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十一話 もう全部辞めちゃおうかな。

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「受け入れるのは難しかった。でも十七歳になって間もない私には、できることが少な過ぎたの。深夜になって帰ってきた私を見て、母は叱ったり誰何すいかしたりせずに、それどころか普段ならあり得ないくらい心配してくれた。たぶん私の顔が酷く憔悴してたんだと思う。きっと、なにがあったかは大体わかったんだろうね。その後もあんまり追及はしてこなかったから」 「それからの私の生活は、留学を目指すことで一色になったの。あの五万円も、そのために使わせてもらった。ランダムハウスと一緒に」  翌年の秋、私はスタンフォード大学に入学したわ、とすみれは静かに言った。まるで、ちょっと図書館に行ってきたみたいな口調で。 「一年目の春、まだまだ寒いスタンフォードの街であのニュースを聞いたの。私は彼の安否が知りたくて、急いで部屋に帰ってネットを漁ったわ。ニュース映像やSNS動画は、どれもまるでパニック映画のワンシーンみたいだった。イツローも憶えてるでしょ」  逸郎は頷いた。あのときに生きて暮らしていたこの国の人なら忘れるはずもない。小学校卒業間際でまだ東北になんのゆかりも無かった自分にとっても、あの日は大きな節目となっている。 「ネットに乱立した安否情報も、内陸の町のことまではよくわからなかった。ただ、沿岸とは違ってあれほどの大きな被害が出てはいないという話で、不謹慎とは思ったけど私はひとまず安堵したの。でもやっぱり、全体の数字じゃない、彼自身の状況がどうしても知りたくて私はひと晩調べまくった。彼の乗っていたオートバイの型は憶えていたから、そこから検索をはじめて。知る限りの彼の個人情報をとっかえひっかえしながら探し回った。そしたら、あるツーリンググループのSNSコミュニティを見つけたの。そのメンバーのアイコンの中で、私は懐かしい顔を見つけることができた」 「そこからはもう、芋蔓だったわ。彼のフェイスブックとツイッターのアカウントを特定して、全てのログを漁ったの。フェイスブックの公開範囲は友だちの友だちまでだったから、別アカウントを立てて、彼の友だちの中でもあまり付き合いの深くなさそうな人を選んで友だちになってもらったりしてね」  深夜の暗い部屋で、ディスプレイの青い光に照らされた二十歳目前の美少女が脇目も振らずキーボードとマウスを操作している。整った貌の真ん中にある両の瞳からは柔らかな光が失われ、さながら獲物を追い詰める猟師の如く。  そんなイメージが逸郎の脳裏に浮かびあがった。 「新しい投稿があったから、無事だということはわかった。でもそれだけじゃなくて他の様々なことも。あの女の人の言う通り、二年前の夏に多くの人に祝福されながら結婚したこと、そして、その秋の終わりにお子様が生まれたことも」 「その記事を見たとき、私の中で工藤善全よしまさというひとの地位ステータスが急降下したのがわかった。彼はメッセンジャーで私と睦言を交わしながら同時にあの女の人と通じ、あまつさえ、子どもまでつくるような仲になっていた。彼が私に逢おうと言ったあの日、あのひとはすでに彼の子を妊娠していたのよ。そんなの、私が嫌悪する『男の人』と変わらないじゃない」  静かな口調だったが、逸郎は自分が責められているような気になった。黙って顔の前にボトルを差し出すと、すみれはいったん体を起こしてそれを飲んだ。 「それでも、一度知ってしまったアカウントは、やっぱり繰り返し見てしまう。と同時に、いろいろと赦してしまうの。だってわかるでしょ。一度しか情を交わしてない遠方の小娘だけを一年以上想い続けて貞節守るなんて、二十代半ばの健康な男子には難し過ぎるってことを。スタンフォードで研究に打ち込みながら、私はずっと、彼も不幸になればいいのにって思ってたの。嫌な女よね」  すみれは深く嘆息した。 「言い寄ってくる人は何人もいたけど、その誰ともつき合わず、持て余した若さとバイタリティをただ研究にのみ打ち込んで日々は過ぎてった。結局のところ私には、普通の女の子たちが送るような青春は訪れなかったわ。今思えば七年なんてあっという間だったかも。そうやって、憤慨した気持ちはとうに薄れ、良かった頃の記憶だけが遺っていた去年のはじめのこと。久しぶりに目にした彼のツイッターで、離婚したっていうのを知ったの。どこにそんなものがあったのか知らないけど、とにかくそのとき、自分の中のメインスイッチの入る音が聞こえたわ」 「あと一本論文をものにすれば飛び級でポスドクを終えられる私は、とにかくそれに集中したわ。そして達成した。晴れて准教授の資格を手にした私は、さっそく、彼の街の大学に職を探した。そしたら偶然にも、ちょうどいいポストがあったのよ、駅弁大学に。私はその場ですぐにポートフォリオを作って応募したわ。スタンフォードからも、他の日本の大学からも良いオファーは受けてたんだけど、それらを全部蹴っ飛ばして」  そこまで言い放ったところで、すみれは手を伸ばしてきた。察した逸郎がボトルを手渡す。起き上がって水を含んだすみれは、何も言わずにもう一度定位置に着いた。私の今の場所はここだから、と念押ししてくれている。逸郎はそう理解し、少しだけ安心した。 「杜陸に着いてからも、着任までには本当にいろんな雑務があって、とてもじゃないけど彼と会える余裕なんて無かったわ。もちろんただ会うだけならぜんぜん時間はつくれたけど、そんなおざなりで済むはずがないって自分でもわかってた。だから決めたの。彼の前に姿を見せるのは、こっちが足場を築いて落ち着いてからにしようって。だって十二年も大事にして、あるかどうかも当てにならない機会をただ待ってたのよ。それが最高の状態で報われるためなら、もうひと月やふた月なんて、どうってことないじゃない。私、本当に頑張ったよ。住まいを決めて、研究室を整備して、周りの先輩方とコミュニケーションを取って、新しいシラバスを組み上げて、最初の講義を行って。ついでにバイクの教習所の入校手続きまで済ませてね。そうやって全部組みあがってから、私は彼と連絡を取ったの。今年の四月末、GWの初めのこと」  俺が弥生に告白しようと決めた、ちょうどその頃か。  逸郎はそう思いながら聞いていた。あのときの自分と同じように、このあとにきっとくるであろう悲劇トラジディの予感を感じながら。 「彼はもの凄くびっくりしてた。そりゃそうよね。ひと昔も前に一度繋がっただけの可愛かった教え子が、すっかり綺麗なオトナのオンナになって、すべての段取りをつけて、はいどうぞ召し上がれって言いながら目の前に現れたんだもの。忙しくてすぐには会えないけど、GWの最後の土日ならゆっくりできる時間が取れるから、車で迎えに行く。彼はそう言ったの」 「でも私は待ちきれなかった。だから、約束の日の前日に、彼の家を見に行ったの。住まいの住所はだいたいわかってたし、新しく乗り換えたバイクもフェイスブックの画像で知ってたから」 「私がそのアパートの前に行ったとき、ちょうど彼が出かけるところだった。私はただ彼の家のそばで、そこの空気を吸ってみたかっただけ。会うつもりなんて無かったの。まさかこんなピンポイントで顔が見れるなんて、思ってもみなかったのよ。でもね、見てしまったらもうダメ。いろんなものが込み上げてきちゃって。だって目の前にいるんだもん。もう明日なんて待ってられない。急いで近くの家の生垣に隠れた私は、十二年ぶりの再会を待ち構えてた。せめて、急に飛び出してびっくりさせるくらいしてやろうと思って」  そこまで話したすみれは、急に黙り込んだ。満々と水をたたえたダム。いままさにバルブが開けられ最大放水が行われるところ。その瞬間を固唾を飲んで待つすみれ。  だが、その先に出てきた言葉は開放の合図ではなく、壁に走った亀裂が弾ける決壊の音だった。 「いったん閉まった彼の部屋の玄関が、内側から開いたの。振り返る彼。中から赤ちゃんを抱いた知らない女の人の姿が現れ、彼に何かを渡した。可愛い色の布包み。たぶんお弁当。それを受け取った彼は、お返しにその女の人にキスするの。半開きのドアから手を振る女の人に見送られ、彼は階段を降りてきた。私は生垣の陰から出られなかった」  合宿初日の日だ。俺が長距離バスに揺られてるとき、すみれはそんな修羅場にいたんだ。そもそもがどうしようも無かったのはわかっているにも関わらず、逸郎は無力感に襲われた。 「約束の日、私は待ち合わせの場所に行かなかった。いろんな言い訳を並べられ、なし崩しに抱かれてしまう自分が想像できたから。代わりに、おそらくは待ち合わせ場所に着いているであろう彼に通話をしたの。昨日見てたことを、私が感じたことを、できるだけ感情を込めずに淡々と。彼は絶句してた。たぶん、私のことを扱いやすい愛人にでもしようと思ってたみたい。もう私の知っていた特別な人は跡形もなくいなくなっていたの。いいえ、初めからそんな人いなかったのかも」 「通話を終えた後、彼に繋がるデータはすべて消去した。追跡するためにつくった私のアカウントも全部一緒に。そうして私に残されたのは、果てしない徒労感と蘇った男性不信だけ」  すみれは目を閉じ、深く大きく息を吐いた。身体の中に残るその男工藤の欠片を、微粒子ひとつ残さず吐き出すかのように。 「仕事も生活も、はじめたばかりのオートバイ教習も、そのすべてに張り合いを無くしたわ。もう全部辞めちゃおうかな。本気でそう思った。そんな状態がひと月以上続いたの。本当に酷かったのよ、生活が。一応講義だけは最低限で消化したけど、それ以外はほぼ廃人。食事もろくに取らないと思ったら、突然お菓子を山ほど買い込んだり、一週間くらい毎日深酒したり」 「でも六月半ば頃にはだいぶ落ち着いて、なにか簡単なことからでもいいから、毎日きちんとこなしていくことを始めようと思ったの。そのときちょうどよかったのがオートバイの教習。バイクに乗ること自体はもうあまり興味が失くなってたけど、せっかくお金も払い込んだんだし、免許を取るのは悪いことじゃない。粛々とこなしていくものとしてはかなりベストに近かった。それに、やってるうちに欲も出てくるしね。ちょっとずつ道具を揃えたり、とかね。根拠や拠り所は依然としてぜんぜん無かったけど、生活への意欲はそんな感じで少しずつ上向きになってきた。そのころなのよ。イツロー、私があなたと出会えたのは」  虚空を彷徨っていたすみれの瞳が、急速に焦点を結び始めていた。逸郎は、すみれの肩に手を置く。その上に、ひとまわり小さな手が乗せられる。 「はじめは、やり残した青春時代の真似事くらいの軽い気持ちだった。でも何度もあなたと会って、あなたの丁寧で慎重なコミュニケーションのやり方に触れて、無理に踏み込んできたりしないあなたに少しずつ馴染んで、安心して、頼りはじめて」  乗せられた掌が熱を帯びてきた。 「もっとあなたを知りたくなった。もっと私を知ってもらいたくなった。そうしてあなたが私の拠り所になった。それがあの、城址公園の夜だったの」  そう告げるとき、すみれの瞳は逸郎の眼を捉えていた。  視線を外すことなく、もたれていた身体をうつ伏せに捻ったすみれは、そのままずるずるとよじ登ってきた。逸郎の顔にすみれの息がかかる。瞳が潤んでいる。 「ねぇイツロー。あなたは私を愛してくれますか?」  頷いた逸郎は、目の前の唇に、生まれて初めての口づけを捧げた。



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