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二話 草の匂いがした。

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 午後七時四十分、あたしは大通りのたわわ書店コミックスコーナーで『鬼滅の刃』の一巻を立ち読みしてる。ちょうど今アニメでやってるのだが、原作は読んだことがなかった。なにこれ、絵が全然違うじゃん。なんかフツーっぽい絵。けどお話は面白いな。こっちのテンポの方があたしは好きかも。  いや、これは本題ではない。  結局見つからなかったのだ。まーやは。  あたしは高を括っていた。ほんの一~二分、対岸に注意を向けていただけ。少し探せばすぐ見つかる。そう思っていたのだ。けれど、まーやはどこにもいなかった。パレードそっちのけで、あたしとしてはかなり広範囲に探したのだが、いかんせん人が多過ぎて彼女を探し切ることはできなかった。  はぐれたときの待ち合わせ場所を決めておいてよかった。そう思った。むろんそれ以前に、まーやは成人目前の五体満足なオトナだ。仮に夜道をひとりで歩いていても補導されることのない身分なので、自分が住んでいる市内の何度も来たことがある街で多少の迷子になったからといって、どうということはないのである。本来なら。  だが、今のまーやは「本来」ではない。百歩譲っても、「本来ではないかもしれない」なのだ。身体の休養と滋養ある食事、そして自己を見つめ直す(ような?)執筆で安定は保っているものの、緩衝材クッション無しに社会と接するにはまだまだ脆い状況と言える。だから今回のまーや社会復帰プログラムのミッションは、常にあたしの監督下に置いておくことが、なによりも重要だったのだ。  書店の中は、外で行われている祭りとは無縁のいつも通りの空間で、それが却って今のあたしを苛つかせる。八時を回ったが、まーやはまだ来ない。  外に出て探しに行きたい。どこへ?  そう。あたしは苛立ってる。待つことこそが最善の、動いて何か価値のあることをしているという実感が得られない状況に。  まーやはパレードを満喫してるのかもしれない。煌びやかな衣装や華やかなパフォーマンスに魅了され、あたしとの約束を忘れ、余すところなく最後まで楽しんでいるのかもしれない。そう思うことで、あたしは平静を保とうとしている。  店内に客が増えてきた。市内ガイドやグルメ情報誌のコーナーの人口密度が上がっている。パレードが終わったのだ。もうすぐだ。もうすぐまーやはやってくる。  立ち読み用のマンガはもう随分前から同じページを開いたままで、あたしの目は入口の扉に縫い取られている。  閉店のアナウンスが流れた。店内の客はもうあたしひとりしかいない。仕方なくあたしは、『アルスラーン戦記』の新刊を手にしてレジに向かった。ここが駄目だったら、この後はアマゾネスに行くしかない。あそこの門限は九時だから、まだ帰ってないとしたら締め出されてしまうはず。夏の夜とは言え、ひと晩を外で過ごさせるわけにはいかない。なんとしても保護して、うちに連れて帰って……。  上の空でお釣りを受け取っていたとき、ガラス扉が開いた。  まーやだった。 「いっぱい待たせてごめん。本当にごめんなさい。間違って駅の方のお店に向かっちゃって」  耳の奥で全身の力が抜ける音がした。疲れた顔で額から汗を垂らして、それでも二本の足で普通に立っているまーやが、あたしを見つめている。  ちゃんと戻ってきてくれたんならそれでいい。そう言って駆け寄ったあたしは、そのまままーやを抱きしめる。弾力性のあるまーやの胸が、柔らかくあたしを迎えてくれた。そして、ほんのりと草の匂いがした。



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前のエピソード 一話 祭りのときはいっつもこんな感じだよ。

二話 草の匂いがした。

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 午後七時四十分、あたしは大通りのたわわ書店コミックスコーナーで『鬼滅の刃』の一巻を立ち読みしてる。ちょうど今アニメでやってるのだが、原作は読んだことがなかった。なにこれ、絵が全然違うじゃん。なんかフツーっぽい絵。けどお話は面白いな。こっちのテンポの方があたしは好きかも。  いや、これは本題ではない。  結局見つからなかったのだ。まーやは。  あたしは高を括っていた。ほんの一~二分、対岸に注意を向けていただけ。少し探せばすぐ見つかる。そう思っていたのだ。けれど、まーやはどこにもいなかった。パレードそっちのけで、あたしとしてはかなり広範囲に探したのだが、いかんせん人が多過ぎて彼女を探し切ることはできなかった。  はぐれたときの待ち合わせ場所を決めておいてよかった。そう思った。むろんそれ以前に、まーやは成人目前の五体満足なオトナだ。仮に夜道をひとりで歩いていても補導されることのない身分なので、自分が住んでいる市内の何度も来たことがある街で多少の迷子になったからといって、どうということはないのである。本来なら。  だが、今のまーやは「本来」ではない。百歩譲っても、「本来ではないかもしれない」なのだ。身体の休養と滋養ある食事、そして自己を見つめ直す(ような?)執筆で安定は保っているものの、緩衝材クッション無しに社会と接するにはまだまだ脆い状況と言える。だから今回のまーや社会復帰プログラムのミッションは、常にあたしの監督下に置いておくことが、なによりも重要だったのだ。  書店の中は、外で行われている祭りとは無縁のいつも通りの空間で、それが却って今のあたしを苛つかせる。八時を回ったが、まーやはまだ来ない。  外に出て探しに行きたい。どこへ?  そう。あたしは苛立ってる。待つことこそが最善の、動いて何か価値のあることをしているという実感が得られない状況に。  まーやはパレードを満喫してるのかもしれない。煌びやかな衣装や華やかなパフォーマンスに魅了され、あたしとの約束を忘れ、余すところなく最後まで楽しんでいるのかもしれない。そう思うことで、あたしは平静を保とうとしている。  店内に客が増えてきた。市内ガイドやグルメ情報誌のコーナーの人口密度が上がっている。パレードが終わったのだ。もうすぐだ。もうすぐまーやはやってくる。  立ち読み用のマンガはもう随分前から同じページを開いたままで、あたしの目は入口の扉に縫い取られている。  閉店のアナウンスが流れた。店内の客はもうあたしひとりしかいない。仕方なくあたしは、『アルスラーン戦記』の新刊を手にしてレジに向かった。ここが駄目だったら、この後はアマゾネスに行くしかない。あそこの門限は九時だから、まだ帰ってないとしたら締め出されてしまうはず。夏の夜とは言え、ひと晩を外で過ごさせるわけにはいかない。なんとしても保護して、うちに連れて帰って……。  上の空でお釣りを受け取っていたとき、ガラス扉が開いた。  まーやだった。 「いっぱい待たせてごめん。本当にごめんなさい。間違って駅の方のお店に向かっちゃって」  耳の奥で全身の力が抜ける音がした。疲れた顔で額から汗を垂らして、それでも二本の足で普通に立っているまーやが、あたしを見つめている。  ちゃんと戻ってきてくれたんならそれでいい。そう言って駆け寄ったあたしは、そのまままーやを抱きしめる。弾力性のあるまーやの胸が、柔らかくあたしを迎えてくれた。そして、ほんのりと草の匂いがした。



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