逸郎。弥生はいったん踵を返しそうになるが、なにかに気づいてポケットのスマートフォンを開いている。メッセージが届いたらしい。  たぶん由香里からのサポートメールだろう。キエフは午前三時。タイマー送信だろうか。いずれにしても抜かりない。てか、完全に釈迦の掌の上。さすがだな。そう逸郎は感心した。  メッセージを読み終えた弥生がおずおずとこちらに歩いてくる。イツローは五千円札を差し出して弥生に言った。 「おはよう。とりあえず、これで清算しておいで」



write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!