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二話 でも、先生なんだよね。

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 市庁舎前からの送迎バスに揺られて三十分。大学生協前からよりは、やはり少し遠い。ぎりぎりで午後二時半からの学科教習に間に合った逸郎は、そのまま三コマ講義を受けた。今日の技能教習は予定していないので、カウンターで明日以降の予約手続きを行ってからロビーを見回した。 「そろそろ出てくるかな」  と、奥の通用口から技能講習を終えた人たち数名が、一様に新品のヘルメットを抱えて戻ってきた。列の一番後ろに横尾すみれが見えた。ベージュのサマーブルゾンとデニムパンツ、足元は茶色のショートカットブーツ。  逸郎は自販機でコーヒーを二つ買うと、疲れ切った顔でベンチに座り込んでいるすみれに近づいて行く。 「すみれさん、お疲れ様。今日のライディングはどうでした?」  差し出されたコーヒーに、いつもありがと、と言いながら茶色のグローブをはめた左手で受け取るすみれ。右手はサムアップ。 「ハンコもらえたよ、急制動。いよいよ次からはコース走行。なんか7月中に取れそうな気がしてきた。イツローの励ましのおかげかな」 「ここんとこ順調だね。でも近いうちに俺も追い付くから」  どうだか、と笑いながら、すみれは横に置いていた赤いヘルメットを膝に移すと、グローブのままの右手でポンポンと席を叩いた。笑い返して腰を下ろす逸郎。大きな手でカップを挟み、ふうふうしながらコーヒーを飲もうとしているすみれは、少女のようで妙に可愛い。とてもアラサーになんか見えないよな。逸郎はそう思う。でも、先生なんだよね、これが。  逸郎が講義室以外で最初に横尾すみれと遭ったのは、今月初めのこの場所でだった。  弥生を放し飼いにすべしという由香里の助言に従うためには何か別のことに集中するのが早道。そう考えた逸郎はこの機会に、以前から興味のあった二輪免許を取得しようと考えたのだ。あの日聞いた由香里の兄の話はそのきっかけでもあったが、遠すぎるバイト先への通勤に音を上げてきたのがそもそもの主要因だった。逸郎が住む高松の池からバイト先の下ノ橋へは徒歩だと四十分くらいかかる。昼間は大学からだし、なんならバスもあるからまだいいのだが、店仕舞いを終えたころには当然のことながら走ってくれているバスなど無い。他に手段も無いので歩いて帰るのが常である。  幸い貯金はまだあるし、バイトの収入も安定しているので、ここらで移動革新を図るのもいいかもしれない。思いついたが吉日ということで、逸郎はさっそく自動車教習所に入校したのだ。  送迎バスで教習所に着き、ガイダンスも終えた逸郎は、しばしコースを見学することにした。レベルのさまざまな教習車が外周をのろのろと走る中、コースの真ん中あたりでヘルメットをかぶった集団がいるのが見えた。逸郎は彼らを見やすい場所に移動した。  どうやら一本橋というメニューをやっているようだ。幅十五センチの直線路を七秒かけて渡り切るという単純なものらしいが、直線自体が地面から数センチ盛ってあるため、タイヤを外すとすぐわかるんだそうな。一台ずつ慎重に挑戦している。このひとはちょい早いんじゃないかな。この人は上手い。こっちの人はなんかぶれぶれな感じ。逸郎も集中して見学する。  最後に全身赤でキメた小柄な赤ヘルが試技をはじめた。目立つけど格好はいい。細身のボディラインと後ろに垂らした黒髪から、ほぼ間違いなく女性。これは期待してしまう。ランプをたくさん付けた教習バイクに跨ったショッキングレッドはしかし、橋に乗った段階で、これはあかん、と素人目にもわかった。体軸がなってないのだ。案の定、半分もいかないところで脱輪し、さらにこけた。いたたまれなくなって、逸郎は目を逸らした。あんなの見ちゃうと不安になるよな。  気になったし、なによりも素顔を見てみたいという興味本位で、逸郎は赤ヘルさんが戻ってくるのをロビーで待った。バイク教習生の一番最後からうなだれて戻ってきたヘルメットを外したショッキングレッドに、逸郎は見覚えがあった。といってもこんな消沈した顔は見たことが無いが。考えるより前に動き出した足は、彼女の前で止まった。 「もしかして、横尾先生、ですか?」



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前のエピソード 一話 美味しかったんですか。旨かったんですか。それともデリシャスだったんですか?

二話 でも、先生なんだよね。

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 市庁舎前からの送迎バスに揺られて三十分。大学生協前からよりは、やはり少し遠い。ぎりぎりで午後二時半からの学科教習に間に合った逸郎は、そのまま三コマ講義を受けた。今日の技能教習は予定していないので、カウンターで明日以降の予約手続きを行ってからロビーを見回した。 「そろそろ出てくるかな」  と、奥の通用口から技能講習を終えた人たち数名が、一様に新品のヘルメットを抱えて戻ってきた。列の一番後ろに横尾すみれが見えた。ベージュのサマーブルゾンとデニムパンツ、足元は茶色のショートカットブーツ。  逸郎は自販機でコーヒーを二つ買うと、疲れ切った顔でベンチに座り込んでいるすみれに近づいて行く。 「すみれさん、お疲れ様。今日のライディングはどうでした?」  差し出されたコーヒーに、いつもありがと、と言いながら茶色のグローブをはめた左手で受け取るすみれ。右手はサムアップ。 「ハンコもらえたよ、急制動。いよいよ次からはコース走行。なんか7月中に取れそうな気がしてきた。イツローの励ましのおかげかな」 「ここんとこ順調だね。でも近いうちに俺も追い付くから」  どうだか、と笑いながら、すみれは横に置いていた赤いヘルメットを膝に移すと、グローブのままの右手でポンポンと席を叩いた。笑い返して腰を下ろす逸郎。大きな手でカップを挟み、ふうふうしながらコーヒーを飲もうとしているすみれは、少女のようで妙に可愛い。とてもアラサーになんか見えないよな。逸郎はそう思う。でも、先生なんだよね、これが。  逸郎が講義室以外で最初に横尾すみれと遭ったのは、今月初めのこの場所でだった。  弥生を放し飼いにすべしという由香里の助言に従うためには何か別のことに集中するのが早道。そう考えた逸郎はこの機会に、以前から興味のあった二輪免許を取得しようと考えたのだ。あの日聞いた由香里の兄の話はそのきっかけでもあったが、遠すぎるバイト先への通勤に音を上げてきたのがそもそもの主要因だった。逸郎が住む高松の池からバイト先の下ノ橋へは徒歩だと四十分くらいかかる。昼間は大学からだし、なんならバスもあるからまだいいのだが、店仕舞いを終えたころには当然のことながら走ってくれているバスなど無い。他に手段も無いので歩いて帰るのが常である。  幸い貯金はまだあるし、バイトの収入も安定しているので、ここらで移動革新を図るのもいいかもしれない。思いついたが吉日ということで、逸郎はさっそく自動車教習所に入校したのだ。  送迎バスで教習所に着き、ガイダンスも終えた逸郎は、しばしコースを見学することにした。レベルのさまざまな教習車が外周をのろのろと走る中、コースの真ん中あたりでヘルメットをかぶった集団がいるのが見えた。逸郎は彼らを見やすい場所に移動した。  どうやら一本橋というメニューをやっているようだ。幅十五センチの直線路を七秒かけて渡り切るという単純なものらしいが、直線自体が地面から数センチ盛ってあるため、タイヤを外すとすぐわかるんだそうな。一台ずつ慎重に挑戦している。このひとはちょい早いんじゃないかな。この人は上手い。こっちの人はなんかぶれぶれな感じ。逸郎も集中して見学する。  最後に全身赤でキメた小柄な赤ヘルが試技をはじめた。目立つけど格好はいい。細身のボディラインと後ろに垂らした黒髪から、ほぼ間違いなく女性。これは期待してしまう。ランプをたくさん付けた教習バイクに跨ったショッキングレッドはしかし、橋に乗った段階で、これはあかん、と素人目にもわかった。体軸がなってないのだ。案の定、半分もいかないところで脱輪し、さらにこけた。いたたまれなくなって、逸郎は目を逸らした。あんなの見ちゃうと不安になるよな。  気になったし、なによりも素顔を見てみたいという興味本位で、逸郎は赤ヘルさんが戻ってくるのをロビーで待った。バイク教習生の一番最後からうなだれて戻ってきたヘルメットを外したショッキングレッドに、逸郎は見覚えがあった。といってもこんな消沈した顔は見たことが無いが。考えるより前に動き出した足は、彼女の前で止まった。 「もしかして、横尾先生、ですか?」



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