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八話 私、恋してるんだ、って。

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「私の初恋は、中学校三年生のとき」  逸郎の胸に頭を乗せたすみれは、ちょっと長い話になるよと前置きしてから、語り始めた。 「それまでも学校の成績自体は悪くなかったんだけど、二年生の終わりの個人面談で、私が一番行きたかった高校を受けるには数学が少し弱いって言われたの。自分でもそれは理解してた。それで春休みに母親に相談したら、母のネットワークから、ひとりの大学生が紹介されたんだって。私のひとつ上だった母の知り合いの息子さんが、そのひとに家庭教師をしてもらったら数学が凄く伸びて、志望する高校にも受かった、って。Y市立大理学部の学部生でこんど四年になるんだけど、就職先も決まってるから時間があるし、一年間教えた数学のカリキュラムもあるので、高いところを目指す子がいたら協力したいって言ってる、と」  滔々と話すすみれは、逸郎に背中を預けたまま身じろぎもしない。 「先に会った母が、そのひとのつくった教材や考え方をすっかり気に入ったようで、私にプッシュしてきたの。私としては家庭教師とかは考えてなくて、どこか予備校にでも通わせてもらおうかって思ってたんだけど、母があんまり薦めるし、なによりもお金を出してくれるのは母だから」 「男の人って聞いて、正直嫌だなって思ったの。その頃の私は、男の人っていう存在をあまりよく思ってなかったんだ。その頃だけじゃなくて高校のときも大学のときも、もしかしたら今も。でもその頃はとくに、もう絶対的って言ってもいいくらいに。男の人は乱暴で、威圧的で、自分勝手で、狡くて、汚くて、嘘吐きで、いつも何かを欲しがってて、それを奪って自分のものにしようと隙ばかり狙ってる。父親や教師も含めて、私は男の人全体をそう定義してたの。うん。さすがに今はそこまで極端には思ってないよ」  あれは一種の中二病かな。すみれはそう言って初めて表情を緩めた。逸郎は、口を挟んだり急かしたりすることもなく、ただ黙ってすみれの昔語りに耳を傾けていた。夜はまだ長い。 「そのひとが初めてうちにやってきた日、私も初めて顔合わせしたの。母と一緒に応接で。取り立てて特徴のない普通の感じの人。でも全体に覇気が無いかなって思った」 「初日は挨拶だけかと思ったら、いきなり授業を始めるって言いだしたの。お医者さんの問診みたいなやつ。母は席を外して買い物に出かけてしまい、応接で初対面の男の人とふたりきり。私にとっては恐怖でしかなかった。猛獣の檻に押し込まれて鍵をかけられたみたいで。母を恨んだわ。なんで私を見捨てたの、って」  その時の不安を再現するように、すみれは眉をしかめた。逸郎の膝に乗せた手にもほんの少し力が入り、すぐに緩んだ。 「でもしばらくして、その家庭教師はちょっと違うかもしれないって感じたの。その日の二時間、そのひとは本当に私の学力の現在地についてしか話さなかった。志望校とその目的を聞かれ、短い数学のプリントをその場で行い、そこでの理解の度合いを口頭で確かめる。そんなことをプリント数枚分繰り返していたら、いつの間にか時間は終わっていた。それ以外のこと、趣味や趣向、学校での生活や友だちのこと、そしてほとんどの男の人が賛美する私の容姿、そんな掴みみたいな会話は一切無い。ただ、受け持つことになった生徒の数学の成績向上以外にはなんの興味も欲求も無い、って感じを受けたの」  ふうっと息を継いで、すみれはしばし目を瞑る。初めて発表するプレゼンテーションの構成を整理するように。 「そのひと、工藤先生っていうんだけど、彼はたしかに教え方が上手だった。私に欠けている大元おおもとを論理的思考と看破して、初めの数回の授業では公式の証明や論理式の立て方、長文問題のフローチャート化を集中してさせられた。でもそのベースが出来上がると、空間図形や関数とかでそれまで乗り越えられずにいたハードルみたいなものが、障害でもなんでもないようになっていたの。先生の授業の効果は、一学期の中間試験で早くも表れた。それも数学だけじゃなく、物理や化学に差し掛かっていた理科や、国語の長文読解、さらには社会の世界史なんかにも好影響を与えたの。わかりやすく言うと、それまで学年総合二十位前後が定位置だった私が、いきなり全教科三位以内になったのよ。母は大喜びしたし、誰よりも私がびっくりした」  ちなみに英語は自分でやったのよ、とすみれは付け加えた。そのころから私、留学したいと思っていたから、と自慢げに笑いながら。 「教え子が順調に結果を出すのが嬉しかったんでしょう。先生も力を入れてきて、前年につくった教材だけでなく、私のための新しいテーマや問題を毎週のように作ってきてくれるようになった。七月の期末テストでは全科目一位となり、以降卒業までその地位は揺るがなかったわ」  さほど自慢するわけでもなく、すみれは自分のその成果を普通の抑揚で語った。太郎さんが八百屋で林檎を三個買いました、みたいな調子で。 「夏休みは三日と開けずうちにきて、長い時は四時間くらい集中して教えてくれた。そのころにはもう教科書の内容は終わってて、一流校受験レベルの問題とその解説が中心になってたの。そうやって半年間、二人三脚で実力強化に励んでたんだけど、先生が私について知っていたことは、汐入駅に近い高層マンションに住んでて、大学での留学を目指してる中学三年生ってくらい。それ以外はいつも入ってる私の部屋から演繹できる範囲を超えていなかったはず。同じように、私が知る先生の個人情報も、Y市大の四年生で、最寄り駅が金沢文庫、故郷から離れて独り暮らししてるってだけ。それと、ちょっとだけ訛りがあって、オートバイに乗っている」  少しノド乾いちゃった。そう言ってすみれは起き上がり、部屋についてた冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。ベッドサイドに立ったまま一気に三分の一くらい飲んだ後、はい、と逸郎に差し出した。それからベッドをよじのぼり、もう一度さっきまでの場所に戻った。よほど気に入ったらしい、と思いながら、逸郎は一口飲んでキャップを閉めたペットボトルを頭の後ろに立てた。  なんの音も聴こえてこない、静かな夜。 「そのころには私の中で工藤先生というひとが、私の定義する『男の人』とは別の、これまで見たことの無かった何か特別な存在としてカテゴライズされてたんだ。私は自分の気持ちがなんなのか、そのときはまだわからなかったんだけど、今まで考えたことも無いことを無性にしたくなって、実行に移した。先生を、中学の文化祭に招待したの」 「母は女だから気づいていたんだと思う。先生に対しても信頼を寄せていたから、娘の頼みを快く受け入れて、父のために発行されていた家族チケットを譲ってくれた」  「当日、時間通りに来てくれた先生は、うちには着てきたこともないジャケットを羽織ってた。それだけじゃない。わざわざ散髪までしてくれてたの。出し物が並んだ廊下を行く私の後ろを、いつもよりも緊張した面持ちで付いてくる先生。私は学内ではちょっと有名人だったから、みんなが注目してる中、すごく誇らしい気持ちで歩いたのを憶えてる」 「翌週、クラスの友だちから聞かされた話によると、文化祭のあとはたいへんだったらしい。私のファンを自称してた男の子たちや勝手に私をライバル視してた女の子たちが、難攻不落の横尾すみれが大学生の彼氏を連れて来たって大騒ぎになったそうで、打上げ会がお通夜になっちゃったって嘆いてたんだって。もちろん私は否定したんだけど、でも、そう言われてわかったの。ああ、私、恋してるんだ、って」



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前のエピソード 七話 だって奥さんなんだから。

八話 私、恋してるんだ、って。

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「私の初恋は、中学校三年生のとき」  逸郎の胸に頭を乗せたすみれは、ちょっと長い話になるよと前置きしてから、語り始めた。 「それまでも学校の成績自体は悪くなかったんだけど、二年生の終わりの個人面談で、私が一番行きたかった高校を受けるには数学が少し弱いって言われたの。自分でもそれは理解してた。それで春休みに母親に相談したら、母のネットワークから、ひとりの大学生が紹介されたんだって。私のひとつ上だった母の知り合いの息子さんが、そのひとに家庭教師をしてもらったら数学が凄く伸びて、志望する高校にも受かった、って。Y市立大理学部の学部生でこんど四年になるんだけど、就職先も決まってるから時間があるし、一年間教えた数学のカリキュラムもあるので、高いところを目指す子がいたら協力したいって言ってる、と」  滔々と話すすみれは、逸郎に背中を預けたまま身じろぎもしない。 「先に会った母が、そのひとのつくった教材や考え方をすっかり気に入ったようで、私にプッシュしてきたの。私としては家庭教師とかは考えてなくて、どこか予備校にでも通わせてもらおうかって思ってたんだけど、母があんまり薦めるし、なによりもお金を出してくれるのは母だから」 「男の人って聞いて、正直嫌だなって思ったの。その頃の私は、男の人っていう存在をあまりよく思ってなかったんだ。その頃だけじゃなくて高校のときも大学のときも、もしかしたら今も。でもその頃はとくに、もう絶対的って言ってもいいくらいに。男の人は乱暴で、威圧的で、自分勝手で、狡くて、汚くて、嘘吐きで、いつも何かを欲しがってて、それを奪って自分のものにしようと隙ばかり狙ってる。父親や教師も含めて、私は男の人全体をそう定義してたの。うん。さすがに今はそこまで極端には思ってないよ」  あれは一種の中二病かな。すみれはそう言って初めて表情を緩めた。逸郎は、口を挟んだり急かしたりすることもなく、ただ黙ってすみれの昔語りに耳を傾けていた。夜はまだ長い。 「そのひとが初めてうちにやってきた日、私も初めて顔合わせしたの。母と一緒に応接で。取り立てて特徴のない普通の感じの人。でも全体に覇気が無いかなって思った」 「初日は挨拶だけかと思ったら、いきなり授業を始めるって言いだしたの。お医者さんの問診みたいなやつ。母は席を外して買い物に出かけてしまい、応接で初対面の男の人とふたりきり。私にとっては恐怖でしかなかった。猛獣の檻に押し込まれて鍵をかけられたみたいで。母を恨んだわ。なんで私を見捨てたの、って」  その時の不安を再現するように、すみれは眉をしかめた。逸郎の膝に乗せた手にもほんの少し力が入り、すぐに緩んだ。 「でもしばらくして、その家庭教師はちょっと違うかもしれないって感じたの。その日の二時間、そのひとは本当に私の学力の現在地についてしか話さなかった。志望校とその目的を聞かれ、短い数学のプリントをその場で行い、そこでの理解の度合いを口頭で確かめる。そんなことをプリント数枚分繰り返していたら、いつの間にか時間は終わっていた。それ以外のこと、趣味や趣向、学校での生活や友だちのこと、そしてほとんどの男の人が賛美する私の容姿、そんな掴みみたいな会話は一切無い。ただ、受け持つことになった生徒の数学の成績向上以外にはなんの興味も欲求も無い、って感じを受けたの」  ふうっと息を継いで、すみれはしばし目を瞑る。初めて発表するプレゼンテーションの構成を整理するように。 「そのひと、工藤先生っていうんだけど、彼はたしかに教え方が上手だった。私に欠けている大元おおもとを論理的思考と看破して、初めの数回の授業では公式の証明や論理式の立て方、長文問題のフローチャート化を集中してさせられた。でもそのベースが出来上がると、空間図形や関数とかでそれまで乗り越えられずにいたハードルみたいなものが、障害でもなんでもないようになっていたの。先生の授業の効果は、一学期の中間試験で早くも表れた。それも数学だけじゃなく、物理や化学に差し掛かっていた理科や、国語の長文読解、さらには社会の世界史なんかにも好影響を与えたの。わかりやすく言うと、それまで学年総合二十位前後が定位置だった私が、いきなり全教科三位以内になったのよ。母は大喜びしたし、誰よりも私がびっくりした」  ちなみに英語は自分でやったのよ、とすみれは付け加えた。そのころから私、留学したいと思っていたから、と自慢げに笑いながら。 「教え子が順調に結果を出すのが嬉しかったんでしょう。先生も力を入れてきて、前年につくった教材だけでなく、私のための新しいテーマや問題を毎週のように作ってきてくれるようになった。七月の期末テストでは全科目一位となり、以降卒業までその地位は揺るがなかったわ」  さほど自慢するわけでもなく、すみれは自分のその成果を普通の抑揚で語った。太郎さんが八百屋で林檎を三個買いました、みたいな調子で。 「夏休みは三日と開けずうちにきて、長い時は四時間くらい集中して教えてくれた。そのころにはもう教科書の内容は終わってて、一流校受験レベルの問題とその解説が中心になってたの。そうやって半年間、二人三脚で実力強化に励んでたんだけど、先生が私について知っていたことは、汐入駅に近い高層マンションに住んでて、大学での留学を目指してる中学三年生ってくらい。それ以外はいつも入ってる私の部屋から演繹できる範囲を超えていなかったはず。同じように、私が知る先生の個人情報も、Y市大の四年生で、最寄り駅が金沢文庫、故郷から離れて独り暮らししてるってだけ。それと、ちょっとだけ訛りがあって、オートバイに乗っている」  少しノド乾いちゃった。そう言ってすみれは起き上がり、部屋についてた冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。ベッドサイドに立ったまま一気に三分の一くらい飲んだ後、はい、と逸郎に差し出した。それからベッドをよじのぼり、もう一度さっきまでの場所に戻った。よほど気に入ったらしい、と思いながら、逸郎は一口飲んでキャップを閉めたペットボトルを頭の後ろに立てた。  なんの音も聴こえてこない、静かな夜。 「そのころには私の中で工藤先生というひとが、私の定義する『男の人』とは別の、これまで見たことの無かった何か特別な存在としてカテゴライズされてたんだ。私は自分の気持ちがなんなのか、そのときはまだわからなかったんだけど、今まで考えたことも無いことを無性にしたくなって、実行に移した。先生を、中学の文化祭に招待したの」 「母は女だから気づいていたんだと思う。先生に対しても信頼を寄せていたから、娘の頼みを快く受け入れて、父のために発行されていた家族チケットを譲ってくれた」  「当日、時間通りに来てくれた先生は、うちには着てきたこともないジャケットを羽織ってた。それだけじゃない。わざわざ散髪までしてくれてたの。出し物が並んだ廊下を行く私の後ろを、いつもよりも緊張した面持ちで付いてくる先生。私は学内ではちょっと有名人だったから、みんなが注目してる中、すごく誇らしい気持ちで歩いたのを憶えてる」 「翌週、クラスの友だちから聞かされた話によると、文化祭のあとはたいへんだったらしい。私のファンを自称してた男の子たちや勝手に私をライバル視してた女の子たちが、難攻不落の横尾すみれが大学生の彼氏を連れて来たって大騒ぎになったそうで、打上げ会がお通夜になっちゃったって嘆いてたんだって。もちろん私は否定したんだけど、でも、そう言われてわかったの。ああ、私、恋してるんだ、って」



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