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三話 環境は、相手が自分から言ったりしないことをあれこれ詮索しないですよね。

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「ピースは概ねハマりました。少なくともこの前のまーやの大逃亡については」  このひと月余りずっと押さえ続けていた感情を噴き出させ嗚咽を漏らしまった逸郎が落ち着くのを見計らって、由香里は話しはじめた。 「そもそもあたしたちはそういった惚れた腫れたの話はしないんです。あたしは振らないし、まーやも自分から話したりしない。でもね、雰囲気くらいは伝わってきますよ。率直に言って、まーやは先輩のことを憎からず想ってましたね。少なくともGW過ぎまでは。打ち上げコンパの二日前に、誰かさんが大好きなクラリスの普段着みたいなのを探しに行くの、カワトクまで付き合わされましたし」  そうか。あの夜の清楚なブラウスとスカートのコンビは、俺に見せるために着てきたものだったのか。またしても熱いものが込み上げてくるのを逸郎は必死に押さえつけた。 「あの日のことはあたしも責任感じてるんです。調子に乗ってお酒飲んだりしなければ、そうでなくとも気分悪くなるまで飲んだりしなければ、あんな男にまーやをお持ち帰りさせたりはしなかったはず……」  そうだよ。おまえを介抱していた所為で、俺も弥生から目を離さざるを得なくなったんだ。ああいう席だし、不可抗力と言えばそうだから、今更それを非難する気はないけど。 「あのときは先輩にまで手を煩わせていまいましたからね。まさに飛車角落ちです。いや、いいとこ飛車桂馬落ちくらいですかね。言うまでもなく、飛車はあたしですけど」  前言撤回だ。やはりおまえが一番悪い。 「そう言えば八兵衛さん、じゃなくて先輩は知ってます? 聞くところによると、あのときあたしは先輩に持ち帰られたことにされてたそうですよ。失礼にも程がありますよね」  どこをどう突っ込めばいいのかわからなくなる。うっかりかよ、俺は。てか原町田、昭和に詳し過ぎ。ただこいつと話してると深刻さが失われるのは正直助かる。  逸郎は気持ちが落ち着いてきているのを自覚していた。 「兎にも角にもあの日から、まーやはひと月以上も音信不通だったんですから。なんで急にいなくなったのか吊し上げしてでも知りたい、聞き出したいとも思いましたよ。でもね、あたし、そういう役どころはしないって決めてるんです。どこでなにしてたの、超心配でご飯も喉に通らなかったよとか、いない間のドラマの録画は全部録っといたから一緒に観ようねとか、そういうことを本人に直接言っちゃう役どころ。そういうのは親とか兄弟とか夫婦とかの仕事です。もしかしたら恋人同士とかもそうしてもいいのかもしれないけど、なったことないからわかりません。ただ『友だち』の仕事ではない。あたしはそう思うんです」  由香里はいつもより数倍強い口調で、そう言い放った。 「あたしの認識では、『友だち』は環境なんです。近所のコンビニとか行きつけのカフェとかお気に入りのペットショップとか、そういうのと同じ。環境は、相手が自分から言ったりしたりしないことについてあれこれ詮索とかしないですよね。そんなことはしないで、自分のやるべきことをやってみせるだけ。おにぎりや飲み物がいつでも手に取れるところに置いてあったり、可愛く見えているかそうでないかなんて考えずにケージの中でただうろうろ歩いてたり寝てたり。で、相手が麦茶と鮭おにぎりを手に取ってレジまで持ってきたらはじめて、唐揚げなんかどうですか、って聞くんです。きゃー可愛いって言いながら近寄ってきたら尻尾振って愛想振りまくんです。その距離感で相手は安心したり癒されたりする。他人はどうか知らないけど、あたしはそうあるべきだって考えて、そのように振舞うことにしてるんです。前っから。まーやが自分で話し出すまでは聞き出したりしない。だって、それが友だちだから」  こいつの言ってることは少なくとも一般的じゃない。でも、俺にはしっくりくる。みんながそうであれば、本当の意味でどれだけ優しい世界になるだろうか。逸郎は胸の内で大きく首肯していた。そのうえで、こう突っ込んだ。 「じゃあ、俺に詮索するってのはどうなの? 俺に対しては、その考えは適用しないの?」  逸郎のブーメランレシーブに、由香里は待ってましたとばかりに有無を言わせぬ強いリターンを打ってきた。優先度が段違いに違います、と。 「さらに言えば、先輩とは友だちでさえないじゃないですか」  コートのセンターラインをぶち抜かれた。 「あたしは本当にまーやが大事で、今回のことは心から心配したし何が起こっていたかも知りたいと思ってます。だから調べもするし聞き耳を立てたりもします。槍須のことだって耳にしたし、見たくなかったけど動画も見ました。あれに出てくるマーチという娘さんは紛うことなくまーや本人です。なんであんな破廉恥なことを嫌がりもせずやっているのか、正直困惑してます。もうアタマぐるんぐるんです。でもね、それは目に見えてる情報だけであって、それでもって仮説を立てたり断定したりをあたしはしないんです。しないって決めてるんです。まーやはあんな娘じゃなかった、とか、呆れ果てて話にならない、とか。そんな自分勝手な感想は持ちたくないんです。あたしはただ、あたしなんかの誘導や強制など無しで、まーや自身の言葉を聴きたいんです」  由香里の強い言葉は逸郎の胸にずっしりと響いていた。この独自に鍛えた行動規範で己を律する傍若無人の後輩は、ファインとは違うやり方で、でも同じことを俺に伝えようとしている。 「まーやにとってあたしが信頼に足る環境であれば、きっとまーやの方から話してくれます。そしてそのときにベストなトスが上げられるよう、あたしは準備してるんです。先輩に詰問したのもそのひとつ、です」



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前のエピソード 二話 こう見えてあたし、走るのは早くないんです。

三話 環境は、相手が自分から言ったりしないことをあれこれ詮索しないですよね。

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「ピースは概ねハマりました。少なくともこの前のまーやの大逃亡については」  このひと月余りずっと押さえ続けていた感情を噴き出させ嗚咽を漏らしまった逸郎が落ち着くのを見計らって、由香里は話しはじめた。 「そもそもあたしたちはそういった惚れた腫れたの話はしないんです。あたしは振らないし、まーやも自分から話したりしない。でもね、雰囲気くらいは伝わってきますよ。率直に言って、まーやは先輩のことを憎からず想ってましたね。少なくともGW過ぎまでは。打ち上げコンパの二日前に、誰かさんが大好きなクラリスの普段着みたいなのを探しに行くの、カワトクまで付き合わされましたし」  そうか。あの夜の清楚なブラウスとスカートのコンビは、俺に見せるために着てきたものだったのか。またしても熱いものが込み上げてくるのを逸郎は必死に押さえつけた。 「あの日のことはあたしも責任感じてるんです。調子に乗ってお酒飲んだりしなければ、そうでなくとも気分悪くなるまで飲んだりしなければ、あんな男にまーやをお持ち帰りさせたりはしなかったはず……」  そうだよ。おまえを介抱していた所為で、俺も弥生から目を離さざるを得なくなったんだ。ああいう席だし、不可抗力と言えばそうだから、今更それを非難する気はないけど。 「あのときは先輩にまで手を煩わせていまいましたからね。まさに飛車角落ちです。いや、いいとこ飛車桂馬落ちくらいですかね。言うまでもなく、飛車はあたしですけど」  前言撤回だ。やはりおまえが一番悪い。 「そう言えば八兵衛さん、じゃなくて先輩は知ってます? 聞くところによると、あのときあたしは先輩に持ち帰られたことにされてたそうですよ。失礼にも程がありますよね」  どこをどう突っ込めばいいのかわからなくなる。うっかりかよ、俺は。てか原町田、昭和に詳し過ぎ。ただこいつと話してると深刻さが失われるのは正直助かる。  逸郎は気持ちが落ち着いてきているのを自覚していた。 「兎にも角にもあの日から、まーやはひと月以上も音信不通だったんですから。なんで急にいなくなったのか吊し上げしてでも知りたい、聞き出したいとも思いましたよ。でもね、あたし、そういう役どころはしないって決めてるんです。どこでなにしてたの、超心配でご飯も喉に通らなかったよとか、いない間のドラマの録画は全部録っといたから一緒に観ようねとか、そういうことを本人に直接言っちゃう役どころ。そういうのは親とか兄弟とか夫婦とかの仕事です。もしかしたら恋人同士とかもそうしてもいいのかもしれないけど、なったことないからわかりません。ただ『友だち』の仕事ではない。あたしはそう思うんです」  由香里はいつもより数倍強い口調で、そう言い放った。 「あたしの認識では、『友だち』は環境なんです。近所のコンビニとか行きつけのカフェとかお気に入りのペットショップとか、そういうのと同じ。環境は、相手が自分から言ったりしたりしないことについてあれこれ詮索とかしないですよね。そんなことはしないで、自分のやるべきことをやってみせるだけ。おにぎりや飲み物がいつでも手に取れるところに置いてあったり、可愛く見えているかそうでないかなんて考えずにケージの中でただうろうろ歩いてたり寝てたり。で、相手が麦茶と鮭おにぎりを手に取ってレジまで持ってきたらはじめて、唐揚げなんかどうですか、って聞くんです。きゃー可愛いって言いながら近寄ってきたら尻尾振って愛想振りまくんです。その距離感で相手は安心したり癒されたりする。他人はどうか知らないけど、あたしはそうあるべきだって考えて、そのように振舞うことにしてるんです。前っから。まーやが自分で話し出すまでは聞き出したりしない。だって、それが友だちだから」  こいつの言ってることは少なくとも一般的じゃない。でも、俺にはしっくりくる。みんながそうであれば、本当の意味でどれだけ優しい世界になるだろうか。逸郎は胸の内で大きく首肯していた。そのうえで、こう突っ込んだ。 「じゃあ、俺に詮索するってのはどうなの? 俺に対しては、その考えは適用しないの?」  逸郎のブーメランレシーブに、由香里は待ってましたとばかりに有無を言わせぬ強いリターンを打ってきた。優先度が段違いに違います、と。 「さらに言えば、先輩とは友だちでさえないじゃないですか」  コートのセンターラインをぶち抜かれた。 「あたしは本当にまーやが大事で、今回のことは心から心配したし何が起こっていたかも知りたいと思ってます。だから調べもするし聞き耳を立てたりもします。槍須のことだって耳にしたし、見たくなかったけど動画も見ました。あれに出てくるマーチという娘さんは紛うことなくまーや本人です。なんであんな破廉恥なことを嫌がりもせずやっているのか、正直困惑してます。もうアタマぐるんぐるんです。でもね、それは目に見えてる情報だけであって、それでもって仮説を立てたり断定したりをあたしはしないんです。しないって決めてるんです。まーやはあんな娘じゃなかった、とか、呆れ果てて話にならない、とか。そんな自分勝手な感想は持ちたくないんです。あたしはただ、あたしなんかの誘導や強制など無しで、まーや自身の言葉を聴きたいんです」  由香里の強い言葉は逸郎の胸にずっしりと響いていた。この独自に鍛えた行動規範で己を律する傍若無人の後輩は、ファインとは違うやり方で、でも同じことを俺に伝えようとしている。 「まーやにとってあたしが信頼に足る環境であれば、きっとまーやの方から話してくれます。そしてそのときにベストなトスが上げられるよう、あたしは準備してるんです。先輩に詰問したのもそのひとつ、です」



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