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四話 あとは私が近づけばいいだけ。

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 やっぱり遅刻してしまいました。  お風呂に入って身体の手入れをして、お気に入りの下着を身に着けて、髪を梳かしてお化粧をして、最後に今朝がた選んだ白いワンピースを着る。たったそれだけのことなのに、どうして二時間半も経ってるのか不思議過ぎます。  待ち合わせの二時間前を目指しいつもよりも四時間も早く起きて準備を始めたはずなのに、どうしてこうなっちゃうんでしょうか。私には、お出かけなんてまだ無理なのかも。猛反省しなくちゃ、ですね。  使ってないから充電もしてないので、スマートフォンで連絡とるのも無理。とにかくもう、急いでいくしかないのです。せめて、今夜以降は使えるように充電でもしておこうかしら。でも充電器が見当たらない。いや、今はそんなもの探してる場合じゃない。  GW明けにゆかりんと選んで買った夏用の編み上げサンダルを履いて部屋を出ると、私は彼女が待つはずの川沿いベンチまで急ぎました。一時間遅れで叱られるのを覚悟して。  ゆかりんはベンチに座って足を投げ出していました。一応日陰ではありましたが、野球帽キャップのこめかみから汗の流れた跡が見えます。  えんじ色のTシャツにブルージーンズとコンバース。ゆかりんにはこういうボーイッシュなスタイルが良く似合う。超可愛い男の子って感じ。そう言ったらすごーく怒るけど。 「ごめんね。ちょっと寝坊しちゃって。あと、昨日のご飯も美味しかったよ」  あれ? 昨日だっけ? その前だっけ? ちょっと記憶が曖昧だけど、ゆかりんがツッコンでこないから、まぁいいや。 「ひさしぶりにおそと出たから、靴の履き方忘れちゃってたよ」  立ち上がったゆかりんは、そんな私の軽口も意に介さず、ぱんぱんとお尻を払って歩き出しました。 「はいはい。いいから動くよ。良い場所はもう絶望的だけど、中央通り出ればなんとかなるから。ていうか、まーや、えらい可愛いの着てきたね」  可愛い、いただきました。褒めてもらえると嬉しい。もしも会えたら、先輩もそう言ってくれるかな。会えたらいいな。一瞬でそんな夢想をしていた私は、その後に続いていた言葉を聞きそびれてしまったようです。  妄想の照れ隠しに、私は明後日あさっての方を向きました。視線の先には大きな鉄橋。橋の歩道には行列のように人が並んで動いています。こんなに沢山の人がこの街にいるのは、今まで見たことないかもしれません。そんなことを思っていたら、どうやら独りごとになっていたようです。 「祭りのときはいっつもこんな感じだよ」  そう応えてきたゆかりんの声に、私は振り返りました。さ、行こ、と手招きをして堤防に上がる階段に足を掛けるゆかりん。私も遅れないように追いかけました。  芋洗いのような雑踏の中、遅れがちな私を捉まえて、ゆかりんは迷子になったときの待ち合わせを説明してくれました。 「どうせ今日もスマホ持ってきてないでしょ」  という台詞には、苦笑いして軽口で返すしかありません。 「このスケジュールが時計代わり。参加団体のスタート時間とゴール時間が書いてあるでしょ。これ見れば今の時間がだいたいわかるから。団体名は先頭のプラカード見ればいい」  OK? と、引率生徒に言い聞かせるように説明しながら、ゆかりんは私にパレードの時間割を渡してくれました。私も了解の返事をして、四つ折りにした紙をポシェットに仕舞います。 「大通りのたわわ書店のコミックスコーナーに午後八時頃。もし見失ったら、あたしは七時半にはそこに行って、まーやが来るまでずっといるようにするから」  たわわ書店ならよく知ってます。本の紹介カードで全国でも有名な本屋さん。大通りに行くことがあれば必ず寄るとこですし。それにしても、ゆかりんは本当に隅々までよく気を配ってくれる。まかせておけば全て大丈夫オールオッケー。おかげで私は大船に乗ってる気分です。  人波を掻き分けてやっと着いた「大会本部」と書かれたテントの近くで、私たちは最初のパレードを見物しました。そこまでの間に二回くらい男の人に道を聞かれたのですが、その度ごとにゆかりんが、なぜか男の人を睨みつけ、他をあたんな、と凄んでいました。そうすると決まって、男の人は人ごみに中に消えていきます。少し心配になって彼女に尋ねてみたのですが、気にしなくていいから、と応えるだけでした。  お祭り開始のアナウンスがあっても、なかなかパレードは現れません。時間割を見ると、私たちの場所はゴール側で、かなりタイムラグがあるようでした。  しばらくして、ようやく第一集団が大きな音を流しながらやってきたのですが、正直なところあんまりよく見えません。もちろん空気を震わすような大音量に体ごと曝されていますので、ライブ感は十分あります。でも、私もゆかりんも、人ごみの沿道で演技する行列を観るには背が低過ぎたのです。オープンカーに乗ったラグビー日本代表の人たちの巨体も、肩から上が見えたり見えなかったり。それでもかかとのあるサンダルを履いてる私は、ゆかりんよりは高い視線があったのでまだマシだったかもしれません。彼女の方は、たぶんほとんど見えなかったのではないでしょうか。  だからゆかりんが場所移動を提案してきたときも、私に異論はありませんでした。  歩いてる間、ときどき視界が拓けるタイミングがあって、そのときだけはパレードを直接観ることができます。大太鼓の大音声が迫ってきた時もそんな一瞬でした。  集団と集団の合間の空間、近づいてくる太鼓のビートの中で、私は対岸に並ぶ人ごみの中に懐かしい顔を見つけました。イツロー先輩です。私が今、一番逢いたかったひと。見間違えることはない。彼です。イツローさん。  対岸の歩道を、彼は私たちとは逆方向にゆっくりと進んでいるようでした。私の躰は速やかに最優先事項を選択します。先に進むゆかりんを振り返ることもせず、私は元来た方向に逆戻りを始めました。一瞬の躊躇もしません。  大河のようにパレードを流す通りは、私の横断を拒みます。向こう岸に渡河するには、パレードのゴール地点まで戻るしかありません。私は、イツローさんの頭を見失わないように集中しながら人波を縫いました。幸いなことに、彼はそれほど急いではいないようでした。ときどき立ち止まっては、後ろを向いたりパレードを観たりしています。おかげで私の方が少し前に出ることができました。  大太鼓の前の集団が散開しているところを横切って、私は中央通りを渡りました。彼のことはすでに見失っていましたが、大体の場所はわかります。あとは私が近づけばいいだけ。彼を、イツローさんを熱望する気持ちは一致していました。私と躰とで。私たちはそのとき、彼に抱いてもらう未来しか考えていませんでした。彼に逢い、私のすべてを見てもらい、彼とひとつになる。今ここで彼を見つけることさえできれば、きっとそうなる、そうできる。彼が、彼らしい奥床しさを発揮して動き出せずにいるのなら、私が手を引けばいい。今の私ならそれができる。そして私は、心や躰やここまでの過去をすべて内側に飲み込んで、新しい私に生まれ変われる。  姿を消してしまったイツローさんの影を私は、人波に揉まれながらも必死に探しました。でも見つけられない。絶望に襲われそうになったとき、どちらかの私が思いつきました。横道に、映画館通りに抜けたのでは、と。  先程まで練り歩いていた演技者の方々が、衣装もそのままにくつろいでいる姿がそこここに見られる映画館通り。いつもの休日よりも人通りは多いものの、パレード沿道に比べればずっと視界は広かった。ゆるく下り坂になっているその通りの入り口で目を凝らし、私は彼の痕跡を探しました。佇む人たちひとりひとりを、私の視覚はレーダーのように探ったのです。そして、ようやく視界の端が捉えました。彼です。  通りの中ほどにあるコンビニから出てきた彼を見つけ、歓喜に悶えた私は、声を上げて坂を駆け下りようとしました。でも実際には、声を出すことも動くこともできなかった。  彼の後ろからポニーテールの綺麗な女性ひとが現れたのです。どう見ても他人ではない。ポロシャツ姿のイツローさんの肘に自然に手を掛け、なにか話しかけている。首を回してそれに応え、ふたりで笑いあっている様子。彼は手に持ったコンビニ袋から何か取り出します。立ち止まり、それを二つに分けて片方をポニーテールさんに渡します。各々がそれを手折るような仕草ののち、おもむろに口に咥え、手に残ったごみを彼がぶら下げるコンビニ袋に戻す、という一連の動き。そう。この真夏の夕暮れの下で、イツローさんとポニーテールさんは、ふたり仲よくパピコで凉を取りはじめたのです。  私は一歩も動けませんでした。



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四話 あとは私が近づけばいいだけ。

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 やっぱり遅刻してしまいました。  お風呂に入って身体の手入れをして、お気に入りの下着を身に着けて、髪を梳かしてお化粧をして、最後に今朝がた選んだ白いワンピースを着る。たったそれだけのことなのに、どうして二時間半も経ってるのか不思議過ぎます。  待ち合わせの二時間前を目指しいつもよりも四時間も早く起きて準備を始めたはずなのに、どうしてこうなっちゃうんでしょうか。私には、お出かけなんてまだ無理なのかも。猛反省しなくちゃ、ですね。  使ってないから充電もしてないので、スマートフォンで連絡とるのも無理。とにかくもう、急いでいくしかないのです。せめて、今夜以降は使えるように充電でもしておこうかしら。でも充電器が見当たらない。いや、今はそんなもの探してる場合じゃない。  GW明けにゆかりんと選んで買った夏用の編み上げサンダルを履いて部屋を出ると、私は彼女が待つはずの川沿いベンチまで急ぎました。一時間遅れで叱られるのを覚悟して。  ゆかりんはベンチに座って足を投げ出していました。一応日陰ではありましたが、野球帽キャップのこめかみから汗の流れた跡が見えます。  えんじ色のTシャツにブルージーンズとコンバース。ゆかりんにはこういうボーイッシュなスタイルが良く似合う。超可愛い男の子って感じ。そう言ったらすごーく怒るけど。 「ごめんね。ちょっと寝坊しちゃって。あと、昨日のご飯も美味しかったよ」  あれ? 昨日だっけ? その前だっけ? ちょっと記憶が曖昧だけど、ゆかりんがツッコンでこないから、まぁいいや。 「ひさしぶりにおそと出たから、靴の履き方忘れちゃってたよ」  立ち上がったゆかりんは、そんな私の軽口も意に介さず、ぱんぱんとお尻を払って歩き出しました。 「はいはい。いいから動くよ。良い場所はもう絶望的だけど、中央通り出ればなんとかなるから。ていうか、まーや、えらい可愛いの着てきたね」  可愛い、いただきました。褒めてもらえると嬉しい。もしも会えたら、先輩もそう言ってくれるかな。会えたらいいな。一瞬でそんな夢想をしていた私は、その後に続いていた言葉を聞きそびれてしまったようです。  妄想の照れ隠しに、私は明後日あさっての方を向きました。視線の先には大きな鉄橋。橋の歩道には行列のように人が並んで動いています。こんなに沢山の人がこの街にいるのは、今まで見たことないかもしれません。そんなことを思っていたら、どうやら独りごとになっていたようです。 「祭りのときはいっつもこんな感じだよ」  そう応えてきたゆかりんの声に、私は振り返りました。さ、行こ、と手招きをして堤防に上がる階段に足を掛けるゆかりん。私も遅れないように追いかけました。  芋洗いのような雑踏の中、遅れがちな私を捉まえて、ゆかりんは迷子になったときの待ち合わせを説明してくれました。 「どうせ今日もスマホ持ってきてないでしょ」  という台詞には、苦笑いして軽口で返すしかありません。 「このスケジュールが時計代わり。参加団体のスタート時間とゴール時間が書いてあるでしょ。これ見れば今の時間がだいたいわかるから。団体名は先頭のプラカード見ればいい」  OK? と、引率生徒に言い聞かせるように説明しながら、ゆかりんは私にパレードの時間割を渡してくれました。私も了解の返事をして、四つ折りにした紙をポシェットに仕舞います。 「大通りのたわわ書店のコミックスコーナーに午後八時頃。もし見失ったら、あたしは七時半にはそこに行って、まーやが来るまでずっといるようにするから」  たわわ書店ならよく知ってます。本の紹介カードで全国でも有名な本屋さん。大通りに行くことがあれば必ず寄るとこですし。それにしても、ゆかりんは本当に隅々までよく気を配ってくれる。まかせておけば全て大丈夫オールオッケー。おかげで私は大船に乗ってる気分です。  人波を掻き分けてやっと着いた「大会本部」と書かれたテントの近くで、私たちは最初のパレードを見物しました。そこまでの間に二回くらい男の人に道を聞かれたのですが、その度ごとにゆかりんが、なぜか男の人を睨みつけ、他をあたんな、と凄んでいました。そうすると決まって、男の人は人ごみに中に消えていきます。少し心配になって彼女に尋ねてみたのですが、気にしなくていいから、と応えるだけでした。  お祭り開始のアナウンスがあっても、なかなかパレードは現れません。時間割を見ると、私たちの場所はゴール側で、かなりタイムラグがあるようでした。  しばらくして、ようやく第一集団が大きな音を流しながらやってきたのですが、正直なところあんまりよく見えません。もちろん空気を震わすような大音量に体ごと曝されていますので、ライブ感は十分あります。でも、私もゆかりんも、人ごみの沿道で演技する行列を観るには背が低過ぎたのです。オープンカーに乗ったラグビー日本代表の人たちの巨体も、肩から上が見えたり見えなかったり。それでもかかとのあるサンダルを履いてる私は、ゆかりんよりは高い視線があったのでまだマシだったかもしれません。彼女の方は、たぶんほとんど見えなかったのではないでしょうか。  だからゆかりんが場所移動を提案してきたときも、私に異論はありませんでした。  歩いてる間、ときどき視界が拓けるタイミングがあって、そのときだけはパレードを直接観ることができます。大太鼓の大音声が迫ってきた時もそんな一瞬でした。  集団と集団の合間の空間、近づいてくる太鼓のビートの中で、私は対岸に並ぶ人ごみの中に懐かしい顔を見つけました。イツロー先輩です。私が今、一番逢いたかったひと。見間違えることはない。彼です。イツローさん。  対岸の歩道を、彼は私たちとは逆方向にゆっくりと進んでいるようでした。私の躰は速やかに最優先事項を選択します。先に進むゆかりんを振り返ることもせず、私は元来た方向に逆戻りを始めました。一瞬の躊躇もしません。  大河のようにパレードを流す通りは、私の横断を拒みます。向こう岸に渡河するには、パレードのゴール地点まで戻るしかありません。私は、イツローさんの頭を見失わないように集中しながら人波を縫いました。幸いなことに、彼はそれほど急いではいないようでした。ときどき立ち止まっては、後ろを向いたりパレードを観たりしています。おかげで私の方が少し前に出ることができました。  大太鼓の前の集団が散開しているところを横切って、私は中央通りを渡りました。彼のことはすでに見失っていましたが、大体の場所はわかります。あとは私が近づけばいいだけ。彼を、イツローさんを熱望する気持ちは一致していました。私と躰とで。私たちはそのとき、彼に抱いてもらう未来しか考えていませんでした。彼に逢い、私のすべてを見てもらい、彼とひとつになる。今ここで彼を見つけることさえできれば、きっとそうなる、そうできる。彼が、彼らしい奥床しさを発揮して動き出せずにいるのなら、私が手を引けばいい。今の私ならそれができる。そして私は、心や躰やここまでの過去をすべて内側に飲み込んで、新しい私に生まれ変われる。  姿を消してしまったイツローさんの影を私は、人波に揉まれながらも必死に探しました。でも見つけられない。絶望に襲われそうになったとき、どちらかの私が思いつきました。横道に、映画館通りに抜けたのでは、と。  先程まで練り歩いていた演技者の方々が、衣装もそのままにくつろいでいる姿がそこここに見られる映画館通り。いつもの休日よりも人通りは多いものの、パレード沿道に比べればずっと視界は広かった。ゆるく下り坂になっているその通りの入り口で目を凝らし、私は彼の痕跡を探しました。佇む人たちひとりひとりを、私の視覚はレーダーのように探ったのです。そして、ようやく視界の端が捉えました。彼です。  通りの中ほどにあるコンビニから出てきた彼を見つけ、歓喜に悶えた私は、声を上げて坂を駆け下りようとしました。でも実際には、声を出すことも動くこともできなかった。  彼の後ろからポニーテールの綺麗な女性ひとが現れたのです。どう見ても他人ではない。ポロシャツ姿のイツローさんの肘に自然に手を掛け、なにか話しかけている。首を回してそれに応え、ふたりで笑いあっている様子。彼は手に持ったコンビニ袋から何か取り出します。立ち止まり、それを二つに分けて片方をポニーテールさんに渡します。各々がそれを手折るような仕草ののち、おもむろに口に咥え、手に残ったごみを彼がぶら下げるコンビニ袋に戻す、という一連の動き。そう。この真夏の夕暮れの下で、イツローさんとポニーテールさんは、ふたり仲よくパピコで凉を取りはじめたのです。  私は一歩も動けませんでした。



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