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六話 わかってますって。

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 涙がこぼれるのもそのままに真っ直ぐこちらを見据え、理不尽とも言える非難をぶつけてくる弥生を目の当たりにして、逸郎は何故だか安心した気持ちになった。  この娘はきっと、大丈夫。ようやく最初の、ユカタン半島に隕石が落ちてきたあのときに向き合えるようになったんだ。全ての不条理を憎み、吐き出し、見つめ直す。その鳥羽口に立てたんだ。そう感じたのだ。  だから逸郎は、居住まいを正し、深く頭を下げた。 「申し訳なかった。俺は弥生のことが好きだったのに、あの日たかだか数分間走って追いかけたくらいで諦めてしまったんだ。もうどうしようもないって。情けない。情けなさ過ぎる。だから弥生が俺を非難するのはちっとも間違ってない。本当に、心から謝る」  弥生の瞳に、ほんの少しだけだが光が戻ってきた。 「そうです。あのときイツローさんは、白馬に乗ってでも私を助けに来なきゃいけなかったんです。私が余分なことを知ったりしないように」  ああ、このも成長したんだな。こんなにはっきりと、そして懸命に己の考えを伝えようとすることができるほどに。 「イツローさんが来てくれなかったから、私はそれまで縁がないと思い込んでいた、でも前からそこにあって見ていないだけだった新しい価値の扉を開けられてしまった。本当はイツローさんに開けてもらいたかった扉を」  弥生の声から嗚咽が止まっている。逸郎はおしぼりを開いて弥生に差し出した。それを受け取った弥生は、両手を使って涙と洟水だらけの顔を拭った。 「ごめんなさい。イツローさんが悪いわけないのに」 「謝っちゃダメだよ、弥生。碇になってやれなかった俺は、弥生の言う通りで、やっぱりいけなかったんだよ。でも大丈夫。今は時間がちゃんとある。まずはご飯を食べよう。それが最優先だ。そして、そのあとは俺の部屋に行こう。いくらでも話を聞くよ」  洟を啜った弥生は素直に頷き、再びナイフとフォークを手に取った。  途中、買い物をしたいと言う弥生に、逸郎は一万円貸した。恐縮しながらも弥生はそれを受け取り、コンビニに入っていく。その間に逸郎はデイパックの荷物を別の収納に移し、ポリ袋を下げて戻ってきた弥生に空にしたそれを預けた。  そうしてふたりが逸郎の部屋に到着したのは、午後3時に近かった。  一週間以上締め切っていた部屋は、まるでサウナだった。逸郎は窓を全開にして空気を入れ替えながら、部屋を片付けて出ていった出発前の自分に感謝していた。弥生は初めての部屋で、デイパックを膝に抱えたまま、所在なさげに座っている。    由香里が迎えに来れる月曜までの二日間、逸郎は奥の四畳半を弥生の居室にしようと考えていた。あそこなら布団もあるし、襖を閉めればプライバシーも確保できる。自分は居間で寝袋でも広げて寝ればいい。  杜陸もりおかとは別の街でホテルをとって、とも考えたが、それには財布が心許ない。幸いうちは無駄にひと部屋多いし、二日くらいなら匿えるだろう。  元々の帰り予定は月曜夜だから、あまり表に出ずに過ごせば、すみれにも無用の心配をかけずに済む。念のためサベージバイクは、昼間はなるべく使わないようにしよう。  台所でスマートフォンをチェックすると、由香里から数通のメッセージが届いていた。どれも報告の督促。逸郎が自室に保護した旨を送ると、間髪置かず返事が返ってきた。 ********************************************  5m以上離れるな!!  1m以内に近づくな!!!! ******************************************** 「わかってますって」  隣室の弥生に聞こえないようにそう呟くと、逸郎はサムアップの画像を送り返した。  買い置きで冷蔵庫に入れていた新しい麦茶をグラスに注いで六畳間居間に戻ると、弥生は倒れ込んで眠っていた。緊張の糸が切れたのだろう。慣れないネットカフェでひと晩過ごした上に、初めてのタンデムでいきなり七十キロ、しかも真夏の一番暑い時間帯での移動だったから、さすがにこたえたのだろう。  そう言えば、と自分自身の完徹での長距離移動を思い出した逸郎にも、急激な睡魔が襲ってきた。風が通り、多少過ごしやすくなった居間の隅で逸郎も堪えきれず横になると、ほどなく寝息を立て始めた。



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 涙がこぼれるのもそのままに真っ直ぐこちらを見据え、理不尽とも言える非難をぶつけてくる弥生を目の当たりにして、逸郎は何故だか安心した気持ちになった。  この娘はきっと、大丈夫。ようやく最初の、ユカタン半島に隕石が落ちてきたあのときに向き合えるようになったんだ。全ての不条理を憎み、吐き出し、見つめ直す。その鳥羽口に立てたんだ。そう感じたのだ。  だから逸郎は、居住まいを正し、深く頭を下げた。 「申し訳なかった。俺は弥生のことが好きだったのに、あの日たかだか数分間走って追いかけたくらいで諦めてしまったんだ。もうどうしようもないって。情けない。情けなさ過ぎる。だから弥生が俺を非難するのはちっとも間違ってない。本当に、心から謝る」  弥生の瞳に、ほんの少しだけだが光が戻ってきた。 「そうです。あのときイツローさんは、白馬に乗ってでも私を助けに来なきゃいけなかったんです。私が余分なことを知ったりしないように」  ああ、このも成長したんだな。こんなにはっきりと、そして懸命に己の考えを伝えようとすることができるほどに。 「イツローさんが来てくれなかったから、私はそれまで縁がないと思い込んでいた、でも前からそこにあって見ていないだけだった新しい価値の扉を開けられてしまった。本当はイツローさんに開けてもらいたかった扉を」  弥生の声から嗚咽が止まっている。逸郎はおしぼりを開いて弥生に差し出した。それを受け取った弥生は、両手を使って涙と洟水だらけの顔を拭った。 「ごめんなさい。イツローさんが悪いわけないのに」 「謝っちゃダメだよ、弥生。碇になってやれなかった俺は、弥生の言う通りで、やっぱりいけなかったんだよ。でも大丈夫。今は時間がちゃんとある。まずはご飯を食べよう。それが最優先だ。そして、そのあとは俺の部屋に行こう。いくらでも話を聞くよ」  洟を啜った弥生は素直に頷き、再びナイフとフォークを手に取った。  途中、買い物をしたいと言う弥生に、逸郎は一万円貸した。恐縮しながらも弥生はそれを受け取り、コンビニに入っていく。その間に逸郎はデイパックの荷物を別の収納に移し、ポリ袋を下げて戻ってきた弥生に空にしたそれを預けた。  そうしてふたりが逸郎の部屋に到着したのは、午後3時に近かった。  一週間以上締め切っていた部屋は、まるでサウナだった。逸郎は窓を全開にして空気を入れ替えながら、部屋を片付けて出ていった出発前の自分に感謝していた。弥生は初めての部屋で、デイパックを膝に抱えたまま、所在なさげに座っている。    由香里が迎えに来れる月曜までの二日間、逸郎は奥の四畳半を弥生の居室にしようと考えていた。あそこなら布団もあるし、襖を閉めればプライバシーも確保できる。自分は居間で寝袋でも広げて寝ればいい。  杜陸もりおかとは別の街でホテルをとって、とも考えたが、それには財布が心許ない。幸いうちは無駄にひと部屋多いし、二日くらいなら匿えるだろう。  元々の帰り予定は月曜夜だから、あまり表に出ずに過ごせば、すみれにも無用の心配をかけずに済む。念のためサベージバイクは、昼間はなるべく使わないようにしよう。  台所でスマートフォンをチェックすると、由香里から数通のメッセージが届いていた。どれも報告の督促。逸郎が自室に保護した旨を送ると、間髪置かず返事が返ってきた。 ********************************************  5m以上離れるな!!  1m以内に近づくな!!!! ******************************************** 「わかってますって」  隣室の弥生に聞こえないようにそう呟くと、逸郎はサムアップの画像を送り返した。  買い置きで冷蔵庫に入れていた新しい麦茶をグラスに注いで六畳間居間に戻ると、弥生は倒れ込んで眠っていた。緊張の糸が切れたのだろう。慣れないネットカフェでひと晩過ごした上に、初めてのタンデムでいきなり七十キロ、しかも真夏の一番暑い時間帯での移動だったから、さすがにこたえたのだろう。  そう言えば、と自分自身の完徹での長距離移動を思い出した逸郎にも、急激な睡魔が襲ってきた。風が通り、多少過ごしやすくなった居間の隅で逸郎も堪えきれず横になると、ほどなく寝息を立て始めた。



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