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四話 俺たちにとってのK-T境界。

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 じゅうじゅうと湯気を上げるハンバーグを前にしても、弥生はまだ黙ったままだった。勢揃いしているライスやコールスロー、コンソメスープも手つかずだ。熱いものは熱いうちに食べて欲しい。そう言いたい気持ちを抑え、逸郎も黙ってコーヒーをひと口啜る。  狭い街のターミナル駅、しかも朝の通勤時間となれば、知った顔に会うなと言う方が難しい。ネットカフェが入った雑居ビルのエントランスで、このあと駅前カフェという選択肢を一瞬で却下した逸郎は手にしていたライムグリーンの原付き用ヘルメットを弥生に手渡し、かぶるよう促した。  少し移動するよ。そう言いながら、顎紐に手間取っている弥生を手伝う。  デニムパンツにスニーカーという組み合わせは助かる。そうでなくてもはじめてのタンデム、しかも法令違反なのだから、神経を使う要素は少しでも少ない方がいい。Tシャツ一枚のトップスは心許ないので、ブルゾンを貸して羽織るよう指示した。弥生は何も言わずに、ただ粛々と従う。  車の流れに合わせて、逸郎のサベージは市街地を抜ける。後部座席に座る弥生は、怖いのか、逸郎の腰にしがみついている。サベージには背もたれシーシーバーが付いてるから、そんな風にしがみつくよりもそっちにもたれて身体をホールドした方が乗りやすいのに。そう思いながらも、自分の背中に押し付けられた弥生の胸の熱から逸郎は意識を外せずにいた。すみれの圧倒的な量感とは違う、もっと控えめな、でも自分はここにいますと主張してくる柔らかい二つの丘。  思えば弥生とは初めての接触だ。ブルゾン越しとは言えこんな密着は、GWまでのあのもどかしくも気持ちを抑え込み互いの本心を隠し合っていたふたりならあり得なかったことだろう。今ならわかる。あの頃の弥生は、俺が想うのと同じくらい俺のことを想っていたと。  逸郎は、果てしなく遠くなった景色を眺めるように、ほんの数ヶ月前の日々を思い出していた。アレは、俺たちにとってのK-T境界みたいなもんなんだなぁ、と。  警察に見咎められないように、そしてなによりも弥生を怖がらせないよう慎重にバイクを走らせた逸郎は、バイパス沿いにハンバーグレストランチェーンのアドサインを見つけた。水沢を出て1時間半、もう休ませるべき時間だ。それにたぶん丸一日、弥生はなにも食べてないはず。逸郎は、バイパスを外れた先にあったその店の駐車場にサベージを滑り込ませた。  遅れてやってきたコロコロステーキに逸郎が手を付けて、はじめて弥生はナイフとフォークを取った。小さな声でいただきますと呟きハンバーグステーキに向かった弥生は、それまでの控えめな態度が嘘のような勢いで食べ始めた。よほどお腹が空いていたのだろう。申し訳ないことをしたと逸郎は思った。水沢文化圏から離れることを優先したわけだが、ここ北上だって、こっちの人の感覚ならそれほど離れているとは言えない。  弥生がむせた。 「大丈夫だよ。そんなに焦らなくてもハンバーグも俺も勝手にいなくなったりしないから」  逸郎はまだ手を付けていない自分の水を勧めながら優しい声で諭す。弥生は受け取った水を、ありがとうも言わずに飲んだ。相当切迫していたようだ。口の端からひと筋水滴が流れ落ちる。  ちょっと取ってくると断って、逸郎は空いたコップを手にセルフサーバーに向かった。  水を満たしたコップ二脚と何枚かのナプキンを持って戻ると、ナイフとフォークを置いた弥生が俯いていた。肩が震えている。コップを弥生の前に置いた逸郎は、向かいの席に腰を下ろして、何も言わずにただ待った。 「……」  あごを伝った涙がテーブルに数滴落ちるころ、弥生はなにか言った。逸郎は聞き返さない。 「…………ごめんなさい」  耳を凝らして集中している逸郎に、弥生のその言葉は届いた。 「私、先輩にもゆかりんにも迷惑ばっかりかけて。ぜんぶ自分がいけないのに。自分が勝手にやらかしたことが戻ってきてるだけなのに、こんな風に駄目になっちゃって……」  その先はもはや言葉にならず、弥生は静かに嗚咽を繰り返す。逸郎はただそれを黙って見ていたが、しばらくしてから何も言わず立ち上がると席を外した。  ほどなく戻ってきた逸郎の姿を見て、おびえ顔だった弥生がほんの少し安堵した様子を見せた。その前に逸郎は、鮮やかなオレンジ色に染まったグラスを置く。 「食事の途中だけど、ちょっと甘いものを飲むと良い。泣いた分だって補給しとかないといけないしね」  素直に頷いた弥生が、取り出したストローでオレンジジュースをひと口啜った。ストローを包んでいた紙の袋はテーブルの端で蛇の抜け殻のように捨て置かれている。弥生は、掠れた声でぽつぽつと話し始めた。 「あきれて見捨てられちゃったかと思った。イツローさんがそんなことするはずないってわかってるのに」  そう言いながらも、弥生の顔は俯いたままだった。おびき寄せられた羽虫のように弥生の視線の先を辿った逸郎の目線は、スープの表面越しに刺さる瞳と繋がった。 「ねえ。イツローさんはどうしてそんなに優しくしてくれるの? 私、あなたを裏切って、あんなことしてきたのに」



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前のエピソード 三話 てか、完全に釈迦の掌の上。

四話 俺たちにとってのK-T境界。

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 じゅうじゅうと湯気を上げるハンバーグを前にしても、弥生はまだ黙ったままだった。勢揃いしているライスやコールスロー、コンソメスープも手つかずだ。熱いものは熱いうちに食べて欲しい。そう言いたい気持ちを抑え、逸郎も黙ってコーヒーをひと口啜る。  狭い街のターミナル駅、しかも朝の通勤時間となれば、知った顔に会うなと言う方が難しい。ネットカフェが入った雑居ビルのエントランスで、このあと駅前カフェという選択肢を一瞬で却下した逸郎は手にしていたライムグリーンの原付き用ヘルメットを弥生に手渡し、かぶるよう促した。  少し移動するよ。そう言いながら、顎紐に手間取っている弥生を手伝う。  デニムパンツにスニーカーという組み合わせは助かる。そうでなくてもはじめてのタンデム、しかも法令違反なのだから、神経を使う要素は少しでも少ない方がいい。Tシャツ一枚のトップスは心許ないので、ブルゾンを貸して羽織るよう指示した。弥生は何も言わずに、ただ粛々と従う。  車の流れに合わせて、逸郎のサベージは市街地を抜ける。後部座席に座る弥生は、怖いのか、逸郎の腰にしがみついている。サベージには背もたれシーシーバーが付いてるから、そんな風にしがみつくよりもそっちにもたれて身体をホールドした方が乗りやすいのに。そう思いながらも、自分の背中に押し付けられた弥生の胸の熱から逸郎は意識を外せずにいた。すみれの圧倒的な量感とは違う、もっと控えめな、でも自分はここにいますと主張してくる柔らかい二つの丘。  思えば弥生とは初めての接触だ。ブルゾン越しとは言えこんな密着は、GWまでのあのもどかしくも気持ちを抑え込み互いの本心を隠し合っていたふたりならあり得なかったことだろう。今ならわかる。あの頃の弥生は、俺が想うのと同じくらい俺のことを想っていたと。  逸郎は、果てしなく遠くなった景色を眺めるように、ほんの数ヶ月前の日々を思い出していた。アレは、俺たちにとってのK-T境界みたいなもんなんだなぁ、と。  警察に見咎められないように、そしてなによりも弥生を怖がらせないよう慎重にバイクを走らせた逸郎は、バイパス沿いにハンバーグレストランチェーンのアドサインを見つけた。水沢を出て1時間半、もう休ませるべき時間だ。それにたぶん丸一日、弥生はなにも食べてないはず。逸郎は、バイパスを外れた先にあったその店の駐車場にサベージを滑り込ませた。  遅れてやってきたコロコロステーキに逸郎が手を付けて、はじめて弥生はナイフとフォークを取った。小さな声でいただきますと呟きハンバーグステーキに向かった弥生は、それまでの控えめな態度が嘘のような勢いで食べ始めた。よほどお腹が空いていたのだろう。申し訳ないことをしたと逸郎は思った。水沢文化圏から離れることを優先したわけだが、ここ北上だって、こっちの人の感覚ならそれほど離れているとは言えない。  弥生がむせた。 「大丈夫だよ。そんなに焦らなくてもハンバーグも俺も勝手にいなくなったりしないから」  逸郎はまだ手を付けていない自分の水を勧めながら優しい声で諭す。弥生は受け取った水を、ありがとうも言わずに飲んだ。相当切迫していたようだ。口の端からひと筋水滴が流れ落ちる。  ちょっと取ってくると断って、逸郎は空いたコップを手にセルフサーバーに向かった。  水を満たしたコップ二脚と何枚かのナプキンを持って戻ると、ナイフとフォークを置いた弥生が俯いていた。肩が震えている。コップを弥生の前に置いた逸郎は、向かいの席に腰を下ろして、何も言わずにただ待った。 「……」  あごを伝った涙がテーブルに数滴落ちるころ、弥生はなにか言った。逸郎は聞き返さない。 「…………ごめんなさい」  耳を凝らして集中している逸郎に、弥生のその言葉は届いた。 「私、先輩にもゆかりんにも迷惑ばっかりかけて。ぜんぶ自分がいけないのに。自分が勝手にやらかしたことが戻ってきてるだけなのに、こんな風に駄目になっちゃって……」  その先はもはや言葉にならず、弥生は静かに嗚咽を繰り返す。逸郎はただそれを黙って見ていたが、しばらくしてから何も言わず立ち上がると席を外した。  ほどなく戻ってきた逸郎の姿を見て、おびえ顔だった弥生がほんの少し安堵した様子を見せた。その前に逸郎は、鮮やかなオレンジ色に染まったグラスを置く。 「食事の途中だけど、ちょっと甘いものを飲むと良い。泣いた分だって補給しとかないといけないしね」  素直に頷いた弥生が、取り出したストローでオレンジジュースをひと口啜った。ストローを包んでいた紙の袋はテーブルの端で蛇の抜け殻のように捨て置かれている。弥生は、掠れた声でぽつぽつと話し始めた。 「あきれて見捨てられちゃったかと思った。イツローさんがそんなことするはずないってわかってるのに」  そう言いながらも、弥生の顔は俯いたままだった。おびき寄せられた羽虫のように弥生の視線の先を辿った逸郎の目線は、スープの表面越しに刺さる瞳と繋がった。 「ねえ。イツローさんはどうしてそんなに優しくしてくれるの? 私、あなたを裏切って、あんなことしてきたのに」



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